川端康成と「伊豆の踊り子」

1. 略年譜

 

 

一八九九年

(明治三十二年)

大阪市北区此花町に、父川端栄吉、母ゲンの長男として生まれる。

一九二○年

東京帝国大学文学部英文科に入学し、学生時代に今東光らと第六次「新思潮」発刊する。

一九二四年

卒業後、横光利一と「文芸時代」を創刊。

「新感覚派」とよばれる。

一九二六年

(27歳)

『伊豆の踊子』を発表

一九三七年

『雪国』を刊行

一九四八年

49歳)

日本ペンクラブ第四代会長に就任

一九六八年

ノーベル文学賞を受賞。

 

一九七二年

 (72歳)

仕事部屋にてガス自殺。鎌倉霊園に埋葬される。

 


 

2.幼年時代

氏の年譜で特筆すべきは、幼年時代に降りかかる身内の死。

二歳のときに父を、三歳の時には、母を失ってしまい、姉芳子とふたりきりになってしまいます。氏は、大阪府三島郡豊里村の母の実家に引き取られ、姉は伯母の家に預けられます。氏が七歳のとき祖母が死に、十歳のときに生き別れになった姉が亡くなってしまいます。以後祖父と二人暮しを続けましたが、十六歳のとき祖父が亡くなって、とうとう天涯孤独な孤児となってしまいます。

 


 

 

3.孤児根性

氏のいう「孤児根性」とは、世間一般ですぐに想像される「性格上のひねくれや陰気さ」ではなくいようです。

氏は悲しみ方を知らない幼年時代から数多くの「身内の死(血縁の強い人たちから)」に接し、彼独特の「生死観」を抱くようになります。

氏の初期の小説に『葬式の名人』があり、その中で

「・・・・・・生前私に縁遠い人の葬式であればあるだけ、私は自分の記憶と連れ立って墓場に行き、記憶にむかって合掌しながら焼香するような気持ちになる。だから少年の私が見も知らぬ人の葬式にその場にふさわしい表情をしていたにしてもいつわりでなく、身に負うている寂しさの機を得ての表われである。」

この「身に負うている寂しさ」が、言わば「孤児の感情」なのです。それは後々までも、氏の文学の一つの根となっています。

 

 


 

4.「旅情が身についた」

修善寺の「湯川橋」で踊子たちを遭い、「私」は「旅情が身についた」と感じます。

彼は自分自身の不幸な生い立ちによってゆがんだ人間になったという「自己嫌悪」と、そのような境遇に甘える「自己憐憫」という二つの「精神的疾患」の治癒を願って伊豆の旅に出かけます。その旅のはじめに踊子たちと出会います。「孤児根性」から脱け出すことができるかもしれないという明るい喜びの予感が、踊子たちを振り返るたびに沸々とこみ上げてきたのでしょう。

『湯ヶ島での思ひ出』でも、旅芸人との出会いのくだりの書出しに、同じ言葉が使われています。

 「温泉場から温泉場へ流して歩く旅芸人は年と共に減ってゆくようで、私の湯ヶ島の思い出は、この旅芸人で始まる。初めての伊豆の旅は、美しい踊子が彗星で修善寺から下田までの風物がその尾のように、私の記憶に光り流れている。一高の二年に進んだばかりの秋半ばで、上京してから初めての旅らしい旅であった。修善寺に一夜泊まって、下田街道を湯ヶ島に歩く途中、湯川橋を過ぎたあたりで、三人の娘旅芸人に行き遇った。修善寺に行くのである。太鼓をさげた踊子が遠くから目立っていた。私は振り返り振り返り眺めて、旅情が身についたと思った。」

 


 

5.「いい人はいいね」

「私」は「自分がいい人に見えることは、言いようなくありがたい」と思います。

もうすこし詳しく「私」の心情を「湯ヶ島の思ひ出」で述べています。

「旅情と、また大阪平野の田舎しか知らない私に、伊豆の風光とが、私の心をゆるめた。そして伊豆の踊子に会った。いわゆる旅芸人根性などとは似もつかない、野の匂いがある正直な好意を私は見せられた。いい人だと、踊子が言って、兄嫁が肯(うべな)った一言が、私の心にぽたりと清々しく落ちかかった。いい人かと思った。そうだ、いい人だと自分に答えた。平俗な意味での、いい人という言葉が、私には明りであった。湯ヶ野から下田まで、自分でもいい人として道連れになれたと思う、そうなれたことがうれしかった。」

 


 

6.物ごい旅芸人村に入るべからず

小説中には、旅芸人が卑しまれた職業であることを示す表現がちりばめられています。

「お客があればあり次第、どこにだって泊まるんでございますよ。今夜の宿のあてなんぞございますものか。」という天城峠の茶店の婆さん。

「あんな者にご飯を出すのはもったいない」という宿のおかみさん。

そして「物ごい旅芸人村に入るべからず」という立て札。

旅芸人に対する世間の偏見が強ければつよいほど、「私」がいかに「いい人」であるかが際立ってきます。

しかし「私」は声高かに差別に対して反論したりしません。

山本健吉氏の評論によると、

「そのような立て札は、本当は村々の貧しさをも物語っているが、その反面の真実はここでは切り棄てられる。村々から拒まれた「物乞い旅芸人」の世界のあわれさが、ここでは抒情の種になる。

 


 

7.「いいえ、今人に別れて来たんです。」

私」は船の中で、同室の少年のマントの中にもぐり込んで泣きます。

氏は「私が二十歳の時、旅芸人と五、六日の旅をして、純情になり、別れて涙を流したのも、あながち踊子に対する感傷ばかりではなかった。」と言っています。

私」は、自分をゆがんだ人間、小さな殻に閉じ籠ったいじけた人間と自己嫌悪すると同時し、少年らしく甘えている感傷を抱えていました。

そんな「私」は、伊豆の旅で人の好意にふれ、「こんな人間の私に対しても」と、「ありがたい」と感じます。

感傷の誇張が多分にあると気づいて来た。長い病人でいたほどでもないと思うようになったのである。これは私によろこびであった。私がそれを気づいたのは、人々が私に示してくれた好意と信頼とのお蔭である。これはどうしてと私は自分をかえりみた。それと同時に私は暗いところを脱出したことになったのである。私は前よりも自由にすなおに歩ける広場へ出た。」と氏は述懐しています。

下田の宿の窓敷居でも、汽船の中でも、いい人と踊子に言われた満足と、いい人と言った踊子に対する好感とで、こころよい涙を流したのである。今から思えば夢のようである。幼いことである。」(「湯ヶ島の思ひ出」より)

 


 

8.「伊豆の踊子」の創作動機

 氏が 「伊豆の踊子」を書いたのは大正十五年ですが、その原型となっているのは大正十一年に書かれた「湯ヶ島の思ひ出」です。

その内容の大部分は、茨城中学の寄宿舎で同室していた清野少年に対する同性愛の思い出で占められ、その残りが踊子との思い出です。

大正十一年は氏にとってどのような年だったのでしょうか。

その前年、氏が二十三歳のとき、あるカフェの女給をしていた十六歳の少女と恋愛をし、菊池寛の好意で家も生活費も手に入れ、まさに同棲生活の準備の整った直前に、相手の不可解な心変りで、あっけなく、わけも分らず別れてしまいます。『湯ヶ島での思い出』を書いた頃は、その恋愛が破局に到った直後の、心にもっとも打撃を負っていた時で少年時代の同性愛の相手や、ほのぼのとした愛情を掻き立てた伊豆の踊子を思い出すことで、心の傷をいやそうとしているようです。

 氏は『全集』第二巻のあとがきに以下のとおり書いています。

「『伊豆の踊子』でも『雪国』でも、私は愛惰に対する感謝を持って書いている。『伊豆の踊子』はそれがすなおに現われている。『雪国』では少し深く入って、つらく現れている。」

と、作者のモチーフの根底に、他者への無私の感謝をひそめていたことを、作者自身告白しています。

 


 

 

9.「伊豆の踊子」の作者であること

 

作者は次のように述べています。

 

「伊豆の踊子」の作者であることを、幸運と思うのが素直であるとは、よくわかっている。それになにか言うのはひがごころであろう。
「伊豆の踊子」のように「愛される作品」は、作家の生涯に望んでも得られるとはかぎらない。作家の質や才だけでは与えられない。「伊豆の踊子」の場合は、旅芸人とのめぐりあいが、私にこれを産ませてくれた。私が伊豆に旅をし、旅芸人が伊豆に旅をしていて、そしてめぐりあった。このめぐりあいが必然であったか、偶然であったか、この問いかけは人間の刻々の生存に問いかけるのにひとしく、人間の一生に問いかけるのにひとしく、私の答えは定まらない。偶然であって、必然であったとしてもいい。しかし、私が「伊豆の踊子」を書いたことによって、そのめぐりあいが必然のことであったかのような思いは、私に強まって来てはいないだろうか。「伊豆の踊子」の作者とされ続けての四十年が、私にそういう風に働きかけてはいないだろうか。

 

 「伊豆の踊子」は私には稀なモデル小説である。「雪国」もモデル小説とされているようで、作者がそれを頭から否定するのはまちがいであろうが、私はモデル小説とは思っていないところがある。少くとも「伊豆の踊子」のようなモデル小説ではない。

 

「伊豆の踊子」では「雪国」ほど、モデルにたいしておのれをむなしゅうはしていない。


「伊豆の踊子」よりもなおモデルに忠実な私の小説に「名人」がある。これこそ私が見たまま感じたままの忠実な写生にもとづいている。「名人」では作者は首尾観察者、記録者であって、おのれをまったくむなしゅうしているかのようである。したがって「名人」の「私」を私として論じた評家はほとんどない。それを最も論じてくれたのは胡蘭成氏であろうか。「一中国人が川端文学をかう読む」と題する、原稿紙二十四枚におよぶ随想をおくられたのは、三月ほど前であった。「伊豆の踊子」、「名人」、「雪国」にも言及されているが、作者の「私」がおのれをむなしゅうすることに、東洋の風を見るという。
 しかし、私は胡蘭成氏の見解にあまえるわけではなく、小説家としての私の資質に疑いは絶えないのであって、「伊豆の踊子」、「雪国」などの作品の運のよさの、羞恥、苦渋にさいなまれがちである。齢七十になって、四十年前の「伊豆の踊子」を断ち切ろうとしてもゆるされないのみか、この小篇からいまだにすくなからぬ恩恵を受けつづけていることは否めない。見知らぬ読者から、「伊豆の踊子」の踊子の墓はどこにあるかと問われたりすると、天城越えの道はすでに長年「伊豆の踊子」の歌枕になっていることも思われて、よろこびやなぐさめとは逆の感情に沈みこむのは、私がなにかの恩を知らないでさからうことなのだろうか。

(「一草一花」より)