日南 第3代飫肥藩主伊東祐久公建立の仏體石
【由来】この仏體石はもともと中野山中にあったもの。門徒で歴史に詳しいA氏が
その存在を知っていました。中野は当時の飫肥藩の出張所(地頭所)
があり、行政ゾーンでした。
松尾寺が中野の「花立」にあったのではという説があり、松尾寺にゆかりのある
ものかも知れないというので、調査しました。
当初、仏體石は表を下にして横倒しになっていました。これを石材店に依頼して、
おこしたところ下記の文字が刻まれていました。
石塔は第3代飫肥藩主、伊東祐久公の建立したものであることが判明しました。
松尾寺ゆかりのものではありませんでした。土地の持ち主は要らないといわれました。
また、清武町もそのままにしておいてくださいと取り合わず、そのままにしてありました。
しかし、土地の持ち主が、業者に土地を転売し、その業者が「埋めますよ」というので、
あわてて松尾寺が引き取りました。
旧、清武郷の時代の貴重な仏教文化財でありますので、末永く、松尾寺で保存すること
にします。
【釈文】現碑は縦書き(右下の写真が実物。今のような機械掘りでなく手彫りです)
頌曰
巍々佛體石 現丈六金身
(けだかくおごそかなこの仏體石は丈六の金身、すなわち
釈尊を現す)
一見去悪因 太平国裡人
(この仏體石を一度でも拝見すれば、悪因が去り、
国は太平に人はおさまる)
祈
普 欽奉供養大乗妙典壱萬部壽等綿延邦家安康
願
(あまねくつつしんで大乗妙典一万部を供養したてまつる。
寿命などが綿のように延び 国が安泰で 人心がおさまりますように)
干峕正保貳年乙酉 拾月吉祥日
(時は正保二年乙酉の年、十月よき日に)
藤原朝臣伊東大和守祐久建立焉
(ふじわらあそん伊東大和の守 祐久建立す)
※正保2年は1645年、2020年から数えて376年前。江戸幕藩体制
3代将軍、徳川家光の時代。この時、祐久は36歳。この後、江戸藩邸で49歳
で死去している。
※伊東家の菩提寺は報恩寺(臨済宗)。明治の廃仏毀釈によって廃寺になり、
今は五百禩(いおし)神社となっている。住所は日南市楠原1。
山中の仏體石を掘り出し、ひっくり返す作業。T石材店。右端写真が松尾寺境内地に
移設した仏體石。周りの石は追加している。右側の標柱には「僧秀献 望」の字が
刻まれている。創建後、地震などで一度倒れた仏體石を再建した人の名前と考えられる。
ほぞ穴の台座と仏體石側のほぞ。破損したほぞを切り直しているので、仏體石側の下部が
少し短くなっている。これは石材店の指摘。
碑文の「丈六」(一丈六尺 約485㎝)は仏さまの身長といわれ、仏像の基準となっています。
この仏體石はその半分の約八尺(243㎝)で造像されています。
現在の、仏體石の蓮台からの高さは約240cm、横幅が約66㎝、巾が約35㎝。移設して台座の
下部が一部、埋められているので、創建当時は約八尺(243㎝)あったと想像されます。