■■■ 宇治南部

宇治宇治川宇治橋通円茶屋観音石仏彼方神社宇治墓蜻蛉石源氏物語宇治十帖址蜻蛉野放生院(橋寺)宇治橋断碑
宇治神社宇治上神社春日神社本殿宇治離宮址またふり神社恵心院興聖寺橋姫神社平等院最勝院| 浄土院宇治院址
府立宇治公園縣神社宇治大納言隆国閑居址


宇治

宇治川が山城盆地にそそぐ谷口扇状地に開けた集落で、宇治川を挟んでもとは久世郡宇治町と宇治郡東宇治町に分かれていたが、昭和二十六年(1951)に合併し、今は宇治市の首邑となっている。

宇治は一に莵道・宇遲・鵜路ともしるし、地名の起こりについては、宇治川の川の内、または大和国よりみて奥まったところにあたるので「内つ国」、または宇治川の「落つ口」にあたるともいわれ、古来諸説あってあきらかにしない。

『詞林采葉集』にかかげる『山城国風土記』逸文によると、宇治というのは、「莵道稚郎子が桐原日桁宮をつくって宮室とされたところで、皇子に因んで宇治と名付く、もとの名は”許の国”という」云々とある。

しかし、宇治の名前はそれよ古く、『日本書紀』に垂仁天皇三年、天日槍が「莵道河」よりさかのぼって近江国へ入ったことがみえ、また神功皇后摂政元年には、武内宿禰らの軍勢が忍熊王を撃つべく、「莵道」に布陣したことがあり、斉名天皇はまた即位五年(659)大和より近江へ行幸のとき、行宮をこの地にいとなまれたことがある。

ついで天智天皇の近江遷都にあたっては、宇治は大和と近江を結ぶ交通の要衝の地となり、宇治川にはわが国最古の橋が架けられた。
『和名抄』には「宇治郡宇治郷」、「久世郡宇治郷」がみえ、『延喜式神名帖』には「宇治神社」、「宇治彼方神社」の名がみえて、宇治川を挟んで集落が発展していったことは、近年発掘される多くの古代遺跡とともにこれを物語っている。

また『新撰姓氏録』を按ずると、饒早日命を祖とする宇治宿禰をはじめ今木連一族や和邇部がこの地に住居していたことが知られる。
とくに和邇氏は孝昭天皇々子を祖とする古代豪族の一で、この地に早くから繁栄していたことは、応神天皇の妃となった宮主宅媛・同小ナメ(扁+瓦)姫姉妹が、ともに和邇氏の出身であることによっても想像される。
現在宇治の周辺には、いくつかの古墳が残存するが、これはこれらの人々の墳墓とみられる。

平安遷都以後は京都に近く、また風光明媚な地として注目され、貴紳の山荘が多くいとなまれた。
平等院はその代表的な遺構である。
紫式部はこの地の風物を主題として『源氏物語』宇治十帖をあらわし、源隆国は『宇治大納言物語』を書きとどめるなど、古典文学の舞台ともなった。

しかし、乱世におよんで事あるごとに戦禍のちまたとなり、旗幟は山河に映じ、太刀打ちの音は橋姫の夢をおどろかせた。
室町時代には茶樹の栽培が行われ、茶道の流行によって盛業をきわめたが、文禄年間(1592-96)、秀吉による現在の如き宇治川の付け替え工事によって、古代の宇治の機能は伏見に移った。
近世はもっぱら茶の生産を以って主要産業とした。
とくに徳川氏は自家用の茶を宇治から取り寄せるにあたって。茶壷の護衛に数百人が参加した。
これを「お茶壺道中」と称し、大名行列をしのぐ特別な権威を有したことから、宇治茶の名は全国に知られるに至った。
近年は都市化によって茶畑も次第に衰退し、生産も低下するに至ったが、しかし、古文化財の多い点では南山城中、随一である。

宇治川

水源を滋賀県の琵琶湖に発して瀬田川といい、京都府と滋賀県境の山奥を経て宇治付近で宇治川となり、末は八幡市付近で木津川と合流する。

もとは宇治橋下流で巨椋池にそそいでいたが、文禄年間(1592-96)、伏見築城に際して池から分離し、現在の如く流路をつけ替えた。
往時は舟によって渡河したものとみられる。

古来、大和から近江に通じる水路として重要視され、南都東大寺の建立にあたっては近江の木材を宇治川に下して巨椋池に運び込み、さらに木津川をさかのぼって木津(相楽郡)に揚陸された。
また柿本人麻呂は「近江国より上り来る時、宇治河の辺に至りて」と詞書して、
 もののふの 八十宇治川の 網代木に いさよふ波の 行方知らずも (万葉集、巻三、二六四)
とうたった。
網代とは、氷魚をとるために竹や木を編んで網の代わりとし、川瀬にたてておくもので、氷魚は鮎の稚魚をいう。

以前は洪水によってしばしば被害を起こしたが、近代はその流れの速さと豊な水量を利用し、川の途中に発電所が設けられた。
なかでも水害防止と発電を目的とし、昭和三十九年(1964)に建設された天ケ瀬ダムは、わが国土技術の粋をあつめたものといわれ、このダムの完成によって宇治川には延々二十四キロにわたって一大人造湖が出現し、他所にはみられぬ水上公園となった。

また流域の道路を整備して快適なドライブコースとし、上流は「宇治川ライン」と称して山水渓谷の美を、下流は平野をへだてて宇治・木幡の山々を眺望することができる。

宇治橋

瀬田の唐橋と山崎大橋(今なし)とともに古来三名橋の一に数えられた。

この橋は大化二年(646)、奈良元興寺の僧道登または道昭によって架橋されたわが国最古の橋といわれるが、また天智天皇が近江に大津宮を造営された頃、道昭一派の人々によってつくられたともいわれてあきらかにしない。

古来、大和と近江または京都を結ぶ交通路の要衝となり、一朝有事の際にはこの橋の争奪をめぐってはげしい合戦が行われた。
また洪水による流失などによってしばしば被害をこうむったが、その都度南都の協力によって架橋された。

この橋の特徴は南側の欄干上流に面して”三の間”と称する広さ約二メートル余りの張出しをもつところにある。
これはむかし橋の鎮守(橋姫神)を祀っていたところといわれる。

通円茶屋

宇治の玄関口ともいうべき宇治橋の東詰めにある。

平屋建(一部二階建て・府指)の古めかしい構えの茶店で、正面軒先には青蓮院宮尊朝親王の筆とつたえる「御茶屋」としるした額をかかげる。
『雍州府志』によれば、
 つたえるところによると、この茶店は近世、橋のほとりに通円法師という者がいて、茶店を構え、往来の貴賤に茶をすすめて結縁とした。
 近頃、ある人がその跡に茶店を構え、通円像を安置し、通円茶屋と称している云々(原漢文)。
としるしているが、民家の談によれば平安時代末期以降、代々宇治橋のほとりに住して橋の守護を職とし、そのかたわら茶店をひらいて今日に至ったといい、現在で二十二代目にあたるという。

宇治橋とともに公儀普請とされ、現在の建物は寛文十二年(1672)の建造で、三百十余年間、よく風雪に耐えて今日に至っている。
なお店内には初代通円と称する坐像と秀吉が宇治橋三ノ間より川の水を汲ましめたという釣瓶一個を秘蔵する。

観音石仏(鎌倉)

京阪電鉄「宇治」駅の東隣りにあって、旧道に面する。
『源氏物語』宇治十帖の東屋の古跡に因んで、一に「東屋観音」とも称する。

像は高さ一メートル余の花崗岩製で、光背に二重円光を負い、頭に宝冠をつけ、左手に蓮華、右手施無畏印とし、蓮華座上に結跏趺坐する。
表面はかなり磨滅しているが、女性的な表情は、宇治の玄関口にふさわしい霊仏である。

彼方神社 おちかたじんじゃ

観音石仏より北五十メートル、宇治市宇治東内の民家の傍らにある。
宗像神を祭神とし、俗に「諏訪明神」といわれるが、また『源氏物語』宇治十帖の椎本古跡に因んで「椎ケ本社」とも称する。

当社は『延喜式神名帖』の「宇治彼方社」にあたるといわれ、古来社名については種々な説があり、また創祀沿革についてもあきらかにしないが、鎮座地が宇治橋の東詰にあたるので、道路交通の安全と水難防止の守護神として創祀されたものであろう。
現在は宇治東内・乙方両町の人々によって管理され、毎年十一月一日にはささやかな御火焚祭が行われる。

宇治墓

彼方神社より北へ四百メートル、宇治川右岸に近い莵道丸山にある。

応神天皇の皇子、莵道稚郎子皇子を葬った陵墓といわれ、陵は周囲にめぐらした巨大な前方後円墳で、遠望すればあたかも一個の円い山にみえるので、丸山といわれた。

皇子は和珥臣の祖日触使主の娘宮主宅媛を母として降誕された。
幼少より聡明であったから、天皇は幾人かの兄を越えて皇太子とされた。
しかし、天皇の崩後、皇子は弟の故をもて皇位を兄(仁徳天皇)にゆずってつかず、兄もまた父の遺志にそむくと称して固辞されたため、三年のあいだ空位となった。
よって皇子は自殺して皇位を兄にゆずられたという。

これは本朝美談の初めとされるが、実際は皇位継承の争いの犠牲となられたものであろう。

皇子の遺骸は「莵道の山の上」に葬られた。
その兆域は『延喜式』諸陵寮に「東西十二町、南北十二町、守戸三烟」とあって、現在の宇治川右岸(東北方)一帯の地をほとんど占めている。
それがため江戸時代には、興聖寺背後の朝日山の山上の経塚を以って陵とみなされ、興聖寺はその兆域内に建立されたため、しばしば怪火に見舞われたという。
明治二十二年(1889)宮内庁は茶園畑の中にあった小丘を以って陵墓と定められたが、その決定の事由については今もって不審とされている。

蜻蛉石

彼方神社より三室戸に至る宇治市莵道大垣内の路傍にある。

石は高さ二メートル余、硬砂岩質の自然石で、表面に定印をむすんで蓮華座上にすわった阿弥陀如来の姿をえがき、右側面に観音、左側面に勢至の両菩薩が跪坐して、衆生を迎えにくる姿を線彫りで描いている。
いわゆる来迎の弥陀三尊像で、とくにに勢至の前下方に発願者とおもわれる上臈(婦人)の姿を添えているのが珍しい。

この石仏は藤原時代に流行した阿弥陀の来迎信仰をあらわした貴重な遺品で、平等院鳳凰堂に勝るとも劣らない。

因みにこの石を『源氏物語』宇治十帖の蜻蛉の巻に因んで「蜻蛉石」といわれるが、石仏とは何の関係もない。

源氏物語宇治十帖址

紫式部が著わした『源氏物語』五十四帖のうち後半、「橋姫の巻」以下の十帖は、宇治を主題としたところから世に「宇治十帖」とよばれる。
これに因んで、後世に以下にあげる遺跡がつくられた。
橋姫之古蹟(橋姫神社)、稚本之古蹟(彼方神社)、総角之古蹟(宇治上神社)、早蕨之古蹟(宇治神社北隅)、宿木之古蹟(槇尾山麓)、東屋之古蹟(京阪電鉄宇治駅横)、浮船之古蹟(三室戸寺境内)、蜻蛉之古蹟(三室戸路畔)、手習之古蹟(京阪電鉄三室戸駅東)、夢浮橋之古蹟(宇治橋西詰)

これらはいずれも宇治より三室戸に至るところを主とし、石仏や石標を建てて明示されている。
因みに『雍州府志』は「コレミナ後人ノ付託ニシテ、取ルニ足ラザルモノカ」と論じ、『山州名跡志』も「上古ヨリノ名ニシテ、、紫式部ハコノ号ニツイテ巻名ニ用ルカ、未ダ決セズ」と述べている。

蜻蛉野

蜻蛉石に因んで付近一帯の平野をいうたもので、古くは「宇遲野(莵道野)」とも称した。

放生院(橋寺)

真言律宗の寺で、雨宝山放生院常光寺と称するが、一般には「橋寺」で知られる。

寺伝によれば大化二年(646)南都元興寺の僧道登(または道昭)が、宇治橋架橋のときに創建したと伝えるが明らかにしない。
しかし、弘安四年(1281)西大寺の僧叡尊が橋寺堂供養を行ったことが『感身学生記』にみえるので、それ以前からの建立であることが想像される。

爾来、宇治橋管理の寺として、また地蔵尊を祀って道路交通の安全を祈る寺として崇敬されたが、中世に至ってしばしば罹災した。
今の本堂は寛永八年(1631)の火災後の再建であるが、本尊地蔵菩薩立像(重文・鎌倉)は高さ二メートルをこえる大像で、よく均整がとれている。

また脇壇に安置する不動明王立像(重文・平安)は、高さ等身大の木像で、雄渾な中にも藤原時代後期の洗練された温和な作風をあらわれている。

宇治橋断碑 (重文)

大化二年(646)、元興寺の僧道登が宇治橋を架したときの由来を石に彫ったもので、わが国最古の石碑である。
但し当初の分は碑の上方三分の一ほどで、寛政三年(1791)境内から発見されたものを継ぎ足したものである。
欠文は『帝王編年記』にかかげる碑文によって補った。
碑文は九十六文字からなり、四言二四句を三行にきざみ、中国六朝風の書体でしるされている。

なお境内には「木かくれて茶摘もきくや時鳥」としるした芭蕉の句碑がある。

宇治神社

莵道稚郎子皇子を祭神とする旧宇治町の産土神で、古来最も崇敬された神社である。

社伝によれば、この地は応神天皇の離宮址、または稚郎子皇子の宮居(桐原日桁宮)の址ともいわれ、皇子のなきあと宮地に神社を建ててその霊をなだめ祀ったのが、当社の起こりと伝える。
『延喜式』にしるす「宇治神社二座」とあるのは、即ち当社をいい、稚郎子とその母方の祖神を祀ったものである。

その後、応神天皇(八幡神)と仁徳天皇を配祀するにおよんで「離宮八幡」または「離宮明神」と称した。
藤原頼道は平等院を建立するにあたって、当社をその鎮守神とあがめ、祭礼には幣帛神馬を献じ、また郷民は競って競馬・田楽等を行った。
世にこれを「離宮祭」と称し、往時は宇治川に船が充満するほどの賑わいを呈したという。

明治維新までは宇治上神社と二社一体の神社であったが、維新後、上・下二社に分割され、上社を宇治上神社と号したのに対し、当社は宇治神社と号するに至った。

[本殿] (重文・鎌倉)

鎌倉時代の神社建築としては見るべき遺構である。
境内には稚郎子皇子といわれる木像神像(重文・平安)一体を安置する。

また拝殿後方右手には、慶長十八年(1613)離宮八幡大菩薩ときざんだ四角形の石灯籠(桃山)がある。

[宇治祭]
一に「離宮祭」ともいい、五月八日の神幸祭より六月八日の還幸祭まで一ヶ月にわたって行われる。
祭列は猿田彦神が先駆けし、正一位神符、将軍家献上の破摩弓、古太刀、神職、神輿一基がつづくが、還幸祭に先立って「大幣神事」が行われる。

[大幣神事]

毎年六月八日、t、午前十時に行われる独立の祭りである。
先ず県神社前の大幣殿にて儀式を行い、宇治橋畔に至って再度祝詞を奏上して再び大幣殿に帰り、梅と和布の神供がある。
それより大幣を倒し、地上を引きずりながら宇治橋に至り、橋上から川中に投げ込まれる。

大幣は大きな幣の上に布張りの笠三枚をもうけ、それに松の小枝をさし添え、幣には千枚あまりの小幣をつけ、数人が棒持するので、一に「からかさ祭」または「ぎんかり祭」ともいう。
平安時代に行われた道饗祭をまねた疫神祭で、県祭とともに宇治市の奇祭の一に数えられている。

宇治上神社

宇治神社の上社にあたり、稚郎子皇子を主神とし、応神・仁徳両天皇を配祀する旧村社で、もとは宇治神社とともに宇治郷全域を氏子としていたが、今は旧槇島村のみとなり、神社としてはまことにわびしいものとなっている。
しかし、その建物はわが国現存最古の神社建築である点できわめて貴重な存在である。

[拝殿] (国宝・鎌倉)

宇治離宮の遺構をつたえるにふさわしい寝殿造り風の住宅建築としている。

[本殿] (国宝・平安)

左に稚郎子皇子、右に仁徳天皇、中央に応神天皇を祀る。

左右の社殿がともに大きいのにくらべ、中央のみがきわめて小さいのは、はじめ左の社殿一宇のみであったものが、のちに右の社殿を加え、さらに中央の社殿を加えて三殿としたからで、当社の祭神と信仰の推移がしのばれる。

社殿はいずれも平安時代の建築で、とくに左右両殿正面の蟇股は、簡素な中にも古雅愛すべきものがあり、中尊寺金色堂・上醍醐薬師堂の蟇股とともに藤原時代の三蟇股といわれて珍重されている。
また左右の社殿の扉には童子・随身像四面(重文・平安)が描かれているが、数少ない藤原時代世俗画の資料として貴重な遺品である。

さらにこの本殿を保護するために外側に設けられた覆屋(国宝・鎌倉)は大まかな手法からなっている。

春日神社本殿 (重文・鎌倉)

本殿の右にある末社で、鎌倉建築の特徴をよく備えている。

[桐原水]

拝殿の右にある。
自然石のあいだから今なお清冷な水が湧き出ている。
稚郎子皇子の桐原日桁宮址に因んで桐原水といい、宇治七名水の一に数えられている。

[天降石]

本殿の右にある大きな岩石をいい、一に「岩神さん」ともいう。
その由緒を明らかにしないが、古代磐座の遺跡と思われる。

宇治離宮址

応神天皇の宇治離宮については現在そのあとをあきらかにしないが、地形から判断して宇治神社の鎮座地とつたえる。
もっとも離宮といっても極く粗末な木造板葺の建物と想像されるから、礎石や瓦などが発掘されることはあるまい。

『古事記』や『日本書紀』によれば、応神天皇は皇太子の頃、大和より近江に赴く途中、木幡の里で宮主の矢河枝比売を見初めて妃とされた。
そのあいだに生まれた皇子は、地名によって莵道稚郎子と名付けられた。
離宮はその後、皇子の宮居となり、これを桐原日桁宮と称したが、皇子の薨後、宇治神社と改めたとつたえる。

またふり神社

宇治神社より北百メートル、宇治市宇治又振町の路傍にある小さな神社をいい、宇治神社の境外摂社にあたる。

又振神社とも記し、宇治民部卿藤原忠文を祭神とする。
忠文は天慶三年(940)平将門の乱にあたって征夷大将軍に任ぜられたが、乱後、行賞にあたって大納言藤原実頼の反対意見によってその恩賞にあずかることができなかったことを怨み、死後も実頼一族に祟りをなしたという。
世人は悪霊民部卿と怖れ、忠文が晩年この地にすごしたところに因んで祀ったのが当社の起こりとつたえる。

恵心院

真言宗智山派の寺で、朝日山と号する。
寺伝によれば寛弘二年(1005)、恵心僧都源信の再興といい、中世には兵火によって衰微した。
本堂(江戸)には本尊十一面観音および源信七十二歳の自作像を安置する。
他に安阿弥洋の阿弥陀如来立像(鎌倉)や春日局が幼君竹千代(徳川家光)の安穏祈願をしたときの感謝状等を有する。

興聖寺

曹洞宗永源寺派の寺で、仏徳山と号する。

当寺は初め道元禅師が深草極楽寺の境域に一宇を建立し、興聖寺と称したのが起こりであるが、久しからずして廃絶した。
その後、慶安元年(1648)に淀城主永井尚政によってこの地に再興されたのが現在の興聖寺である。

永井尚政の父直勝は、かつて長篠の戦いで池田信輝を討ちとったことがあり、のちにその冥福を祈って供養のために一宇を建立したいと望んで果たさなかった。
その子尚政は亡父の遺志をついで、当寺の再建をはかり、万安和尚を請じて住持とし、併せて信輝と亡父直勝の菩提を弔ったという。
爾来、永井家の庇護をうけて寺運は隆盛し、関西の曹洞宗の中心地となって今日におよんでいる。

境内は仏徳山(朝日山の支峰)を借景とし、正面中央に本堂、左右に禅堂・開山堂・方丈・庫裡等の建物があり、その前庭にはツツジや石組みを配して、真に閑寂清楚な雰囲気につつまれている。

本堂(国宝)は伏見城の遺構を移したものといわれ、堂内には本尊釈迦三尊像を安置し、天竺殿には俗に「手習観音」とよばれる聖観音立像(平安)を安置する。
また鐘楼には林道春自撰自書の銘のある銅鐘(江戸)をかかげる。

他に什宝として、南北朝と室町時代作になる絹本著色「釈迦三尊十六羅漢像」各一幅、同「十六羅漢像」十六幅(元)、紙本著色「十界図」六曲屏風一双(江戸)等、多数蔵する。

[琴坂]

宇治川に面した石門(表門)より楼門(三門)に至る二百メートルばかりの坂路をいい、その左右に桜や紅葉・山吹。ツツジが多い。
この坂を流れる谷川のせせらぎが、あたかも琴を弾ずるに似ているところから、琴坂の名が生まれたといわれ、古来宇治十二景の一に数えられている。

橋姫神社

ささやかな境内には瀬織津姫と住吉明神を合祀した本殿一宇と社務所がある。

当社は初め橋の守護神として宇治橋の上に祀られていたが、明治三年(1870)の洪水によって橋が流出したとき、現在の地にうつしたといい、また橋の西詰にあtった住吉神をもうつして合祀したとつたえる。

橋の守護神は古来、女神とされ、男神(離宮神)が橋姫のもとへ毎夜通われるとき、暁になるとおびただしい波の立つ音がするといわれる。
平安時代以来、多くの歌人によって数々の歌に詠まれ、『源氏物語』宇治十帖もまず橋姫からはじまっている。
中でも『古今和歌集』巻十四にかかげる
 狭筵に衣片敷き今宵もや我を待つらむ宇治の橋姫
という「読み人知らず」の歌がもっとも有名で、この歌にもとづいて幾多の橋姫伝説が生まれた。
それによると橋姫は嫉妬ふかい女で、鬼神となって妬ましい男女を呪い殺すというのでる。
これがため、当社は古来縁切りの神とし、悪縁を絶つに霊験があるといわれ、今なお婚礼や縁組にあたっては、社前を避けて通るといわれる。

平等院

平等院
山号 - 朝日山
開基  - 明尊
宗派  - 単立

朝日山と号し、もとは天台・浄土兼学であったが、今は天台浄土系の単立寺院となり、境内塔頭の最勝院と浄土院のニカ寺によって交互に管理されている。

平等院は関白藤原頼道通が父道長から伝領した別業(宇治院)をあらためて寺としたもので、永承七年(1052)に落慶供養が行われ、大日如来像を本尊とし、名も平等院と名づけ、翌年阿弥陀堂(鳳凰堂)が竣工した。

その後、右大臣師実・忠実、ことに頼通の女四条宮寛子(後冷泉皇后)らによって多宝塔をはじめ経蔵・鐘楼・法華堂・五大堂・不動堂・釣殿等、多くの伽藍が建立され、輪奐の美を誇ったが、藤原氏の衰微とともに寺運は次第に傾き、中世以降は相次ぐ兵火に犯されて諸堂の多くを焼失した。
今はわずかに阿弥陀堂と釣殿(観音堂)・鐘楼を残すにすぎないが、藤原氏の盛時をしのばせる多くの古文化財を有する点に於いて貴重な存在となっている。

[鳳凰堂] (国宝・平安)

境内の中央にあって、池を前にして東面する。
正しくは阿弥陀堂といい、天喜元年(1053)の建造で、創建当初の遺構というところに稀少価値がある。
さらにその特色は、中堂と左右翼廊および尾廊からなり、その形が鳳凰が両翼をひろげて飛び立とうとするようにみえるので、江戸時代から鳳凰堂の名が生じたが、また屋上の両端にかかげる青銅製の鳳凰によるものともいわれる。

中堂は、外廻に裳階をつて外観は重層建築に見える。
また正面中央の廂を一段と高くし、池を隔てて内部の本尊を正面から礼拝できるように工夫され、また軒の線にうつくしい変化を与えている。

翼廊は床下の高い切妻造りとし、楼閣は三間三面の宝形造りとしている。

入母屋・宝形・切妻の三種の屋根をかくも巧みにとり入れて外観の変化に富んだものとしては、塔婆に於て奈良薬師寺の三重塔、仏堂としては鳳凰堂とされている。

[阿弥陀如来坐像] (国宝・平安)

鳳凰堂の本尊として、仏師定朝によって作られた仏像である。
丈六の寄木造り、金箔押とし、上品上生印をむすんで八角九重の蓮華座上に結跏趺座する。
顔容は円満相好、姿態は流麗で、藤原時代の代表的な仏像である。

光背は二重円光と火炎透彫りの舟形飛天光とし、雲中に供養する天人像を図案化し、台座はまた金粉を散らした漆塗地の上に螺鈿をもって、宝相華文をはめ込んだ豪華なものとしているが、惜しくもいまは多く剥離している。

[天蓋] (国宝・平安)

天井の中央、本尊の頭上に吊るされている。
折上小組天井を張り、その中央に円形の花蓋があり、折上げの周囲には宝簾を吊し、その下に瓔珞を飾っている。
いずれも宝相華を透彫りとした金箔押の豪華なもので、堂内の雰囲気を華やかにしている。

[雲中供養仏] (国宝・平安)

周囲の長押の上の小壁にかかげる五十一体の小像をいう。
像は雲にのり、いろいろな楽器を奏し、中央の阿弥陀如来を供養する様をあらわしている。
木像彩色像であるが、いまは剥落し、後世の補作になるものが含まれる。

[壁扉画] (重文・平安)

周囲の扉や板壁に大和絵の筆致で、極彩色に描かれている。
いずれも仏説観無量寿経の所説にもとづく九品の阿弥陀来迎図を描写したもので、正面三間の扉には上品、向かって右側の扉には中品、左側には外品の来迎図を描いている。

九品の来迎とは、往生者が一生につみかさねた善根によって、極楽から阿弥陀如来が来迎するさまに上品上生から外品外生にいたる九種の区別があるといわれ、かかる経説にもとづいて各扉や壁に描いたものである。
いまは剥落汚損が甚だしくて見にくいところもあるが、優美な山水風景をとり入れて、来迎の法楽にみるものをして心よく酔わそうとつとめた筆者の努力がみられる。
また壁画の上方、色紙形のところには、源俊房または源兼行の筆と伝える美しい書体の経文が書かれている。

その他、柱・長押・天井など、あらゆる木部にわたって各種の文様が極彩色に描かれ、藤原美術独特の雰囲気をただよわせている。

[石灯籠] (重文・平安)

鳳凰堂の正面にある。
但し古いのは円形の基礎だけで、竿以上は鎌倉時代末期ごろの補作になる。
世に”平等院型”とよばれて、茶人の愛好するところで、基礎には優雅な蓮弁をきざみ、側面には形のよい格狭間をあらわしている。

[庭園] (史名・平安)

鳳凰堂の中島を中心とし、周囲に池をめぐらして浄域としていわゆる浄土式庭園で、他にもいくつかの島があったと思われるが、今は宇治川の築提等によって、原形をだいぶ失っている。
しかし、堂の前がゆるい曲汀を描いて、池に張り出していることや堂後の地割に作庭当初のおもかげがみとめられる。

* 現在、創建当時へ復元するための調査が行われており、十年以上の長期にわたり作業が行われています *

[銅鐘] (国宝・平安)

堂内の南の鐘楼にかかる。
高さ約ニメートル。
鐘身には天人・鳳凰・唐草文様などを浮彫りした縦横の帯によって、上下三段・左右四区に区分され、上段(乳の間)には、各区に四段七列の乳を配し、中段(池の間)には天人、下段(草の間)には獅子が浮彫りにされている。
古来、形は平等院、音は三井寺、銘は神護寺といわれ、わが国三名鐘の一つに数えられている。

[観音堂(釣殿)] (重文・鎌倉)

境内の北部にある。
内部は内陣・外陣にわかれ、内陣中央に本尊十一面観音立像(重文・平安)および地蔵菩薩立像(平安)・不動明王像(平安)を安置する。
もと釣殿であったのを、のちに観音堂に改めたとつたえる。

[扇の芝]

観音堂の北側にある三角形の小さな芝生をいい、扇のような形をしているので扇の芝という。
治承四年(1180)五月二十六日、源三位頼政が平家と戦って敗れたとき
  埋れ木の花咲九個ともなかりしに身のなる果てぞ悲しかりける (平家物語 巻四)
と辞世の歌をしたため、軍扇を敷いて自害したところとつたえる。

松の根本には、
  花咲てみとなるならば後の世にもののふの名もいかでのこらん
としるした歌碑があり、天保年間(1830?44)、末孫太田氏の建碑とつたえる。

また頼政が馬をつないだ「馬繋ぎの松」および頼政が鎧を脱ぎすてたという、「鎧懸の松」というのがあったが、今はどの松をいうたものかあきらかでない。

[阿弥陀水]

鳳凰堂の池畔にあり、井戸のそばに六字の名号を刻んだ石碑が建っている。
宇治七名水の一といわれ、毎年大幣神事にあたって、柄杓一本づつを古例としている。

最勝院

鳳凰堂の背後にある。

天台宗に属し、三井寺円満院門跡明親僧正の開創とつたえる平等院の塔頭の一で、門内正面に玄関(重美・桃山)は桃山時代の豪壮な唐破風からなり、欄間には図案化された藤の花の透板彫がある。

本堂には本尊不動明王像、客殿には女神坐像(平安)を安置し、地蔵堂には「池殿地蔵」と称する地蔵菩薩坐像(南北朝)を安置する。
他に頼政の念持仏とつたえる片袖阿弥陀像や絹本著色「源頼政像」(室町)一幅、「平等院境内絵図」(室町)一幅および望月玉仙が描いた紙本著色「牡丹孔雀図」(江戸)の衝立一基がある。

[頼政塔]

境内の左隅にあり、ニメートル足らずの石造宝篋院塔(江戸)で、供養のためにつくられたものであろう。

毎年五月二十六日には頼正をしのんで頼政忌が行われる。

浄土院

平等院の塔頭の一で、浄土宗知恩院派に属する。
明応年間(1492?1501)平等院修復の際、栄久上人によって開創したと伝える。

本堂には本尊阿弥陀像と傍に帝釈天像(平安)・阿弥陀如来立像(鎌倉)各一躰を安置する。
明示維新までは、塔頭に養林庵・和学庵・金樹院・東向庵・願海寺等があったが、養林庵を書院として残した以外は、すべて廃寺となった。

[養林庵書院] (重文・桃山)

伏見城から移したと伝えるが、その確証はなく、あきらかでない。
単層、入母屋造り、桧皮葺、庭に面した広縁に沿って上段・ニノ間・三ノ間がならび、うしろに次ノ間・茶室等が接している。

このうち上段ノ間六畳は正面に床の間をもうけ、違棚と付書院とは広縁の側にならべてつくってあるのが変わっている。
二ノ間と三ノ間との境の欄間には、大きな藤の花の透板彫りがあり、広縁の欄間の透彫りとともに桃山時代の気宇をよくあらわしている。

また上段と二ノ間の金碧襖絵「梅に籬図」八面、同「雪景山水図」三面は、いずれも桃山時代狩野派の典型的な作風で、寺伝では山雪の筆と伝える。
但し違棚天袋貼付の「草花図」二面は、江戸末期の補作である。

庭園(江戸)は細川三斎の作と伝える平庭枯山水の形式からなり、ささやかな庭内に石組みや織部型灯籠を配している。
茶庭を兼ねた庭園で、織部灯籠は露地用としてよく調和を保っている。

なお什宝として絹本著色「源頼政像」一幅(室町)をはじめ紙本墨書「平等院修造勧進状」一巻(室町)、同「平等院旧起」一幅(江戸)等を有する。

[源融遺愛の桜]

門内左の枝垂桜。

[通円墓]

門内右手にある。
自然石の表面に「太敬庵通円之墓」としるす。
通円は治承の戦に頼政に茶を献じて戦死したと伝える。
その子孫は宇治の橋守となり、代々橋畔に茶店を構えて現在に至っている。

なお境内墓地には茶師上林氏一族の墓がある。

宇治院址

現在の平等院の地にあたる。
平安時代には宇治には多くの貴族の別荘がつくられたが、なかでも藤原道長の宇治院がもっとも名高い。

宇治院は河原左大臣源融が造営したもので、陽成天皇も行幸されたことがある。
その後、宇多天皇の皇孫源雅信の所有となったが、雅信の女(倫子)が道長の妻であった関係から、長徳四年(998)十月ごろ道長によって買収された。

道長は寛弘二年(1004)九月二十一日、多くの殿上人とともにこの地に遊んだことがその日記(御堂関白記)に詳しくしるされている。
そのとき同行した斉信・行成・教通・経房・兼隆・頼宗・道方等と来遊し、舟中で管弦連句や和歌作文を行うなど、摂関らしい華やかな遊びを行った。

紫式部の『源氏物語』宇治十帖は、この宇治院を背景として書かれたものであり、『更級日記』の著者もまた『源氏物語』浮舟のいた宇治殿を、この宇治院に想像している。

宇治院は道長の没後、頼道にひきつがれ、のちには平等院となった。

府立宇治公園

平等院前の宇治川にできた二つの川州に設けられた公園をいい、面積は四、三ヘクタール。
川州は上流にあるのを「塔ノ島」または「経ケ島」といい、下流にあるのを「橘島」とよぶ。
これをむすぶに三つの橋(喜撰橋・橘橋・中島橋)を以てし、廻遊できるようになっている。

『都名所図会』巻五には「浮舟ノ島」と称し、洪水に際しても水中に没することなく、あたかも浮かべる舟のようだとしるしている。
之を総称して今では「浮島」という。

[浮島十三重石塔] (重文・鎌倉)

花崗岩製、高さ約十五メートル、わが国現存中での最大の十三重石塔である。
各重の笠石はいずれも雄大で、軒反りも大きく、特に初重軸部の金剛界四仏の大梵字は豪快をきわめる。

この塔は弘安九年(1286)奈良西大寺の僧叡尊(興正菩薩)が宇治橋の架け替えに際して建立したもので、上人は、橋の流失は濫獲される魚霊の祟りであると考え、殺生の罪をいましめ、網代を棄ててことごとくこの地に埋めしめ、併せて経巻を納めて供養塔とした。
基礎の表面にはその由来をしるした一千字をこえる銘文が、網代停止の官符とともにきざまれている。

塔は宝暦六年(1756)の洪水で流失し、久しく川中に埋没していたが、明治四十一年(1908)発掘し、九重目の笠石と相輪を新しくつくって再興された。
毎年八月十六日には塔前で盛大な精霊送りが行われる。

なお宝暦の洪水のさい発見された金銅舎利塔など多くの塔内納入品は、現在、橋寺(放生院)に保管されている。

[宇治川先陣碑]

橘島の北端にある。
治承四年(1180)の源平合戦のとき、源義経配下の佐々木四郎高綱と梶原源太景季の二人が、宇治川の先陣を争った故事にちなみ、昭和六年(1931)四月、帝国在郷軍人会宇治分会によって建立されたもので、題字は陸軍大将一戸兵衛の筆である。

ちなみに二人が渡河を競った「橘の小島崎」とは、槇の島・梅の島・榎島などとともに宇治川にできた川州の一であるが、今はそのところをあきらかにしない。
地理的からみて、おそらく現在の宇治橋より下流であろう。

縣神社

社伝によれば、永承七年(1052)藤原頼道が平等院建立に際し、その鎮守社としたといわれ、明治維新までは三井寺円満院の管理下にあったが、神仏分離によって独立した。

本殿(江戸)は拝殿とともに安政年間(1854-60)の再建であるが、建物細部にわたって華麗な彫物がみられ、近世に於ける当社の繁栄がしのばれる。

祭神の木花開耶姫命は一に吾田津姫ともいい、これがなまって社名となったといわれるが、また一説に「あがた」は頒田の約言で、上代諸国に設けられた朝廷の料地をいい、縣主を置いて統治せしめられた。
当社はこの御料田の守護神として創祀されたものともいわれ、あきらかにしない。
『延喜式神名帖』にはその名をみないが、その創祀は古いものと思われる。

なお拝殿には応挙門下の画家亀岡規礼筆の奉納絵馬(江戸)一面があり、境内には「縣井」と称する井戸(手洗舎)がある。

[縣祀り]

毎年六月五日の深更から翌暁にかけておこなわれる当社の祭礼をいう。
祭りは五日午前の神事(朝御餉)のあと、六日午前一時、猿田彦神を先頭とし、獅子頭を露払とし、榊の御幣(梵天神輿)を中心にした行列が、宇治神社の御旅所を出発して本社に向かう。
この間、沿道の灯火は一切消されてくらやみとなるので、一に「暗闇祭」といわれるゆえんである。

この夜、沿道の家々では一般に開放し、地方の信者を宿泊せしめたことから、男女の雑寝となり、しかも神輿の渡御中は暗黒とあって、これが一種の性的開放ともなり、むかしはずいぶん風儀をみだしたという。
因みにこの祭礼は江戸時代の文献にはみえず、おそらく明治以降の創始であろう。

宇治大納言隆国閑居址

現在莵道小学校のある宇治塔川町と推定される。
『宇治捨遺物語』の序文によれば、源隆国は「平等院一切経蔵の南の山際、南泉房とうい所に籠りいられて」云々とある如く、隆国は毎年夏にはこの地の別荘に暑さを避け。往来のものから昔話を聞き、これを『宇治大納言物語』としてまとめた。
さらにこれを書き加えたのが『宇治捨遺物語』全十五巻である。
隆国は承暦元年(1077)七月、七十四歳で没したが、その墓は今もって分からない。

以下 つづく

山本宣治墓

白川

金色院

地蔵院

白山神社

下居神社

神名神社

御廟野稲荷社

庵寺山古墳

宇治一本松古墳

広野廃寺址

円蔵院

旦椋神社

伊勢田神社

巨椋神社

[子守神社]

地蔵院

槇島

誓澄寺

妙光寺

福島城跡

蛭子島神社


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