商品の詳細

商品番号 KT7
商品名 野点茶碗
価格 120,000
寸法 径  10.5cm
高さ  6cm
合わせ箱
状態 良好
作者 (宇野千代絵付け 
岩国 多田焼き)

正面正面

上部上面

底面底面

銘

箱


多田焼(ただやき)

元禄十三年(1700)多田焼は、錦帯橋で名高い周防国岩国藩の藩窯として生まれました。時の藩主吉川氏が京都から陶工を招き、多田の住人に陶技を学ばせたのが始まりといわれています。

当時の窯は将軍家への献上品を作ることを第一義とし、茶碗・花生を主に焼いていました。その特徴は、「貫入」とよばれる青磁釉表面のヒビにあるといわれています。

その後約百年間続いた窯は寛政年間に途絶えましたが、陶芸家田村雲渓の手により再び多田焼の炎が甦りました。
現在は二代雲渓が、父の窯を継承し、正しいやきもの作りをめざしています。

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 宇野 千代(うの ちよ)

 1897年(明治30年)11月28日 - 1996年(平成8年)6月10日)は日本の小説家である。

 山口県玖珂郡(現・岩国市)出身。

 岩国高等女学校(現・山口県立岩国高等学校)卒。23歳で義母の姉の子(従兄)藤村亮一と結婚するが10日ほどで実家へ帰る。小学校の代用教員となるが男の教員と関係して退職となりいったん朝鮮京城へ行くが戻り、元夫の弟、藤村忠と結婚、再び藤村姓となる。

京都に住んだあと上京、燕楽軒に18日間働くうち、久米正雄、今東光らと知り合う。その後北海道へ行くが、1921年、『時事新報』の懸賞短編小説に『脂粉の顔』が一等で当選し作家としてデビューし夫を置いて上京する。1922年には『墓を暴く』が『中央公論』に掲載される。

 多才で知られデザイナー、編集者、実業家の顔も持った。尾崎士郎、東郷青児、北原武夫と多くの有名芸術家との結婚遍歴とその破局は波瀾に富み生涯を賑わせた。『色ざんげ』は東郷をモデルにしたもの。

 作家としては寡作で、戦後10年近く沈黙していた。1960年代からまた書き始め、1980年代からは長命と恋愛遍歴をもって女性向け幸福論エッセイを数多く書いた。小説は10年かけて書かれた『おはん』、『色ざんげ』、『或る一人の女の話』などがある。1970年に『幸福』で女流文学賞、1972年に日本芸術院賞受賞、同年日本芸術院会員。1974年には『雨の音』を発表、1982年に菊池寛賞受賞。1983年発表の『生きて行く私』は自伝的小説として以後宇野の代名詞となる。1990年文化功労者。

 きものデザイナーとしても活躍し、晩年に到るまで旺盛な活動を続けた女性実業家の先駆者としても知られる。長寿であり「自分は一生死なないのではないか」とエッセイに記していた。

また岐阜県本巣市(旧本巣郡根尾村)にある樹齢1500年以上の彼岸桜の古木である「淡墨桜」 の保護を訴え活動したことでも知られ、同市のさくら資料館には淡墨桜に関する彼女の作品が展示してある。

享年100(満98歳没)。

ウィキペディアを引用
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