矢飛びを重視した康温射法
 
  元東大弓術部長・碧海純一さんが親父を語る


碧海純一先生

2000年11月写す



 碧海康温(こうおん)さんといえば、東京大学弓術部の大先輩でもあり本多流の草創期に大黒柱的な活動をした人として有名です。しかし、その実像はあまり知られていません。今回は、ご長男で前弓術部長の碧海純一・東京大学名誉教授に「父・康温」を語っていただきました。2000年11月26日、東京・椎名町のご自宅で2時間余りインタビューしたものをまとめたものです。

 小林 お父さんの康温さんといえば、1937年(昭和12)に発刊された「弓道講座」3巻に書かれた「本多流弓道」をまず頭に浮かべます。本多流射法のバイブル的な教科書です。
 碧海 そんなものが書かれていたなんて、全然知らないのですよ。よく書きましたね。親父はよく漢詩は書いていました。中国にいたとき本をたくさん買い込んで、唐詩に詳しかった。その影響で私も高校のとき漢文を書いて入選しました。しかし、私の手許には、弓に関する書き物は全く残っていませんね。(論文のコピーにある本多利実翁の写真を見ながら)本当に立派な写真ですね。すばらしい。高木](非かんむりに木)さんの射もよく似ていて、射型がよいばかりでなく、よく中る。あんな名人はなかなか出ないでしょう。後世に残すべき射でした。
 小林 この論文にはお父さんの写真はないのですが、本多利時宗家、松本正、亀岡武、柳原光春さんの射型写真が掲載されています。
 碧海 私は、小学校の頃、柳原さんと石岡久夫さんに弓の手ほどきを受けたのです。当時おふた方とも国学院の学生でしたが、親父が息子を教えてほしいと頼んでくれたのです。今にして思うと、ずいぶん贅沢な顔ぶれでした。松本さんには、武蔵高校尋常科と高等科で教えていただいた。高木さんには及ばないが、若手ではず抜けていた。すばらしい射でよく中りました。橿原の東西対抗で見事、皆中を果たしています。私も高校時代はよく弓を引きました。一日百射くらいとか。インタハイに出たこともある。学習院や東京高校との試合にも出ました。埼玉県久喜市の高木さんのところに行ったこともありました。
 小林 お父さんはどんな方だったのですか。
 碧海 1883年(明治16)1月、愛知県岡崎市の在にある浄土真宗「慈光寺」住職の長男として生まれました。亡くなったのが昭和18年5月です。お寺を継ぐのが嫌で、結局、弟が継ぎ、その養子が継いでお寺は残っています。高校は仙台の第二高等学校。二高といえば阿波研造が有名ですが、高校の時はボートとテニスをやっていました。金田一京助先生と仲がよかった。弓は大学に来てから始めたのです。
 小林 大学卒業は1911年(明治44)ですか。
 碧海 それは文学部卒業年次でしょう。もう一度学士入学して理学部地質学科にいたんです。地理学者としては少しは知られていたようですね。卒業後、東大の地震研究所にいて、それから中国東北部の満州に南満州鉄道(満鉄)の地質調査所の所員になった。
 小林 卒業してすぐ文部省ということではなかったのですね。
 碧海 満鉄では、山西省の方に調査に行ったとき、匪賊に襲われて、連れていった中国人十数人はみんな殺されてしまった。団長の父は後頭部に大けがをしたが、ただ一人奇跡的に生き残ったのですね。療養のため日本に帰ってきたのです。小村侯爵その他の方々の尽力で、中国から賠償金2万円をもらいました。大正初めの2万円といったら、今の4、5億円にもなるんでしょうか。それをなんと2年間で使い切ってしまったと言うんですから何という浪費家であるか分かるでしょう。当時、住宅・土地でも買っていててくれれば、子供たちも困らなかったでしょうに。
 小林 何に使ったのですか。弓に注いだのですか。
 碧海 よく分からないところはあるんですが、フォトグラフィーのようですね。イギリスのニューマンガーディアのレフレックス。輸入して一台千円もするんですよ。後のことを考えずに次々買ったのではないかと。ライカやコンタックスには興味ないんですね。常識では考えられない浪費家でした。付き合っていた若い人にごちそうするのが趣味でした。僕も天麸羅屋の「ハゲ天」などにつれて行かれ、おいしかったですよ。経済観念がゼロで、母も苦労していました。親父が死んだとき、実家から送金してきた祖父の手紙がたくさん出てきた。「東京で勉強するのはいいが、あんまりお金を使わないでくれ」「田畑を売ってもう残り少なくなったから、これくらいにしてほしい」という手紙なんですね。
 小林 本多利実翁が亡くなられた1917年(大正6)の頃はもう東京にいたのですか。
 碧海 日本にいなくて、役に立たなかったのでは……。生弓会の理事長だった関屋龍吉先生に全部取り仕切っていただきました。関屋先生は、生弓会発足も含めて、また本多流を守った最大の功労者でしたね。
 小林 生弓斎日記を見ますと、老師が竹林派家元の権限を東大に預ける覚書を作られるころ、お父さんはよく本多家にいって相談を受けているようですが。名前がたくさん出ていますよ。
 碧海 私の記憶とはちょっと違いますね。覚書を関屋先生と親父が作ったのかしら……。
 小林 弓は老師直伝ですか。
 碧海 直伝です。弓が好きでした。我流ですね。矢飛びを重要視していました。大きく放物線を描くのではなく、ほとんど真っすぐ飛んでいましたよ。矢も軽い矢を使っていました。
 小林 寺嶋廣文先生の話ですと、お父さんは五匁代の矢を引かれていたそうです。強い弓で、軽い矢ですから超特急の矢飛びだったのではないでしょうか。弓はよく飛ばしたのでしょうか。
 碧海 東大では寺嶋先生の功績も大きいですね。親父はよく生弓会の本部道場に行って引いていました。弓は余り飛ばしたのは見たことありません。私も小さいとき生弓会道場に連れていかれました。
 小林 先日、本多利時宗家夫人の乙巳さんの話を聞いていましたら、純一先生がよく賞を取っていたそうですね。お父さんは大正5年に老師の印可をいただいてます。亡くなる前年で、比較的ゆっくりですね。
 碧海 遅いのは中国に長くいたからではないですか。日本に帰ってから文部省に入った。図書監修官をやっていました。小学校の教科書を作ったり、中学の教科書の検査をやったりしていました。弓はこのころも引いていました。
 小林 本多流は文部省を牙城に、学校弓道に強力に浸透しましたね。お父さんの影響が強かったのではありませんか。
 碧海 多少はあるでしょう。若い人を養成して全国各地に指導者として送ったのです。亀岡武さんは松江高校へといった具合に。若い頃は地理の方もよく教えていた。弓に力を入れたのは晩年です。日本大学など私学でも地理を教えていた。地理は今のお茶の水女子大の東京女子高等師範でも教えていて、私を生んでくれた母、生田ミツと結婚しましたが、教え子の一人だったのですね。
 小林 当時はラブロマンスと騒がれたのですか。
 碧海 母は広島県生まれで、14歳も年下。まさに良妻賢母のモデルのような人でした。何も言わずについていったのでしょう。私は1924年(大正13)6月27日に生まれています。母は37年に肺結核で亡くなりました。父は死ぬ前に再婚するのですが、相手は生弓会のメンバーで、やはり女高師出身でした。僕にとっては不幸でしたね。親父は豪放磊落。よく言えば些事にこだわらず、みなさんにずいぶん迷惑をかけたのではないかと思います。
 小林 純一先生は大学では弓を引かれていないのですか。
 碧海 全然引いていません。1944年(昭和19)10月、海軍主計見習官になって45年4月から長崎県にある川棚海軍工廠の会計部にいた。終戦後引き揚げて大学でぶらぶらしてましたが、46年1月からA級戦犯を裁く極東軍事裁判で弁護側の書類を英訳する仕事で忙しくなり、大学にも行かず、弓も引かなかったんです。今から思うともっと引いていたらよかったと思います。今でも引きたいと思っているんですよ。
 小林 大学の卒業年次は。
 碧海 大分留年して、東大法学部を卒業したのは48年3月。すぐ、大学院の特別研究生になった。法哲学専攻で、尾高朝雄先生が指導教官。月給をくれるんです。50年に留学。第1回ガリオア留学生としてハーバード大学で2年間学んだ。51年の秋、留学中に神戸大学助教授に発令された。それから61年に東大教授になりました。東大を辞めてからは、放送大学や関東学院大学の教授をやり、九七年に全部辞めました。
 小林  著作も多いですね。
 碧海 中公新書の「法と社会」、弘文堂の「法哲学概論」などがあります。
 小林 東大の弓術部長をやられて何が一番の思い出ですか。
 碧海 京都大学戦で京都にお邪魔したこと。寺嶋先生にもずいぶんお世話になりました。先日は、本多利永宗家宅をおたずねしたら、利時夫人の乙巳さんが95歳を超えているのに、頭もシャープで、かくしゃくとしていているのには感激しました。利生宗家が若くして亡くなられたのは本当に残念でしたが、利永宗家が継がれ東大の宗家師範になられたのはよかったと思います。私の後任である藤元薫部長も今年は定年になるそうですが、よくやっていただきました。みなさんのご健闘をお祈りします。
      (20001年1月12日記)

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