源平の戦い


 源氏と平家の戦いの様子は源平盛衰記や平家物語によって広く伝えられていますが、ここでは源頼朝挙兵以来の源平の合戦を年月順に簡単にまとめてみました。

1180(治承4)年5月 頼朝の挙兵

 
以仁王の平氏討伐の令旨をいただき諸国の源氏が兵を挙げました。
 伊豆に流されていた源頼朝も北条氏などを従えて石橋山に兵を進めますが大庭景親の大軍の反撃に敗れ,箱根の山々から房州に逃れました。

 頼朝が兵を挙げたことが知れると八幡太郎義家以来の源氏に恩義を感じている関東武者が頼朝の下に集まり,たちまち数万の大軍となって鎌倉に入り、以後頼朝は鎌倉を本拠として戦いの指揮をとります。

1180(治承4)年10月 富士川の戦い

 平清盛は頼朝挙兵の知らせを聞くと孫の維盛を大将として征伐に向かわせます。関東武士団を率いる頼朝の軍と平家の大軍が富士川をはさんで相対しますが,付近の沼からいっせいに飛び立った数万羽の水鳥の音に驚き,平家軍は都をさして敗走しました。

 頼朝はまづ東国の平定が先であると考え,追跡せずに黄瀬川に引き上げます。奥州衣川から駆けつけた弟の義経と涙の対面をしたのはこの時です。


1183(寿永2)年7月 木曽義仲の入京

 以仁王の令旨を受けた源義仲(木曾義仲)の軍が木曾福島を立って京都を目指し,加賀と越中の境にある砺波山に達した時,平維盛の大軍と倶利伽羅峠で戦いとなりますが,義仲は牛の角にたいまつを結び付けて平家軍に突進させて追い落し、京都まで追走し平家一門は西国へ落ちのびて行きます。

1184寿永3)年2月 一の谷の合戦
 

 京都に入った義仲は征夷大将軍に任ぜられ,朝日将軍ともいわれましたが,戦に勝って心おごった木曾の兵士が乱暴狼藉をはたらき,都の治安を乱し人々を苦しめました。後白河法王の命令を受けた義経、範頼の軍勢が義仲を都から追い出し遂に近江の粟津で自殺させます。

 義仲を討った義経、範頼の軍が平家のいる福原(現在の神戸市須磨区)を攻め義経の率いる精鋭が鵯越えの逆落しといわれる一の谷の断崖を馬で降りる奇襲作戦で平家を破り,平氏一門は四国の屋島へと逃れます。
 この時の戦いで熊谷次郎直実が平家の若い公達の平敦盛を討った話は能「敦盛」や歌舞伎の「一谷嫩軍記」の題材となりました。

1185文治1)年2月 屋島の戦い

 屋島は瀬戸内海に面して四方険しい断崖の地でしたが、義経は徳島に渡り,平家を急襲して壇ノ浦へと追い落としました。
 那須与一が平氏の官女が船べりに掲げた扇の的を見事射止めて敵味方から喝采を得た話や,佐藤継信が義経の身代わりになって討死した話はこの戦のときのことです。

1185年(文治1)3月 壇の浦の戦い

 
義経軍は長門(山口県)に逃れた平氏の軍を追跡して、屋島の戦いの1ヶ月後には壇ノ浦で不慣れな海戦にもかかわらず,,船をあやつる敵のこぎ手やかじとりを狙って矢を射掛け,平氏一門を滅ぼしました。
 平氏一族は殆ど命を失い,当時8才だった安徳幼帝は二位の尼(清盛の妻)に抱かれて入水しますがこの時の様子を平家物語(巻十一,先帝身投)は次のように伝えています。

(幼帝は)山鳩色の御衣にびんづら結はせ給ひて御涙におぼれ、ちいさくうつくしき御手をあはせ、まず東をふしをがみ伊勢大神宮に御暇申させ給い,其後西にむかはせ給ひて御念仏ありしかば二位殿やがていだき奉り”浪の下にも都のさぶろうぞ”となぐさめ奉って千尋の底へぞ入り給う」
(注,びんずら=髪を頭の中央から左右に分け,それを両耳のあたりで輪にたばねてたらしたもの)


 安徳天皇の母徳子(建礼門院)も入水しましたが,源氏の兵士に助けられ,京都の寂光院で亡くなった人々の冥福を祈りながら一生を終えました。
 能「大原御幸」は安徳天皇の祖父である後白河法王が,後日寂光院に建礼門院を訪ねた時,女院が安徳天皇の最期を物語ったことを題材にしたものです。

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