平成二十三年度鷺照吟詠会集い参加作品   総楽支部

構成吟                                 構成 田辺 通照

光秀の決断』               作詩 斎藤 通山、船原 克丘

             (ナレ)         (光秀)

ほか総楽支部一同

 

(ナレ)歴史に大きく刻まれた主君暗殺となる本能寺の変。その主役明智光秀は、戦国武将には稀に和歌を詠み連歌に興じる教養人であり、茶の湯を嗜む趣味人でもあった。主君織田信長に仕えて四年、数々の功績を残して琵琶湖の西岸の坂本に築城を許された。武将としての栄達ぶり、また家庭的にも絶頂期であったといえる。光秀は妻ひろ子との間に上から三女二男があった。思えばこの二年の間に、長女は荒木村重の長子村次に、二女は細川忠興に、三女は信長の甥の信澄にと、三人とも信長の声がかりで政略的に縁組されようとしていた。それぞれの娘に縁談が来ぬ前に、光秀は自慢の湖水に妻や娘たちを連れ出し、和歌に興じたものである。

 

【吟1】和歌「われならで」  明智光秀

 

われならで 誰かはうゑむひとつ松

    

           こころしてふけ志賀の浦かぜ

(近くの唐崎に一本の松の古木があったが、いつしかそれが枯れいつの間にか新しい若木に植えかえられていた。どうか浦風よ、この植えられたばかりの若木のために、心して吹いてくれ)

 

(ナレ)天正十年五月二十七日、光秀は戦勝祈願という名目で供の者数名を連れ愛宕山に登った。梅雨のさなかで麓から見上げる山頂は雨雲に覆われている。急な坂が続くこの道も今まで何度登ったことか。しかし光秀五十五歳の登山は厳しかった。

 

行祐「光秀様、西国遠征でお忙しいところよくぞお参り下されました。あいにくの雨模様で難儀でございましたでしょう」

光秀「やはり歳じゃのう。少々疲れはしたがまた登ってみればいいものじゃ。早速だが西国攻めの戦勝祈願を頼み申す」

 

(ナレ)翌二十八日には連歌の会が催された。この日の連歌衆は、明智光秀、里村紹巴(じょうは)、里村昌叱(しょうしつ)、行祐(ぎょうゆう)ら九人であった。そこで読まれた光秀の発句に行祐らが続いた。

 

光秀「時は今 あめが下なる五月哉」

行祐「水上(みなかみ)まさる 庭の松山」

紹巴「花落つる 流れの末を せきとめて」

光慶「国々はなほ長閑(のどか)なる時」

 

(ナレ)この光秀の発句は、今こそ天皇が人民を治めるときがきたと、「天皇親政」の理想を詠んだのである。かねてから歴史に関心が強いだけでなく、朝廷そのものに深い思いを寄せていた光秀はこの時強く思った。武士の本義は朝廷をお守りすることにあるのだと。しかしながら主君信長は「天下布武」の印を掲げ、尾張・美濃を制し越前朝倉義景、近江の浅井長政を攻め滅ぼし、さらに伊勢長島の一向宗徒を皆殺し、比叡山の焼き払い、荒木村重事件の残酷極まりない処罰など、枚挙にいとまがないほど殺戮を繰り返してきた。

「ここまでせずとも天下は取れるものを・・」

光秀はこうした現場に立ち会い血の気が引く思いだった。

 

【吟2】(無題)  斎藤 進

 

天下布武軽朝廷   天下布武は 朝廷を軽んじ

 

謀略虐殺焼討頻   謀略 虐殺 焼討 頻なり

 

我逾覚君命憤怒   我いよいよ 君命に憤怒を覚ゆ

 

天亦不許是非道   天も亦 是の非道を許さじ

 

(ナレ)そして天正十年六月一日、長雨はあがったが漆を流したような暗闇の老の坂を都に向う大軍があった。手に手に松明を掲げているが数歩先の兵の足元が見えぬほど靄(もや)がかかっていた。「信長を討つ」と腹に決めてからは、光秀は驚くほど落ち着いていた。

 

吟3】本能寺(抜粋)   ョ 山陽

 

粽 手に在り を併せて食ろう

 

四簷の 梅雨 天 墨の 如し

 

老坂 西に去れば 備中の道

 

鞭を揚げて 東を指させば 天なお早し

 

(ナレ)その前夜、光秀は主だった家臣を集めた。

斉藤利三(としみつ)「殿から大事な話があるとのこと。皆心して聴くように」

光秀「皆々驚くであろうが、今宵の西国出陣は老いの坂を超え、京の都本能寺に向い信長を討つ。

突然の切り出しで驚いたであろうが、落ち着いて聴いてくれ。

殿信長に仕えて十四年、滋賀坂本と丹波の国を預かるまでになった、これも皆そなたたちの働

きの賜物である。このとおり礼を申す」

家臣「殿。殿」

光秀「ただ信長とは生きる世界が違いすぎた。これまで幾十万の罪もない人々を殺したであろうか。

その上信長は天下を大方掌中にするや朝廷をないがしろに扱い、畏れ多くも帝の立場も冒そう

としてきた。戦さのことは百歩譲っても、朝廷のことだけは如何なることがあろうとも許して

はなるまい。皆々、この光秀についてきてくれるか」

家臣「よくぞ決心なされました。迷わず決めた道を走ってくだされ。

我ら如何なることになろうともご一緒いたしまする」

 

【吟4】義挙   船原克巳

 

青松漠漠丹波辺  青松 漠々たり 丹波のあたり

 

馬首向東老坂煙  馬首は 東に向かう 老いの坂のけむり

 

桔梗旗翻本能寺  桔梗の旗は 本能寺に 翻(ひるがえ)

 

不非遺恨奏九天  遺恨に非ず 九天に 奏す

(意訳)青い松が広く繁る丹波の辺。馬の隊列は東に向きを変えた、靄のかかった老坂のことです。明智の桔梗の軍旗が本能寺周辺に翻ったのです。しかし信長を討つのは遺恨からではない、天皇にさし上げるのです。

 

(ナレ)明智秀満、通称左馬助は、光秀の従弟であり最も信頼されていた家臣であり、光秀の娘を正室に迎え明智姓を名乗った。本能寺の襲撃の際には先鋒を務める。その後天下分け目の山崎の合戦の時は安土城の守備についており、主光秀の敗北を安土で聞いた。こうなれば坂本城に戻り体制を立て直すしかない。瀬田から粟津が原を越えて打出浜まで来ると、そこには羽柴勢の堀秀政の数千の軍勢が待ち構えていた。「何としても坂本まで戻りたい」という必死の思いで堀軍と戦い、挙句には愛馬に打ち跨り打出浜より唐崎まで人馬ともに琵琶湖を泳ぎ渡ったのである。

 

【吟5】 無 題(五言律) 明智左馬助

 

一たび 戦国に 生まれて  未だ 風月の情を 知らず 

 

朝に 出師(出兵)し その魁(さきがけ)を望み 夕べに 兵の 運営を 策す

 

几(机)に寄りて 臥竜(がりょう)の術を 考え  鉾を横たえて 千里を 行く

 

幾ばくかの 名声 夢の 如し  人生の 終節 清明に 帰る

(意訳)ひとたび戦国の中で生まれ、未だに風月の情を知らず。朝に出陣するときは、魁を望み、夕べに陣営に帰ると、肘掛けに寄りかかって寝る術を覚え、鉾を横たえて千里を行く。いくばくの英名も夢の如し、終わりは臣節のため清明に帰するのみである)

 

(ナレ)六月一五日の朝、堀秀政の軍勢は坂本城を取り巻いていた。城内では徹底抗戦の声もあったが「光秀亡き明智家は滅びたも同然」と左馬助は躊躇なく開城を決意する。去りゆく城兵たちには金銀を与え、また敵方には銘器名刀墨跡など宝物の数々を渡したのち、残った明智一族は自害したのだ。ところで左馬助には連れ子の五歳の息子がいたが、落城時に土佐の国に逃れ隠れ住まわせたという。その子孫が坂本龍馬であるとか。

 

【吟6】明智左馬助渡琵琶湖 釋 五岳

 最後の4行句

 

(ナレ)大津市坂本にある西教寺、信長による延暦寺焼き打ちで焼失したとき、光秀が寺の復興に手を尽くしたことが縁で、境内に光秀一族の墓がある。その前に光秀が残した辞世の句が刻まれていた。自分の信念に従ったまでで、五十五年の人生の夢も覚めてみれば一元に帰すものだとあった。自分が天下を取りたいのではない。朝廷の危機、正親町(おおぎまち)天皇の苦境、この国の正統性の危機を黙って見過ごすことはできない。そのために一身を捧げねばならない。それこそが武士の本義であり使命であると強く光秀は思ったのである。

 

【吟7】辞世句  明智光秀

 

 順 逆 無 二 門   順逆 二門 なし

 

 大 道 徹 心 源   大道は 心源を 徹す

 

 五 十 五 年 夢   五十五年の 夢

 

 覚 来 帰 一 元   覚め来って 一元に 帰す

                                          (完)

 

 

【参考文献】「明智光秀」井尻千男 「明智左馬助の恋」加藤廣 「光秀奔る」家村耕 

「桔梗の花咲く城」斎藤秀夫 「明智左馬助」羽生道英 など