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文学作品を文章の表現にしたがって正確に読んで理解することは、なかなかむずかしいことである。日本語で書かれた作品についてもそうであるが、まして翻訳された外国の作品であればなおさらである。
わたしは大学生になってから文学に近づき、いつの間にかチェーホフ好きになっていたので、原語で作品を読むことなど思いもしなかった。四十代も半ばをすぎた今になって、ロシア語が読めたらいいと思うこともある。しかし、日本語でさえ思うように読み書きできないのだから、翻訳は専門家にまかせて作品そのものを楽しませてもらおうという虫のいい考えになっている。
わたしは「桜の園」をこれまで何度も読んできたし、日本人の演ずる舞台も見ているが、なかなか作品の世界がすっきりわかるところまでいかなかった。まして感動を味わうことなどなかった。おそらく、理解能力の不足や、チェーホフの戯曲についての勘ちがいや、読みこみの浅さなどが原因だったのであろう。
ところが、昨年十一月から今年にかけて、「桜の園」を読みなおして、これまでにない感動を味わうことができたのである。とくに、三月に刊行された小野理子の新訳には大いにたすけられた気がする。そして、今では、わたしがこれまでに読んだ訳のなかでいちばんいいものだと思っている。
だれもが「桜の園」を読んで、まずひっかかるのは、タイトルの下につけられた「四幕の喜劇」という文字である。たしかに笑いを呼ぶような場面はいくつもあるのだが、全体を通じて「喜劇」なのだといわれると首をひねりたくなる。
この点については、モスクワ芸術座での初演から、チェーホフと演出家スタニスラフスキイの意見が対立した経緯はよく知られている。一応、両者の合意が成立して上演となったが、チェーホフは戯曲に書かれたことが理解されないことが不満であった。本国でさえこんな事情であるのだから、日本で翻訳を通じて通じて読まれる場合、その内容がなかなか理解できないのも無理ないことかもしれない。
たしかに、主人公とされるラネーフスカヤ夫人の悲劇も角度を変えてみれば喜劇ととれないこともない気がする。だが、「桜の園」は、なぜ喜劇なのかという謎解きのような関心からは読みたくない。もっと素朴に直接に作品の魅力を味わえないだろうか。そんな思いを、わたしは以前から抱いていたのである。
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わたしが初めて読んだのは、中央公論社の全集に収められた神西清訳だったと思う。その後、筑摩書房の選集の松下裕訳で読んだ。これは後に、文庫版全集の個人訳の仕事としてまとまった。ほかにも、いくつかの訳も読んだが、松下裕訳は、ほかの作品を読んでも、こなれた日本語の美しさの感じられるものである。
小野理子訳と出会ったのは、わたしの何度目かの「桜の園」の読みなおしの直後のことであった。半年ほど前、ある読書会で、新潮文庫の神西訳をテキストに「桜の園」をとりあげた。わたしは松下裕訳を中心に、神西清訳を参考にして読んだ。
それから数か月して、ちょうど岩波文庫の一冊として刊行された小野理子訳をもう一度読みなおすことになった。そして、目の覚めるような思いをしたのである。それは作品がわかるというような段階をこえて、感動に近いものであった。
直前におぼろげに感じていたものが、よりはっきりしたとも言えそうだが、小野理子訳のテキストなしには、到達できない理解があったとわたしは確信している。
まず第一に、今回の読みかえしで、わたし自身の読み方の変化を感じた。これまで、万年大学生であるトロフィーモフを自分の寄り添うべき人物と見定めて読んでいたことに気づいた。かつて感動したトロフィーモフのセリフに、以前のような手ばなしの賛同は感じなくなっていた。そのかわりに、「桜の園」の買い手となる実業家ロパーヒンの重要な位置が、その人物の気持とともに理解できた気がする。
文学作品を読むとき、作者がどの人物に肩入れしているのか、どの人物を否定的な形象として描こうとしているのかというような割り切りをしがちである。ところが、チェーホフの作品には、そのような読み方を拒むものがある。登場人物のすべてが「相対化」されているのである。だが、それは軽い安易な評価の転換ではない。ひとりひとりの人物の人生の重みを前提とした相対化なのである。
この戯曲の主人公は、桜の園の所有者で、それを手放すことになるラネーフスカヤ夫人だと考えられる。そのために、もっぱら夫人を軸とした運命の悲劇として読みがちであるが、わたしはロパーヒンをもう一つの軸として読むことで、この作品全体の「喜劇」の意味がわかるような気がした。
あとで、二〇ページにわたる力のこもった訳者の「解説」を読んだとき、ロパーヒンを中心にすえた見事な作品説明が書かれているのを発見した。そのような作品への深い理解も、訳者の翻訳を支える力になっているにちがいない。
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わたしの小野理子訳への感動が、どこからくるのか。それを作品の表現によって証明するとなると、たいへんなことになりそうである。ほかの人たちの訳と比較しながら検討して結論づける実証的な研究が必要になるだろう。それは、そうかんたんにできることではない。ここで今できるのは、わたしの実感を証明するいくつかの例をとりあげるくらいのことである。
わたしの記憶にあざやかなのは、「解説」から感じとれた翻訳への思いである。この仕事にかかるまで訳者が抱いていたと思われるこれまでの訳への歯がゆい思いが強く感じられた。訳者は「解説」で、これまでに米川正夫、湯浅芳子の訳をはじめとして「ほかにも五指にあまる翻訳」があることを述べたあとで次のように書いている。(傍線は訳者。原文は傍点)
「ではなぜ私ごときがさらに一つを加えようとするかというと、それは、この芝居のせりふのやりとりの面白さ――時にはほろ苦く、時に深刻に、しかし一貫して滑稽味を失わない会話の味わい――を、どうにかしてそれらしいリズムのある日本語にうつすことはできないか、と考えたためである。」
わたしは訳者のこの意図がほぼ完璧に実現されたと思っている。ついでにいうなら、巻頭の凡例には、「人名表記」をさまざまに変化させずに、「できるだけ短く、なるべく一つに」すると書かれている。ラネーフスカヤ夫人の愛称を使わないことを例にして、「この呼び方にこめられる敬愛の情は、日本語の場合、全体の言葉づかいによって表現しうるからである。」と理由づける。これも訳者の決意と翻訳の内容への自信の現われである。
わたしが小野理子訳を読みはじめたとき、まず感じたのは、一人ひとりの人物がすべて生き生きしているという印象であった。数か月前に複数の訳者の訳を読み比べて作品を読んだあとである。ふつうなら、同じ作品を続けて読めば、読み方もあらくなるし、感動も鈍くなるものである。ところが、一人一人の人物との出会いがまったく新鮮に感じられたのである。あえて言うなら、書きかえられた新しい作品を読むような感じすらしたのである。
その感じ方が確かなものだとしたら、戯曲は人物の会話のやりとりで展開されるものであるから、会話の一つひとつの訳に秘密があるにちがいない。中心人物について、会話の表現の秘密をさぐることによってあきらかになるであろう。しかし、たとえ会話の少ない人物であってもその表現の効果をうかがうことができる。事務員エピホードフ、従僕ヤーシュの短い会話の表現も印象的である。
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ここで一例として、冒頭のロパーヒンとドゥニューシャとのやりとりの訳し方をほかの翻訳と比較してみよう。さほど重要でないような会話からも、小野理子訳の特徴を読みとれるだろう。
舞台は一九世紀末のロシア、ラネーフスカヤ夫人の領地である。フランスから帰国した夫人のもとに、領地が競売にかけられる話がとどくのだが、夫人はそんなことは気にせず日々の暮らしを続けている。ロパーヒンは今は実業家だが、父親はこの家にかつて出入りしていた百姓あがりの雑貨屋であった。
第一幕は、ロパーヒンが小間使いのドゥニャーシャといっしょに登場するところからはじまる。ロパーヒンは前夜からこの家に来て、帰宅するラネーフスカヤ夫人たちを待っていたが、椅子にかけているうちに寝過ごしてしまった。ドゥニャーシャは手にろうそくを持ち、ロパーヒンは手に本を持って登場する。
まずは、神西訳である。
ロパーヒン やっと汽車がついた。やれやれ。なん時だね?
ドゥニャーシャ まもなく二時。(蝋燭を吹き消して)もう明るいですわ。
次は、松下訳。
ロパーヒン 汽車が着いたな、ありがたいことに。なん時だね。
ドゥニャーシャ そろそろ二時です。(ろうそくを消す)もう明るいわ。
そして、小野訳。
ロパーヒン やれやれ、列車が着いたな。何時だ?
ドゥニャーシャ もうすぐ二時ですわ。(ろうそくを消す)明るくなりました。
ロパーヒンのセリフでは、松下訳の「ありがたいことに」が目立つ。ほかの二人の「やれやれ」には苦労したというマイナス面の強調があるが、松下訳には感謝のニュアンスがある。また、小野訳の「列車」は、「汽車」という動力よりも客車がイメージされる感じだ。このあたりにも小野理子訳の新しさが感じられる。
次のドゥニャーシャのセリフでは、時刻の前につけられた副詞は三人三様の訳しかたである。その印象から、二時に近い順に訳語をあげると、「もうすぐ(小野)」、「まもなく(神西)」「そろそろ(松下)」となるだろう。この差は、読者にドゥニャーシャの心理のちがいとして受けとられるはずである。
ドゥニャーシャのロパーヒンに対する態度を示すのは、後半のことばである。訳のちがいによって、親しさや敬意の表現にちがいが出てくる。もっとも客観的な立場にあるのが「明るくなりました(小野)」であろう。「もう明るいですわ(神西)」には、ロパーヒンを意識した語りかけに敬意の表現が加わったセリフになっている。「もう明るいわ(松下)」では、これがドゥニャーシャのつぶやきなのか、あるいはロパーヒンに向かって親密さのある語りかけなのか判断に迷うところがある。
複数の訳者による翻訳の仕方を比較してみると、根本的には文学作品の理解、つまり作品のテーマと人物の心情や心理の理解が翻訳を決定することがよくわかる。
こんな調子で一つ一つのセリフを読んでいったら、たいへんな時間がかかるわけだが、わたしたちは実際の読みにおいて、多かれ少なかれこのような吟味と検討をくわえながら読んでいるのである。外国文学の翻訳とは、以上のようなセリフの一つ一つの内容を日本語に変換するだけでなく、作品の内容を構成するというたいへんな作業である。だからこそ、その作業に文学としての表現の価値が生まれるわけである。
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小野理子訳のもう一つの魅力は、研究者としての成果が翻訳の文章に生かされていることであろう。この本には、見開きページの左隅に、全体で四〇項目ほどの訳注がつけられている。そこから、翻訳の作業がいかに広く、社会と人間と時代のかかわりを視野にいれるべきかが明らかになる。
その一例として、「桜の園」の象徴となる「桜」の描写を小野理子は次のように訳している。かつてわたしが手ばなしで感動したトロフィーモフのセリフである。二つめの文に注目して読んでほしい。
トロフィーモフ いいですか、アーニャさん、あなたのおじいさん、ひいおじいさん、代々の御先祖は皆、生きた人間を所有してきた農奴主でした。園の桜の実の一つ一つ、葉の一枚一枚、幹の一本一本から、人間の目があなたを見ていませんか、声が聞こえはしませんか? 人間を所有する――この事実があなたがたみんなの、過去にいた人、現在いる人みんなの、人格を変えてしまった。その結果、お母さまもあなたもおじさんも、自分たちが負債をしょって生きていること、あなたがたが控えの間より奥へ通しもしないその人たちの、稼ぎによって生きていることに、気づいていないのです。(第二幕)
「桜」の部分を、ほかの二人の訳者と比較してみよう。小野理子訳の目のイメージは明確であるうえに、声に出して読んでみると、簡潔なセリフの音声表現の効果もわかることと思う。
で、どうです、この庭の桜の一つ一つから、その葉の一枚一枚から、その幹の一本一本から、人間の眼があなたを見ていはしませんか、その声があなたには聞えませんか?……(神西清訳)
だから、庭の桜の木の一本一本、葉っぱの一枚一枚、幹の一つ一つから、人間の眼がこちら見つめているとは思わないか、彼らの声が聞こえてきはしないか……。(松下裕訳)
「桜の実」の訳語について、注釈では原語の検討を根拠にして「サクランボは二つずつ並んで濃い赤色に熟し、樹上から睨む眼にふさわし」いことが指摘されている。
もうひとつの例として、ロパーヒンの次のセリフに関する注釈を上げておこう。
ロパーヒン 外は十月だが、陽が射して、穏やかで、夏のようだ。普請でもできるほどだよ。
これまで宇野重吉などの演出家は「なぜここで普請とか建築とかの話がでるのか」と悩まされたそうだ。それに対して、訳者は次のような注釈を加えている。
「寒冷地のロシアでは、土台のセメントなどが凍結する恐れのある十月から四月まで、普請ごとはしない。しかし今年の天気ならまだいろいろ工事だってできたんだと働き者のロパーヒンは、ここでぐずぐずしている自分が少々口惜しくて、この台詞になったのだろう。」
この二つはとくにわたしの目についた例であるが、どの注釈からも作品に対する訳者の愛情が感じられる。というよりも、翻訳も文学の行為である。文章の表現を磨き上げていくことは、文学という行為には不可欠の要素なのである。
この新訳のおかげで、わたしがこれまで親しんできたチェーホフ「桜の園」の世界がいっそう深まりを増したと思っている。
(チェーホフ/小野理子訳『桜の園』1998年3月。岩波書店)(『民主文学』1998年12月号所収)
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