女人の寺

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 厳しさ敬遠、入門者ゼロ 東山 京唯一の尼僧道場に幕 

 明治時代に設立され、全国でも屈指の歴史を持つ浄土宗尼僧道場(京都市東山区)が3月末で閉じられることが11日、分かった。剃髪して住み込みで修行する厳しさが敬遠され、近年は入門する女性が激減したためだが「あるべき尼僧の姿を教え続けてきた京都で唯一の道場がなくなるのは寂しい」と周囲から惜しむ声があがっている。 

 尼僧道場は総本山・知恩院の塔頭を仮校舎として1887(明治20)年に開校した尼衆学校が前身。大正時代に黒門前の現在地に移り、一時期は女子高校「吉水学園」を併設していた。 

 道場では2年間住み込みで炊事や掃除、修行をし、仏教を学ぶ。剃髪が原則。かつては数少ない女子の教育機関として人気があり、全国から尼僧を目指す若者が40人以上も在籍したこともある。 

 しかし高度成長期に入って入門女性が減り、80年代半ばからは定員(10人)割れが続いた。昨年は入門生がゼロになり、過去5年間でもわずか5人。一昨年に入門した女性(56)が今春で修了すると修行僧がいなくなるため、宗派内で「存続は厳しい」の声が強まり、募集停止を決めた。 

 浄土宗では道場以外でも佛教大や本山で講座を受け、3週間の行を修めれば僧侶の資格が得られる。女性も剃髪する必要がなく「最近はほとんどが大学や養成講座を選ぶ」という。 

 4月以降は尼僧の開く仏教講座や夏季講座の会場として存続するが、道場で学んだ尼僧からは「母校が消えるよう」「尼寺の後継者が減る」という声もある。近藤徹稱道場長(82)は「剃髪、精進の生活は仏教の原型。厳しさに耐えてこそ得るものもある。決定は寂しい限りだ」と話している。 

2006.01.12

 高台寺

北政所
 
慧眼と聡明さで人生をみごとに全うした秀吉の正室

宗派    臨済宗建仁寺派
住所    東山区高台寺下川原町
電話    561−9966
拝観時間 9:00〜16:30(冬季16:00) ライトアップ期間あり

おねは尾張国愛智郡朝日邑(播磨竜野出身)の住人、杉原助左エ門定利(剃髪して入道道松)後の木下肥後守の次女として生まれ、妹のややといっしょに叔母のとつぎ先である浅野左衛門長勝に養われて大きくなった
寧々、寧子あるいは吉子といった。
出生は正確には言えぬが、ほぼ1548年(1541年説あり)であろう。
 
1561年八月、藤吉郎二十五才おねが十四歳の時に結婚した。萱葺き屋根の長屋の一室の土間に簀掻藁をしいて、薄縁をのべ、新郎新婦が並んだ。
おねの弱点は子宝に恵まれぬことであった。

乱世いの犠牲となって悲劇に終わる女性の多い中、彼女は時代に流されず埋もれず、逆境にめげず栄達に驕らず、とかく人格も自由意思も認めら れなかった当時の女性としては珍しく、巧みに自己主張し、天下の人事にまでしっかりと口をはさんでいた。

夫の死後二十年間も落ちぶれることなく、七十六歳(八十三歳説あり)という長寿を豊かに美しく全うしている。

北政所を生涯慕った武将
加藤清正・福島正則・加藤嘉明・片桐且元などの武将

 養源院

お江与の方
 
無念の死を遂げた父浅井長政。姉の意志を継ぎ再建したのが妹。

宗派    浄土真宗
住所    東山区三十三間堂前
電話    561−3887
拝観時間 9:00〜16:00

二度の落城にあい、父・母・夫の非業の死をのりこえてたくましく生き抜きついには二代将軍秀忠の妻となったのがお江(小督・達子・お江与とも)である。
父は近江小谷城主浅井長政、母は織田信長の妹、お市の方。
浅井・朝倉方と手を結ぶため兄の命令で結婚したお市だが、夫婦仲は良くお茶々、お初、お江などの子が次々と生まれた。
だが、信長と浅井・朝倉との間が険悪になると運命は急展開を始める。
信長の攻撃で小谷城は落ちて父は自刃 、母が、柴田勝家と再婚すると、今度は秀吉に攻められて、母は夫勝家に従って自害してしまった。

孤児になったお江は大きくなって、秀吉のはからいで十六歳の時、織田信勝の家臣・尾張大野郡六万石の城主、佐治与九郎のもとに嫁ぐが、秀吉はなぜか自分でまとめた縁組をぶち壊し、お江を夫から引き離してしまうのである。
多分、同時期に与九郎が主人信雄ともども秀吉の怒りに触れて領地を没収されているので、お茶々に惚れていた秀吉が先手を打って、妹のお江を連れ戻したのであろう。
そして甥の秀勝と再婚させるが、新婚生活わずか四カ月で夫は朝鮮の役に出陣して戦地で病没、二十歳すぎで二人の夫を失ってしまう運の悪さである。

だが、今度はお江には太閤様の愛妾・淀君の妹というハクがついた。
秀吉は徳川と姻戚関係を作るためお江を家康の息子、秀忠のもとへ送り込んだが、秀忠が十七歳の初婚だったのに対し、片や二回離別経験のある六歳年上の姉さん女房だった。
 
完全な政略結婚だったにもかかわらず、夫婦仲はいたって睦まじく、千姫、家光(三代将軍)、忠長(駿河大納言)、子々姫(前田利光の妻)、そして公武和合のシンボルとしての天皇の中宮となる和子(東福門院)と次々に子供が生まれた。
ようやくお江の人生に春が訪れたのである。

夫の秀忠は歴代将軍の中でも珍しいカタブツで、生涯で浮気はただの一度だけだった。
そのとき手をつけた侍女に生ませたのが、のちに会津藩主になる保科正之である。
秀忠はお江をはばかって、お江が生きている間はこの子と会うことさえしなかった。
また長男竹千代(家光)より次男の国松(忠長)をかわいがり、竹千代をさしおいて国松を将軍にしようと春日局と争うところなど、信長の血筋らしい気の強さもみせている。
秀忠を尻に敷いた恐妻だったという伝説は、こんなところから出ているのだろう。

一方、お江、千姫二人の縁組にもかかわらず、豊臣家との関係は日に日に悪化していった。
戦いの火蓋がきられ大坂城が落城間近になると、お江は必死になって家康に姉淀君の助命を頼むが許されず、姉の死をただ手をこまねいて見ていなければならなかったことは、父母を落城で失った体験と重なって、身も消えいってしまうような悲しみだった。

1626年没。

 清閑寺

小督の局

『平家物語』に 、「・・・・・峰の嵐か松風か尋ぬる人の琴の音か・・・・・、おぼつかなくは思へども、駒をはやめて行く程に、片折戸したる内に琴をぞ弾きすまされたる。・・・・・」とうたわれ謡曲でも有名になる琴の名手

宗派    真言宗智山派(智積院末)
住所    東山区清閑寺山ノ内町
電話    無し
拝観時間 自由

『平家物語』巻六にある「小督の事」は、その悲恋の物語である。
初めに小督の出目をみるならば、父はことのほか桜花を賞でていたことから、桜町中納言と称された藤原成範である。
その成範の父、つまり小督の祖父にあたるのが保元・平治の乱の一方の主役、藤原信西である。
信西はこの物語の時には、すでにこの世にはない。
すなわち信西は保元の乱において平清盛を味方につけて勝利者となり、絶大な権力を振るいながら、まもなく清盛と不仲になって、結局、平治の乱で清盛のために殺されてしまったのである。
ところが、この清盛の女のひとりが成範の妻であった。
成範からすれば、実父は舅に殺されているわけである。
小督自身の母は清盛の女ではなかったようであるが、上のような関係からか、高倉天皇の中宮徳子(建礼門院)に、女房のひとりとして仕える身となっていた。

中宮徳子(清盛の娘、後の建礼門院)に仕える女房の一人で、絶世の美女のうえに、琴の名手だった。
やがて、徳子の夫、高倉天皇の寵愛を受けることになる。この頃、二人の年齢は推定十六歳と二十歳くらい。小督の方が年上である。
 
ところが、小督にはすでに恋人がいた。
清盛の五女を妻としている若公達、冷泉大納言藤原隆房という世間周知の恋人があった。

帝の寵愛を受ける身となれば、隆房との恋は断たねばならない。しかし、諦めきれないのが隆房だった。
未練の歌や手紙を届ける。
小督も心動かされぬわけでもないが、帝への遠慮から召使の少女に返させる。
隆房は絶望し、いっそ死んでしまいたいと思いつめるのであった。

これを知って激怒したのが、時の権力者平清盛である。
「わが二人の聟まで取られては世のためにならない、小督をなきものにしよう」とまでいった。

実は、隆房には正妻があり、それが清盛の娘だった。そのうえ、小督を寵愛している高倉天皇の中宮が、わが娘の徳子である。
娘二人の夫が揃って小督に夢中になっているのだから、清盛の憤りもゆえなきことではない。
さっそく小督を追放せよと命じる。

それを知った小督はある日、夕闇にまぎれてそっと宮中を抜け出し、行方知れずとなった。

「小督は嵯峨野あたりの片折戸の小さな家に隠れ住んでいると人づてに聞くが、主人の名も分からぬでは探しようもないのう・・・」と嘆く帝は、笛の名手である弾正大弼仲国を嵯峨野にやり、小督を探させた。
渡月橋あたりまで来た時、松林から聞こえてくる琴の響き。
「想夫恋」である。
仲国は、帝に報告し、小督は心ならず再び宮中に入る。

やがて小督はみごもり、皇女を生むに至ったのである。これが範子親王であった。

当然、清盛の耳に入ることになり激怒する。
小督は尼にされて追い払われてしまったのである。
このとき小督は二十三歳であった。

その後の小督については、「建春門院中納言日記」の作者健寿御前は、その二十余年後、嵯峨野で彼女に逢ったと記している。

 安楽寺

松虫、鈴虫
 
若き念仏僧の説法と礼賛声明の声に魅せられ出家した上皇の美しき寵姫二人

宗派    単立寺院
住所    左京区鹿ケ谷御所ノ段町
電話    771−5360
拝観時間 四月上旬〜六月上旬の土・日曜日と祝日に本堂と境内を公開

住蓮房、安楽房の二人は法然上人の愛弟子であった。

当時の仏教が貴族仏教であったのに対し法然は身分の貴賎、男女の別を問わず、「南無阿弥陀仏」と唱えさえすればすべての人が平等に救われると説いた。
これは下級武士、町人、農民など一般庶民、ことに従来は救いの対象から漏れていた女性にも深い感銘を与え、法然の専修念仏は堰を切った奔流のごとくに広まり、ついには摂政関白の九条兼実までが帰依するに至った。

当然ながらこれに反発したのが既成の教団である南都、北嶺、つまり興福寺、延暦寺などである。
元久二年(1204)、専修念仏の全面停止を時の権力者後鳥羽上皇に執拗に迫った。

そうしたなかでも住蓮房と安楽房は「鹿ケ谷草庵」念仏会を開き、法然の教えを説いた。
しかも二人は類まれな美声で、その礼賛声明の声に魅せられ帰依する者も多かったという。
その中に松虫、鈴虫という二人のうら若く、美しい女性がいた。
二人は共に、かの後鳥羽上皇の厚い寵愛を一身に、受ける身であった。

建永元年(1206)、上皇が熊野へ行幸された留守に、二人は法然上人の説法を聞いた。
二人は夜更けに御所を抜け出し、住蓮房、安楽房に願い剃髪して尼となった。
時に松虫十九歳、鈴虫十七歳。

ところが、それからが大変である。
もともと感情の激しい上皇のこと、「わしに無断で出家するとは何ごとぞ。剃髪した僧も許せぬ」と激怒し、ただちに「専修念仏全面停止」の院宣を下し、一挙に教団の弾圧を企てた。

翌年二月、住蓮房は近江の国馬渕で、安楽房は洛中六条河原で斬首の刑に処されてしまった。

そして、二人の寵姫も自ら命を絶った。

自害説もあったが、「地元のご詠歌の会に受け継がれてきた和讃から、瀬戸内海の生口島(広島県)の光明房でニ青年僧の菩提を弔い、その地で松虫姫は三十五歳、松虫姫は四十五歳で亡くなったことが分った」 − 伊藤正順住職

◎女人往生
古来女性は罪深く成仏できないとされ、死後男性に生まれ変わることで、往生できると説く。
これを「変成男子 へんじょうなんし」という。

 滝口寺

横笛

滝口の出家を知って悲しみのうちに、自らも出家する悲運の女性

宗派    真言宗
住所    右京区嵯峨亀の尾町
電話    871−3829
拝観時間 9:00〜17:00

もとは往生院三宝寺と呼ばれていた。
明治期に廃寺になってしまったものを再興。
高木樗牛の名作『滝口入道』にちなみ、歌人佐々木信綱によって「滝口寺」と命名された。

仏壇には滝口入道と横笛の木像(鎌倉後期の作)がまつられたいる。

『平家物語』十の巻に登場する二人の悲恋。
 
横笛は高倉天皇の中宮徳子(後の建礼門院)に仕えた雑司女。つまり下級の女官だった。
一方、滝口入道は俗名を斎藤時頼といい、平重盛に仕えた後、清涼殿の警固に当たっていた。
この時十九歳。
青年時頼は美しい横笛のかいがいしく働く姿を見かけて、ひと目ぼれ、恋文を送り、二人は恋に落ちた。

ところがこの二人の恋に反対したのが時頼の父である。
息子には相応の嫁を迎えて、平家一門の武士として出世させたかった。
それを横笛ごとき身分の低い女に恋するとは・・・。
父の厳しい叱責にあい、時頼は「老少不定の世の中、いまこそ仏道に入る機縁ぞ」と、いともあっさり俗世を捨て、ここ奥嵯峨の往生院で出家してしまった。
 
驚いたのは横笛である。
出家するならするで一言ぐらい知らせてくれてもいいものを。
矢も楯もたまらず、わが真実の心を伝えたいと供の女と二人、都を出た。
恋人の庵が嵯峨野のどこにあるかもわからぬまま、あちこち尋ね歩く。

と、荒れた僧房から念誦の声が聞こえる。
まさに忘れもしない時頼の声。
供の女に横笛が会いに来たことを伝えさせる。

今や名も滝口入道と改めた時頼は、激しく動揺した。
障子の隙間からそっとのぞくと、そこには、尋ね疲れ果てた哀れな横笛の姿があった。

横笛の切ない心を知ると、滝口の心はさらに動揺する。
今ここで彼女に会えば、自分の発心はどうなるのか。
彼は近侍の僧に「そういう者はおりません」といわせる。

無情の言葉に、横笛は泣く泣く近くにあった石に自らの指を切った血で、恨みの歌を書きつけた。

  山深み思ひ入りぬ柴の戸の
  まことの道にわれを導け

横笛は露に濡れた着物の裾を引きずり、とぼとぼと都に帰っていった。

滝口とて未練は深い。
横笛に再び訪ねて来られては道心は崩れる。
時頼はついに女人禁制の高野山に入ってしまった。

絶望した横笛はやがて縁あって奈良法華寺で剃髪し、まもなくその地で亡くなった。

これを伝え聞いた滝口はいっそう仏道修行に励み、高野の聖といわれる高僧になったという。

 高桐院

細川ガラシャ(伽羅奢)
 
  『先立つは今日を限りの命とも まさりて惜しき別れとぞ知れ
   散りぬべき時知りてこそ世の中の 花は花なれ人は人なれ』

宗派    臨済宗大徳寺派
住所    北区紫野大徳寺町
電話    492−0068
拝観時間 9:00〜17:00

ガラシャとは洗礼名(恩寵)で、明智光秀の二女(三女説あり)玉子(珠子・於玉)。
「容貌の美しさは比べるものなく、精神活発にして鋭く、決断力に富、心情高尚、才知抜きんずる」(日本西教史 宣教師-クラッセ著)とある。

夫、細川忠興(利休七哲の一人)は歌人としても有名な幽斎の長男、明智も細川も織田信長の重臣であり、両家の縁を取り持ったのも信長その人だった。
夫婦はともに十六歳。三男二女を産む。

ところが四年後の天正十年(1582)の本能寺の変で玉子は幸福な妻から一転して「逆臣の娘」という重い運命を背負う。

苦悩は玉子を妻とする忠興も同じだった。
当時の習いとして謀反人の一族は斬首の刑に処せられる。
細川家では玉子の処置に困り、仮の離縁をし、玉子を味土野(三戸野)という山奥に幽閉した。
玉子に同行した清原の娘小侍従(洗礼名マリア)が熱心なキリシタンで、不遇な生活を慰められたり、神の話を聞かされたらしく、味土野で玉子はキリシタンとなっていた。
異説あり ー 秀吉によって、キリスト教禁止令がだされ、宣教師たちはことごとく帰国させられ、珠子は洗礼をあせった。セスペデスは清原マリアに洗礼の法を教え、珠子に自宅で洗礼を受けさせた。天正十五年八月のことである。

幽閉生活二年の後、今や天下人となった豊臣秀吉の許しを得て、二人は復縁した。
*「寛政重修諸家譜」によれば、細川家では「本能寺の変のあと、珠子を離別したが、秀吉の命によって復縁した」*

慶長五年(1600)、徳川家康と石田三成の争いに忠興は徳川方につき関東へ出陣。
大阪の細川屋敷に残ったのは、ガラシャと十一と二つの娘二人と家老の小笠原少斎ら少数の者だけ。
このとき家老小笠原は、主、忠興から、夫人たちを「いざのときは、ただちに処置せよ」と命じられている。
そこへ三成から諸大名の妻に、人質として大阪城に入るように通達がきた。彼女は頑としてはねつけた。「夫の命令がない限り屋敷からは一歩も出ることはできません」と。
三成の兵はついに屋敷を包囲。
ガラシャは家臣に長刀で胸を突かせ、燃えさかる炎の中でみごとに果てた。
三十八歳であった。

ガラシャ夫人に最後まで付き添ったのは、おしもという下女であった。
 
遺体はオルガチーノ神父が弾く鎮魂曲のうち、大阪崇禅寺に埋葬された。
葬儀のあくる日、埋葬されるガラシャ夫人に捧げられた -天国へ向かって- の歌は、ガラシャ夫人と共に暮らした娘二人と侍女達に、忘れがたい浄らかな永遠の命を希わせる念をきざみつけた。

<隠棲の地> 味土野 (竹野郡弥栄町)

丹後で名峰の一つに数えられる金剛童子山(613メートル)の中腹に味土野ちくの台地が広がる。
ふもとからつづら折れに続く府道を歩くこと約四キロ。
中央部の高台がガラシャが幽閉された「女城」跡地で、1936年、地元夫人会が「細川忠興夫人隠棲地」と刻んだ記念碑を建立した。

かつて二百人近い集落だった味土野は今、四戸五人がひっそりと暮らす。

 随心院

小野小町

絶世の美女は多くの男性を虜にし、歌才は紀貫之の賞賛をあびるほど

宗派    真言宗
住所    山科区小野御霊町
電話    571−0025
拝観時間 9:00〜16:30

 歴史の書物は小町について確かなことは何も語っていない。

小野篁や小野道風の孫という説もあるが不明。
「 - わたの原八十島かけて漕ぎいでぬと人には告げよ海人のつり船 - 」とよんだ人の子の出羽郡司小野良真の娘ではないかといわれたが、年代が違う。
古い記録によると、当時、出羽を含む奥州からの釆女は召されてなかったから、小町の母が出羽郡司の娘でなかったか、記録に母の字が欠落したのではないかという人もある。
こうしてみると、確かなのは小野氏の娘であるということだけになる。

近頃では、仁明天皇の更衣、小野吉子が小野の小町ではないかという説が出ている。
宮中の紫宸殿の北にある常寧殿は、后、女御のおられる所なので后町とよぶ。『古今集』の作者三国の町、三条の町はいずれも更衣であるから、小野小町も更衣ではないかとの推察から出ているのだ。
『古今集』巻十五に、小野小町の歌が一首あるが、姉妹で宮仕えをしていた。
『古今和歌集目録』には、三条の町を「紀静子、名虎女、文徳天皇御息所、生惟高親王」、三国の町は、「仁明天皇更衣、貞登母」と記されていて、皇子を産んだ更衣を町とよぶらしいが、はっきりした証拠はない。
小野吉子は承和九年(842)正月八日の『続日本後記』に無位から正六位に藤原賀登子と共に叙されている人である。

それではいつ頃生きていた人かというと、たぶん在原業平(825−880)の生きた平安初期に活躍した女流歌人で、宮使えをしたようである、というしかない。

ただ、紀貫之が「小野小町は、古の衣通姫(允恭天皇の后の妹)の流れなり。あはれなるやうにて、強からず。いはばよき女のなやめるところに似たり。強からぬは女の歌なればなるべし」と評したことから彼女の比類なき美人像が定着し   てしまった。

小町は、宮中に仕える「更衣」、または「釆女」であったともいわれる。
 
小町伝説で有名なのが、深草少将の百夜通い。
小町に恋した深草少将は「百日通えば思いを叶えてあげる」との小町の言葉に、雨の夜も風の夜も通いつづけた。
そして九十九日目の雪の日、少将は行き倒れた。
その恨みが小町に祟るというのが能の「通小町」である。
少将は百夜通いの証に榧の実を一個ずつ置いて帰った。随心院の書院の棚ケースに今も残っている。

後世、小町は美貌と歌才で男を翻弄した因果で、晩年は零落したという伝説が生まれている。
そのひとつが能で知られる「卒塔婆小町」である。
老後、容色も衰え、生活に窮乏し、放浪の尼となって巷をさまよったという。
たとえ夫や子供がいなくとも、小野氏は大豪族。
その一族の小町が放浪の日々を送るとは考えにくい。

佐竹本「三十六歌仙絵巻」の中の後姿だけの小町。
絶世の美女ゆえに顔が描けなかったともいわれるが、彼女を包む謎の多さがそうさせたのかもしれない。

 祇王寺

祇王 祇女 刀自 仏御前

竹林と四季の彩りの中でひっそりと香華の日々を過した白拍子たち

宗派    真言宗
住所    右京区嵯峨野鳥居本小坂
電話    861−3574
拝観時間 9:00〜17:00

嵯峨野一帯は平安の昔より、隠棲者の隠れ里であった。
祇王、祇女の姉妹と母刀自、そして同じ白拍子の仏御前。この四人が尼となり、ひっそりと隠れ住み念仏三昧の生活を送ったところがここ祇王寺であった。

白拍子の歌う「今様」は、当時の流行歌として一世を風靡した。
かの後白河法皇も今様に狂い、喉をつぶすほどだったといわれる。

ところで、その白拍子の中でも特に美しく、歌、舞ともに名手と評判の高かった祇王。

平清盛の宴席に呼ばれたのが縁で、寵愛を受ける身となり、西八条(清盛の別邸)の館で祇女、母の刀自とともに人もうらやむ豪奢な暮らしを続けていた。

そんなある日、加賀の国の白拍子仏御前が現れた。まだ十六歳の少女。
自分の美貌と芸に自信のあった彼女は、清盛に舞を披露したいと西八条の館に押しかけてきた。

清盛はそっけなく門前払いを家来に命じた。
それを「せめてお会いになるだけでも・・・」とやさしくとりなしたのが祇王であった。
愛する祇王のすすめに、清盛も渋々仏御前を館に入れた。
そして、仏御前は「今様」をあでやかに歌い、舞った。

もともと色好みの上に、移り気な清盛であった。
このとき、清盛の心はすっかり彼女の虜になっていた。
「帰ることはならぬ」と、仏御前の手をとって離さない。
困ったのは仏御前である。
自分は芸を見ていただければそれで満足、早くお帰しくださいと懇願するが、清盛も強引である。
祇王に遠慮してるならばと、逆に祇王を館から追い出そうというのである。

三年もの間、清盛の寵愛を一身に受けていた祇王は、清盛の突然の心変わりにうろたえた。
遊び女の常としていずれこの日のくることは覚悟していたものの、あまりの急変に心もつぶれる思いだった。
 
祇王は涙ながらに歌一首を襖に書いて館を去った。
   
   萌え出ずるも枯るるも同じ野辺の草
      いづれか秋にあはではつべき

三人の運命はこれを境に一変してしまう。
清盛からの米百石、銭百貫の扶持も絶え、都の片隅で、苦しい生活を強いられたであろう。

そんな時、清盛から使者がきた。
「仏御前が退屈している。今様でも歌って慰めるように」・・・なんという無神経な言いぐさだろう。
祇王は黙殺した。
さらに使いが来る。「自分の命にそむくなら考えがある」と。

悲しみに沈む祇王に、母は言った。
「いくら気まぐれな方とはいえ、清盛様の命にそむけば、都にいられなくなる。この年で田舎暮らしもつらいから、親孝行と思って行っておくれ」
祇王は母の哀願に逆らえず、妹を伴い渋々西八条の館に出向いた。
二人が通されたのは身分の低い者の部屋だった。
祇王は、清盛とともに上座に座る仏御前の前で、悲しみをこらえ、今様をあでやかに舞った。

このあまりの残酷、無残な仕打ちに三人は死を考えるものの、思いとどまる。
だが都にとどまれば再び同じ辱しめを受けぬとも限らない。
そこで髪をおろし、嵯峨野の草庵に隠栖してしまった。
時に祇王二十一歳。祇女十九歳。母刀自四十五歳。

その年の秋。
三人が念仏を唱えていると、表の戸をほとほととたたく音がする。
表に出てみると、そこに立っていてのは、なんと仏御前であった。
「あなたさまが出て行かれるときに襖に書かれたお歌が心にしみました。この世の栄華は夢の夢、若いからとて頼みにはなりません。どうか今までの私の罪を許して一緒に念仏させてくださいませ」と、彼女は、すでに尼の姿となっていた。
仏御前の心に打たれた三人はその後、ともに暮らし、朝夕念仏を唱えながら、この地で往生を遂げたという。

祇王寺の草庵には、今本尊の大日如来の左右に清盛と四人の尼の木彫があり、園内奥には清盛の供養塔と、祇王、祇女、母刀自の墓がある。
しかし、なぜか仏御前の墓は見当たらない。

◎ 祇王 祇女 仏御前
『平家物語』の巻の一に「祇王」として登場する。
しかし、念仏思想が盛んになったころに挿入されたという説もある。
あるいは、物語を語り伝えた琵琶法師の創作かもしれない。

◎ 白拍子
平安後期から中世にかけての舞妓。
白水干を着用し、男装して今様を歌い舞う。
水干というのは、当時の庶民の男子の普段着。
無伴奏の拍子を白拍子といい、これに由来するともいう。実際には鼓や笛を使ったらしい。

◎ 今様
平安後期に流行した歌謡。
前代からの神楽歌、催馬楽などに対し、当世風の歌といった意味。
今様は、白拍子や遊女などによって歌われただけでなく、宮廷貴族の間でも流行し、特に熱烈な愛好家だった後白河法皇は今様を集大成し『梁塵秘抄』を編纂した。
室町末期にはほとんど廃絶したが、旋律のひとつとして残ったのが黒田節である。

 泉涌寺

<楊貴妃観音>

清少納言
 
没落の一途をたどっていく、中関白家出身の美しくも聡明な皇后定子。
皇后を守りながらライバル紫式部との葛藤の中で書いた『枕草子』。誇り高き宮廷の才女。

宗派    真言宗泉涌寺派本山
住所    東山区泉涌寺山内町
電話    561−1551
拝観時間 9:00〜16:30(冬季は16:00)

清少納言の家系は、天武天皇系統の皇別で、藤原真人の流れを汲み、深養父 - 春光 - 元輔・五十九歳の時の娘で、橘 則光と結婚、一子をもうけるが、実直な夫との平凡な生活に飽き足りなかったのか、夫と子を捨て、一条天皇    の中宮であった定子に仕えるために、宮中に入る。

定子入内後は、「中関白家」といわれ、一族は人もうらやむほどの栄達ぶりだったという。
清少納言にとってもあふれる才能を思う存分に発揮できた、もっとも華やかな時代だった。

ところが、定子の父の道隆が流行病で没し、道隆の弟道長が天下を取るや、定子周辺の運命は一変する。

長保二年(1000)、道長は、わが娘の彰子を強引に一条天皇の中宮として入内させた。
定子は皇后となるが、皇后、中宮とも正妻、一人の天皇に二后という前代未聞の事態となったのだ。
その中宮彰子に仕えたのが、紫式部である。

定子はそれでも天皇の寵を受け、三人目の子供を出産。
ところが難産が元で、あっけなく二十五歳の若さで他界した。
清少納言は彼女に最後まで寄り添い、励まし、自らは宮廷内の権力闘争の醜悪さを凝視した。

長保三年(1001)、清少納言は宮仕えを辞したらしいが、その後のことは不明である。
藤原棟世と結婚し、棟世との間に小馬命婦を生んだ記録があるが、棟世は清少納言が宮仕えを辞してからの夫らしい。
万寿二年(1025)、前雅楽頭為成が卒去、このころ清少納言も没したのではないかと思われる。
この年、清少納言は六十歳と推定される。

「落ちぶれても駿馬の骨は買い手があるもんだよ」

 寂光院

建礼門院
 
平家一門の栄枯盛衰とともに極楽と地獄を見た女院

宗派    単立寺院
住所    左京区大原草生町
電話    744−2545
拝観時間 9:00〜17:00

もとの名は、平徳子。出生がいつであったかは正確にはわからない。
平清盛の娘で、承安(1171)元年十五歳で、高倉天皇の女御として入内、翌年中宮(皇后)となる。
このとき天皇は十二歳。
六年後、徳子は平家一門待望の皇子を出産する。
皇子は早くも一ヶ月後に皇太子となり、やがて天皇の譲位によって、三歳で皇位を継いだ。
安徳天皇である。
このころが彼女の絶頂期であろう。

治承五年(1181)一月、高倉天皇が二十一歳の若さで世を去った。
二十五歳の未亡人徳子に、建礼門院の院号が贈られた。
 
徳子の非運はこの頃から始まる。

同年二月には父清盛が死亡。
この時すでに源頼朝、木曽義仲をはじめ源氏が諸国で兵を挙げていた。

寿永二年(1183)義仲は北陸から京へ攻め上ってきた。
平家一門は狼狽し、西国へ逃れる。
平家は都落ちし、流転の日々が始まるのである。この都落ちに徳子は幼い帝を抱いて従った。
筑前では当地の武士にそむかれ、長門で船百艘ほどを調達、一族は分乗して四国は八島(屋島)へ逃れ、源平は戦うがまたしても敗れ西国へ逃れていく。
八島より逃れて一ヶ月後、ついに源義経によって壇の浦まで追い詰められた。
壇の浦の船上は、まさに阿鼻叫喚の生き地獄だった。

覚悟の時がきた。
怯える八歳の天皇に、徳子の母、二位尼時子が「波の下にも都はございます」と論し、そのまま幼帝を抱いて海に身をおどらせる。
治承四年(1185)、平家は完全に滅亡した。
徳子も身を投げるが、幸か不幸か、長い黒髪を渡辺源五馬允昵という武者の熊手にかけられ助けられた。
捕らわれの身となった彼女は、四月二十七日東山の麓、吉田の地(中納言法印慶恵という奈良法師の坊)に仮住まいする。
(現、京都市左京区吉田中阿達町辺りの野河御所説あり)

やがて五月、東山の長楽寺で出家した。
この時授戒僧への布施として差し出すものもなく、安徳帝の唯一の形見であり、いまだ移り香をとどめる直衣を納めた。
この直衣で作られた幡が今も長楽寺に伝えられている。

さらに九月、女院はいよいよ都を離れ、寂光院の傍らに隠棲した。
この時、二十九歳。
平家一門の菩提を弔い、自らは寂光浄土を求める静かな暮らしが始まったのである。

女院の生活は実に質素であった。
供の者といえば、阿波内侍と大納言佐ら数人。
麻の衣に紙のふとん。
黒染めの衣に身を包み、その日のたつきにも事欠くありさまであった。

翌年の初夏、突然に後白河法王が草庵を訪れる。
平家討伐の院宣を源氏に与え、平家を滅亡に追いやった権謀術数にたけた老獪な人物の真意がつかめなかった。
対面を躊躇するも、仏前で対座する。
「今は心静かに仏に帰依し、ひたすら極楽往生を願っております」
さらに女院は、自分と一族の有為転変のさまを語り、それはまさに六道輪廻だったと回想する。

「御念仏の御声、やうやう弱らせましましければ、西に紫雲たなびき、異香室に満ちて、音楽空に聞こゆ。
   限りある御事なれば、建久二年二月中旬に、一期遂に終わらせ給ひけり・・・」
建久二年(1191)、女院は病を得て他界した。
女院の享年については、三十七歳・五十九歳・六十九歳などの諸説がある。

* 女院の出家について『吉記』元暦ニ年(1185)年五月一日の項に、「建礼門院御出家事、今日建礼門院有御遁世、戒師大原本成房云々」とある *

 
 

 京に縁の女性

 
女性名
縁の地
女性名
縁の地

 
王朝時代

 
和泉式部 真珠庵に「産湯の井戸」
東北院には「軒端の梅」など数多い
誠心院 − 梅の木で造られた式部像
道綱の母 鳴滝・般若寺跡
清少納言 京都御所・清涼殿 孝標の女 大津市・石山寺
成尋の母 左京区岩倉・大雲寺 赤染衛門 嵐山・法輪寺
小野小町 山科・随心院 讃岐典侍 京都御所・清涼殿
巴御前 大津市・義仲寺 紫式部 上京区・蘆山寺

 
 中世時代

 
建礼門院右京太夫 大原・寂光院 小宰相局 岡崎・法勝寺九重塔跡
静御前 堀川六条・佐女牛井の跡 恵信尼 烏丸三条・六角堂
俊成卿女 烏丸松原・俊成社 二条 祇園・八坂神社
阿仏尼 九条大宮・大通寺 森盲女 大徳寺・酬恩庵
勾当内侍 嵯峨野・祇王寺 西園寺名子 鹿苑寺(金閣寺)
弁内侍 京都御所 本覚尼 九条大宮・大通寺

 
 戦国時代

 
日野富子 上京区・宝鏡寺 お市の方 滋賀県・小谷城跡
細川ガラシャ 大徳寺・高桐院
竹野郡弥栄町字味土野
高台院 東山区・高台寺
淀君 東山区・方向寺 松の丸殿 京都女子大近くと新京極三条
山内一豊 妙心寺山内大通院 千姫 伏見桃山御陵

 
 江戸時代

 
東福門院 二条城 春日局 妙心寺麟祥院
梶女 八坂神社 百合女 金戒光明寺
玉瀾 円山音楽堂・池大雅堂旧跡 妙秀 鷹峯・光悦寺
吉野太夫 鷹峯・常照寺 桂昌院 大原野・金蔵寺
小野寺舟女 堀川五条・久成院 可南 嵯峨野・落柿舎
千子 左京区・真如堂 くの 左京区・金福寺

 
 明治時代

 
梅田信子 五条坂・安祥寺 村山たか女 左京区・金福寺
和宮 京都御苑内・胎範碑 お竜 伏見区・寺田屋
君尾 壬生・新撰組屯所跡
左京区・超勝寺
村岡局 嵯峨・直指庵
蓮月尼 北区・蓮月庵 紅蘭 鴨沂小隠跡
南禅寺・天授庵

 
 群 像

 
檀林皇后 嵯峨天皇皇后 藤原順子 (五条后) 文徳天皇を産む
藤原明子 (染殿后) 清和天皇を産む 藤原高子 (二条后) 在原業平との密通は有名
藤原安子 冷泉・円融天皇を産む 東三条院詮子 わが国で初めて女院号を贈られた人
選子内親王 大斎院とも呼ばれる 藤原定子 一条天皇皇后
上東門院 定子と二皇后併立 伊勢大輔 三十六歌仙の一人
馬内侍 三十六歌仙、梨壺五歌仙の一人 小式部内侍 和泉式部の娘
袈裟御前 源渡の妻 式子内親王 後白河天皇の皇女
高階栄子 後白河法皇に仕え、丹後局と呼ばれる 美福門院 鳥羽天皇の皇后
藤原多子 近衛天皇皇后 祇園女御 白河法皇の女御
池禅尼 清盛の義母 常盤御前 今若・乙若・牛若の母
建礼門院 高倉天皇の皇后 小督局 高倉天皇の妾
安嘉門院 御堀川天皇の准母とし皇后となる 横笛 建礼門院の雑仕
祇王・祇女 現在の滋賀県野洲町生まれ 佐の局 安徳天皇の乳母
千日尼 遠藤為盛の妻 如大尼 尼寺五山の一つ景愛寺を開く
山吹御前 木曽義仲の妾 阿亀 名工長井飛騨守高次の妻
松虫・鈴虫 後鳥羽上皇の女官 阿野廉子 後醍醐天皇の後宮の一人
北山院 皇族や天皇の後宮でなく、准母となり女院号を賜った例は他にない 裏松重子 室町時代の悪女ともいわれる
今参局 足利義政十五歳の時の側室 白井局 足利義輝に仕え、白井局と称した
天瑞院 豊臣秀吉の母 伝通院 徳川家康の母
瑞竜院 秀吉の実の姉で名は日秀 千吟 千利休の娘
芳春院松子 十三歳で前田利家と結婚 常高院 淀君の妹
出雲阿国 阿国歌舞伎の創始者。狂言師三十郎と結婚 清涼院(お亀の方) 石清水八幡宮の神官の娘で、家康の側室となる
八千代太夫 島原の遊女で、知恩院の初代門跡・良純親王に見染められる 明生天皇 女帝として、在位十五年
夕霧 島原の名妓 衛門内侍 参議康頼の娘
松尾多勢子 足利三代木像梟首事件や天誅組の大和挙兵、天狗党にも協力 登勢 伏見「寺田屋」の女主人。養女「竜」は坂本竜馬の妻になる
幾松 桂小五郎、後の木戸孝允夫人となり松子と名乗る _ _