更新2008/09/08 「ことば・言葉・コトバ」

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表現よみ理論入門(初版)

コトバ表現研究所 渡辺知明
はじめに―国語教育書のために分担執筆した「表現よみの指導」が元です。出版社倒産のため手を入れて公開した「初版」です。さらに手を加えたものはフレーム版『Web表現よみ入門』です。総合的な内容の『表現よみのすすめ』もあります(2008/09/08)
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小冊子『表現よみ理論入門(改訂版)』(2005.1.11/A5判52ページ500円〒共)申込み受付中!
10通りの「語り口」を組みにする /表現よみ理論入門(I・Eで縦表示javaで縦表示

1 声による作品理解
 文章の「読み」といえば、黙読が当然のように思われていますが、本来は音読のことでした。音読は、一文字一文字を声にするよみですから、文字と声との結びつきが強くなります。しかも、文字を声にするとともに文章の理解もできます。目で読むと分かりにくい文章でも、声に出してゆっくり読むと内容がよく分かるのです。

 英語には「オーラル・インタープリテーション(口頭解釈)」ということばがあり、アメリカでは大学の授業として行われています。日本でも南山短期大学の近江誠の実践があります。一つ一つの語句の意味をつかんで声に表現し、自分の耳で聞きながら文章の内容を理解する方法です。また、文章のよみを発展させると、その表現は声による作品の表現ともなります。そのようなよみ方を日本で理論化して実践するのが表現よみです。

 文字をただ声にするよみと、意味をつかんでいるよみとは、声の表現にちがいがあります。文章の理解がよみ手の声に表現されるのです。ただし、だれでもすぐに表現してよめるわけではありません。声の表現には訓練が必要です。学校教育でも声に出して本をよむことは行われてきました。しかし、音声で表現する教育はほとんど行われてきませんでした。音声言語の教育が重視されるようになった今こそ、声による表現の教育が求められています。

 理論文でも文学文でも表現してよむことはできますが、表現よみに最も適しているのは文学作品です。その中でも小説あるいは物語です。「語り手」の語る明確な声があり、「語り口」が文章からよみとれるように書かれているからです。文学作品を読むことは「追体験」「疑似体験」などといわれます。わたしたちは登場人物の行動や考えから、人間のモラルや生き方などを考えさせられます。文学作品は情報として読むのではなく、心にとりいれるような読み方が必要です。そのためには、どんなよみ方をしたらいいのでしょうか。

 表現よみには、「目でよんで→体で感じて→声に出す」というスローガンがあります。まず文章を目で見たとき、およその意味を理解するとともに、何か体に感じられる反応があります。黙読ならばそこで終わりです。しかし、表現よみでは、その理解した内容と体の反応を声に表現します。すると理解が深まり、体の反応も高まります。さらに、表現された声を聞くことによって、自分がどう理解したか、どう反応したかについて確認できます。それが正しければ、次の文章に進み、まちがいがあれば、もう一度よみ直したり、修正を加えてから次に進みます。つまり、理解→反応→表現という過程に音声化を取り入れることで、内容理解と表現のフィードバックができるのです。

 文学作品を表現よみにかけることによって、黙読ではできないような作品の深い味わい方ができます。表現よみには「はいる→なりきる→のりうつる」というスローガンがあります。表現よみの発展の三段階を示すものです。はじめは、作品の文章を分析を手がかりにして意識的に気持ちを入れようとします。そのうちに、自然にその立場になれるようになり、最後には、とくに努力しなくても心情がわきあがります。このようにして、よみ手の声の表現は作品の表現にふさわしいものに発展するのです。落語では人物の表現について「了見になる」という言い方をします。声色を使って表面的に声を真似るのではなく、その立場を理解するという意味です。表現よみでも同じことです。しかも、「語り手」や「人物」の心情や思いに同化しつつも、単純に受け入れるのではなく、批評の意識をもちながら声に表現するのです。
 たとえば、中国の作家・魯迅(竹内好訳)の書いた「故郷」に次のような重要な会話があります。

  「ああルンちゃん――よく来たね……。」

 この会話をじっさいに声に表現してみると、声とともに作中の「わたし」と似た感情がわきあがります。しかも、字づらから想像した人物の声の響きを自分の耳で聞くことができます。もし思いどおりに表現できなければ、あらためて人物の情況を考えたり、会話を表現し直してみます。それを何度もくりかえすうちに、作中人物の心が実感できるようになります。そして、よみ声も心のこもった表現に磨き上げられるのです。
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2 表現よみの基本
  声の表現は作品全体を表現するものです。「よむ」ことを文章の構造から考えると、いくつかの段階があります。初歩の音読ならば、ひらがな、カタカナ、漢字などが、すらすらとつかえることなく音声化できればよいでしょう。しかし、文章は単なる文字のつながり、音のつながりではありません。文字がつながれば単語としての意味をもち、単語は文にまとまります。そして、文は、主部と述部を軸にして組み立てられています。一つ一つの文は前文と意味のつながりがあります。その関連をとらえる手がかりが接続語です。接続語は文と文のつながりの論理を示し、よみのメリハリを表現します。さらに、文は段落単位でまとまって、作品の場面を構成したり、語り手の考えのまとまりをつくっています。よみ手は一つ一つのコトバをよみながら、作品の全体がまとまった意味を持つように声に表現するのです。

(1)単語がイメージをもつ
 表現よみの第一段階は、単語のよみ方です。一つひとつの単語の意味やイメージと声との一致した表現です。それは、あらかじめ語句の解釈をしてから、声をつくるというものではありません。声にともなって浮かぶイメージが大切なのです。音声化すると同時に理解する即興的な能力です。そんな能力をつけるためには次のような練習をするとよいでしょう。
 まず、簡単な単語を声で表現しながらイメージを浮かべる練習です。だれにもできるのは色のイメージです。「あか、しろ、きいろ」と一音ずつ正確に発音すると同時に、それぞれの色のイメージを思い浮かべます。イメージしている発音と機械的な発音とでは声にちがいがあります。  さらに、「あお、くろ、むらさき、みどり」なども組み入れて練習します。また、「そら(空)、くも(雲)、かぜ(風)」など、日ごろ目にしている自然現象のことばをとりあげて声に表現するのもよいでしょう。

(2)文でイメージをする
 第二段階は、文のよみ方です。だれもが日常の言語生活で基本的な文法の感覚を身につけています。文や文章を聞きとって理解できるのはその証拠です。その能力を基礎にして、音声表現の能力をみがきあげることができます。一つの文の中心となるのは、主語(ナニガ・ダレガ)と述語(ドウダ・ドウシタ)の結びつきです。まず、主語と述語のつながりを声に表現して意識化します。たとえば、次の文では、「メロスは」という主語をよんだよみ手の意識は、文末の述語をよむまで宙ぶらりんで落ち着きません。その感覚をじっさいに声にして感じることが大切です。

 「a メロスは、b それ故、c 花嫁の d 衣裳やら e 酒宴の f ごちそうやらを g 買いに、h はるばる i 市(まち)に j やって来たのだ。」

 よみ手の心理過程を追ってみましょう。「a メロスは」とよんだとき、意識はつながるべき述語を求めます。しかし、bからfまでは、述語ではありませんから、意識が落ち着かずに不安定な感じです。「g 買いに」と来て、やや落ち着きますが、さらに文がつづくので、次の述語を求めます。そのまま、h iとよみすすんで、最後に「j やって来たのだ」で落ち着きます。
 この文の骨格は「メロスは――を買いに――にやって来た」です。文末の「のだ」は語り手による強調です。「aメロスは」とよんだとき、よみ手の頭にコトバの意味とイメージが一時的に記憶されます。よみ手はそのまま緊張して先に進みます。そして、「jやって来たのだ」にたどりついたときにホッとして思わず力がこもって文末が結ばれます。この文の文法的な構造をよみのメリハリに表現したとき、よみ手は内容を正確にとらます。また、それは聞き手にとっても、文の意味のよく分かる音声表現となるのです。

(3)プロミネンスとは何か
 声を強めればプロミネンスになるわけではありません。よみ手の頭によむべきことばの理解とイメージがなければ、声だけが強く感じられる空虚なよみになります。また、プロミネンスにおける声の質も問題です。一般の朗読ではすべてのことばを均質な発声でよんでいますから、部分的に強くよんでもそれほど変化が感じられません。日常会話の表現の方がよほど効果的です。表現よみでは声の質の変化を重要な表現方法と考えます。

 プロミネンスについても、次の二つの区別ができます。(1)地声プロミネンス、(2)高音プロミネンス、との二つです。(1)は一般にいわれるプロミネンスです。地声のままで声の調子を強めます。それに対して、(2)は声の高さを一オクターブ上げるもので、無声化した裏声のように聞こえます。高い声はそれだけで強く感じられるので、できるだけ軽く弱くよみます。
 たとえば、次のような文をよむ場合、AとBと二つの修飾語のうち、Aは(2)、Bは(1)で表現するとよいでしょう。

○わたしが 見たのは A 背の高い B  だった。

 よくないよみかたの例があります。NHK「プロジェクトX」のナレーションです。どの語句も均一の地声で読んでいるので、プロミネンスも必ず(1)の方法になります。また、修飾語のある語句の場合、決まって「A 背の高い」よりも「B 男」を強めるので不自然です。文脈の意味がちがってしまうこともあります。
 「修飾語を強めないほうがいい」といわれることがあります。それは(1)のプロミネンスの場合です。基本的には修飾語はプロミネンスされることを要求されることばです。ただし、方法としては、(1)ではなく(2)のプロミネンスにするべきです。(2)の方法で、「思いは重く、声は軽く」表現できるのです。声が均質なよみでは、作品の表現をするには不向きですし、聞き手を退屈させてしまいます。

(4)文脈とプロミネンス
 文学作品は思想の表現です。一つ一つの文が文脈を作っていますから、どの文にもプロミネンスされるべき部分があります。ただし、書きだしの文や事実を中立的に述べる文には、プロミネンスはありません。

 プロミネンスの原則は、文をどのように組み立てて情報を伝えるのかという伝達構造に関係しています。文は「何かについて(テーマ)」「どうであるか(レーマ)」を伝えます。テーマとは、すでに知られているものでめずらしいものではありません。そこにレーマとして情報を加えるのです。「山田君は今年で25歳だ」というとき「山田君」は相手も知っています。重要なのは「今年で25歳だ」ということです。テーマよりもレーマに重点があるので、よみにおいてもレーマを強くよみます。レーマの部分のよみは地声になります。レーマは必ず必要な部分なので、とりわけてプロミネンスをかける必要はありません。

 よみにおいて工夫が必要なのは、テーマとレーマを修飾する部分です。これはなくてもいい部分なのに書き手があえて書き入れたものです。だからこそプロミネンスする必要があるのです。しかも、部分ごとに文脈や前文との関係でプロミネンスのかけ方がちがってきます。それを的確にとらえてプロミネンスすると作品が立体的に表現されるのです。

 たとえば、次のCでは、どこにプロミネンスをかけましょうか。前にある文がAであるか、Bであるかで変わります。

 A ひとりの 男が 立っていた。
 B 暗がりに 人の 姿が 見えた。
 C それは 背の高い  だった。

 A→Cならば「背の高い」がプロミネンスです。Aの文で「立っていた」のが「男」であることわかりますから、次に問題になるのは、「男」のようすです。また、B→Cならばプロミネンスは「男」です。Bの文で「見えた」のは「人の姿」ですから、次に「男なのか、女なのか」を知りたくなります。
 ※「テーマ・レーマ展開」は下川浩『現代日本語構文法』(1993/三省堂)参照。

(5)軽く高い声によるプロミネンス
 文法的な構造にしたがって文を音声化すると、文の意味が明確になります。  文には主要成分必要成分自由成分の三つがあります。文を声に出して読む場合、それぞれの部分にふさわしい声があります。表現よみでは、それらの部分を4種類の声によってよみわけて、文の意味を明確に表現しています。(次節(6)を参照)

 第一に、文の主要成分である主文素(主語)と述文素(述語)は重い地声でよみます。この部分を軽くすると文全体の意味が軽くなってしまいます。また、主部よりも、述部の方をやや強めによみます。というのは、主部は話の展開ですでに分かっている話題や背景などを示すのに対して、述部はそれについてどうであるかを述べるからです。文全体では、文末がいちばん重くなります。

 第二に、文の必要成分主要成分よりも軽くよまれます。日本語の動詞や形容詞には必ず必要な成文があります。たとえば、「運ぶ」という動詞には「何を」「どこから」「どこへ」の要素が必要です。それが必要成分で、客文素補文素の2種類です。客文素には「〜を」、補文素には「〜に、〜と、〜へ、〜で、〜より、〜から」がつきます。それらの成分は主要成分よりも軽く高い声でよむのが原則です。

 第三に、自由成分は、書き手が自由に表現する要素です。いわゆる「修飾語」で、修用文素(連用修飾語)・修体文素(連体修飾語)です。軽いプロミネンスがかけられるのがふつうです。一般にプロミネンスというと、地声によるものですが、軽く高い声も使えます。必要成分は語句そのものの意味が強いので、ふつうの声でよみます。しかし、自由成分はなくてもいいものなので、際立たせる必要があります。少し軽くするだけで十分です。語句でいうなら、接続語、副詞、指示語、形容詞などや、「〜ように、〜ような」のついた比喩の表現です。それ以上に強調する場合には、明らかなプロミネンスになります。

 次の例は、灰色の部分が軽く高くよむべき自由成分です。そのほかの部分は主要成分と必要成分なので、重い地声でよみます。一般の朗読では、これを地声と地声のプロミネンスで区別するのでうるさくなります。それに対して、それぞれの要素を重い地声と軽く高い声で区別してよめば、読み手にとっても聞き手にとっても、文の意味がはっきりして理解しやすくなるのです。

 お父さんの蟹は、遠めがねのような両方の眼をあらん限り延ばして、よくよく見てからいいました。(宮沢賢治「やまなし」)

(6)表現よみの4種類の声
 わたしは次のような4種類の声を基本としています。Jは、Jigoe、Uは、Uragoeの省略です。

  J 重い地声(たとえば、イヌの発声)
a ふつうの声――文の主部(テーマ)、述部の用言など
b プロミネンス――文の述部(レーマ)、強調するべき主部など

  U 軽く・高い声(たとえば、カラスの発声)
a ふつうの声――接続語、副詞、形容詞、指示語など文の補助的な成文
b プロミネンス――思想的・意味的アクセントのある語、文脈上で強調すべき語句など

 一般の朗読で使う声はほとんどひと色ですから表現が単調になります。わたしたちは日常生活では、さまざまな声を豊かに使います。それなのに、朗読となるとふしぎなことに、ひと色しか使わないのです。Jばかりで読んで、Uはありません。とくに舞台朗読では、Jの発声に強弱をつけるだけで、声の高低を表現できない人が大多数です。この4種類で表現すると、作品の表現はずっと豊かになります。

 声の基本は(J)重い地声と(U)軽く・高い声の二種類です。(J)重い地声は、発声の基本です。しかし、アナウンサーでも地声で発声できない人はいます。(U)軽く・高い声はウラ声のような声です。強く発声すると中国の京劇のようになります。女性では無意識にウラ声で発声している人がかなりいます。

 そして、JとUのそれぞれに、ふつうの声とプロミネンスの声があるので、4種類になります。地声だけでよむ場合には、Jaの声を基本にして、Uaの部分をよみ分けるだけでも文の意味がはっきりします。というのは、文中のそれぞれの語句が均等の意味を持つものではないからです。たとえば、「ナニガ」と示されるテーマよりも、「ドウダ」と述べるレーマの方が意味が強いので、テーマはJa、レーマはJbでよみます。

 さらに、次のように修飾語の重なる場合、次のように二つとも同じ強さでよんで、文末だけをJaにしがちです。

 △ 赤い(Ja) 大きな(Ja) カバンがある(Jb)。

 しかし、全体が強すぎでうるさく感じられます。ですから、「大きな」を軽く・高くよみます。すると、うるさくないし、文の意味もはっきりします。力んでいるようには聞こえません。

 ○ 赤い(Ua) 大きな(Ub) カバンがある(Ja)。

 ただし、プロミネンスというのは、ただ音声面の現象を述べたものです。プロミネンスは声だけでなく、よみ手の表現すべき感情とともにはたらきます。表現すべき内容があるので、具体的には「びっくりプロミネンス」「喜びプロミネンス」「こわがりプロミネンス」という表現になるのです。

 さらに、この4種類の組合せを意識すれば、読み聞かせや学校の先生の話し方によくある「助詞リキミ」も解決することができます。助詞リキミとは、「私ガー、言うことオー、みなさんワー、……」というように、文節ごとに末尾の助詞を強めることです。多くの助詞はクセを意識すれば解決するのですが、その中に、あとから気がついて強めたくなる助詞があります。「だけ、ばかり、すら、さえ」などの副助詞です。たいていの人が、この助詞を必ず強くよんでしまいます。
 この表現には心理的な理由があります。それは、a「わからないです」とb「わかりません」の表現のちがいのようなものです。aは「わからない」と言いはじめて、途中で丁寧にしようと思って「です」をつけた表現です。それに対して、bは最初から「わかリ」の「リ」で丁寧な表現にする意識があります。
 たとえば、次のような文ではどうでしょうか。

「それを知っていたのはあの人だけだった。」
「先生はあの子ばかり指している。」

 「あの人」をよんだあとで、「だけ」を強くよみたくなります。また、「あの子」とよんだあとで、「ばかり」を強めたくなります。これが後づけのアクセントの表現というものです。こればかりは、あらかじめ文章を分析しておいて、最初から「だけ」や「ばかり」のつく語をチェックしておかないと表現するのがむずかしいのです。
 よみ方としたら、「あの人」「あの子」に地声のプロミネンスをつけてよみ、「だけ」と「ばかり」をサッと軽くよみます。そうすると、「だけ」「ばかり」の声を目立さずに文の意味を強調することができます。

3 小説の「語り手」と「語り口」の10種類
 小説や物語の文章は、「語り手」が自らのコトバで語りながら、登場人物のコトバを引用するかたちをとります。作品の「語り口」は、同じ作者であっても作品ごとに変わりますから、それに応じてよみ分けることになります。
 一般の朗読では、文学作品の構造を「地の文」と「会話」に分けてよんでいます。「会話」は舞台のセリフのように目立たせて、「地の文」はナレーションにするよみかたがよくあります。しかし、小説や物語の文章は台本ではありません。語り口がよくあらわれている「地の文」をどうよむかに表現よみの本質があります。表現よみでは、それぞれの作品の文体にふさわしいよみ分けをするのです。
 「語り手」は次のような要素で決まります。作品ごとにたしかめてみましょう。
 その一つは、語り手の態度です。「だれに向かって語るのか(自分か他人か)」、「語る方向は内向きか外向きか」、「事実をそのまま語るのか脚色しているか(事実かフィクションか)」、「自分をさらしているか演技をしているか」、「語り手の心情は明るいか暗いか」、「だれのために語るのか(自分か他人か)」。
 もうひとつは、聞き手の想定です。「聞き手は一人か多数か」、「聞き手は特定の人か不特定の人か」、「聞き手は多いのか少ないのか」、聞き手の年齢はどのくらいか(おとなか子どもか、年下か年上か)」。
 以上の点から、作品のタイプをいくかに区分できます。現在、わたしが考えるタイプは次の10種類です。パターンは作家によって決まるものではありません。通俗小説の作家はどんな作品を書いても同じ「語り口」ですが、本格的な作家の場合には、作品ごとに文体も変わるし、「語り口」も変わるものです。
  1 日記風 と 2 回想風……独白口調
  3 手紙風 と 4 告白風……語り口調
  5 昔話風 と 6 童話風……物語口調
  7 講談風 と 8 落語風……演芸口調
  9 芝居風 と 10 演劇風……演技口調
※ アナウンス、ナレーションなどの口調は表現の語り口からは区別されます。下記の作品例には表現よみサンプルのページがリンクしてあります。

 1 日記風――1と2は、どちらも語り手自身の行為です。だれかに読ませようとか、聞かせようという意識はありません。もっぱら自らのために書きつづり、考えるのです。1は形式においても日記の体裁をとることが多いものです。作品=クローディアスの日記(志賀直哉)
 2 回想風――語り手が自らの過去を思い出しながら書かれます。1よりも、人に語ろうとする意識が強くなります。作品=思い出(太宰治)、母の死と新しい母(志賀直哉)、こころ(夏目漱石)
 3 手紙風――3も4も相手はひとりです。文学作品になるのは、特定の相手に宛てたかたちの手紙です。相手への信頼感が前提となって書かれるので、内面的な深さのある内容を語ることになります。作品=Kの昇天(梶井基次郎)、佐々木の場合(志賀直哉)
 4 告白風――告白においてはさらに信頼感が強くなります。日本の「私小説」の多くが「告白」のモチーフを持っています。ただし、告白の代表例とされる田山花袋「蒲団」などに、この語り口が表現されているかどうか、あらためて確認する必要があると思っています。作品例=きりぎりす(太宰治)、猿ヶ島(太宰治)
 5 昔話風――5と6はどちらも「物語」としての体裁をとります。どちらも聞き手のために語ろうとする「聞き手意識」があります。聞き手の人数は数人から、せいぜい十人以内です。5と6の二つを比べると、5の方がおとな向け、6の方が子ども向けというちがいがあります。作品=魚服記、仙術太郎、瘤取り(太宰治)など
 6 童話風――子どもに向けて語り聞かせるようなつもりで書かれています。宮沢賢治の童話の多くがこのパターンです。わたしはかつて賢治の作品を表現よみしたとき、じつに読みにくく感じました。なかなか作品にふさわしい調子でよめません。それは、賢治の作品が「聞き手ゼロ」を目標とする表現よみには合わないからでした。しかし、それが分かってからは、そのような作品理解を基礎にして、聞き手に向けた表現を工夫すめることにしました。作品=オツベルと象/セロ弾きのゴーシュ(宮沢賢治)、清兵衛と瓢箪(志賀直哉)など
 7 講談風――7と8は舞台で「芸」として語られるものです。聞き手も数十人から百人くらいになります。日本の小説の語り口は、講談系か落語系の二つの傾向に分類できます。近代文学の多くの小説が、これらの語り口を受け継いでいます。講談系を代表する作家は森鴎外です。落語系の代表作家は太宰治です。ちなみに、森鴎外を尊敬していた太宰治は二つの傾向を兼ね備えた表現力のあるめずらしい作家です。作品=最後の一句/高瀬舟(森鴎外)など
 8 落語風――日本の小説の語り口には残念ながら落語系の語り口の作品は少ないようです。とくに、笑いを生むような作品が少ないのです。作品=吾輩は猫である/坊ちゃん(夏目漱石)、畜犬談/眉山(太宰治)など
 9 芝居風――9と10は、演劇的な語り口を備えた作品の傾向です。9は歌舞伎や浄瑠璃の傾向を受け継いだ比較的古い形の語り口です。伝統芸能の教養を積んだ作家によって書かれた作品が多くなります。作品=女生徒(太宰治)など
 10 演劇風――新しい形の演劇は「新劇」とされていますが、舞台のセリフ回しは完成されたものではありません。戯曲のセリフには人物の個性はあっても語り口の表現は少ないものです。戯曲のセリフは語りとしては不十分なもので、役者の演技によって補われています。語り口はセリフそのものにあるのではありません。俳優による表現です。また、ト書きも舞台についての指示であって、語り口は含んでいません。ですから、舞台での新しい語り口は小説の語り口を表現する訓練によって生まれる可能性があるでしょう。わたしは太宰治の作品の語り口に期待しています。作品=駆込み訴え(太宰治)など

 以上の10パターンを基準にして作品ごとの「語り手」を考えることができます。具体的な例として、ヘルマン・ヘッセ(高橋健二訳)「少年の日の思い出」、太宰治「走れメロス」、魯迅(竹内好訳)「故郷」の三つの作品について考えてみましょう。

 「少年の日の思い出」の文章は翻訳ですから、ヘッセの文体というよりも、翻訳者・高橋健二の語り口がよく出ています。語り手の構造は二重です。まず、第一の語り手「わたし」が登場して、客である「友人」を紹介します。そして、途中から「友人」が第二の語り手となって「ぼく」の過去を告白的に語ります。つまり、作者ヘッセが「わたし」という語り手を通じて、「友人」の語る思い出を紹介するのです。ヘッセのモチーフは「ぼく」の意識と重なるものです。冒頭で語りのための舞台が設定されているので、しんみりと語るようすまでが伝わります。
 (E・サピアは、文学の言語の層を二つに分けて、言語の潜在的な層の内容は翻訳できるが、上の層で展開される文学表現は翻訳不可能だといいます(『言語』1998/岩波文庫384頁/安藤貞雄訳)。つまり、翻訳の「少年の日の思い出」では、ヘッセのドイツ語原文の上の層が、日本語の高橋健二のものに交替していることになります)

 「走れメロス」は、遠い古代のできごとを講談調で語る文体です。文末で繰り返される「のだ」は語り手の口調です。太宰は、全体を講談調の大衆小説にすることなく、自らの文学的モチーフを生かしています。困難に出会うたびに繰り返されるメロスの内言には熱が入っています。この作品の感動はこの部分にあります。

 「故郷」も翻訳です。竹内好はみごとな日本語の語り口に表現しました。語り手の「わたし」が自らの体験を語るかたちの作品です。語り手は、自ら経験したできごとを、帰郷から出発まで主人公である「わたし」の行動につきそって報告するレポーターのような役割を果たしています。

 文学作品のよみにおいては、よみ手が語り手の声と同化するのが基本です。語り手の声は作品ごとに具体的です。それぞれの作品における語り手の語り口をとらえて、それにふさわしい声で表現する必要があります。そのようなよみをすることによって、わたしたちは作品の世界に接近できるのです。

 作品の文章の全体を大きく分けると、「語り手のコトバ」と「人物のコトバ」になります。語り手のコトバは「遠い声」、人物のコトバは「近い声」によみ分けます。「遠い声」とは、「メロスは」「エーミールは」と三人称を思い浮かべて発するときの声です。「近い声」とは、よみ手自身の意識に引き付けて「わたしは」「ぼくは」と表現する声です。「彼は、わたしは」「わたしは、彼は」と交互に発声してみると、意識における距離感のちがいがわかります。また、「あれ、それ、これ」という三つの指示語で、対象物をイメージしながら声に表現しても距離感がつかめます。

4 記号づけと文章分析
 作品の最初のよみから表現よみで始めましょう。いきなり作品全体を通読するのではなく、まず題名をしっかり声に出して繰り返しよみます。それから、本文を書きだしから四、五行くらいずつ区切ってよんで行きます。漢字の読みくらいを確認したら、いきなり表現よみをします。大声ではなく、自分で聞いて理解しやすい大きさの声にします。まわりの人の音がジャマになるときには、耳のうしろに手のひらをあてるか、耳に指を入れてふさぐと、自分の声だけがよく聞こえます。
 最初のよみの段階から、テキストに次のような記号をつけます。小声でブツブツとよみながら、句読点のないところを区切ったり、読点の要不要を確かめることによって、文の内容を理解するのが第一の目的です。文を区切りながらも意味のつながりを失わないよみが大切です。実際によむときにも、記号を手がかりにして音声表現することもできます。しかし、よみのテンポのちがいなどで間(マ)のとり方が変わったり、記号を修正するところが出てきます。
 ※ 記号づけの実際――(1)記号づけ総論 (2)三島由紀夫「仮面の告白」の冒頭
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 (1)間(マ)と区切り――よみの切れ目は句読点よりも多くなります。句読点だけにたよっていてはよめません。また、句読点がよみ方と一致しないこともありますから、独自の文の切り方が必要です。そのための記号づけを以下に示します。句読点はすでに切れ目を示しているので記号はつけません。

 a (マ)(  )――間(マ)が必要なのは、句点(記号不要)、文頭の主語や文頭の接続語のあと、地の文から会話に入る前、会話と会話のあいだなどです。ここでは、口を閉じると同時に、鼻から一気に息を吸います。そうして、それまでの内容をイメージしてまとめるとともに、次をよむために意識を集中させます。

 b 区切り( / )――読点では区切ってよみます。ほかに、文法的なまとまりを示す区切り、文の意味をはっきりさせる区切り、音声表現の効果をあげる区切りなどがあります。口は閉じずに開けたままで、次の語句のよみにそなえます。間(マ)と区切りのあとでよまれる語句は意味が強く感じられるので、丁寧にやわらかくよみます。

 c ツナギ( ) )――読点がついていてもつなげてよんだ方がいいときに、読点の前後を弧線でつなげるかたちでつけます。また、行末の語句がつぎの行にまたがったり、行末をつぎの行頭へとつなげてよむ印しにも使います。会話を受ける閉じカギと会話を受ける「と」をつなげるときには、 」 をまたいでつけます。

 d 切りかえ(  )――語句のあとを区切るのではなく、意識を集中させて意味をつなげます。(1)ある語句が次の語句を飛びこえてつながる場合、(2)長い修体(連体修飾部)がまとまって名詞につながる場合と、二た通りあります。文字と文字との間の右わきにVの印しをつけます。区切りや間(マ)とちがって、ネバるようなよみ方になります。

 (2)カッコをつけて分析する――この記号づけは文学作品の語りの構造をとらえるためのものです。語り手のコトバの中から人物のコトバを探り出すことによって作品を立体的に表現することが可能になります。
 記号づけの実際の作業においては、切れ目の記号づけよりも、こちらが先行します。カッコのはじまりが間(マ)や区切りの代わりになりますから、 や ( をつけたところには、さらに / や  をつけなくてもすみます。

 a 直接話法による人物のコトバ――「 」や――などで表示された会話ですから記号はつけません。ただし、声に出された会話と、声には出なかった会話は区別すべきです。また、会話は人物のコトバをそのまま書いたわけではありません。語り手が自分の評価を加えて引用したものです。そこには、好ましいか好ましくないか、賛成か反対か、うれしいかうれしくないか、といった評価のニュアンスがあります。語り手の思いと結びつけたセリフにしましょう。会話だけを舞台のセリフのように演じると、語り手による「語り」としての小説の世界をこわします。会話も語り手の語るセリフとしてよみます。

 b カギのつく間接話法のコトバ「 」)――「語り手」の語りに引用された会話です。地の文において、「 」や――をつけずに語り手が人物のコトバを引用します。そこに、「 」の記号づけをします。日本語には、主語や時制に関する話法のルールがないので、引用された人物のコトバとは思えない語句が混じることもありますが、その語句もその人物の立場に置きかえてよみます。
 魯迅の「故郷」には、次のような典型的な間接話法があります。語り手は、「わたしは……こと、などを話した。」という語りのワクにはさんで、「わたし」のコトバを紹介しています。「 」をつけた部分は人物の立場に意識を切り替えてよみます。

 「だが、とうとう引っ越しの話になった。わたしは、あちらの家はもう借りてあること、家具も少しは買ったこと、あとは家にある道具類をみんな売り払って、その金で買い足せばよいこと、などを話した。」
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 c 地の文に組み込まれた人物のコトバ( ))――語り手のコトバのなかに、まったく独立した文として人物のコトバをはさみこむことがあります。その多くは、人物の内言の表現です。そこは、( )の記号でくくります。ふつうは一文の単位で取り入れられますが、ときには、複数の文になったり、さらに段落単位で展開されることもあります。
 次の「走れメロス」の部分は、( )をつけたところがメロスの心の声で、それ以外は語り手のコトバです。

 「メロスは跳ね起き、(南無三、寝過ごしたか、いや、まだまだだいじょうぶ。これからすぐに出発すれば、約束の刻限までには十分間に合う。今日はぜひとも、あの王に、人の信実の存するところを見せてやろう。そうして笑ってはりつけの台に上ってやる。)メロスは、ゆうゆうと身支度をはじめた。」

 d 語り手によるアクセントのコトバ〈 〉)――これは音声表現のメリハリをつけるうえで決定的に重要です。語り手が特定の語句に強調の意味をこめたところです。わたしは〈 〉をつけて「アクセント」とよんでいます。ふつうのアクセントは、単語レベルでの音(オン)の上げ下げのことですが、これは語り手の考えにもとづく意味の強調のことです。

 たとえば、「故郷」の冒頭にこんな文があります。〈 〉は引用者のものです。

 「もともと故郷はこんなふうなのだ――進歩もないかわり、わたしが感じるような寂寥もありはしない。」

 〈寂寥〉のアクセントは、その前に書かれた「覚えず〈寂寥の感〉が胸にこみあげた。」を受けています。同じことばを繰り返すことによって、〈寂寥〉にはアクセントが生じます。よみの技法としては、その語句の前に間(マ)をとったり、ゆっくり正確に発音したり、低めの声にしてメリハリをつけます。

(3)音声表現についての工夫――以上二つの記号づけに加えて、聞き手に聞いてもらうための音声表現についての記号もあります。「表現よみはもっぱら自分のために読むものだから、音声はどうでもいい」という意見があります。しかし、人前でよむときには聞き手の重視しなければなりません。

a 音声アクセント(傍点と傍線)――単語には一音ごとの上がり下がりがあります。その高く上がるところを音声アクセントといいます。一般には、日本語のアクセントは、高低アクセントであるといわれています。しかし、表現においては、音声のアクセントにも意味の強調があります。とくに複合語のアクセントのつけ方においては、単語の意味が聞き落とされないような工夫が感じられます。
 たとえば、「学校」と「教育」が結びついて「学校教育」となると、平板アクセントだった「教育(きょういく)」が、「教育(キョういく)」と頭高に変化します(注=カタカナがアクセントの位置を示す)。これはあとの語の印象が弱まるのを避けるために歴史的に形成されてきたものだと思われます。
 よみの表現においては、この単語のアクセントを高めるだけでなく、強めによむことによって、よみ手自身の単語のイメージの浮かびかたも変わるし、聞き手にとっても単語が明確に伝わります。
 「アクセント辞典」では、単語の上につけるバーで表示していますが、縦書きのテキストではそれができませんから、音声アクセントのある音(オン)の脇に傍点(・)をつけます。平板の場合には、その単語の脇に傍線を引きます。ある語句の音声アクセントを正確につけるだけで、文の意味がはっきりすることがあります。また、アクセントは単語に機械的に固定されてはいません。音声アクセントを移動させることで表現効果があがる場合もあります。
 たとえば、中島敦「山月記」には、次のような部分があります。「しなかった」はふつう、「な」にアクセントがあります。しかし、それでは妙に明るくなります。この部分は主人公・李徴の独白ですから、わたしはあえて平板アクセントでよみます。それによって李徴の沈んだ思いが表現できるのです。

 「己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間に伍することも潔しとしなかった。」

(追記=わたしはのちに二つめの「しなかった」の「ナ」にアクセントを置くことに変えました。段階を追っての否定で人物の意志が強まるからです)
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b プロミネンス(波線あるいは二重傍線)――プロミネンスすべきところです。ほとんどすべての文にプロミネンスはあります。ただし、書きだしや状況説明の文では、全体として平らによみます。プロミネンスの方法は、意味を強める意識を持ちながら、(1)地声で強くよむ、(2)軽く・高い声でよむ、という二つがあります。記号で区別する場合、(1)を二重傍線、(2)を波線、にしたらよいかと考えています。
 ※ 記号づけの実際――(1)記号づけ総論 (2)三島由紀夫「仮面の告白」の冒頭
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5 表現のための基礎訓練
 聞き手に喜んでもらえるような表現よみをするためには、音声表現の基礎となる発声や発音の練習も必要です。朗読について書かれた本には、さまざまな方法が書かれていますが、わたしが実行しているいくつかの練習方法を上げておきます。どれも短時間でできますから、日常生活の合間に実行してみてください。
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 (1)深呼吸の練習――呼吸とは「呼」→「吸」です。まず、口をとがらしてゆっくりと息を吐き出しましょう。最後のひと息まで吐ききったときに口をしっかり結びます。すると鼻から自然に息が入ってきます。これが腹式呼吸の基本です。呼吸のリズムをつくるための練習もあります。
 a イスに浅く腰かけます。
 b 顔は正面よりやや上向きにします。
 c 両手のひらを合わせて背筋をすっきり伸ばします。
 d 口をとがらしてゆっくりと息を吐いて行きます。
 e 息をすべて吐ききったところで三秒間、息を止めます。
 g それから口を結んで、自然に鼻から息が入ってくるのを待ちます。
 h しばらくして、体に空気が満たされたところで終了です。
 以上のことを二、三回くりかえします。
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 (2)声帯の振動の練習――鼻から一息吸いながら、軽く口を結びます。それから、奥歯を噛みしめるつもりでしっかり唇を合わせます。そして、「ンー、ンー」と発音するつもりで鼻から声を出します。すると声帯が振動して唇や奥歯がびりびりするのが感じられます。無理なく声帯を振動させられます。全部の息が出つくすまで20秒くらいは安定した声が出るように訓練します。また、声帯の振動を意識しながら、声を強くしたり、弱くしたりします。また、「ンー」よりも口を横に引き締める「ムー、ムー」や、鼻から強く声を出すような「ブッ、ブッ」という発声の練習もします。それから、徐々に口を開いていくと、鼻音から、半鼻音、喉音(こうおん=鼻にかからない口からの声)へと微妙に変化する声のちがいを自覚できます。
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 (3)おどし式発声法――「わっ」と大声で人をおどろかす声をよみの発声へ結びつける方法です。
 a 楽に立った状態で、両手のひらを大きく開いて、目の前にいる人に向かってかまえます。
 b 片足を半歩踏み出しながら「わっ」ではなく、「マッ」と声を出します。同時に両手を前に突き出します。
 c はじめは一回、つぎは三回とつづけながら、しだいに大きな声が出るようにします。
 「マッ」という発声をゆっくりと、「マッ、マッ、マッ」と繰り返していくと、自然に腹式の発声にすることができます。さらに地声での発声をするためには、口を開いたままで「マッ」と発声する訓練をしましょう。実際に出る声は「アッ」というものですが、「マッ」という発音を意識することで、ノドを裏返さずに地声で発声ができるようになります。
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 (4)ストロー式発声法――じっさいのよみ声は、舞台で叫んだり、歌ったりすることとはちがいます。おどし式発声法はよみ声の瞬発力をつける訓練ですが、こちらは持久力をつける訓練です。(1)の練習では、一気に口を開けると一瞬に息が出ました。こんどは、くちびるを細くストローをくわえるように開けて、「ウー」と軽く声を出しながら吐き出します。苦しくても絶対に鼻から息をもらしてはいけません。かならず口からだけ出すのがコツです。息が切れるまで、二十秒くらいは声がつづくように訓練します。
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 (5)息つぎの練習――安定した声でよみつづけるためには息つぎをうまくする必要があります。間(マ)を取るときには、口を閉じた瞬間に、ひと息で鼻から息を吸い込みます。ストロー式の発声をしながら、息つぎを繰り返します。このときの空気の量がポイントです。少ししか吸わないと、息が足りなくなって、よみがつづきません。大きな声を出すときには、より多く吸っておく必要がありますが、多く吸いすぎても息苦しくなります。
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 (6)口の体操――発声ができたら、あとは口の動きの訓練です。口の体操といって、次のようなものがあります。口を動かす筋肉を運動させるのが目的です。日常よりも3割くらい大きく明けて正確に動かすつもりで発音します。
 a アオ、アオ、アオ……(オア、オア、オア……)
 b オエ、オエ、オエ……(エオ、エオ、エオ……)
 c イエ、イエ、イエ……(エイ、エイ、エイ……)
 d ウイア、ウイア、ウイア……

 アやエの発声のときにノドを締めて力の入る人がいます。その場合は、口のかたちを作らずに、口をアのかたちに明いたまま母音の発声練習をすると、ノドを締めずに母音を発声する練習になります。ノドを締めないようにする発声の練習は真上を向いて「アー」と声を出すことでできます。
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 (7)舌の運動――舌の動きは発音にとって重要なものです。「口がまわらない」といいますが、口ではなく舌が動かないのです。よみはじめにするべきトレーニングは、「レロ、レロ、レロ……」の練習です。舌を内側に丸めて上あごで押さえるようにしてから、はじき出すように「レ」、「ロ」と正確に、交互に、ゆっくり発音します。舌の状態を確認できたら、二倍の速さ、四倍の速さにして練習します。また逆に「ロレ、ロレ」という練習もします。

 また、じっさいのよみに有効なのは、TとKとの組み合わせでスキャットのように舌を動かす訓練です。tuku では舌が前後に動きます。teke では、さらに微妙な上下の舌の動きも加わっています。taka では、より大きな上下の動きです。この動きは「レロ、レロ」よりも、実際のよみに近いものです。これらを組み合わせて、いろいろ練習してください。

  tuku tuku         tuku taka       tuku taka teke
  teke teke         tuku teke       tuku teke taka
  taka taka         teke tuku       teke taka tuku

 滑舌の訓練として早口ことばの練習がありますが、それよりもはるかに能率的な訓練です。わたしの経験上、この訓練によって早口ことばにも上達します。たとえば、「生麦、ナマ米、生卵」「赤パジャマ、黄パジャマ、茶パジャマ」「竹垣に竹立てかけた」を発音するときの舌の動きは、この練習と同様の動きなのです。

 (8)母音の発音練習――五十音を組み合わせた発音練習はいろいろありますが、母音はすべての音(オン)の基礎ですから十分に練習する必要があります。「アエイウエオアオ」を、はじめはゆっくりと正確な発音でよみます。のどにかからない無理のない声が出るように練習します。つぎに、スタッカートのように区切って、「ア、エ、イ、ウ、エ、オ、ア、オ」と力まずによみます。また、スラーをかけたように息つぎをせずに「アーエーイーウーエーオーアーオー」とつづける練習もします。

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 (9)オモテ声の発声とウラの声の発声――表現よみにおいては、声の変化が重要です。微妙な表現においては、ウラとオモテの声が瞬時に入れ替わることはよくあります。日常の会話でもよくあることです。ところが、朗読になると声を固定してしまうことが多くなります。たしかに、一種類の声で話すと安定した印象をあたえます。しかし、それがオモテの声ではなくウラ声の場合には困ります。意識しないウラ声は甲高くて不安定なことが多いので聞き手を不安にさせます。アナウンサーの中にも知らずにウラ声を使っている人や、オモテもウラも意識せずにコロコロと声が変化する人がいます。声の表現はまず自分のオモテの声とウラ声とを意識することから始まるのです。

 オモテの声はイヌのような発声、ウラの声はカラスのような発声です。これを交互にくりかえす練習をすることで、よみながら声を自由に変化させられるようになります。オモテの声は「マッ」(あるいは「バッ」)とイヌのほえるのをマネするつもりで発声します。ちなみに英語ではイヌは bowwow と鳴くことになっています。「ウラの声は「アッ(ハッとアッの中間の声)」とカラスの声のように甲高い声です。「マッ・ハッ、マッ・ハッ、……」とウラとオモテと返しながら繰り返します。一回ごとにしっかり意識して練習すれば、十回の繰り返しで十分です。さらに「マッ・ハー、マッ・ハー」(オモテの声をウラに切り替えて延ばす)、「マッ・ハー・マッ、マッ・ハー・マッ」、「マー・ハッ、マー・ハッ」(オモテの声を延ばしてウラ声で止める)、「マー・ハッ・マー、マー・ハッ・マー」といった練習があります。
 ほかにも音声表現の基礎として身につけたいことがいくつかあります。発声では、しっかりした声から微妙な声まで出し分けられる能力、その場に応じた声の大きさ、強さの調整ができる能力です。発音では、口をはっきり開けて、正確な発音で、歯切れよく、はっきりした物言いのできる能力です。アクセントやイントネーションのちがいを聞き分けられる能力、アクセント記号がよめて書けるようにすると聞き取りの能力も高まります。
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6 共同学習と自己訓練法
 表現よみをはじめると、よむ力が高まるだけでなく、声のコトバを聞く力も高められます。知らず知らずのうちに、人の声の表現を意識して注意深く聞くようになります。そのうちに、心のこもった表現が分かるようになります。よみを評価するポイントは、第一に、耳で聞いて、文章の内容が理解しやすく聞こえるかどうか、第二に、作品の場面がイメージとして浮かぶかという点です。
 音声表現の評価の基本は音声面と内容面の二つです。音声面では、声の大小、発音、アクセント、イントネーション、間のとり方など、内容面では、語り手の声の調子、人物の声のよみ方、文体の調子、人物の声の調子、会話の心理表現などです。音声面の方がとらえやすいのですが、かならず文章の表現と切りはなさずに、文章の内容と声の表現が合っているかどうかを見ます。
 音声として響きのよいナレーションのようなよみ方よりも、心のこもった人間の声で語っている表現にこそ価値があります。また、会話の表現もうっかりすると、アニメのセリフや外国映画の吹き替えのようなリアリティのないものになりがちです。あくまでも現実的な生活の感じられるリアルな表現を目ざしましょう。
 授業でとりあげる作品のはじめから終わりまで、すべてを表現よみをする必要はありません。クライマックスにあたる部分だけとりあげてクラス全体で話し合いながら読み合うこともできます。また、作品を部分ごとに割り当てて準備をさせ、リレーよみで表現よみして授業をすすめることも可能です。
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(1)表現よみによる「朝の読書」
 今、日本全国で「朝の読書」というものがさかんになっています。子どもたちひとりひとりが独自のペースで読書ができるのはとてもいいことです。しかし、残念ながらこの読書運動もまだ黙読することを常識として実践されているようです。せっかくの読書なのですから、文章の理解をより深められる表現よみを取りいれたいものです。
 やりかたは簡単です。よみ手自身に分かるような声を出しながらよめばいいのです。授業で代表としてよむときのような大きな声は不要です。自分にだけ分かればいいのです。声そのものに気を使う必要がありませんから、もっぱら文章の理解と解釈に集中することができます。 しかも、黙読の理解がいったんは自分の声で表現されるわけですから、よみ手はその声を聞きなおして理解や解釈の内容を確認しながらよむことができます。
 「クラスの全員が声を出したら自分の声も聞こえないのではないか?」という心配があるかもしれません。それに対しては、まず、先生が生徒に、自分で聞こえるだけの小声でいいことを伝えます。これは人に聞かせる大きな声と自分だけに聞こえる小さな声の訓練にもなるわけです。そして、周囲の声を気にせずによむための工夫としては、(1)耳のうしろに手のひらを当てて囲むようにすること、(2)耳に指を入れたりしてふさぐことの二つがあります。(1)では、自分の声がよく耳に入るようになります。(2)は、外の音を遮断することで自分の内部から声を聞けるようになります。
 表現よみは、黙読による理解を声の表現によってフィードバックするのに最適な方法です。これからは、「朝の読書」といったら、教室から子どもたちの声が聞こえてくるにぎやかなものになってほしいと思います。
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(2)共同練習のやりかた
 学校での授業の参考のために、わたしが実行している共同学習の手順を紹介します。五、六行ずつよんでは話し合いをして作品の理解をすすめて行くグループ学習の方法です。
 a 始まりのあいさつ――司会者が開会のあいさつをします。司会はメンバー全員が交替で担当するとよいでしょう。「みなさん、こんにちは。司会の○○(名前)です。では、これから○○(作家名)の『○○』(作品名)の表現よみの勉強を始めます。きょうは、第○章○段落、テキストの○ページ○行目からです」
 b 下よみと記号づけ――テキストをいきなりよむのではなく下よみから始めます。漢字の読み方やアクセントなどについては、この段階で相談して確認しておきます。「最初におのおのが下よみをしてください。○行目から○行目までです。必ず声を出して記号をつけながら読んでください。○分間(二、三回よむのに必要な時間)時間を取ります」
 c よみ方の指定――それぞれが下よみで計画したことをあらかじめ話してからよむと、聞き手もそこがどうよまれるか集中して聞くことができます。だれからよみはじめるかは司会者の権限で決めます。また、よむ順序は右回りでも左回りでもいいし、よむたびに順序を変えてもかまいません。「では、○○さんから順によんでください。よみはじめる前に、a区切りの必要なところと、bカッコをつけるべきところ。cよみの工夫をするところを言ってください」
 d 感想・意見・話し合い――全員がひととおりよみ終えたところで話し合いに入ります。「では、今の作品のよみから自分がa分かったこと(理解したこと)、b感じた(感想)ことを、a作品の内容、b作品の表現方法、c表現よみの仕方に分けて発言してください」。話し合いをしながら、自分のつけた記号づけを検討したり、人のよみを聞いて修正したものなど発表します。また、人によって記号のつけ方がちがうときには、その解釈について話し合うこともあります。ただ単にどうよむかという技術を決定するのが目的ではありません。作品の書かれ方とよみ方とを結びつけて話し合います。
 e よみなおし――話し合いに区切りがついてからよみなおしに入ります。必要ならば、何回でもよみなおしてよいのです。「では、第二回目のよみに入ります。今の話し合いを生かしてよんでください。では、こんどは○○さんから順によんでください」
 f くりかえし――ここからは、dとeのくりかえしになります。最低三回はくりかえしてよみましょう。しだいに最初の緊張がとけて、理解の深まりとともに、それぞれの人のよみも向上します。また、ふしぎなことに、よみこんでいくと、ここはこうよまねばならないという部分と、ここは各人が自由によんでいいという部分とが明確になってきます。
 g まとめよみ――最後に、その日よんだところをひとりずつリレーよみをして終了です。作品が長い場合には、全部を読まなくても、作品の冒頭から数ページを、共同研究しておけば、あとは自力でよみとおすことができます。また、長編小説では、表現よみしたい部分を取り出して表現よみして、その他の部分は作品の要求する声を感じながら黙読でよみとおせばよいでしょう。わたしの会では、冒頭の数ページを以上のような分析にかけて表現よみし、そのあとは一人あたり半ページくらいの分担で一気によんでしまうということもやっています。
 表現よみの授業の発展として、さまざまな発表会の形式が考えられます。一人ひとりが好きな作品をとりあげて表現よみ発表会を開くのもよいでしょう。一人三分くらいでも人に聞かせられるよみをするには、それなりの研究と訓練が必要です。
 複数の人たちによる群読はよく知られていますが、小説や物語を朗読劇に構成して演ずるのも楽しいものです。ナレーションを数人で分担したり、登場人物の会話を責任を持ってよむことで、語り手のコトバや人物のコトバのよみ方のとりたて練習にもなります。
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(3)いいよみとは、どんなよみか?
 「いいよみとはどのようなものですか」と聞かれることがあります。一般の音声表現では、発声、発音、などの基礎的なことがいわれていますが、さらに表現よみでは次のような三つのポイントがあげられます。以下の基準は、特別な知識や訓練がなくても、だれでもが直観的に感じられることです。
 a よみ声ではなくイメージが浮かぶ――きれいによんでいるのに声ばかり聞こえるよみがあります。文章に書かれた文字を声にしているかのようです。それに対して、意識を集中させて聞こうとしなくても、作品の内容がするすると心にはいってくるよみがあります。よみ手の理解や解釈もありありと感じられます。作品のすじがわかるだけでなく、場面ごとのイメージもよく浮かびます。それがいいよみです。「おや、こんな場面があるのか」と、ハッとするようなイメージが鮮やかに浮かびます。それがたくさんあるのがいいよみです。
 b アッという間に終わってしまう――楽しい時間というものは短く感じられます。いいよみも聞いていると気持ちよくて、よみが終わったときに、おや、もう終わってしまったのか、もっと聞きたいという気になります。それとは反対に、退屈して時計を見ると意外なほど時間が経っていないようなよみはよくないよみです。
 c 自分もその作品をよみたくなる――志賀直哉が、いい作品を読んだときには自分も刺激されて作品を書きたくなるということを書いています。それとおなじように、いいよみを聞くと、作品の魅力にとりつかれて、自分でもその作品をよんでみたくなります。その反対に、「なんだ、これはつまらない作品だ」と思わせてしまったら、それはよみもよくなかったのです。作者と作品に対して申しわけないことです。
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(4)鼻音発声による練習法
 鼻音発声とは、口を結んだままで「ンー」「ムー」「ブー」などの声を鼻から出す発声です。大きな声を出さずに発声の練習ができます。これを作品のよみの練習に応用する方法です。やってみるとわかりますが、鼻音発声で作品をよむと、口から発声したときよりも十分の一くらいの声になります。そして、声帯周辺のノドにかなりの負担がかかります。アクセントひとつ正確に出そうとしても、口を開(あ)いたときよりも十倍の集中力と筋肉の緊張が要ります。
 かつて『巨人の星』というマンガで「大リーガー養成ギプス」というものがありました。ちょうど、それと同じような効果をもたらします。鼻音発声のあとで、口を開(あ)いてよんでみると、すらりとよめるようになります。人がこのよみを聞くと、単なるハミングのように聞こえますが、よんでいる当人にとっては、発声器官にギプスをはめた状態で声を出しているような強い圧迫があります。だから、なおさら正確な発音で調音をしないといいよみができません。そのカセがあなたのよみをさらに正確にしてくれます。
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(5)母音発声による練習法
 母音発声とは、作品をよむときに、子音を落として母音だけでよむことです。発声練習では腹式の発声になっているのに、実際によみになると腹式の発声ができなかったり、深く豊かな発声でよめない人は、このやり方をすると、厚みのある声でよめるようになります。

 原理は簡単です。作品をよむときに、一つ一つの音(オン)から音を延ばしたときの母音だけでよめばいいのです。慣れれば直観的に文章を見ながら母音発声でよめます。まずは、文章を一音ずつ延ばしてみたり、ローマ字に書き直して、母音を確認してもよいでしょう。撥音の「ん」は鼻音として発声します。拗音(小さい「ゃ・ゅ・ょ」のつく音(オン))は、それぞれ「ゃ→あ」「ゅ→う」「ょ→お」と息を詰めた母音になります。また、促音(小さい「っ」のつく音(オン))では息がつまった発音になります。

 たとえば、次のような文では、(1)母音を延ばした例、(2)ローマ字で書き直した例をあげておきます。
 「親譲りの無鉄砲で、子供のときから、損ばかりしている。」

(1)「おーお、やーあ、ゆーう、ずーう、りーい、のーお、むーう、てーえ、ぽーお、でーえ、こーお、どーお、もーお、のーお、とーお、きーい、かーあ、らーあ、そーお、んーん、ばーあ、かーあ、りーい、しーい、てーえ、いーい、るーう。」
――お あ う う い お、う え(っ) お お え、お お お お お い あ あ、お ん あ あ い い え い う。

(2)O YA YU ZU RI NO MU TE PPO U DE、KO DO MO NO TO KI KA RA、SO NN BA KA RI SI TE I RU
――O A U U I O U E (PP) O U E 、O O O O O I A A、O N A A I I E I U。

 うっかりすると物理的な発音練習になりがちです。しかし、これは一石二鳥をねらう練習方法です。作品の表現をしながらよむことを心がけましょう。せっかくの練習を単なる発音練習にしてしまうのはもったいないことです。表現する思いをこめて練習しましょう。
 表現よみの訓練には限りがありません。各自の能力と訓練によって作品のよみ方を可能な限り高めることができます。表現よみに上達すると、人に聞かせても十分に鑑賞にたえる音声表現になります。表現よみは、最終的には「芸術よみ」といえる段階にまで発展する可能性を秘めています。(終)
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●参考文献
 表現よみの提唱者である大久保忠利の理論と実践については次の三著を参照。『国語教育本質論』(1973/春秋社)、『国語教育・構造と授業』(1975/あゆみ出版)、『人間教師の文学教育』(1977/一光社)。オーラル・インタープリテーションについては、近江誠『オーラル・インタープリテーション入門』(1984/大修館書店)が詳しい。渡辺知明の表現よみ理論は、『表現よみとは何か―朗読で楽しむ文学の世界』(1995/明治図書)、日本コトバの会編『コトバ学習事典』(初版1988/2刷1990/一光社)を参照。ほかに、日本コトバの会の機関誌『日本のコトバ』(1994-1999/日本コトバの会)13号-22号掲載の諸論文がある。