商品の詳細

商品番号 KJ154
商品名 和気清麻呂 宇佐神宮参内
価格 売却済み
寸法 本紙 幅   30cm
    高さ 126.5cm
総丈 幅   44cm
    高さ 198cm
軸先 塗り物
合せ箱
状態 良好
作者 松本 楓湖(略歴等末尾記載)

総丈

本誌

人

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銘

軸先

箱


松本 楓湖(まつもと ふうこ)
天保11年9月14日(1840年10月9日) - 大正12年(1923年)6月22日)は幕末から大正時代の日本画家である。

天保11年9月14日(1840年10月9日)、常陸国河内郡寺内村(のちの稲敷郡新利根町寺内、現・茨城県稲敷市寺内)に、松本宗庵の三男として生まれる。
名は敬忠。通称藤吉郎。父宗庵は漢方医で、漢学の素養もあり近所の子弟に教えていたという。

宗庵は幼少のころより才能の片鱗を見せた数え12歳の楓湖を連れ嘉永4年(1851年)秋に江戸に出て、浮世絵師の歌川国貞への弟子入りを頼むが断られて帰国している。
2年後の嘉永6年(1853年)再び江戸へ出て、鳥取藩の御用絵師・沖一峨に学ぶ。
一峨は狩野派や琳派、南蘋派に学んで濃彩華麗な花鳥画を得意とした絵師であり、楓湖も一峨から華やかな色彩感覚を学んだ。
安政2年(1855年)16歳のとき「洋峨」の号で、地元茨城県の実家近くの逢善寺本堂天井画を描いている。

一峨が亡くなった翌年安政3年(1856年)17歳で、谷文晁の高弟で彦根藩御用絵師佐竹永海の画塾に入り、画号を永峨と改める。
5年後には塾頭となったが、文久2年(1861年)前後から尊皇運動に転じており、勤皇画家として知られた。
自身も剣術を修め、水戸藩の武田耕雲斎や藤田小四郎らと交わり勤王党を援助している。
元治元年(1864年)天狗党の乱が起きるとこれに参加、幕府軍に敗れて一時郷里で蟄居する。

翌慶応元年(1865年)江戸に戻り、再び画道に専心する。
明治維新後、歴史人物画の画題を『前賢故実』に依っていた楓湖は、永海の許しを得て菊池容斎に入門する。
その一方で、生活の糧として輸出商アーレンス商会の依頼で、輸出用七宝の下絵なども描いている。
明治15年(1882年)、宮内省より出版された欽定教科書『幼学綱要』において、大庭学仙、竹本石亭、月岡芳年、五姓田芳柳らの候補の中から楓湖が選ばれ、全7巻61図の挿絵を描き一躍名を轟かせた。
明治20年(1887年)には、その姉妹編といえる『婦女鑑』(全6巻)でも挿絵を担当している。
なお、楓湖はこのころまで断髪せず、丁髷姿で通したという。

明治31年(1898年)、日本美術院の創設に参加、文展開設当初から(第4回まで)審査員にあげられた。
歴史画に長じ、第4回内国勧業博覧会に「蒙古襲来・碧蹄館図屏風」(明治27年(1894年))、第1回文展に「静女舞」(明治40年(1907年))などを発表、大正8年(1919年)、帝国美術院会員となった。
大正12年(1923年)6月22日歿。東京谷中初音町の全生庵に葬られた。

楓湖は師である容斎の歴史画を継承し、それを次代へ橋渡ししたと評価される一方で、容斎の枠から大きく出なかった画家と言われる。
しかし、楓湖が容斎の画風を墨守したのは、明治35年刊『日本美術画家列伝』の楓湖の項目によると容斎の意向が大きく、楓湖も師恩に報いようとしたと考えられる。
また、依頼画は当時需要が高かった容斎風を堅持する一方、展覧会出品作は容斎の図様に基づきながらも、写実を取り込んだ独自性を打ち出そうとした意欲が認められる。
また初期の宮内庁からの公的な仕事では、一峨から学んだ濃彩の作品が目立つ。また、旧派の画家と見做されがちであるが、保守的な日本美術協会には反対している。

明治10年代に浅草栄久町の自宅に「安雅堂画塾」という私塾を開き、本人曰く「投げやり教育」という名の自由主義教育により、数百人とも言われる門下生を輩出した。
主な門下生に村岡応東、中島光村、今村紫紅、牛田鷄村、速水御舟、島崎柳塢、鴨下晁湖、高橋広湖、前田錦楓、小茂田青樹、村上鳳湖、岩井昇山、松本凌湖(楓湖の四男)、椿桜湖、木本大果、中島清之、高橋松亭、富取風堂、上原古年、田中以知庵などがいる。

代表作
和装西洋婦人像 (島根県立石見美術館) 絹本著色 明治前期(11年から12年以降)
蒙古襲来・碧蹄館図 (静嘉堂文庫美術館) 六曲一双 明治28年(1895年)第四回内国勧業博覧会へ出品し、妙技三等賞。
為朝護白川殿図 (金刀比羅宮) 絵馬一面 板絵著色金泥 明治29年(1896年)楓湖自身が奉納。この十年後にも修営料を寄進し、その後も作品を複数奉納しており、楓湖が金刀比羅宮に厚い信仰を持っていたことが伺えるが、その理由はよくわかっていない。
神変大菩薩渡唐之図 (金刀比羅宮) 献本著色 明治43年(1910年)第四回文展に「役小各角渡唐図」の題で出品[1]

ウィキペディアを引用

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