山吹の里(六浦・米倉陣屋跡)
室町時代の中頃、大田道潅が金沢山で鷹狩りをした帰りに六浦の里を通 ったとき、にわか雨にあい、近くの農家に立ち寄り蓑笠を貸してくれるよ うに頼みました。 すると娘が出てきて無言のまま黄色く咲いた山吹の一枝を差し出しまし た。道潅はその意味がわからず“花を求めたのではない”とけげんな気持 ちで帰館し、ことの次第を家臣に話したところ、 それは “七重八重、花は咲けども山吹の、実の(蓑)一つだになきぞ悲しき” という古歌で返答したのだと教えられました。 山吹は美しい花が咲いても実はつきません。娘は「家が貧しくてお貸しす る蓑さえもございません」と古歌(*)にたとえて断ったのでした。 *後拾遺集 卷十九所蔵 兼明親王作 道潅は自分の無学を恥じ、以来歌道に志し、ついに歌人として名をなした といわれます。 |
ー太田道潅とかねさはー 道潅と金沢の関わりについては古くからいくつかのことが伝えられてい ます。 道潅は金沢称名寺の西湖梅を江戸城内に移植したり、金沢文庫で行われ た孔子のお祭りに和歌一首をお供えしています。 また現在金沢文庫にある躬恒集(みつねしゅう、和歌の本)を道潅が所有 し連歌師の宗祇に貸したことがあったと伝えられています。 また称名寺の記録によると、文明16年(1484)9月に六浦に道潅の 使者が来ており、薬王寺裏の称名寺墓地は昔は道潅畑とよばれるなど金沢 と道潅は深い関わりがあったようです。さらに道潅は州崎の龍華寺の檀那 となり寺の修理したと同寺の縁起に記されており、道潅が寄進したと伝え られる「不動明王画像」も残っています。 山吹の里の地は六浦の上行寺裏山や龍華寺付近、あるいは瀬戸の米倉陣 屋のあったお屋敷とよばれる谷戸など諸説があります。 |