更新2002/11/30 「ことば・言葉・コトバ」
● 訪問感謝、あなたは人目の方です(設置2002/10/19)

掲示板事件全記録(4)

【解説】 2002年1月はじめと2月から3月にかけて、わたしの「掲示板」に書き込まれたやりとりの全記録を公開します。最初は喧嘩腰の質問の書き込みでしたが、わたしは誠実に受け止めて辛抱づよく対話を続けました。しかし、最終的には、相手のことばによってわたしの心と精神がひどく傷つけられることになりました。精神的な被害は大きいものです。相手は最後まで自らの存在と本名を明らかにしませんでした。わたしは仕方なく掲示板の閉鎖をしました。その間、相手は、わたしのリンクからたどれる方たちの掲示板にまで書き込みをして、そちらにも精神的な被害を与え掲示板の一時的な閉鎖もさせました。
 最初から掲示板の記録はすべて保存してありましたが、わたしは精神的な打撃から立ち直るまでは正直いって見るのもイヤでした。その後、掲示板に残されたデータから相手を確定できたのでいくらか安心し、全記録を読み直してみると、冷静な読み手ならぱ、どちらの態度がまともであるか理解していただけると判断しました。また、このやりとりを読むことで、音声表現についてのさまざまな問題も探り出せるとも考えました。そこで、半年を経た現在、全記録を公開することにいたしました。
 掲載許可という問題がありました。しかし、もともと相手が公開を望んだ書き込みです。わたしの書き込みをのぞいて、相手はすべてメールアドレス不明の匿名ですから許可の得ようがありません。わたしの受けた精神的な被害を理解していただくためには全記録の公開がふさわしいと思います。インターネットによって同様の被害に遭われた方がたにとっても参考になるかとも思っています。もしも、この公開に差し支えのある方は、わたし宛のメールで本名と存在を示して申し出るようお願いします。
 書き込まれた文章には、書きまちがいも含めて手を入れていません。ただし、読みやすくするために改行をしたところがあります。また、書き込み時刻のあとに Remote Host を記入しました。掲示板の書込みをブラウザの「ソース」を見たときに、記録されているホストコンピュータのアドレスが Remote Host です。書きこみ時刻によって数字は変化しますが、発信地には変わりありません。それを見れば、同一のコンピュータから送られたものであることがわかります。(2002.10.18)
《更新記録》No.84から94にコメントを追加した(2002.11.29)。No.95から101にコメントを追加した(2002.11.30)。

84 85 86 87 88 89 90 91 92 93 94 95 96 97 98 99 100 101
(1)2002.1.4-11 (2)2002.2.5-27 (3)2002.3.1-10 (4)2002.3.14-20 (5)2002.3.20-23

84.録音は聞けたのですが 丹綾和代 3月14日(木)14時53分54秒 < 1Cust28.tnt1.sagamihara.jp.fj.da.uu.net>
火曜日にコンピュータを直していただいて、すぐに再録音「死神どんぶら」を聞かせていただきました。なんと申し上げてよいやら困ってしまい、ご返事が書けないまま、時間がたってしまいました。
じつは図書館では、親切な館員さんが、渡辺さんの2冊の新着のご本以外の、読み聞かせや朗読の本を関連図書として見つけ出してくださいました。まじめに読むつもりではなく何気に借りたのですが、コンピュータが直るまで本を読んでみようと思いました。借りたのは次の本です。
  遠藤敦司著「現代読み聞かせ入門」(東京書店)
  永井一郎著「永井一郎の朗読のヒント」(ふきのとう書房)本当はふきのとうは漢字です。
  杉沢陽太郎著「現代文の朗読術入門」(NHK出版)
これらの本を拾い読みしながら、渡辺さんのご本も読ませていただきながら、新録音を聴きつつ、また最初の録音を聴き返しつつ、考えていたのは、上手く言えないのですが、

  理論はいらないなあ

ということなのでした。
どの著者も結局自分を理論化しているだけだと感じたのです。童話の書き方の本だって、皆そうです。(ああ、あなたはそうやって書いているものね。)たいがいそんな感想しか生まれてきません。そう思えるのはいいほうで、(あなた、だったらそう書いてみなさいよ。理論と実際がかけ離れちゃっているんだから、もう。)と、腹立たしく思うことだってあります。
渡辺さんの理論と実際も、実は、そんな感じだったのです。
遠藤さんの本にはCDが付いていませんが、よみに自信がなくてCDを付けれなかったのでしょう。理論を読む限りでは、ひどい朗読しか生まれてきそうにありません。
杉沢さんの本も、不自然な調子が生まれるだけだろな、と感じていましたが、付いていたCDがやっぱりそうでした。聞いてられない朗読でした。いいえ、あれは朗読になっていません。たとえば、間のことですが、機械的に間をあけろというのはいくらしろうとの私だって、それはおかしいと分かります。CD聞いたら、やっぱり腐った魚のような死んだ間ばっかりでした。
渡辺さんは、「かなり上手な朗読を聴いてても疲れる」、それは、「聞かせようとする意識が押し付け」だから、と書かれていますね。
また、「表現よみ」は「理解が目的です」、と書かれています。「朗読は伝達が目的」だけれど、の文脈で。
私は渡辺さんの「死神どんぶら」に限らず、本心を言えば、どれを聞いても疲れる、というか、肩がこるのです。念が入りすぎた感じがするからだと思います。
あの、ラストシーンの中の一つのせりふ、いったいそれはカヤか死神か、というあそこのところですが、「理解が目的」のはずの「表現よみ」は初めカヤになっていましたよね。また、「とうちゃん、これ?」のせりふ、初めは「いま言ってたのは、これのことなの?」の意味になってました。2回目では、まあ、正しい読みになっていました。読みを深めたら直った、ということは、読みを深めれば正しい表現が生まれるということだと思うのです。理論でなくて、繰り返しの読みが表現を正しくするのではないでしょうか。それも、初めからの表現よみでなく、むしろ、黙読が。
聞かせようとする意識、私の場合、子どもたちが幼かった頃は、「愛情」が、聞かせようとする意識そのものでした。読んであげたいという「愛」、この意識のほか、何も無かったと思います。こら聞きなさい、では無く、さあ聞いてね、は、たしかに聞かせる意識ですが、これは決して決して押し付けではないでしょう。
雨の、秋の、夜が、ふけて、の念の入った途切れた感じのほうがずっと押し付けだと、(ごめんなさい)、私、思いました。
渡辺さんには理論がある。でも、実際は批判しているはずのことをしている。理論があるのに、理論どおりになっていない。ちっとも「理解」が進んでいない。
それって、理論の誤りと、それ以前の、読みの深さの不足なのではないでしょうか。

昨日、娘たちに、実は、聞かせました。
蘭は、始まって5秒か6秒で、耳をおおって部屋を駆け出して出ていってしまいました。
すみれは、最後まで聞いていましたが、あらかじめ何回かは読んでいましたので、自分のイメージとの違いをかみしめているようでした。
あとですみれはこう言っていました。
「渡辺さん、このお話、好きじゃないのかなあ。プレゼントの紙包み、すみれはていねいにあけるよ。うんときれいな紙でなくたって、そうするよ。渡辺さん、がしゃがしゃべちゃって紙を破っちゃったみたいに読むんだね。紙をやぶってプレゼントをあけたら、中のものまでこわれちゃうかんじがするのになあ。」
蘭は、わずかに、いいました。
「みみ、くるしくて、こころ、いたかったん。」

書きにくかったのですが、なんとか、これだけ、書きました。ごめんなさい。

※「理論はいらない」という意見は、さまざまな人から聞くことがある。だが、理論のないところに実践の向上はない。また、理論の営みがその理論家による理由づけであるということはもちろんのことだ。以前の書き込みでも、この書き手は「万人向け」というようなことを述べたが、理論化の作業はまず第一に自らの実践を自ら満足いくように理論の言語で語ることだ。その理論が普遍化されるかどうかは、その次の段階になる▼わたしのよみについて「念が入りすぎた」という評価は当たっている。だが、「聞き手ゼロ」という大久保氏の提唱を固定的に考えている。「聞き手ゼロ」による「理解」は聞き手を前にしたら作品の「表現」を高めるものだ。わたしも演技的な朗読を聞くことがあるが、多くの場合、作品の文章からはなれた演技に感じられる。問題にしてほしいのは、わたしの「念」の入れ方、あるいは「語り手」のつかみ方がテキストにふさわしいかどうかなのだ▼今になると、この書き手も朗読の実践者であるとわかる。いきなりよまずに「黙読」で理解を深めてから声に出すという考えらしい。黙読による理解には言語表現そのものを感じることができないので、どうしても観念的な理解になる。それを基礎にしたよみが演出的にならざるを得ない。表現よみが第一読から声に出すことをすすめるのは、不完全ながら声の表現を聞くことで、内容もフィードバックして理解し直していることなのだ▼この子どもの意見を、わたしは最初はフィクションとは思わずまともに受けとめた。この子どもたちの聞いてきた朗読、あるいは読み聞かせがどんなものであったか。「死神どんぶら」のような怪奇がらみのものを聞いたことがなかったのか。

85.再録音感想感謝(1) 渡辺知明 3月14日(木)22時09分48秒 < f076197.ppp.asahi-net.or.jp>
丹綾和代さん、ほんとうにいつもご丁寧な感想をありがとうございます。今回、はっきりとわたしのよみの評価をしてくださったことで、わたしにも書くべきことがはっきりしました。丹綾さんといういいお相手ができたので、わたし自身の反省を書きますので、どうぞ最後までお読みください。わたしの答えはまちがいなく長くなります。

率直に書いていただいたことを心から感謝しております。基本的には、まあ予想どおりの答えだなと思いました。これまで知りたかったのは、丹綾さんが「朗読」の作品というものをどのように聞いているのかということでした。「よみ」のいいわるいも、その人なりの基準があるわけですから、それに合わなければ、いい評価は得られないものです。次の発言でやっと、わたしのよみの評価が分かりました。

《私は渡辺さんの「死神どんぶら」に限らず、本心を言えば、どれを聞いても疲れる、というか、肩がこるのです。念が入りすぎた感じがするからだと思います。》

それでも、これほどおつき合いくださるのは、ほかのよみよりもまだ、わたしのよみがましだというお考えからだったのでしょうか。それも聞きたいことのひとつです。今回の「死神どんぶら」の再録音では、わたしは現在の自分ができるかぎり作品を解釈して、自分のよみの価値基準にもとづいてよみました。これでいい評価を得られないなら、それはそれでしかたのないことと思っていました。

じつは「よみ」の表現というものは、じつに我がままなものです。最終的にはそれぞれの人が理想の声の表現のイメージをもっています。丹綾さんの場合、ご自分が作品の読解について高い自信をいだいていますから、声の表現についての理想もとても高いのです。わたしもどこかの論文に次のような意味のことを書きました。「どんなよみをしたとしても、作品の理解は主観的なものですから、最終的には当人が声に出すことでしか満足できないでしょう。」――つまり、わたしのよみの実践は、わたしが作品がこうあるべきだという一つの提示です。

これまでの「朗読」では、ほとんど個性的でないよみが行われていましたし、今でも型にはまったよみが行われています。わたしの表現よみは、それらに対する一つのアンチテーゼとしての意味をめざしています。「これは朗読とはちがう」「これは演技とはちがう」と思われるのもおもしろいことです。わたしの望むところは、さまざまな作品について、それぞれの読み手の個性の生かされたよみがつぎつぎに出現することです。わたしが表現よみを自分のページで発表することには、そのような意味があります。

ところで、丹綾さんご自身は、今あるよみの表現の中で、どのようなよみをより理想に近いものとするのでしょうか。いつかご紹介になった西脇新子(にしわきしんこ)さんのよみについては、録音などあればぜひお聞きしたいし、今後、どこかで読まれるならぜひ聞きたいと思っていますので、ぜひお知らせください。多少の努力はして出かけるつもりです。

※ 84で、書き手が、どのように、わたしのよみを評価するかがわかった。しかし、どのようによみをよしと評価するのかはわからない。だが、書き手には、いいよみについて、あるいは「朗読」について、よみを評価することはできても、それを理論化して語ることは最後までできなかった。このときには、そんなことは知らないから、こういうのがいいというよみを知りたいし、「西脇新子」のよみも正直、聞きたいと思って申し入れている。

86.再録音感想感謝(2) 渡辺知明 3月14日(木)22時12分25秒 < f076197.ppp.asahi-net.or.jp>
さて、理論のことです。これまで、丹綾さんのご発言から見ると、あらゆる理論に意味がないようにとれます。しかし、どんな実践にも理論は必要です。なぜなら、それは実践の方向の導きになるからです。もちろん、つねに理論というものは灰色です。理論は理想に近いところがありますから、それが実践とぴったり一致するような場合は非常に少ないものです。しかし、実践の方向がどこに向かうのかは定められるのです。

実際のよみそのものこそ生きた実践の姿ですが、それが理論の支えなく行われているなら、単なる職人芸です。(職人でも一流の人は、論文を書かなくても理論を語れるものです)。また、個人の実践を一代かぎりの技として滅ぼしてしまわないためにも、理論というかたちにして支えをつくる必要があります。たとえば、わたしの五年前のよみと、今のよみとを比較したときには、わたしが『表現よみとは何か―朗読で楽しむ文学の世界』で書いた理論がどんな役割をしたか、わたしの周辺にいる人たちには分かるそうです。

ただし、『表現よみとは何か』は出版は1995年ですが、骨子になる部分の執筆は1985年になります。それから、十七年の間に、わたしの理論も発展しています。出版以来、七年間、さまざまな論文も書きました。もしも、関心があるようでしたら、取りそろえることもできます。

すみれさん、蘭さんの感想もなるほどと思います。お二人にはごめんなさいといいます。お二人にとっていちばんいいのは、やはり聞き慣れた丹綾さん自身のよみなのだと思います。また、わたしのよみはテープで聞く場合には、「朗読」「音訳」よりもテンションに高いものがあります。それがお二人の耳を刺激しすぎたのでしょう。また、丹綾さんのいう「念が入りすぎて」という評価とも重なります。おそらく、お二人は、お二人だけのために読まれた丹綾さんのよみを聞き慣れてもいるのかと思います。丹綾さんには、一度、会場でのよみを聞いていただけたらとも思います。

一般に朗読の聞き手についていえることですが、「朗読」を聞くときに、やはり聞き手自身が「朗読」の観念をあらかじめいだいていることもあると思います。わたしの今のよみは、『表現よみとは何か』に書いてある実践とはだいぶ離れたところに来ています。もちろん、「音声訳」や「朗読」とはちがったもので、すでに「表現」となっているのだと思います。

そもそも、大久保忠利氏の提唱による「表現よみ」とは、「朗読」の観念を根底から変える挑発的な理論であり、実践であったのだと思います。その考えについては、わたしも引き継いでいます。これまでの評価でありがたいのは、一つは、ネットのよみを聞いた紀田順一郎氏の発言です。日本人はどうして、原稿を読むのか、外国の人のように語る能力はないのかという問題解決に関係するものとして、わたしのよみを「異質の音読」と評価してくれました。また、昨年秋、シアターX(カイ)主催「チェーホフ演劇祭40日」のオーディションで、わたしのよみを評価してくださったことです。おかげで、柄本明、長岡輝子、鈴木瑞穂、岸田今日子などが出演するシリーズとして出演できたことです。

さて、再録音「死神どんぶら」の評価についての気持をもう一度いうなら、最初にうっかり軽い気持で録音したときとはちがいます。今回の再録音は自分なりに精一杯の努力をしましたので満足しています。残念ながら、丹綾さんからいい評価はいただけませんでしたが、今後も、自分なりに理論と実践とを続けていきますので、また、ご感想やご意見などいただければありがたいと思います。(丹綾さんに比較してお聞きいただいたので、自分で恥ずかしい古い録音は消去します)

追伸――最後に「初読からの表現よみ」について追加です。わたしは「初読からの表現よみ」に大きな意義を感じています。ただし、それは、まさに聞き手ゼロのレベルにあるよみのことです。おそらく、人の耳には、たどたどしく、まちがいだらけのものに聞こえることになりますが、読み手自身にとってはたいへんな集中力を要するものです。もしかしたら、観念による黙読の理解を吹き飛ばしてしまうようなとんでもない力を秘めたよみになる可能性もあるのです。くれぐれもお断りしますが、それはまったく人に聞かせるためのよみではないのです。

※ 理論の必要性をわたしは説いている。紀田順一郎氏の名や、シアターX(カイ)の出演について書いたのは、いわゆる「朗読」から脱した表現への関心があるということの例である。また、「初読からの表現よみ」ということも提唱しているが、表現よみにはさまざまなレベルがあることを意味する。つまり、表現よみでは、よみ方としてのいわゆる上手下手を問うものではない。それは本質論であるが、書き手は単純な理解しかできないので、「だから、聞かせるな」というようなところに論が行くのである。
87.空からおりて、戦い勝つことこそ 丹綾芳春   3月15日(金)00時39分11秒 <1Cust28.tnt1.sagamihara.jp.fj.da.uu.net>
斎藤孝氏論文批判は我が意を得たりの感があり、あらためて御礼申し上げます。
また、「死神どんぶら」も、いろいろとありがとうございました。音声表現ゆえ、書かれた批判論文の理解とは違い、思いはすぐにはことばになりません。あせらず急がず少しずつことばを紡いでいきたいと思います。ただ、2つの読みを聞き比べられたことは、よい意味で面白かったです。昔あった立体写真のようでした。似た2枚の写真が実は同一ではなく、微妙なズレのあることによって両目で重ね合わすと浮き出てくる、そんな面白さです。

僭越ながら真面目に言うのですが、渡辺さん、3ヶ月くらい「表現よみ」から離れて、ほかの方法を体験してみられたらいかがでしょうか。新聞社などの主催のカルチャー教室などで、知らん顔して学んでみるのです。20幾年あるいはもっと長く一つの流儀に染まっていると、知らず知らずのうちに垢がたまっているものです。金メダルでも曇りが生じます。それを洗い落として、メダルの色を確認されてはいかがでしょう。私も柔道を、数年に一度基本から学びなおしています。新しい考え方や方法に触れるのは新鮮なものです。黒帯の誇りなど捨てると気分いいですよ。
古い遊びに凧あげがありますが、凧をあげる自分をやめて、凧になってみてはいかがでしょうか。あるいは、凧であることをやめて空から降りて、凧の糸を加減してみる。凧揚げを楽しんでみる。渡辺さんにそういう必要性のあることを私は感じました。警察官をやめて新しく生きなおそうとする私のことばとして、いま書いたことは仮令気に食わなくとも、今は騙されたつもりで真面目に騙されてみてください。あとのまだまだ長いわれわれです。人生の7回の表(6回の裏?)が始まったくらいなのですから。長い長い終盤戦を延長戦で戦い抜き、勝つために。

※ 議論が煮詰まってくると選手交代で男が登場する。プロレスのタッチ交代のようだ。女役の書き込みとはちがう角度から書き手も考えようとしている。書き手が一貫して、わたしに繰り返していることは、「どこかに習いに行け」ということだ。ある種の権威というものを信じているのだろうか。わたしが習うとしたら習うに足るべき理論と実践の能力ある人物のもとに出かけるだろう、中島敦「名人伝」の主人公のように。わたしはかつて大久保氏から理論を学んだ。今でも師たるべき人物を物色しているが、残念ながらいない。また、目ざすものが芸術としてのよみであるなら「習う」ことによってなし得るものではないのである。
88.さまざまな感想をおとどけします。 向山晴美 3月15日(金)22時27分17秒 < pl039.nas531.k-tokyo.nttpc.ne.jp>
はじめまして。私は、<さがの朗読サロン>で講師をしている向山晴美と申します。
以前から、貴ホームページの批評の欄や、表現よみの考え方など、ときどき拝見しておりました。年明けの頃からの、興味深い掲示板にも注目してまいりました。
今回の「死神どんぶら」の新旧の録音も、他の作品のよみも聞かせていただいております。
 
 私自身の意見をいろいろ述べさせていただこうと思っていましたところ、朗読についてはおそらく素人の方であると思われる、丹綾様ご夫妻や二人の娘さんのしっかりした正しい感想を読ませていただき、感心いたしているところです。

 ところで、私どものサロンには、自由に使用できるパソコンがあります。受講者も渡辺さんのよみを聞いて、あれこれ意見をたたかわせていました。かなり面白いものがありますので、その中のいくつかをお伝えしたいと思います。多くは30代 40代 50代の女性です。

 「どうして、こんな声の出し方をするのか分からない。どの作品も、わざと下品にしている感じ。」

 「渡辺さんは、このお話が好きで、読んでいるように思えない。良いお話なのにもったいない。作者が聞いたら、おこるんじゃない。」

 「一回目のよみは軽い気持ちで読んでしまったと、自分で反省しているけれど、それでも、カヤの台詞と死神の台詞をまちがえるなんて、日本中さがしたって、渡辺さんのほかにいないでしょう。」

 「本当にこれが、20年以上かけて到達した最高のよみなのかしら。これ以上ほんとうに深めることができないのかしら。」

 「2にはいったところの「ちょうどそのころ・・・・・・」って、どのころか、きちんとイメージをして読んでいない。ほんとうにひどいですね。先生。
 秋の冷たい雨が降っている夜中ですよね。そして、三郎治がどういう状況にいるときか考えたら、あんなに軽くいい加減に読めないはず!」

 「こんな読みをしている人の指導を受けている人たちがいるなんて、ねー、気の毒ねえ。

渡辺さんが、どのように感じられるか、少々不安ですが、かなりの酷評が飛び交ったことは事実です。
 私の感想・意見はつぎの掲示板に書かせていただきます。先ずはここまで。
失礼いたしました。

※ このあたりから、理論的な議論では形勢不利と思ったのか、応援団のような人物が登場する。根拠もなく、誹謗、中傷のような悪口のラレツのようなものが次つぎと登場するのである。今から思うと、わたしの85と86のメールがやりとりの転機になっていたようだ。理論的な議論はこれ以後、しばらく途絶えることになる。はたして「さがの朗読サロン」というものが実在するのか正体不明である。実際に書き手が主宰する朗読教室の生徒たちの発言をまとめたのか、それとも、そのような意見を作りあげたのか、その内容に信頼性はない。「こんな声の出し方」ということから、いわゆるアナウンサー風の均一な声を期待するのだろうとはわかる。しかし、そこには、作品の「語り手」という理解がない。また、この先生とはどのような指導をする人物なのかわからない。そんなことはまるで触れられていない。
89.感想のつづきです。 向山晴美 3月15日(金)22時29分42秒 < pl039.nas531.k-tokyo.nttpc.ne.jp>
再び、おじゃまします。向山晴美です。
「死神どんぶら」の感想は、受講生たちが、率直な意見を言ってくれましたので、
私は、あまり触れないことにします。とにかく、あまりにも解釈が浅いまま読まれて
いらっしゃるので、驚きをかくせません。言いだしたらきりがありません。
 
 渡辺さんの、最近の書き込みの中で気になったことに触れたいと存じます。

  「じつはよみの表現というものは、じつにわがままなものです。最終的にはそれぞれの人が理想の声のイメージをもっています。
    作品の理解は、主観的なものですから、最終的には当人が声に出すことでしか満足できない。
   <初読からの表現よみ>におおきな意義がある。とんでもない力を秘めたよみになる可能性がある。」

 抜粋ですが、このようなことを渡辺さんは書かれていますが、
渡辺さん、あなたは本当にとんでもない考え方に到達してしまわれましたね。
 
 真の「よみ」とは、多くの人が、「そのよみ」を聞いたとき、聞き手が黙読したり声に出して読んだよみより、ずっとゆたかで、ずっと良いと思えるよみでなくてはならないと思います。
 最終的には「当人が声にだすことでしか満足できない」なんて、読み・かたり・ 朗読・そして表現よみ自体をも、愚弄しています。
 また、言い訳めいて、「テープで聞く場合、テンションが高くなる」と書かれていますが、普通、テープに録音すると、テンションは抑えられるものです。そんなことは、とっくにご存じかと思っていました。
 同じ、声の表現における指導者として、渡辺さんの力量に非常に疑問を感じております。
あえて、苦言を述べさせていただきました。今までのように、あれこれと逃げの口実ばかり書かず、しっかりご自分を見つめなおしてくださることをお願い申し上げます。

※ 真の「よみ」ということで書いていることが気になる。よみ手の優位性の主張である。よみ手の立場を聞き手よりもはるかに優位に置いている。さらに、よみ手は聞き手に聞かせてやるのだというような押しつけ的な思想が背後に感じられる。表現よみの「聞き手ゼロ」には、わたしはこのように理解したのですがお聞きになってどう感じますかという謙虚な姿勢があるが、それとは反対のものがこの発言には感じられる。自分がすばらしいものを聞かせているという自信と絶対化とは紙一重である。テープ録音についてわたしが書いたことも理解できていない。わたしの主張は、現場で録音したよみを一人で録音で聞くときには、テンションが高く感じられるということなのだ。 90.丹綾芳春さんへの質問 渡辺知明 3月16日(土)11時05分34秒
丹綾芳春さん、ご助言ありがとうございます。

お答えは、今のところ、そのようなつもりはありません。これまで、わたしは表現よみばかりやってきたわけではありません。朗読の教室に参加して、受講した経験もあります。というよりも、わたしは納得いかないと事を起こさないたちですので、二つばかり、質問をしたいのです。そのうえで、納得がいけば、どこかで、なにかを学ぶ必要を感じるかも知れません。

一つは、わたしのよみのどのような点に問題があるのか、もう少し具体的に示してほしいのです。これまで、いろいろな批評を受けましたが、その批判そのものが、ある一つの価値観からのもののような気がしてなりません。ですから、わたしの納得いくような批評を、作品それぞれと、その部分についてお聞きしたいのです。

二つは、以上に関してのことですが、丹綾さんが理想とする「いいよみ」の見本か実例のようなものをお聞きしたいのです。たとえば、俳優の○○はいいとか、落語の○○のようなよみがいいと思うという具合です。ただ、「白ではない」といわれても、色にはいろいろあるので、目指すべき色にたどり着くのがたいへんです。

以上、これまでの丹綾芳春さんのご発言に期待しての質問ですので、ぜひともお答えくださるようお願いします。

※ 「向山晴美」のような応援団が出てきても、もうまともに相手になるのもうんざりである。わたしは、もともとの書き手である「丹綾芳春」に問いかけるしかない。一つは、具体的な批評、もう一つは、よい「よみ」の具体例、そのような議論の基礎となる事実がなければ話し合うことに意味がなくなる。 91.批判のコトバのキャッチャーに 丹綾芳春・和代 3月17日(日)14時00分31秒<1Cust121.tnt1.sagamihara.jp.fj.da.uu.net>
掲示板をおやめになったかと思いましたが、妻が「下までさげてみた? はいれるわよ。」と言いましたので、初めて、ああ、そうか、と思いました。
サロンの方のご意見、興味深く読ませていただきました。私宛の文面があったらどうしよう、と戦々恐々としていたのですが、幸い無くてほっとしました。渡辺さんは、あれを無視されたようで、それで警告のガードをかためられたのですね。
コトバのキャッチボール、という言い方がありますが、渡辺さんはコトバのバッティーングセンターのように、来るタマ来るタマみんな打ち返してしまわれたみたいで、意外でした。建設的な議論討論の好きな、誠実なかただと感じていたからです。批判が人の心に入りにくいのは確かですが、ここは、バッターになって打ち返すのでなく、キャッチャーになって、まずは受け止めてみられてはいかがでしょう。

コトバのバッターでなく、コトバのキャッチャーに、というのは、明日の卒業式でPTA会長として語る祝辞の中心の内容です。自分に投げられたコトバのボールでなくても美しくキャッチしようね、そのほうが豊かな自分になれるよ、と言い終わる予定です。30秒ほどの短い祝辞です。もう何回風呂場で練習したかしれません。練習してての実感ですが、渡辺さんの表現よみが、どこがどうということではありませんが、役に立っています。

さて、ご質問ですが、
1問題点 
サロンのかたが分かりやすくお書きになっていますので、付け加えられることがなくなってしまいました。上手く言えませんが、要約すれば、<目読のほうがいいような感じがした>、と言ったらよいでしょうか。語りとか語り読みとか朗読とか、色々あるようですが、うちの子たちの学校でもお母さん方がとっかえひっかえ朝教室へ入っていっては絵本などを読んでいますが、たまに横で聞いていてうまいなと思う人は、伺うとたいていどこかに学びに行っています。小田原になんとかという朗読グループがあるそうですし、遠く新宿や横浜などの朝日カルチャーに通っていらっしゃるかたもおられます。妻は、4月から、藤沢にあるカルチャーに通いたいといっています。友だちの来ないカルチャー教室がいい、と申しております。坂本和子先生の教室だそうです。渡辺さんは、この先生のこと、ご存じでしょうか。いい先生だといいのですが。
渡辺さんは理論は大学の先生から学ばれたようですが、音声表現の基礎基本は学ばれていないのではないでしょうか。余計なお世話といわれましょうが、品川にお住まいのようですから、新宿か横浜の朝日カルチャーなどにいらしてみると、多くの発見があり、表現よみの理論と実践がより確かなものになるでしょう。そうすれば、もうサロンの方たちに批判されるはずはございません。ぜひそうなさってみてください。ここは我をはらず、あえて謙虚に。ゆとりの心で。
2いい読み
女優さんでは、有馬稲子さん、若村麻由美さん。(有馬さんの水上勉作品、実にいいです。)
男優では、若い頃の森繁久弥さん、老境の宇野重吉さん。絶品です。
タレントでは、いなかっぺいさん、さだまさしさん。(こころがある、という感じですね。)
アナウンサーでは、NHKの松平さん。
落語家では、柳家小さんさん。「たぬき」とか「千早ふる」など、どれも最高です。さすが人間国宝ですね。

と、まあ、私の回答です。

以下、妻の追加です。

さがの朗読サロンのかたへ。
この欄は私たち一家の独占みたいで気がひけていました。美原さんという方は1回限りでしたし、どうぞ建設的なご意見をこれからもお寄せください。私だけでなく、西脇さんたちはじめ、みんなが渡辺さんのHPやこの掲示板で勉強しています。
どうぞよろしくお願いいたします。

※ 「向山晴美」に代わって、もとの二人が答えた形になった。また「習え」というおすすめである。「音声表現の基礎基本」を学べというが、それは「表現」と結びついたものではなく「音(オン)」そのものの基本である。「音声」による「表現」の本質問題は、作品の内容との関わりで音(オン)がどのように変わるかというところまで突き詰めなければ意味がない。いい読みの例にあげた、有馬稲子はわたしの仲間ではいい評判ではないし、まだ存命だった柳家小さんもわたしは評価しない。例のあげ方で、ふつうは、どんな価値観があるか分かるのだが、この例示には評価の原則が感じられない。 92.回答感謝! 渡辺知明 3月17日(日)14時43分15秒<e143030.ppp.asahi-net.or.jp>
丹綾芳春・和代さん、ご返事ありがとうございます。

わたしはいったん続けた〈対話〉はできる限り続けるという考えがあります。今回のガードがためは、お書きの通り、新たな書きこみ者へのためです。わたしは今年の一月、この掲示板では、ひどい目にあっています。それは、わたしのホームページの「掲示板事件」の報告ページをご覧になるとお分かりかと思います。その名残があって、さすがのわたしも掲示板の書きこみには警戒をせざるを得ないのです。とにかく、明確な根拠なしに書かれたものや、存在不明のような団体のメンバーを称したり、アドレスの記入のないものには、今でも警戒せざるを得ません。

正直いって、お二人のわたしに対する態度がどうなのか判断をするまでに、かなりの時間がかかっています。本来ならば、アドレスの記入がなければ、まともに返答する気はありませんでした。今は、例外としてお二人の誠実を信じて、このような〈対話〉を続けているわけです。

今回の1と2の回答で、また少し芳春さんの批評がどのようなものか分かってきました。1については「サロンの意見」とやらは納得いきません。「死神どんぷら」について、前回の批評については、わたしが納得できる部分は受け入れて録音しなおしました。それはお聞きのとおりです。そのほかの批評については、わたしのよみで変わらなかったらとした、それはそれで、「あなたのご意見はそうですか」ということになります。わたしのよみは文学理論からはじまったものですが、いわゆる「音声理論」には、わたしの期待するよみの表現はありません。要するにアナウンスのための音声理論の実践や、音訳のための実践は、文学作品の表現のためのものではありません。

今回あげられた読み手の中では、松平定信さんはアナウンサーとしてはすぐれています。しかし、文学作品のよみはそれこそ素人かと思います。(注釈=1983年に『日本語再発見』で松平さんが、わたしの参加する日本コトバの会の例会に来て、表現よみについて感心して帰りました。その放送では、まだ二十代のわたしが読んでいるところが放送されました)

ついでに批評するなら、有馬稲子さんのよみは、わたしの仲間では不評、森繁久弥さんの
「山椒魚」はひどいし、わたしもいいと共感できるのは宇野重吉さんでしょう。しかし、いわゆる音声重視の聞き方からいうと、ひどいという評価を受けるでしょう。いなかっぺい
・さだまさしさんが、はたして、文学作品(もちろん小説)をどのくらいよめるかは疑問です。

要するに、ここまで来ると、お二人の求めるものと、わたしが進めているものとは、ずいぶんへただっているのだということを確認しています。ただし、お二人が、わたしのよみに感じる不満については、いわゆる「音声表現」のレベルではなく、かなりレベルの高い段階としての注文だと思います。ちなみに、わたしの教室では、いわゆる音声学的なレベルの修行では十分な実力を持ちながら「表現」として実力を磨きたいというプロの人たちも学んでいます。

ただ、今回の感想でありがたいのは、わたしの表現よみがスピーチに役立つようだというご指摘です。それは、わたしにとってうれしいことです。わたしはアナウンサーのようななめらかなよみもかなりうまくマネることはできますが、それは今の聞き手の耳の感性に合わせるような表現しか生み出さないでしょう。わたしが求めているのは、文章の「よみ」というよりも、文学作品を楽譜と考えたときのクラシック音楽の演奏のようなものです。児童文学「死神どんぶら」の表現における主観的な表現の余地の広さなど、書かねばならないことなどありますが、とてつもなく長くなりそうです。また、掲示板は書くことが、どうも中途半端になりがちです。お気が向きましたら、また、ご質問ください。

※ このあたりで、もう結論は出ていた。この書き手からは、これ以上の発言を期待することはできなかったのだ。それでも、わたしはいちど始まった〈対話〉は続けるという考えがあるので続けたのである。「松平定信さん」は「松平定知さん」のまちがいである。
93.あしがら朗読サロン 発足です。 丹綾和代(代表執筆)   3月17日(日)17時15分56秒 < 1Cust26.tnt1.sagamihara.jp.fj.da.uu.net>
さっそくのご返事、ありがとうございました。
いま、狭いうちのリビングに、西脇さんと、そのお友達が集まっています。HPを開いたら「回答感謝」の文字が見えて、一同、歓声をあげました。

西脇
渡辺さん、はじめまして。実はわたし、みんなには内緒にしていましたが、結婚して子どもが生まれるまで、港区に住んでおりまして、「六本木朗読セミナー」に通っておりました。声優のいちのせのりこ先生や若山源蔵先生のご指導をうけておりました。学友に太田治子さんもおられます。太宰治の娘さんです。わたしはいまは本などでの独学ですが、なにが正しいか正しくないか、おかげさまで分かります。松涛Gの2冊のCDブックも、1冊は買ってよみましたが、なんの役にもたちませんでした。理論も方法も無いからです。渡辺さんに理論があることは、わたし、いいことだと思っています。みんなが横から見つめていますので、またこんど書きますね。では、咲子さんにバトンタッチします。

加賀美
PTAの広報委員長のかがみ・さきこです。いま、芳春氏の30秒スピーチの予行練習を聞きました。渡辺さんが喜ばれたことにとっても喜んでおられましたよ。見えない影響って、あるんですね。お巡りさんなのに、本を読むと下手なのに、スピーチは絶品なのです。朗読は無理そうだから、語りに挑戦したらって、みんなで言っていたところです。では、卒業対策委員長に代わります。

山田みつ
この中で一番若いのですが、名前が年寄りみたいで、いつもいじけています。まだ20代なのですよ。いえ、うそです、気は20代、ほんとは30代。でも、20代にうんと近い30代です。手紙などでは、山田美津と書くようにしています。私、まえ、京都にいたとき、「さがの朗読サロン」見学したことあるんですよ。瀬戸内寂聴さまの寂庵からちょっと奥に入ったところにあるんです。毎月第3水曜日が見学自由の日で、アポもいらないというので、見に行きました。スタジオがあって、ブースがあって、小さいけれどステージもあって、結構本格的なんです。飛び入り先着3名のレッスンに応募して、山之内碧講師のレッスンをうけました。渡されたのは「蜘蛛の糸」でした。普通は好きなテキストをもってきてよいそうです。主に文学が、主として小説が推奨されていました。「蜘蛛の糸」って小説なのでしょうか。私は童話か物語かと思っていました。私たち3人は3つの机にそれぞれ座り、正面にある白い黒板を背にした山之内講師と向かいあいました。3人はお互いの読みに干渉してはならない決まりになっていました。変なルールですよね。裏声をだしなさいと言われた右隣の人は思いっきり裏声をだしたら、声がまともに裏返ってもう戻りませんでした。私はひたすら大きな声を出すように命じられました。とにかく声を出させようというのですが、変なおしえかたですよね。でも、これが正統的な教え方だといわれました。左の人が「蜘蛛の糸」を3行くらい読みました。山之内先生が「ダメだし」っていうんでしょうか、ダメだしをなさいました。読む、ダメだしをする、山之内先生が手本を示す、の繰り返しでした。わたしの番がきたら、もう時間がなくなっていて、ああ、いいですね、で終わってしまいました。評判が悪かったらしく、その後山之内先生は東京に行かれたと聞きましたが、またどこかでいい加減な指導をしているのでしょうか。当時、私の姉もサロンに見学に行き、レッスンをうけたそうです。記憶違いでなければ、向田講師だったとのことですが、わたしの受けたレッスンとまるで違う素晴らしいものだったそうです。

茶話会がにぎわいました。西脇さんが、6年の教科書の宮沢賢治の「やまなし」を朗読してくださいました。目読してもなんだかさっぱり分からない作品の、その底にある限りない優しさ暖かさが、みんなの心にしみました。毎月こういう茶話会をしようねと話し合いました。来月は語りで、「ベロ出しチョンマ」をやってみようかなと、かろうじてまだお巡りさんの主人が申しております。筋をおぼえて、テキストからはなれて、語ってみたい、と言っております。それも面白そうですね。みつさんが、もとい、美津さんが、「あしがら朗読サロン」って名づけましょうよ、と言っています。ステージはなくても、心があります。マイクはなくても、すてきな聴き手がいます。ブースはなくても、感動的な作品があります。
渡辺さんが取り持ってくれたサロンがうまれました。ありがとうございます。

※ ここに来て、なんでこんなことを書き始めたのか、最初は戸惑った。これも書き手の作戦変更の一環なのだ。「向山晴美」を、わたしが軽くいなしてしまったので、よりリアルな状況設定をしての攻撃に変えるのである。その前提には、わたしが二人の人物についての信頼を表明したことである。そのようなわたしの善意につけ込んでくるような卑劣な書き手なのだ。「さがの朗読サロン」というのは、ほんとにあるのだろうか。「向山晴美」なる人物も実在するなら、まともに議論をしたい。「山之内碧」という講師も実在するのか。
94.映像、入りませんか、HPに 丹綾芳春 3月17日(日)23時06分01秒 <1Cust71.tnt1.sagamihara.jp.fj.da.uu.net>
サロン発足うんぬんの下の文面に、実は私の文章もあったのですが、いざ「投稿」というときに「字数オーバー」と表示が出て、情けないことに全文カットされてしまいました。
あのあともあれこれ話題が尽きず、話がご馳走で、いろいろ楽しませてもらいました。話題の途切れない女性たちばかりで驚きました。
さて、私の「いい朗読者」への渡辺さんの反応の中で、松平アナから評価されたことが書かれてありましたが、これは素晴らしいことです。うらやましい話です。おおいに宣伝してください。それで思い出したのですが、いつだったか家族旅行をしようとHPを調べていたとき、「五色沼」の短い映像が出てきて、ススキがロマンチックに揺れているようすを見て、こんなこともできるのだと思ったことがあります。渡辺さんも、栄光のその映像をHPに入れたらいかがでしょう。もしお手元に映像がなくてもNHKなら貸与してくれます。独演会のようすも、映像とともにおさめたら良いと思いました。ご検討ください。

ところで、我が「あしがらサロン」の面々が話していたことで、興味深く思ったことがあります。いなさん、さださんが「文学作品(もちろん小説)をどのくらい読めるかは疑問です。」と渡辺さんはお書きになっています。このことにふれて、ある女性が、名前は略させてください、こんなことを言っていました。
向山さん(たち)は、同じことを渡辺さんに言っているんじゃないのかしら。「死神どんぶら」などから判断して、渡辺さんに「文学が読めるか疑問だ」と言ってるのよ。図式は同じよ。渡辺さんは、ご自分はご自分のなさっていることを「批評」と思い、されていることは「誹謗」だ「中傷」だと考え、向こうは向こうで、向田女史はしていることを「批評」だと思い、「誹謗」「中傷」とは考えていない。ねえ、公平さがとりえのお巡りさん、どう思います?
私は困りました。しかし、男の私に無いいかにも女性らしい感覚というか考えかたです。なるほど、とも思いました。
男の私にわかるのは、図星をさされたときに人は逆上するということと、警官はよくそれをやって犯人を追い詰めるということくらいです。渡辺さんは冷静のようですね。
公平・公正なジャッジとしては、もう少し渡辺さんの考えと「さがの」の人(たち)の意見を知りたいということです。では、頭を明日の「祝辞」に戻します。

※ じつに単純な図式にしている。自らが語るのではなく、世間話で語るという書き方そのものがいやらしい。自分の意見としてなぜ語れないのか。だがそれは無理なことで、そもそもこの書き手のすべての発言が匿名によるものなのである。「向山晴美」で登場した人物がここでは「向田」とも書かれる。前の93で「向田」とあったのは、「向山」のつもりのようだ。

95.怖さを感じました。 丹綾和代   3月18日(月)12時23分51秒 < 1Cust70.tnt1.sagamihara.jp.fj.da.uu.net>
ちょうど今ごろ、夫・芳春はスピーチをしていることでしょう。在校生としていすに座っている息子や娘たちは、どう聞いているのでしょうか。卒業生の母として列席できなくて、ちょっと残念です。夫はおだてられて「語り」をやってみようと思ったようですが、わたしもおだてた一人ですけれど、案外いけるかもしれません。夫の家系は比較的短命で、平均寿命が63歳なのだそうです。夫は算盤をはじいては、人生の6回の裏だ7回の表だと、野球のスコアボードにたとえて残りの人生の設計をしています。わたしの家系は比較的長生きで、私自身は人生の午前10時10分、時計屋の時計だと思っています。まだまだ私は先を意識しはしませんが、夫は切実に思っているようです。なにができるか、なにが残せるか。夫はそんなことを考えているようです。この2,3日、リンドバーグ夫人のエッセイの本を読んで、次の箇所で、うーん、とうなっていました。

中年というのは、野心の貝殻や、各種の物質的な蓄積の貝殻や、自我の貝殻など、いろいろな貝殻を捨てる時期であるとも考えられる。この段階に達して、我々は、誇りや、見当違いの野心や、仮面や、甲冑を捨てることができるのではないだろうか。競争するのを止めれば、甲冑も必要ではなくなる。それで我々は少なくとも中年になれば、本当に自分であることが許されるかも知れない。そしてそれはなんと大きな自由を我々に約束することだろう。(吉田健一訳・新潮文庫)

本当の自分、本当に自分であるということ、これを求めて、わが夫は、一つには「語り」に挑戦してみようとしているのでしょう。警察官を辞めようと考えたのも、残りの人生を思ったからだと思います。私より長生きしそうな頑丈な身体をしているのですが。

閑話休題。さて、「あしがら朗読サロン」とはパロディみたいで私は気が引けているのですが、皆さんは気に入ったようです。しかし、世の中って、狭いものですね。山田さんが「さがの朗読サロン」を見学していたなんて。私は、いたずらのお便りかなって思っていたんです。嵯峨野は行ったことが無くて、祇王寺とかロケで時代劇によく使われるなんとかというお寺とか、紅葉のトロッコ列車とかのことをテレビで見たことがあって、嵯峨野に行ってみたいとは思っていました。見学できる日を選べるかどうかは分かりませんが、ぜひ行ってみたいと思います。
リンドバーグ夫人の文章をさっき書き写しつつ昨日今日のあたまを整理していて、ふと思ったのですが、渡辺さんて、柔軟なようで、かなり頑ななかたなんですね。最近、2、3度、こわい人だなあって、感じました。ガードを固められたときと、下の「みなさん、いろいろありがとう」の中の批評に関わるあたり、などで。渡辺さんは「価値基準」をもっていらっしゃるから、「批評」になっていて、「価値基準」が無い人や示さない人のそれは「誹謗中傷」なのですね。わかるような気もしますが、でも、怖いなあ。真剣を突きつけられた感じです。
私は、渡辺謙さんの朗読がすきです。謙さんが好きだから好き、という、批評にもならない水準ですが、好きは好きで、どうしようもないものなんですね。個人的な好き嫌いを、いい悪いに置き換えなければいいような気がします。好きだから「良い」、嫌いだから「悪い」、にしがちなのが人の常。私は「好きは好き」でとどまっているから、許されますよね。
そこを踏み出すとき、童話作家のたまごとして言うなら、どうであれば批評ができるのか、批評になるのか。ポイントは、まさにこの一点。どうだから、私の童話が小川未明賞の佳作にもならず、落選となってしまうのか。審査員はほんとうに批評できるのか。
これを考えていて、おぼろげに思ったのは、「価値基準」そのものの正当性なんです。「価値基準」があればいいのではなく、基準になりうる確かさがあること。「価値基準」を具体的には示さないかたたちだって、何らかの基準があるのでしょう。よく読めば、発言はなんらかの基準があってなされているわけで、要は言っていることの正当性がすべてです。
渡辺さんを怖いと感じたのは、もしかしたら、小学2年生のときに感じたあの事件の怖さと通う何かがあるからかもしれません。あさま山荘事件です。批評とか誹謗にからむときの、文章の奥のまなざしに、あのときの言い知れぬ怖さが重なります。
どうか、やさしい渡辺さんでいてくださいね。
まもなく夫が帰ってくるでしょう。ただちに入学式の祝辞を考え始めることでしょう。

※ 下線部分の「こわい人」というのは、ただ単に悪い意味とは思わない。また、たしかにわたしは真剣である。この書き手には一貫して冷やかし気分がある。ほんとに議論するつもりなら、本名と自らの存在を明らかにするべきだ。書き手のM氏にはそのつもりはない。わたしには「批評基準」はある。そこに納得できないなら、「わたしとは関係ない批評だ」と受け流せばいい。だが、いくらかでも自らのよみについて思い当たるところがあれば、受け入れればいいと思っている。批評はわたしの勝手なら、受け入れる受け入れないは受手の勝手である。M氏のように理論を語る立場にある者は論の根拠を示す義務があるだろう。いったいどんなわけで、わたしから「あさま山荘事件」を想像するのか、そのような結びつけも一つの中傷であり感化的な「コトバの魔術」である。リンドバーグ夫人のコトバは書き手自らが自分に引き当てるべきことだろう。

96.春、あしがらサロン、和室で出発です。 丹綾芳春 3月18日(月)16時18分39秒 < 1Cust26.tnt1.sagamihara.jp.fj.da.uu.net>
PTA主催の謝恩会(呼び名が古いです)が終わって、戻って一風呂あびたところです。
山田みつさんが来年度の会長をやってくれるそうで、というか、やりたいそうで、4月の下旬の総会で正式に交代するまでは、あと入学式だけの任務です。まあ、P連の総会もありますし、管理職が変われば、新校長(新教頭)の「お迎え式」が4月1日にありますけれど、事実上はもう終わったようなものです。後任探しがいらない分、本当に気が楽です。
謝恩会の席上、型どおりの挨拶のあと、アドリブでスピーチをしました。斎藤孝さんの論文のこと、渡辺知明さんのその批判論文のこと(Pの役員は皆読んでいました。Tで読んでいたのはたった2人だけでした。先生方って勉強しないのですね。情けないです)、それと、一身上のこと(柔道のこと、退職のこと、「語り」のこと、あしがらサロンのこと、などなど)。
そしたら、サロンと聞いて虎屋さんという薬屋さんが、居候のために作ったプレハブの離れがいらなくなったので、運んでくれるならサロン用に呉れる、と言い、金時運輸さんが町会長で民生委員で、そんならただで運んでやる、といい、民生委員で児童委員でもある西蓮寺さんが、だったら土地を提供するというので、あれよあれよといううちに、西蓮寺さんの空き地にプレハブを置かせていただけることになりました。聞いたら、プレハブといっても、ぺかぺかなやつでなく、茶室付き2間計18.5畳の和室の結構豪華な建物だそうです。運ぶには大きなクレーン車が必要だとのことでしたが、下手なスピーチが思わぬ拾い物をしました。そう、ひょうたんからこまの、「あしがら朗読サロン」の誕生です。私は名称は単に「あしがらサロン」のほうがいいと思うのですが。なにも「さがの」のまねをしなくたって。
/その「さがの朗読サロン」は金儲けサロンでしょうが、「あしがら」は学びあう清貧なサロンです。虎屋さんはなんの「罪滅ぼし」だか、「軍資金は任せろよ。いくらでも出すからな。さんざ悪さした罪滅ぼしだ。地獄にゃ行きたくねえからな。毎晩、地獄の空港に着陸する夢ばかり見て、うなされるからよ、罪滅ぼしに金出させてくれろよな。」とまで言ってくれました。山田みつさんは、「それなら、朗読の専任講師をお呼びしましょうよ。新宿や横浜なんて行かなくていいようにね。」と乗り気です。斎藤孝さんも呼んであの件の真意をたずねてみたいとも思います。そのためにも朗読にこだわらなくてもと思うのですが、朗読はブームだから、と女性たちは言っています。

妻がなにやら失礼なことを書いていたようです。怖い、という感覚は私にはわかりませんが、再録の「死神どんぶら」を聞いた娘(蘭のほうです)の感じたものと似ているなと、ふと、思いました。もしそうなら、表現よみの中に渡辺さんがいて、文章の中に同じ渡辺さんがいる、ということでしょうか。文は人なり、と言います。声も人なり、表現も人なり、なのかな、と、酔いのさめてきた頭でぼんやり考えています。
「さがの朗読サロン」の人たち、美原さんのように、あれだけで終わりなのでしょうか。2、3度は書きついでほしいです。京都のサロンのみなさん、待ってますよ。意見や感想くださいね。そうそう、斎藤孝さんも。斎藤さんは渡辺さんから連絡うけて、あの力作論文読んだでしょうに、だんまり決め込んじゃ、ずるいですよ。誹謗でも、しないよりするほうが、相手にしているだけましです。黙ってないで、価値基準を明示して、反論しなさい。でなければ、脱帽しなさい。逃げたら負けです。

※ どうして、こんなフィクションを書くのだろうか。こんなことを書けば書くほど、わたしはこの書き手を怪しむようになってきたのだ。しかも、二人のキャラクターで組んで、警察官の取り調べの脅し役となだめ役のような役割を果たしている。書き手自身が警察官のような書きぶりをしているのだ。
97.モジモジしてたら「語り」でない? 丹綾和代 3月19日(火)11時22分42秒 < 1Cust247.tnt1.sagamihara.jp.fj.da.uu.net>
「朗読」と「表現よみ」の違いは何度聴きなおしても区別がつきませんでした。説明的な文章のばついちの例でなく、小説を例にしてもう少し長く録音してくださいますか。それと、いっぺんに聴けるようにしてください。一つ一つしか聴けず、うまく聞き比べられないのです。よろしくお願いいたします。ちゃんと聞き分けて、真面目に最終的な判断をしたいと思っていますので。

語りのことで主人とも話し合ったのですが、主人は、「内容は頭にあるけど、心から刻一刻生みつづけていくのが<語り>ではないか」と言っています。昨日の祝辞のスピーチがそうだったからでしょう。校長先生の祝辞を喰って、市長(代理)祝辞も喰って、大好評だったそうです。短かったことと、台本を見なかった(持っていなかった)ことと、準備しぬいたのにそれをなぞらず即興性があったことが良かったのだと思います。「<語り>の秘訣をつかんだようだ」と言っていました。新しい境地でなにかやらかしそうです。で、言っていました。「落語って、やっぱ、語りなんだな。」と。「渡辺さんのは台本どおりだから<語り>ではないよ」とも言っていました。「それに、渡辺さんの音声表現は文字を感じるしさ、あの落語の表現よみも。本職の小さん人間国宝にしても志ん生師匠にしても、文字を聞いてる気がしないよ。音声表現は文字文字(モジモジ)してたらダメなんだろうね。おれ、台本読んだら、モジモジモジモジしちゃうぜ。テレショップのしろうとさんたちみたいに。たぶん、語りやスピーチが性に合ってるんだろうな。どうやらえらい自己発見したみたいだよ。ありがたいね。」

加賀美さんから電話があって、裏声と大声のことを言っていました。「渡辺さんは裏声指導や大声指導を評価されてたみたいだけど、わたし山田さんにそれやってみて、あほかと思ったわ。ま、素人の鍼灸お灸指圧療法みたいなもんで、それでダメときまったもんでもないけど。」
加賀美さんは、私たちのサロンに入りたい人が殺到しているけどどうしよう、ということと、専任講師の希望アンケートをとる、ということを言って、そそくさと電話を切りました。

私、思いがけずいろいろ学んできて、創作同様、朗読も学ぶ価値があると思うようになったのですが、どうも表現よみは、自分にはなじまないなと思うようになりました。
西脇さんの朗読のような、こころにひたひたとはいってきて拡がるような、素直で、透明で、あたたかくて、優しくて、イメージゆたかな表現のほうがいいような気がしてきたのです。渡辺さんのは、なにかやってる、という存在感はあるのですが、心への入り方が小さいように感じるのです。ごめんなさいね。
なんなんでしょう? どうしてなんでしょう?
表現よみが本質的に読み手自身のもので、聴き手のものでないから、かもしれません。西脇さんによれば、読みを聴き手のものにしようとしたら、意外と思われるでしょうけれど、聞かせる意識を捨てないといけないのだそうです。聞かせる意識を、ですよ! 教わったことの受け売りだけど、と笑いながら、西脇さんは言いました。「画家がカンバスに絵の具で写生するように、聴き手の心のカンバスに声という絵の具で絵を描くのよ。ポール・セザンヌのように塗り残しを少しするのね。べたっと全部塗らないの。朗読も同じ。」
西脇さんは、渡辺さんの表現よみをじっと聴いていて、言いました。「聞かせよう聞かせようとしているわね。わたし、カンバス抱えて、塗らないでよ、絵の具つけないでよ、って、逃げたくなっちゃう。蘭ちゃん、いい感受性してるんじゃない? あの子、ほんとうに純真で、純白だから、油絵の具のシミ、付けたくなかったのね。」

丹沢山塊の向こうの富士山は真っ白ですが、ここ足柄にも桜前線が走り抜けて、今ソメイヨシノはどこもかしこも満開です。とおく相模湾がさくらのいろにかすんで見えます。

※ この書き手は「表現よみ」と「朗読」の区別がわからないのではなくて、よみの音声を聞くばかりで、表現された内容を聞く耳がないのだ。ただし、「なにかやってくる、という存在感」というのは、ありがたい評価だ。一般の朗読を聞いたときには、文字づらは浮かぶが、内容はこちらに接近してこない。それがこの書き手には、「西脇さんの朗読のような、こころにひたひたとはいってきて拡がるような、素直で、透明で、あたたかくて、優しくて、イメージゆたかな表現」というように聞こえているのだろう。この書き手は「朗読」は聞き手に伝えることだといいながら「表現」を拒否する。その結果として、音声だけが聞き手に届くようなよみを支持するのだろう。
98.声の「朗読論」アップ 渡辺知明 3月19日(火)17時23分27秒 <h200063.ppp.asahi-net.or.jp>
丹綾和代さん、声の「朗読論」というページをアップしました。
今回のご要望に応えるかもしれません。ただし声はひどいです。
わたしは毎年3月から5月までひどい花粉症で困った状態です。

「朗読」は作品の内容を相手に伝えるというよりも、お互いの中間に
声を停滞させているという気がします。
それに対して、わたしの
表現よみでは相手の内面にまで立ち入ろうとする意志があります。
聞き手が耳障りよく聞き流さずに、なんらかの反応をすることまでも、
期待しています。それが聞かせているという感じなのでしょう。

問題は、読み手の表現が聞き手に対して、うるさく感じられる
という場合ですね。わたしには、白石加代子という人のよみに
(というより演技に)ついては、そのような感じを持ちます。逆に、
いわゆる「朗読」や「音訳」のよみについて、じつに味気ないのだと
いうもの足りなさを感じます。
そのあたりが、意見のちがいという
ことなのでしょう。これからも研究すべきところと思っています。

よみの評価をするときに、むずかしいのは、それぞれのジャンルの基準
があることです。知らぬ間にそれが評価にしみこんでいます。このジャンルは こういう表現なのだとして新たな表現の可能性をふさいでしまうことです。
わたしのよみは「朗読」として評価されることは期待していません。
ですから、ジャンルを越えた「チェーホフ演劇祭」での評価はありがたかった のです。ついでに「怖さ」のことでは、最近、中島義道という人に同感して、 「優しさ」と「思いやり」という社会的な暴力に対しておそれを抱いています。
下記の著書をぜひお読みになることをお薦めいたします。
(中島義道『〈対話〉のない社会―優しさと思いやりが圧殺するもの』PHP新書)

ほんとに、西脇さんのよみを、一度、お聞きしたいのですが、なにか方法は
ありませんか。聞けるような機会がありましたら、ぜひお知らせください。

※ 気のいいわたしは、「声による「朗読論」」として、いわゆる定番の作品の冒頭部分を、朗読ならばこのようになるというよみ方をしてアップした。それは、わたしにとっては苦痛となる感情抜きのよみであった。相手の評価の根本を理解するためには、相手の理想とする「西脇新子(N.S.)」のよみを聞くのがいちばんいいのだが、これも架空の人物だとあとでわかった。
99.朗読? ううん、そうなのかなあ?です。 丹綾和代 3月19日(火)20時08分41秒 < 1Cust103.tnt1.sagamihara.jp.fj.da.uu.net>
声の「朗読論」を開いてみました。機械のせいなのか何なのか、うまく聞けません。「蜘蛛の糸」が最初の1文だけ聞けたのと、「死神どんぶら」が、「起きているのは」まで聞けただけです。しかたなく、この掲示板に戻したら、突然「吾、、、輩は猫で、、、、、ある。名前、、、、、はまだな、、、い。」と、途切れ途切れに聞こえてきて、マウスをさわったら音声が止まって、ガガガガと音がしたかと思うと、「申し上げます、申し上げます。」に変わりました。なんだか混線しているようです。またコンピュータが壊れたのかしら。あれまた「ひどい、ひどい」とつぶやいて、どうやら止まった、よう、です。
どれも冒頭だけみたいですが、渡辺さんは作品をそれぞれ最後まで読まれましたか。声をだしてよいほどに作品を読み込まれましたか。私はクリスチャンなので、太宰の「駆け込み訴え」という作品の、ユダの描かれ方を研究したことがあるんです。文学としてでなく、宗教として。ずいぶん前、九州のとある教会でのこと。そうそう、そこの牧師さんの奥さん、紅白に2回も出られた歌手だったのだそうです。どういう字か忘れてしまいましたが、芸名は「ほんだるつこ」さんというかたです。ルツって、聖書では、ここに書けないようないけない女性なのですが、なぜか信徒の娘さんに多い名前です。奥さんのるつこさんは、ざわわざわわの森山良子なんかと較べられないほど透明な美しいお声をされていて、私たちに賛美歌を歌ってくださいました。いっぺんですっかりフアンになりました。引退された歌手のフアンだなんて、変ですね。
そのるつこさんたちと、「駆け込み訴え」をそのとき論じたんです。いったいユダは、だれに訴えているの? 訴えが通ると思っているの? イエスを(キリストではなく、イエスです。復活してキリストなのですから。生身のあのかたはイエスなのです。そのイエスを)憎いといっているけど、演技?本心? 本心ならどのくらいの思いの重さがあるの? だいたい太宰はどれくらいキリスト教がわかっているの? などと、それこそかんかんがくがく、たいへんでした。
あれ以来、一人でほそぼそと太宰とキリスト教の関連を調べているのですが、そういう私に渡辺さんの「駆け込み訴え」は、(ああ、うそだ、違う、ユダはそんなんじゃない)って思えました。ごめんなさいね。

私は「駆け込み訴え」は男の一人語りだからやれないけれど、演出ならやれる気がします。渡辺さんは、演出がないのに、演出ありげですが、なにか、それで、もってまわった感じが濃厚にただよっているのでしょう。渡辺さんは、「朗読」とは、そういういやらしいものだ、そういうクサイものなのだ、と論じられているのかもしれませんが、朗読って、そういうものではない気がします。変な朗読を示して、こういうの変でしょ?っておっしゃりたいのかもしれませんが、そういう朗読って、これまでどこにもなかったという気がしてなりません。

今度ちゃんと聞いて、また書きます。
「あしがら朗読サロン」は、4月23日、子ども読書の日だそうですが、いよいよ発足です。10月か12月に、ささやかな朗読会を開きます。西脇さん、そのときなら、渡辺さんに聞いていただきたいと言っています。

※ わたしが冒頭だけを録音したことについての批評には一理ある。ただし、どんな部分でも表現することは可能だ。この書き手は、もっぱら黙読によって作品を読みこんで解釈する作業に大きな価値を置いている。だが、声の表現によってよみとった内容と、声の表現のない黙読でよみとった内容にはちがいがある。そこにこそ、音声化による作品の解釈の根本的な重要性がある。その点については一貫して拒否し続け、自らの主張の根拠に経験としての作品研究を持ち出すのである。ユダの歴史的な解釈をそのまま作品の表現に持ってくるところなど、過去の文学研究によりかかった古さがある。ただし、わたしがいわゆる「朗読」として、よりよくないよみを意識した点は確かである。本田路津子(?)の声は、わたしも知っているが、その声の評価については異論がある。
100.朗読も表現よみも基本がなっていません。 西脇新子   3月19日(火)23時10分46秒 <1Cust192.tnt1.sagamihara.jp.fj.da.uu.net>
なおったから聞けるわよと和代さんから御電話いただいて、それなら<声の「朗読論」>を聞かせていただこうとおじゃまさせていただいております
知っている作品だけ聞かせていただきました。
以下、私のささやかな感想です。朗読者のひとりとしての単純な所感です。渡辺さんが、こういうのが朗読ですよと、わざと悪い例をなさっているようですが、それでも、読みの実力があらわになっています。それを書きます。

・助詞を立ててはいけません。
   西洋人<ばかり>  (一房の葡萄)
 ここは、目で読むとき「西洋人」が強調してあると分かるために「ばかり」が付けられてあるの です。そこで、声を出すときは、「ばかり」を弱めて、強調されている当の「西洋人」をやや強めるのが基礎的な表現方法です。ご存じなかったのですか。ここは、
   <西洋人>ばかり
 としてください。     <>内が強調
・意味が弱められている抽象語を立ててはいけません。
   ある日の<こと>でございます。
 耳に、<こと>がムダに残リます。ここは、
   <ある日の>ことでございます。
 とすべきです。
・やたらとのどに力が入っていますね。強く押しつぶしたような重く濁った音が頻発しています。 たとえば、<イ>ケノオデの<イ>などです。聞いていて疲れます。
・どれもテンポが一定です。眠くなります。
・声の色が一色です。
・全部、声が文字に聞こえます。生きたコトバになっていません。
・樋口一葉の作品は、男が語っているようでした。
・何を聞いても私には同じにしかきこえませんでした。

朗読とはこういうイヤな読みだ、一方、表現よみはいい読みだ、という、比較材料のようですが、これらは、表現以前の、基礎のなってない読みとして、どの朗読サロンでも批判されるでしょう。
読み手が同じですから、別コーナーに表現よみとして収録されているものも、ここに挙げたような基本的な読みのミスが目立ちます。私には、これらの<朗読>も「表現よみ」も、ほとんど同じに聞こえます。表現になっていないという点で、ただの音読だと思いました。
酷評になってしまいましたが、「朗読」のためです。お許しください。

和代追記
西脇さんが表現に厳しい人だと初めて知りました。穏かで、確かな読みのかげに、こんな厳しさがあったのですね。

※ いよいよここから、わたしのよみについて「西脇新子(NS)」の徹底的な批判がはじまる。しかし、第一次の掲示板事件のときのような荒っぽいものではなく、細かい指摘をしている。これまでの書き手とはちがう別の人物の見解を取り入れているように思える。書き手がだれかと相談しながら批判をしているようだ。問題の指摘はすべて音声学的なレベルのことであるが、正直いって、わたしは音声的な角度については知識が少ないのでずいぶん参考になった。ただし、まったくの音声学の基礎を絶対のものとしているので、作品の表現に対して柔軟な姿勢がとれない立場の批判である。わたしの「声の「朗読論」」について「ただの音読だ」と認めるだけの耳はあるが、ほかのわたしのよみについて同じとするのは、意地を張って拒否しているとしか思えない。その場合でも、議論を発展させるための条件は、この書き手がよしとする理想のよみがどのようなものか示すことである。樋口一葉について「男が……」には、作者が女だから女の声で語るべきだというまちがった「語り手」論がありそうだ。
101.細かいご指摘に感謝! 渡辺知明 3月20日(水)09時23分46秒 < h202054.ppp.asahi-net.or.jp>
 西脇新子さん、ご批評ありがとうございます。ここまで具体的にご指摘くだされば、わたしも納得がいきます。ただしタイトルは気になりました。丹綾さんの代筆なのですか。「朗読も表現よみも基本がなっていません」は感化的表現で相手の感情を刺激する表現で、論理的にもまずいと思います。誘拐犯人を見た子どもが「おとなは怖い」とおとな全体について判断をするようないい方です。また「読みの実力」とは何か、ということについても論じたいところですが、今回は置いておきます。

 もしかして、西脇さんは「音訳」の講習などを受けられた方ですか。わたし自身は、著書に書きましたが、表現よみは、もとは言語表現能力の向上のためのひとつの訓練方法として始まったものです。アクセントや方言の訛などは、本質的なことではないとして、後回しにしてきました。わたし自身もそうでした。ですから、人前で完成したよみとして発表するために、こうして的確な批評をいただけることはとてもありがたいことです。なにしろ、人のよみを緊張して聞くこと自体たいへんななことですから……。花粉症の声のことを差し引いてお聞きくださったことありがたく思います。

・西洋人<ばかり>(一房の葡萄)――納得です。
・ある日の<こと>でございます。――これも納得。
・やたらとのどに力が入っていますね――花粉症の呼吸困難か?

 以下の項目は、わたしが意図した表現ですが、そのあとにお書きになった「<朗読>も「表現よみ」も、ほとんど同じに聞こえます。」というのは残念です。

 ひとつ、西脇さんにお伺いしたいことがあります。一般的には、アクセントは基本的なものが固定されていると思います。しかし、「山月記」には「……(し)なかった」という表現があるのですが、普通はこれは平板になりますね。しかし、わたしはこれが繰り返されたとき、2度目のアクセントを「しナかった」と「な」をあげて表現しました。わたしは、あちこちでこういうことをよくするのですが、このような場合、西脇さんは、アクセントの移動させることがありますか。

「己(おれ)は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることを(1)しなかった。かといって、又、己は俗物の間に伍することも潔しと(2)しなかった。」(山月記)

もうひとつ「元文三年(げんぶんさんねん)」(最後の一句)も、わたしは普通は「げんぶんサんねん」と読んでいます。そうすると、講談調になるのですが、そんな読みをしてはいけませんか。

※ 「朗読も表現よみも基本がなっていません」というタイトルは、わたしを攻撃するためのものであり、わたしの反応を十分に予想して書かれたものだ。わたしがあえて質問したのは、この書き手に音声表現の基本を絶対化する考えがあると思えたからだ。アクセントをとりあげたのも、音声表現の原則が表現において破られることを考えてもらいたかったからだ。また、この正体不明の人物をすでにわたしは疑い始めていたので、いったいどのような経歴をもつ人物なのか知りたかった。「ばかり」については、前の書き込みで当人も「基本」といっているように、前の名詞よりも「ばかり」を強めるべき場合もある。声の表現は作品の内容の表現という目的によって変わるのである。
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