商品の詳細

商品番号 KJ124
商品名 神功皇后の画
価格 120,000
寸法 本紙 幅   40.5cm
    高さ 101.5cm
総丈 幅   52cm
    高さ 183.5cm
軸先
合せ箱
状態 良好
作者 藤原 蓬斎(詳細は不明)


神功皇后(じんぐうこうごう)

成務40年(170年) - 神功69年4月17日(269年6月3日)仲哀天皇の皇后。
『紀』では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・『記』では息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)・大帯比売命(おおたらしひめのみこと)・大足姫命皇后。
父は開化天皇玄孫・息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)で、母は天日矛裔・葛城高顙媛(かずらきのたかぬかひめ)。
彦坐王の4世孫、応神天皇の母であり、この事から聖母(しょうも)とも呼ばれる。

三韓征伐を指揮した。

『日本書紀』などによれば、201年から269年まで政事を執り行なった。
夫の仲哀天皇の急死(200年)後、住吉大神の神託により、お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま筑紫から玄界灘を渡り朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めた。
新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い高句麗・百済も朝貢を約したという(三韓征伐)。

渡海の際は、お腹に月延石や鎮懐石と呼ばれる石を当ててさらしを巻き、冷やすことによって出産を遅らせたとされる。
月延石は3つあったとされ、それぞれ長崎県壱岐市の月讀神社、京都市西京区の月読神社、福岡県糸島市の鎮懐石八幡宮に奉納されたと言われている。
その帰路、筑紫の宇美で応神天皇を出産し、志免でお紙目を代えたと伝えられている。
他にも壱岐市の湯ノ本温泉で産湯をつかわせたなど、九州北部に数々の伝承が残っており、九州北部に縁の深い人物であったと推測される。

神功皇后が三韓征伐の後に畿内に帰るとき、自分の皇子(応神天皇)には異母兄にあたる香坂皇子、忍熊皇子が畿内にて反乱を起こして戦いを挑んだが、神功皇后軍は武内宿禰や武振熊命の働きによりこれを平定したという。

ウィキペディアを引用略歴

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