商品の詳細

商品番号 KJ155
商品名 寿老
価格 売却済み
寸法 本紙 幅    38cm
    高さ  119.5cm
総丈 幅    51.5cm
    高さ  201cm
軸先 樵朱
合せ箱
状態 全体にしみあり
作者 橋本関雪(略歴等末尾記載)


橋本 関雪(はしもと かんせつ)

1883年11月10日 - 1945年2月26日)は日本画家である。


橋本海関・フジ夫妻の子として神戸市に生まれた。
父・海関は橋本文水(播磨明石藩儒)・マサ夫妻の子で学問所詰儒者を務めていた。

本名は貫一。関雪というのは画号であり藤原兼家が雪降る逢坂の関を越える夢を見、その話を聞いた大江匡衡は「関は関白の関の字、雪は白の字。
必ず関白に至り給ふべし」と夢占いをしたという。
果たして翌年、兼家は関白の宣旨を蒙ったという故事より父である海関が名付けたもの。

父から漢学を学び1903年、竹内栖鳳の竹杖会(ちくじょうかい)に入り1913年、文展で二等賞、翌年も同じ。
1916年と翌年、特選を受賞。帝展審査員を務め1934年、帝室技芸員、1935年、帝国美術院会員、1937年、帝国芸術院会員、1940年、建仁寺襖絵を製作。

中国古典に精通したことでも知られ、たびたび中国へ渡った。
京都銀閣寺畔の白沙村荘に住み、白沙村人と別号した。
白沙村荘の庭園は現在一般公開されている。
庭を営むことが多く大津に走井居、明石に蟹紅鱸白荘、宝塚に冬花庵という別邸を造営した。
また、古今東西の古美術の蒐集においてもよく知られる。

1945年に没し画号の由来となった逢坂の関にある、別邸走井居(月心寺)の墓地に眠る。

代表作品
琵琶行(1910年) 川村記念美術館蔵 
遅日(1913年) 足立美術館蔵
南国(1914年) 姫路市立美術館蔵
猟(1915年) 白沙村荘 橋本関雪記念館蔵
寒山拾得(1917年) 林原美術館蔵
木蘭(1918年) 川村記念美術館蔵
意馬心猿(1928年)京都国立近代美術館蔵
長恨歌(1929年) 京都市美術館蔵
玄猿(1933年) 東京芸術大学大学美術館蔵
暮韻(1934年) 宮内庁三の丸尚蔵館蔵
唐犬図(1936年) 大阪市立美術館蔵
防空壕(1942年) 東京国立近代美術館蔵
香妃戎装(1944年) 衆議院蔵

著書や画集
南船集 橋本貫一 1915
南画への道程 中央美術社 1924
関雪随筆 中央美術社 1925
石濤 中央美術社 1926
支那山水随縁 絵と文 文友堂書店 1940
関雪詩存 斎藤悳太郎 1940
関雪先生素描集 高桐書院 1947
白沙村人随筆 中央公論社 1957

関雪の係累

関雪の子供は長男節哉、次男正弥、長女妙子の三人が居り、銀閣寺前の白沙村荘には節哉の系統が住む。
現在は三代目歸一の夫人、妙が邸宅の保存維持事業を行なっている。

谷崎潤一郎の小説・『瘋癲老人日記』の颯子のモデルとされる渡邊千萬子は妙子の子である[1]。
随筆家の渡邊たをりは千萬子とその夫・渡邊清治(谷崎潤一郎の3番目の妻・松子とその最初の夫・根津清太郎の長男で、母方の叔母・重子とその夫・渡邊明の養嗣子となった)との間に生まれた娘[1]。
演劇評論家の高萩宏はたをりの夫である[1]。

白沙村荘に遺されているビデオフィルムには、正弥が撮影したものが多く節哉や妙子なども頻繁に画面に登場する。

ウィキペディアを引用


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