■■■ 茶席の見学 全38席予定【更新】 2003.07.21 8席追加
昨夢軒 -大徳寺黄梅院-|閑隠席 -大徳寺聚光院-|松向軒 -大徳寺高桐院-|
三石の席 -大徳寺大光院-|篁 庵 -大徳寺三玄院-|密庵席 -大徳寺龍光院-|
忘筌と山雲床 -大徳寺孤蓬庵-|庭玉軒 -大徳寺真珠庵-|蓑庵と霞床の席 -大徳寺玉林院-|
安勝軒 -大徳寺瑞峯院-|点雪堂 -表千家-|不審庵と残月亭 -表千家-|
又隠 -裏千家-|今日庵 -裏千家-|寒雲亭 -裏千家-|官休庵 -武者小路千家-|
半床庵 -久田家-|長生庵 -堀内家-|
昨夢軒 -大徳寺黄梅院-天正年間(1573〜1591)の建立と伝える本堂をもつ黄梅院には、武野紹鴎の参禅した春林宗叔和尚が開山であった縁故で、紹鴎が好んだという茶室昨夢軒があります。
これは本堂の奥の一棟の書院(自休軒)のなかに造りこまれた四畳半の茶室です。
この自休軒は寺伝では増田玄祥の建立と伝えられるが、それほど古いようには思われません。
この茶室は紹鴎(1503〜1555)好みといわれますが、利休時代より古い、たとえば利休の待庵よりさらに古い要素というものはどこにもみられません。
しかし、そんな古い建物がそのままの形で今日まで伝えられるということは茶室の場合には考えられませんから、古そうにみえないというだけで伝えを否定してしまうことは必ずしもおだやかではないでしょう。南坊録など、いろいろな伝えからうかがわれる紹鴎時代の茶室の姿というものは、まだ利休時代のように草庵的な姿でなく、まだ固い書院的な風格をもっていたと伝えられていますから、そういう意味で長押などを付けたこの茶室には、やはり茶室としての初期の形態が残されているのかもしれません。
けれども、たとえばその長押も丸太長押であったり、また床のなかに窓をあけたり、そうしたへやの調子は、初期の茶室が持っていた書院的な風格というよりも、もっと江戸時代になったからのお茶好みの書院という気分にあてはまるような気がする。
しかし現在、実際に紹鴎好みであると伝えられる遺構がないのでありますから、多少でも、こうした紹鴎時代の書院的な形を残した茶室が、紹鴎好みとして伝えられていることはたいへん有意義なことのように思われます。
とくに、ここのように広い書院のなかの一室として存在している茶室ですから、このごろでは大寄せの茶事にはたいへん具合のよい茶室になっています。
この茶室は、憶測すれば、当院には大綱和尚という茶を好んだ住職がいた時代があるため、この茶室もあるいは大綱和尚のころに手が加えられいまのような形で伝えられるようになったのかもしれないと思います。紹鴎好みといわれる遺構には、まだ堺の南宗寺に大黒庵というのもありあますが、それよりはこの昨夢軒の方が紹鴎好みに近いものをより一層感じさせるものがあるといえましょう。
また、庫裡に接続して不動軒とよばれる建物があります。
六畳ほどの座敷で、古風な反り屋根の切妻造の外観をもつ一風ある庵室です。聚光院では近年、利休屋敷から移してきた茶室(利休切腹の部屋)と伝えていますが、実際には如心斎(表千家七代)が利休の百五十回忌にこのお寺へ茶所を寄付したという記録がありますので、きっとそのときの茶室に違いありません。
あるいは、その床柱・中柱にどは如心斎よりも古く、利休時代(十六世紀)の茶室の古材が利用されているのかもしれませんが、しかし、利休好みの茶室としての特色は充分に発揮されています。
たとえば、その構成がひじょうに簡潔、単純であること、天井は客座の上が平天井、点前座の上だけ蒲の落天井、そこにおとなしい丸みをもった花頭形の茶道口が付けられて、全体各部の手法がまったく利休流の茶室の作り方にそってできているのであります。
この茶室は独立して庭の中に建てられた茶室でなく、一棟の建物のなかに作りこまれた茶室です。
したがって、外観を見ると大きな切妻造りの一棟の妻の壁面に庇を付けて低くおちつきのある茶室の入り口を形づくっています。
そして、座敷の方には縁側をつけ、茶室の方よりも一段高く庇を付けて、そをこ腰掛に利用するようにしています。
こういう茶室の構成ですから、いきおい窓も少なく、躙口の上の連子窓と床脇の下地窓(墨蹟窓)だけであります。
したがって室内はひじょうに暗い感じがします。
一般に利休流の茶室は明るさを殺す傾向がありますが、なかんずくこの閑隠の席は暗いという印象を強くうけます。
そして、そういう暗さのなかに、利休流の茶室のきびしさを見出します。
利休は床脇の墨蹟窓を好まなかったらしいし、床脇の窓を称して織部窓と呼んでいるように、織部の好みに発するという伝えもありますから、このような窓をもつこの茶室は利休の直作ではないことを感じさせるのでしょう。
おそらくは、如心斎のころに利休時代の古材を利用して、とくに利休好みのきびしい茶室の姿をここに再現したのではなかろうかと思われます。閑隠席についた水屋は三畳敷で、北側に水屋があり、南側には板を入れて丸炉を切っております。
ここは利休流の水屋の典型的な形式として、また、ひじょうに使い勝手のよい水屋として茶人のあいだでは名高いものです。
この水屋の作者は了々斎(表千家九代)であるらしいことが小襖の裏に書かれております。
年代は文化年間としるされています。
その後も改造されてはいますが、表千家にある水屋に見るような利休流の水屋の典型的な形式をそなえています。
この水屋をはさんで、もうひとつの茶席があります。
だからこの水屋は、閑隠席の水屋であると同時に、また桝床の席の水屋としても使われます。この桝床の席ははっきりした作者はわかりませんが、一説によれば水屋を造ったという了々斎の時代につくられたものではないかという説があります。
また桝床という形式が覚々斎(表千家六代)の好みであるというところから、覚々斎が造ったものであるともいわれています。
しかし実際につくられた年代はだいぶん新しいものであるように見受けられます。
閑隠席がひじょうに利休流の姿をとどめているのに対して、この桝床の席は新しい時代の傾向を反映しています。
とくに桝床という形式自体がはなはだ整然とした間取りの形式を組み立ててます。
それは四畳半の一隅の半畳分だけを床に当てた形です。
したがって、床が部屋の一隅に形づくられるためひじょうに部屋全体を広く感じさせます。
そそてここでは、天井も客席と点前座との三畳の上を一面に平たいのね板張りの天井とし、床前、出入口寄りの一畳分だけ屋根裏にしてあります。
出入口は躙口ではなく障子を二本はめた貴人口の形式になっていて、高さ内法四尺二寸五分のきわめて低い入り口です。
そして隣室との境には腰高障子などがはめられています。
こうした席の構成は、たとえば閑隠席にくらべてひじょうに開放的で、しかも純粋な茶室というよりも多分に日常の居室として、また書斎として使えるような性格をそなえた点で、閑隠席の暗さに対して明朗快活な気分を含んでいます。
しかし全般の手法は千家流のオーソドックスな手法にしたがってできているのです。
いわば利休時代から江戸時代へ、時代とともに進んできた利休好みの茶室のひとつの姿とみてよいでしょう。、
この席の簡潔さ、開放的な性格が共感を呼んだのでしょうか。
先年、ニューヨークの近代美術館の構内には、この桝床の席をモデルにした茶室が造られたということです。松向軒は玉甫和尚を開基とし細川三斎が慶長年中(1596〜1614)に建てた菩提寺で、この寺には細川三斎が好んだという茶室が伝えられております。
本堂の北の方には、利休屋敷から移してきたといわれている書院があります。
その書院につづいて水屋があり、この松向軒が西を向いて建てられています。
柿葺、片流屋根の妻に庇をつけ、一方の隅に刀掛けがつくられ、正面に躙口があり、その上には下地窓があけられています。
内部は二畳台目で、南側の壁には連子窓をあけ、その上が竹(木垂)竹木舞の化粧屋根裏、そして床の前が平天井、点前座の上が一段低く蒲の落天井と、三つの変化が天井に作られています。
点前座には中柱が立ち、その後方、すなわち床とつづきの壁面は太鼓襖を二本立てた出入口になっており、この外に茶道口がついています。
この床脇の襖二本立の出入口の外には一畳敷きの控えのような場所があります。
したがって、この二枚の襖を取り外せば席を少しくひろげて使うことができます。
しかし、このような構成はもとからこうなっていたのではなく、もとは普通のこの種二畳台目の茶室の場合のように、床脇に花頭窓の給仕口がついていたのです。
そういう構成では席が広く使いにくいというので、このような開放的な壁面の扱いに改造されたということです。
このような改造があり、またそのほかの材料も多く新しいものに取り替えられていますけれども、席の基本的な構成では三斎の好みがくずされていないと伝えられています。
利休流の二畳台目と変わらない仕組みや材料の取合わせ床まわりの構成など、やはり利休のやり方をすなおに尊重したという細川三斎らしい好みを偲ばせるに充分なものがあるように思われるのです。細川三斎の遺構としては、このほかに天龍寺の常真院という塔頭にあった三斎の茶室などが図によって伝えられているようですがいまは残っていないのが残念です。
この松向軒の松向という名前は、かの北野の大茶会に細川三斎が経堂前に一亭をもうけて、それを松向庵と称したことに始まるといわれています。
なお高桐院には本堂のほかに、もう一つ茶室鳳莱があります。
この本堂は新しく明治末年の建築で、この茶室もまた大正十二年(1923)円能斎の好みになると伝えられています。
座敷は八畳敷きで本堂(方丈)の一室が茶室になっているところは、ちょうど孤蓬庵の忘筌の場合を思わせます。
本堂の側面に立つと、そこの茶室の入口が見えています。
入口は板戸を引きちがい躙上りの形式ですが、その上にいっぱいに竹打窓をあけています。
座敷から少し下がって丸太張りの広縁があり、その広縁から、さらに腰高障子をあけて茶室のなかへはいるようになっています。
こういう構成は普通の利休流の茶室にはみない手法です。
かの金地院の茶室など小掘遠州あたりによくみられる手法なのです。
このような方法を用いたのは仏堂であるため床高が高く、庭から直接座敷にあがれないので遠州あたりが行った手法を応用したのでしょう。
室内には一間の広い床が構えられ、それと直角に付書院が設けられています。
天井は一種の格天井(高さ九尺五分)とされ、その意匠は裏千家咄々斎に見る一崩の意匠を取り入れています。
普通の小間の茶室ではなく八畳敷という広い部屋ですが、そのなかで茶の湯の気分を出すために円能斎の示した工夫は、新しい時代の茶人の創意のひとつとして注目したいものです。
床柱に太い柱が立てられていることもこの人の好みの傾向といえましょう。
利休流の茶人ではありますが、このような間口の広い手法を応用するようになっていることも新時代の茶室の動きなのでしょう。
露地には有名な高桐院の袈裟型の手水鉢があり、下り蹲踞の形式が巧に仕組まれています。龍光院のとなりに大光院という塔頭が復興されました。
ここには黒田如水の好みと伝えられる茶室が移し建てられています。
この茶室がはたして黒田如水の好みになるものかどうか確かなことは判りませんが、先年まで解体して保存されていたものに古図も付け添えられていました。
この席は、現在三石の席と称されていますが、これは、もともとこの席についた露地のなかに如水の子黒田長政、その友人加藤清正、福島正則の三人がそれぞれ一個ずつ露地の捨て石を寄進したという話があるからです。新しく再興された茶室ですから、見た目には古めかしい感じはほとんどしません。
もともと、どんな場所に建っていたのか知りませんが、このような茶室の外観は、切妻造の屋根を主体として前面に庇を付け、そこには突上窓があけられ、それから側面の方にも折れ曲がって庇が付いており、いわば四方正面の姿を示しています。
一隅に躙口をあけ、他方に袖壁をつくって刀掛をこしらえ、草庵茶室の定型を組み立てています。
やや外観のまとめ方としては窮屈なところも感じられます。
内部は二畳台目で客座の後ろはいっぱいに連子窓、また躙口の上も柱間いっぱいに連子窓があけられ、かつそれにつづく壁にも横長の下地窓があけられており、ちょっと変わった窓のとり方といえるでしょう。
普通の場合躙口の真向かいに床が構えられるのですが、ここでは逆に点前座の方に片寄せて構えられており、給仕口のないのも目をひきます。
これはむしろ客座から床を眺める位置を考えてとくにこのように構えをしたのでしょう。
点前座は台目畳ですが、その脇にちょうど不審庵に見るように幅五寸七分の板畳をいれています。
天井は床前がのね板張りの平天井で点前座上は蒲の落天井、その残りの部分は化粧屋根裏になっており、それらを支えて立つ中柱が赤松の皮付ですが、やや細く、おれ曲がりも大分大きいものが使われています。
このように三畳台目の草庵茶室として、とくに間取りの上では板畳を添えただけのいわば定石的な間取りを示していますが、いま述べたように床の配置や窓のあけ方などに少し変わったところが見られ、そういう点に特色があるともいえましょう。
釣棚も普通の場合のように三重棚ではなく、一重で横竹よりも少し高いところに取り付けられています。
こうした好みがはたして如水の好みを伝えたものであるかどうかはまったく知るよしもありません。大徳寺の三玄院には篁庵という茶室があります。
これはもと西本願寺にあったものを明治になって薮内家によって当院に移されたものだといわれております。
茶室は薮内家の燕庵と全く同形式のもので、篁庵の額は本願寺の法如上人ならびに、文如上人によって一字ずつ書かれたものだといわれています。
この年号が文政八年(1825)とあるので、多分茶室もこのころにできあがったと考えてよいでしょう。燕庵と同形式の茶室には、尾道浄土寺の露滴庵、篁庵、妙心寺天球院の蓬庵などがあり、少し変化はあるが、燕庵系の部類に入れてもいい席として金沢の兼六公園の夕顔亭、また千少庵の作といわれている会津若松の鱗閣などをあげることができましょう。
この茶室の平面が、三畳の客座を中心にして一方に台目の手前畳、一方に一畳の相伴畳をつけた形で、それを鳥の翼にたとえて燕庵と呼び始めたと説かれたりしています。
こういう間取りですから相伴畳の前に少し入り込んだ土間庇の空間ができ、ちょうど、躙口の前が小さな玄関のような格好になるのが特色です。
そして、そこの隅に刀掛けが釣られ、相伴畳の前の下地窓には力竹がそえられています。
力竹といえば、この席の左右外廻りの壁面に合わせて六ヶ所もの力竹が立てられ外景に風趣をそえています。
外観は入母屋造りで、内部は正面の床には黒の塗框を横たえ、床柱は杉のなぐり、その相手柱は雑木につらを付けた丸太が立てられ、床の中の左側の壁には墨蹟窓をあけています。
こうした床構えも燕庵系の茶室の特色であります。
そして茶道口は方立口の形式でその方立にはとくに竹が立てられているのもまた燕庵系の特色であります。
もう一つの特色は、中柱の横木(吹抜の壁止)と下座の下地窓の敷居とが共通の水平材で通され、中柱の袖壁と続きの壁面とを一体にしてしまった明快な構成であります。
そして天井は、床前から客座二畳および点前座の上が蒲の平天井で、躙口寄りの一畳の上だけが屋根裏とされ、そこに突上窓があけられています。
つぎに客座と相伴席との一畳と一尺三寸の板が入れられており、花頭口を経て勝手口に通じています。
点前座は隅に二重の釣棚(ひばり棚)がもうけられ、正面に風炉先窓、勝手付きの壁面には上に竹連子窓、下に下地窓を少し位置をずらせて重ねて配置しています。
このような配置の窓形式をとくに色紙窓と呼んでいます。
この点前座の部分の腰張りだけにとくに反古を使うのも燕庵系の点前座の特色となっています。この燕庵系の茶室は織部によってはじめられたと伝えられていますが、こんにち、その本歌は失われてしまい、はじめにあげたような諸例によってそれをしのびうるだけです。
大徳寺の龍光院は黒田如水が父長政の菩提を弔うために、慶長十一年春屋和尚を請して開いた寺であります。
間もなく春屋和尚の法弟の江月和尚が入寺しました。
江月はいうまでもなく、津田宗及の息で小堀遠州や松花堂昭乗とも親交がありました。
遠州は慶長十七年に、この龍光院内に孤蓬庵を創立しております。
孤蓬庵はのちに現地へ移りましたが、遠州の好んだ茶室密庵はいまも龍光院に残っています。
壊疽初期の書院の一隅、書院の主室に隣り合って設けられた四畳半台目の茶室です。
茶室とはいいながら床があり、違棚があり、また、もうひとつ付書院と同じ格好をした床があります。
このような床を蹴込床といっています。
この床は有名な密庵禅師の墨蹟を掛けるためにとくにつくられた床であるといわれており、密庵席という名称はこうした特殊な床のあるところから出ているのです。
書院との境の口は襖四枚だて、また庭に面した縁側との境と茶道口にあたる方の入口には、いずれも腰高障子をはめています。
客の入口になる縁側には高欄が付けられ、その半分は切って庭からの上り口になっています。
しかし、これは江戸時代の床になって、このように改造されたものをつけたということです。
そして長押がめぐらされた天井も棹縁天井です。
張付壁には淡彩の水墨画が描かれています。
こうした部屋の佇まいは小さな書院座敷という感じです。
しかしながら、そういう書院風の小座敷のなかにとくに台目の点前座をつけ、その部分だけを落天井とし、中柱をたてて二重の釣棚をもうけている。
こうした点前座の構えだけはまさしく茶室の規格にはまった意匠です。
いわば四畳半という書院風な小座敷に台目の点前座を付け加えた構造であるといえましょう。
床柱はとくに素朴な手斧目だて丸太ですが、床框は、やはりあらたまって墨蹟の框を用いています。
飾棚は下に地袋を、上に天袋を設け、そのあいだに趣向を凝らした三段の違棚をつくりつけております。
この棚は茶の湯の名器をかざるためにとくに意匠や寸法が工夫されているのでしょう。ただの書院造の座敷にみられる違棚とは異なって、やはりお茶の気持ちがよくあらわれた棚がまえであることに感心させられます。
棚の小襖は松花堂昭乗の筆、座敷の張付画は狩野探幽、いずれも江月や遠州と親しい間柄の人ばかりです。
松花堂は寛永十六年に亡くなっておりますから、この茶室は、それ以前にできていたとしうる公算が大きいと考えられます。
それからこの茶室は、最初は書院から離れて別に建っていたという事実が明らかにされており、そのことを考えに入れてみることが必要です。
西側の縁が南側にも廻っていて、そこから席入りするようになっていました。遠州は古田織部の弟子であります。
織部は燕庵系の茶室でもうかがわれるように武家茶人ですが、やはり草庵風を基調にしておりました。
ところが遠州は全く基本を書院風にうつし、そのなかへ草庵の要素を消化するという立場をとったのが特色であると指摘されます。この密庵席は、遠州のそうした傾向を素直に示した実例といえましょう。
孤蓬庵は慶長十七年(1612)に小堀遠州が龍光院のなかに建てた寺ですが、寛永十九年(1642)になって現在の土地に移ることになり、新しく建築や庭がつくられました。
そこには客殿につづいて茶室を含んだ座敷がつくられ、遠州晩年の遺構として、もっとも記念すべき建物でありました。
しかしその建物は寛政五年(1793)に火災にあって焼失してしまい、その後まもなく当時の住職、寰海和尚が松平不昧公の助力を得て再興したのが現在の建物や庭であります。
再興の時には遠州時代の建物の状態をできるだけ忠実に守って復興されたといわれます。
焼失前の建物の詳細な古図が残っており、それと比べると大まかな建物の配置などはおおむねかわりないそうですが、座敷や茶室の間取りなどにはかなり変化があるそうです。
しかし、忘筌の席は、入口付近の飛石や手水鉢の構えと一体の特色ある構成をもってもらうために、遠州時代の形がおそらくはそのままに再現されていると考えられています。この忘筌の席は塔頭の方丈の一室にあたる位置を占め、十二畳敷きの広い座敷です。
座敷の外には広縁がつき、さらに一段低く落縁がついて庭につらなっています。
その庭との境は前面をあけはなたず、途中に敷居をいれ、それから上へはとくに明かり障子をはめ、敷居の下だけが吹き抜きになって庭と屋内の空間とが接している。
この縁先の独特な構成は俗に舟入りの構成とか、あるいはまた蓬窓(舟の窓をかたどった意匠)を模ったものとして広く知られているもので、遠州の芸術性の高さを示す好例ともなっているものです。
忘筌の前庭は八景の庭と称され、これは瀟湘八景を写したとも、あるいはまた近江八景を写したともいわれていますが、近江八景を写したとすれば、遠州が故郷へ帰る舟旅の情景をこの建物の構想の中に託したのではないかと思われます。
こうした八景の庭と結んで、この縁先の構成が舟窓にたとえられているのも、忘筌の座敷から静かに八景の庭を楽しむこの座敷と庭との関係を物語っているともいえましょう。
座敷は全部角柱で正面に全部長押をうちめぐらしております。
とくに床まわりも長押をうっている点は大変珍しい手法だと指摘されています。
壁はもちろん張付壁で、やはり水墨画が描かれています。
天井はいちめんに竿縁天井であります。
部屋の佇まいは面皮柱などを主にしていた密庵席よりもいっそう書院風な感じの強いものです。
草庵風な様式を茶室の特色だと考えがちな私たちには、一見茶室とは思えない座敷であります。
ただこの座敷にはいって茶の雰囲気を感じるのは、席中に炉があることと、庭を眺めたとき縁先に手水鉢があり、その向こうに灯籠が見えている、その景色に接しうることだけです。
こうした全く書院風な佇まいの中に、巧に茶の湯がおこなえるようなすじ道を考え、書院風な意匠のうちに、どこかしら茶の湯の気分をひそめているところに、茶人遠州の非凡な腕前があるといえましょう。
たとえば、たんなる竿縁天井であるとはいえ、その板は俗に砂摺り天井といわれるもので、清楚な侘びの感じを表しておりますし、太い角柱や長押があっても、この座敷にすわると格別、格式ばった感じもなく、ふしぎな魅力が私たちを包み込むのです。この忘筌から折れ曲がっていくつかの部屋を通ると、一番奥に直入軒という書院座敷があります。
この書院座敷の次の間には違棚があって、そこにも炉(向切)が切られ、そこでお茶が点てられるようになっております。この直入軒の書院のとなりに山雲床という茶室があります。
これは四畳半台目で密庵席の写しとみられるものです。
これは遠州時代にはなかった茶室で、松平不昧公が再興するときにとくに密庵席を基本にして、ここへ遠州好みの茶室を再現したのでしょう。
ここには密庵床や、あの違棚はありません。
そして床の間には密庵席にはなかった墨蹟窓があけられており、床柱も白い色をおびた椎の丸太をたてております。
亭主側の出入口の上の小壁には下地窓があけられております。
庭からも縁を経ずに、すぐ座敷のなかへ上れるようになっております。
こうした部屋の感じは密庵席のそれと基本的には違いないのですが、密庵と比較して、やはり全体に繊細で瀟洒な感じに移り変わっております。
席の上がり口の外には土間庇の一端に刀掛けがつくられ、普通そのままに据えられる刀掛石の代わりに木の株(実は化石)が据えられているのも変わった趣向です。
そして蹲踞手水鉢は有名な銭型の手水鉢で、これは前に述べた、忘筌が旅中の舟にたとえられているごとく、この手水鉢は旅銭を意味しているといわれております。
直接遠州のつくった作品ではありませんが、遠州好みの建物や庭の特色をまだかなりに味わうことができる大切な遺構であります。一休禅師を開山とする大徳寺の真珠庵には、金森宗和の好みと伝えられる茶室があります。
正親町天皇の女御の化粧御殿を移したといわれ、通仙院と称する書院に付属して建てられております。
この茶室は金森宗和の好みであるという確かな証拠があるわけではなく、通仙院という書院とともに、やはり、もとは御所につくられていた茶室であるともいわれたりしています。
しかし、大徳寺には金森家の菩提寺である金龍院という塔頭があって、そこにも金森宗和の好みの茶室があったらしいので、それが後にここへ移されたという伝えもあります。宗和は飛騨高山の城主となり、また一方利休に茶を学び宗陽肩衝を所持して茶人としても聞こえた金森長近を祖父に、利休丸壷などを所持し、長闇堂も目利きの人と評した可重を父にもち、本来は父祖のあとを受けて飛騨の城主となるべき身でありましたが、ゆえあって武家の身分をはなれて京都に住み、茶人となった人であります。
そして武家の出でありながら、むしろ当時は武家と対立的な関係にあった公家や貴人の人たちと親交を深め、利休流のお茶でもなく、織部や遠州の武家流のお茶でもない、独自の穏和な茶風をくりひろげました。庭玉軒は通仙院の書院から東へつき出してつくられ、柿葺・切妻造りの屋根に庇をつけ、さらに南の方へも庇を付けおろして変化のある屋根を形成しています。
この茶室は、南側に土間がついていて、そこに入口(潜り)が開かれています。
ここの潜りは、普通の躙口ではなく、潜りを入ると飛石や蹲踞を配したせまい内露地になっているという、いわば中潜のような格好の潜りであります。
蹲踞・手水鉢は、普通屋外にかまえられるのですが、ここのように屋内にもうけた手法はたいへん注目されております。
これは一説に宗和の出身地が飛騨であった関係から、寒地の経験による工夫を示すものであるともいわれています。
この屋根のかかった内露地から茶室へは二枚障子の入口になっています。
内部は二畳台目です。
二畳台目という広さは中柱(赤松の皮付き)をたて、台目切にするかまえの茶室としては最小の間取りといえましょう。
床は室床の形式で右の脇壁には下地窓をあけ、その下地の竹に花入釘を一本打っています。
こうした花入釘を打った墨蹟をとくに、花明り窓と呼んでおります。
室内は、この床の前が平天井(蒲天井)、それから点前座の上が少し低く落天井(蒲天井)、残りの部分が化粧屋根裏になっていて、狭い空間の中に三つの変化を持った天井が形つくられている。
そして茶道口および給仕口は、点前座の方を開けば茶道口、床の方を開けば給仕口となるように太鼓襖を二本立てた入口で、その高さはずいぶん低くつくられております。
この低い入口は給仕口としては不自然ではありませんが、茶道口としてはちょっと不便なくらい低い寸法です。
こんなところにこの席の特色があるように思われます。
狭い部屋のなかに変化のある天井がつくりこまれている、ややもすれば煩雑な結果におちいるはずですが、それがまことに引き締まった調和のうちにおさめられているそのひとつの原因が、この茶道口を低くして、上の小壁を少し広くつくったところにあるということです。
点前座には型のごとく釣棚(ひばり棚)があり、勝手付の壁面には色紙窓があけられ、ひじょうに狭い空間でありながら、その中に多くの変化があり、そしてまた狭さを感じさせず、余裕を感じさせるところが不思議なくらいです。大徳寺の玉林院は医家として名高い曲瀬正琳の建てた寺で、のちに大阪の鴻池家が檀越となり、寛保年間(1741-43)に鴻池了暎が、南明庵と称する位牌堂をつくりました。
そしてその位牌堂といっしょに茶座敷をもこしらえました。
それがこんにち残っている南明庵、蓑庵、霞床の席からなる数寄屋造の建物です。
これは、それぞれ個々に茶室だけをとりあげるべきではなく、むしろ位牌堂を中心に茶事の形式で法要がいとなめるようにつくられた数奇屋造の施設であるというべきでしょう。
そして鴻池了暎はこの計画を如心斎(表千家七代)に相談し指導を受けました。
したがって如心斎の遺構としても、この建物は注目されるものです。蓑庵は小間の草庵茶室であって西を向いた切妻造、柿葺の庇をつけた外観を現しています。
内部に躙口と向かい合って床が構えられ、床のとなりに花頭形の給仕口があけられています。
そして客座二畳と点前座とのあいだには一尺四寸の板をいれて、そこに中柱を立て炉を切っています。
このような板を中板といい、中板は如心斎が創案したもので、この蓑庵の例が古い例だと茶道筌蹄などは伝えています。
床柱および中柱はともに赤松の皮付き、その他、竹打窓も下地窓もすべて用材の使い方など、千家流の定法を示しています。
ここでは天井が、床前は、のね板張の平天井、点前座上が蒲の落天井、残りの部分が掛込天井(化粧屋根裏)とされ、三つの変化がつくられています。
しかし個々の構成を、かの庭玉軒の構成と比べてみてもどこか力弱い感じがします。
三段に組み合わされた天井をささえる中柱もかなり大きく湾曲していて、どこか弱い形を示しており、席全体の構成もひきしまった均衡があまり感じられないでしょう。
しかし、ちょうどこのころから茶室の天井は、なるべく変化をつけて真・行・草三段の構えにするのがよいといったような考え方が流行し始めました。
如心斎は、そうした時勢の感覚を当時ときめいた富豪のこうした営みのなかにもとりいれていたのです。この茶道口を出たところの板の間に水屋があり、この水屋は簡素な形式ですがやはり千家流の規格を示しています。
そして水屋と反対側の隅に二重の仮置棚がつくられています。
その側板に格狭間透かしがあり、それによって、この棚はとくに猪の目棚と称され有名なものになっています。霞床の席は、この蓑庵から南明庵をへだてた位置にあります。
楽焼の瓦を敷いた土間廊下から二枚障子の入口で席中にあがると内部は四畳半で、一間床が構えられており、しかも張付壁で天井は格天井です。
四畳半という座敷は小間の部類にもはいるし、また、広間の部類にも入れうる座敷ですが、このような間口一間の床をもち、天井も格天井であるという様式の部屋は、むしろ広間の席とみるべきでしょう。
しかし広間とはいっても、たとえば壁面には長押の代りに付鴨居をまわして、その上は土壁にしたり、また床框の代りに竹を使って、その上に地板を敷いたり、草庵風な意匠や手法もまじっているのです。
そして全体として書院風な固い様式のものでなく、また草庵風な柔らかい様式のものでもなく、両方をとけあわせたような特殊なひとつの様式をつくり出しております。
こういう様式の茶室は、いかにも千家流の茶人によって工夫された書院のひとつの姿とみることができましょう。
この床のなかには、違棚が作られていて、ちょうどそのうしろの壁に富士の絵をかけると、この違棚が霞に見立てられるというので、俗に霞床の名があるのです。
このような手法もまったく新しいこころみであって、床の間のとおとさというものは害されますが、旧型にとらわれない独特な試みとして注目に値します。
この席では別にとくに違棚をつくるとか付書院をつくるとかいうことをしないで、床のなかにそういう棚の役割も含めもんでしまうというところに、茶人らしい作者の苦心のあらわれがあるといえそうです。大徳寺には、茶室をもたない塔頭はほとんどないといってよいくらいですから、古い名席が沢山残っている反面、大正以降、現代の茶室もかなりつくられていて、古い茶室と新しい茶室を比較しながら見るのも、いろいろな点で教えられるところがあります。
ここでは、そうした新しい茶室を多く取り上げている余裕はありませんから、一例として最近新しい庭がつくられて脚光を浴びるようになった瑞峯院の席を紹介してみましょう。当院は、大友宗麟が天文四年に創立した寺で、方丈や表門がわずかに当寺の貴重な遺物として残っています。
明治以後多くの寺宝などが失われてしまいました。茶室安勝軒は、昭和三年、小島弥七氏の寄付になるもので、惺斎の監修ということです。
三畳の客座に台目の点前座と床を並べ、床前は化粧屋根裏、給仕口寄りの部分が竹網代の平天井で、点前座上は蒲の落天井と、三段に構成され、躙口と矩折りに二枚障子の貴人口を開いています。
草庵茶室の一通りの形式は何もかもあるといった風な、江戸時代末期から大正、昭和にかけての数奇屋趣味が席の大まかな構成の中にもはっきりと出ております。
炉は向切で一重の釣棚、勝手付の壁に窓をあけていますがもちろん色紙窓ではありません。
注目されるのは床で、前板を入れて、床柱や落掛は框の所になく前板の前端にたてています。
そして、奥行きの方の(点前座との境の)框を、わざわざ床柱の所までのばしています。
こういうやり方は余り見かけません。
この辺のところは惺斎の好みと見るべきではなく、大工の思いつきなのでしょう。
外観は茶室らしい好ましさがあまり感じられません。
専門のちがう大工さんによって造られたのかも知れません。試みにこの席を桝床の席と比べてみたら、そこにも古席の持味に対する新しい席の傾向が浮かび上がるでしょう。
当院には、この外、四畳半向切の茶室、表千家七畳の写し、それに広間があり、こんにち茶事をするには割合い便利な備えになっております。
かの千利休は、京都において大徳寺門前、それから秀吉の築いた聚楽第の近辺に、その屋敷を営んでいましたが、利休の歿後会津の蒲生氏郷に預けられていた少庵が許されて帰洛し、小川頭の本法寺前の土地を新しく賜り、そこに千家を再興しました。
それが現在の地であります。
そして少庵の子宗旦は、晩年になって江岑に家を譲り、その屋敷の裏に新たに隠居所を作りました。
現在の表千家は少庵以後、宗旦から子息江岑へとうけ継がれた屋敷で、その建物はたびたび火災にあっったり、また建てかえられたりして、少庵時代のものがそのまま残っているわけではありませんが、創立当時からの建物や露地のあり方が基本的にはよく承け継がれてきていることを否むことはできません。
そのもっとも中心的な茶室は不審庵であります。
しかし、この不審庵は明治三十九年に火事があって大正二年(1914)に復興されたものです。
だがこのときの火災に焼失を免れたものがあり、それが点雪堂であります。
この点雪堂は祖堂とも呼ばれなかに利休像がまつられており、したがって利休の茶を継承する千家にとって、もっとも重要な神聖な建物なのであります。露地口を入ってすぐ右手のはね木戸をすすむか、あるいはまた外腰掛から中潜を経て、さらに右手へ折れて茅門をくぐるとやがて点雪庵の前へ出ます。
これは天明の大火後吸江斎(表千家十代)が再興した建物です。
茅葺で、やや勾配の早い切妻造の建物に前面に深く庇が付き、かつ左手にはまた折り返しの付いた片流れの屋根が組み合わされた外観です。
茅葺でやや勾配が早いためにその前面の妻は少し大きい。
こうした屋根の形はひなびた、つつましやかな草庵茶室の外観というだけではない、どこか厳粛な気分をもあらわあしています。
これは、この建物がたんなる茶室でなしに、祖像をまつる利休堂であるという意味を表しているためでしょう。
正面右手の隅に躙口があけられています。
内部は四畳半で躙口の真向かいに上段の間がつくられ、その正面にも丸窓があいています。
その丸窓の奥に利休像が安置されているのです。
上段の左方には横を向いて床の間がつくられています。
それに相対する壁面には上部を半円形にした一種の櫛型の中敷居窓がこしらえられていますが、これはいわば付書院を象ったものでしょう。
下段は四畳半の茶室になっているのですが、普通の四畳半ではなく茶道口をはいった半畳分が板畳になっていて、客座との境に花頭口(巾一尺九寸、高三尺九寸)を開いた仕切壁がもうけられています。
すなわち道安囲の構えです。
しかし道安囲といってもかの淀看の席などの構成とはちがって、炉は出炉で、しかも四畳半切(広間切)になっているので、点前座における道具座は広間の場合と同じ広さに保たれています、
そして洞庫も備えられています、
躙口の方からみると炉の端に立てられた中柱は、点前座から客座三畳分の上をおおう網代天井をしっかりとささえています。
この中柱に呼応するように上段の境には床柱がみえており、上段の横に見える床の墨蹟窓が、この四畳半の茶室には好ましいアクセサリーとなっています。
このような利休堂の前に道安囲の茶室が構成されているということは、ひじょうに意義の深いことであると思われます。
道安囲といわれる茶室の構成は、宗旦時代からすでにあったもので、その形は変わっているにせよ、この千家にとっては因縁の深い茶室の形式でした。
利休の像の前で静かに茶を点じ、ささげるための茶室としては、まことにふさわしい形式であるというべきでしょう。
現在の間取りは多少変化してきているらしく、利休像の前に上段を設け、四畳半の茶室についたこのような構成は、千家の伝統を象徴した記念すべき遺構として貴重なものと考えられます。
現在でも当家においては、この茶室は最も重く取り扱われ、皆伝の儀のごときもここでゆかしくとり行われるのであります。なおこの点雪堂には、反古張の席という一畳台目に向板をいれた茶室が附属しています。
これはソツ(口+卒)啄斎の好みになるものであって、祖堂の正面から左手の方へ進むと、この席の入口へ導かれます。
この席の前面には庇が深く付けおろされ、北と西の二方を袖壁で囲い、一坪ほどの広さの土間庇を構成しています。
ちょうど御室の仁和寺遼廓亭や如庵の形式と共通するものがあります。
入口は躙口でなく貴人上がりの形式なっているために、こうした土間庇が茶室の入口に奥行きを与え、かつまた雨降りのときの中立ちなどに、はなはだつごうよく効果的な工夫といえましょう。
この貴人口はちょうど聚光院の枡床の席のそれのように低く、三尺五寸三分という寸法で腰高障子二枚だてとなっています。
前方に向板をいれているので、部屋全体としては二畳敷きの広さです。
天井は全部化粧屋根裏(総掛け込み天井)で、床はなく茶道口は塗りまわしの花頭口、壁の腰張りは反古張になっています。
上がり口に相向かう壁面、すなわち茶道口のとなりの壁面を床に見立てるように上に掛物掛の竹釘が打たれています。
客座の壁には中敷居をいれて上下に下地窓を配しています。
点前座は炉が向切になっていて、勝手付の壁の向板の手前のあたりに下から三尺四寸五分の高さに花入れ釘が打たれています。
この種の侘びの囲いとしての床なし二畳は、利休の好みもありますし、また宗旦の好みにもあり、利休流の多くの人たちによって好まれてきたものですが、他の例ではたいてい入口が躙口であったり水屋洞庫が構えられたりしています。
けれどもそういう実例を比べるとき、この席はとりわけ簡潔で大わびの趣致を示しているといえましょう。この茶室の勝手には普通の水屋棚がもうけられており、そこを照明するために天窓があけられています。
この水屋は普通の小間の水屋の設備として共通の形式のものです。
けれどもさらに奥にある勝手の間は、多くの数寄者によって注目されている設備を備えています。
そこは板の間と三畳敷と土間とからなっており、一隅に右手に流し、左手に長炉がつくられています。
そして、その長炉の上部には蛭釘が三つあって、そこに鎖がつくられ、その蛭釘をレールによって左右に移動できるようにしています。
これは懐石の用意をする際にまことに実用的な、他の水屋には見られない工夫であります。
長炉の右手は、すのこ張りとなっており、その上部に一枚の棚がもうけられています。
そのかたわら、すなわち北側の壁は大きく中敷居窓があけられて窓の右手に折りたたみ式の配膳棚がそなえられています。
それから、この部屋の西南には明り障子がたてられて、その外に半畳ほどの竹縁がつくられています。
こうした広い勝手が付設されて、この点雪堂はまことに使い勝手の行き届いた茶亭に仕上がっています。
これを全体に眺めてみるとやはり利休堂が点雪堂の主体となっています。
もっとも今の建物は吸江斎のときに復興されたものですが、最初は純粋な祖堂からはじまり、のちに四畳半の茶室がつくられ、それからさらにソツ(口+卒)啄斎が小間を付け加えたりして順々に完成された建物ですが、そのなかに利休像をまつり、また四畳半の茶室がつき、更に侘びの一畳半があり、そして水屋があり、さらに手広い勝手の間が設けられて、ここだけで茶事が充分営めますし、かつまた簡素な茶人の住まいにもなりうる構成をもっています。
したがって家元では、かの明治の火災の直後も、この建物が応急の仮り住まいとなり、たいへん重宝な役割を果たしたということです。外腰掛から中潜を経てまっすぐに進むと梅見門に達し、そこからが不審庵の内露地であります。
梅見門のすぐかたわらに内腰掛および砂雪隠があります。
内腰掛の前に立つと、不審庵の外観がのぞまれます。
柿葺で切妻造の屋根を主体とし、前面に庇を付けおろし、ちょうど点雪堂と同じような外観を形づくっています。
前面の庇は突上窓があけられています。
左端に躙口があり、その上に下地窓をあけ、左手にとくに袖壁をつくって二重の刀掛がしつらえられています。
こうした席の外観は利休流茶室の通型であります。
内部は客座が三畳、点前座が台目で、それに巾五寸一分の板畳を付け加えています。
躙口の真向かいに床の間がもうけられ、床柱は赤松の皮付、その脇に給仕口があけられ、床前は蒲の落天井、躙口寄りは点前座の境まで掛込天井、さらに点前座の上はそれと直角に棟をおいた屋根裏になっており、それらの天井の交錯するところに中柱が立って、点前座と客座との境の三角形の小壁に不審庵の額がかけられています。
窓は客座の壁に横に長く竹連子窓があけられ、躙口のある方の壁面は、躙口上の下地窓とちょうど炉の位置にあるところ(外からはちょうど刀掛にあたるところ)に、もうひとつ下地窓があけられ、点前座の後ろには、やや高所に小さく下地窓があけられ点前座を照しています。
この茶室は不審庵と称せられ、それは利休の不審庵を継承したものであると一般にいわれてきています。
しかし新しい研究によれば利休時代の不審庵は四畳半をさしていたことがあり、額名である不審庵と席の形式とは、古来かならずしも一致していなかったようです。
現在の不審庵の形式は、利休の好みそのままというよりは、利休の三畳台目の型をもとにして少庵が自らの好みを加えてつくりあげたもののようです。
この茶室の特色は、三畳の客座と点前座とが横に一列に配置され、茶道口を点前座の側面あるいは後方に付ける定石を破り、前方に付けている点です。
茶道口を点前座の前方に開こうとすれば、当然三尺の幅では狭くなるから、そこに板畳を入れて少し点前座を広くする必要があるし、また襖も引き戸の形式でなく開き襖の形式が要求されます。
こうした点前座の工夫が、この席の最も大きな特徴として昔から注目されております。
こうした茶道口の特色は、すでに利休の好みにもあったものですが、客座から点前座を横に一列に配列する間取りの形式は少庵の作意によるものであったらしいのです。
したがって、この不審庵は、本法寺に千家を再興した少庵につながる記念すべき遺構でもあったわけです。
ほどよい太さと重みをもった端正な赤松の床柱、それと対をなすように。これまた端正にするすると立ちあがる中柱、そこに付けられた袖壁を軽妙に限る四つの節をもった横竹、こうした構成はまことに端正で美しく、利休流草庵茶室の伝統的な良さが少しもくずれることなく再現されています。
東京出張所の茶室鳳来は、客座に一畳半を付加して席をやや広げただけで、やはり不審庵を基にしてつくられています。この不審庵の茶道口を出ると、そこが板の間になっていて水屋がつくられています。
不審庵の水屋は江戸時代から水屋の最初のものであるといわれていますが、はたしてここにある水屋の形式がそれにあたるのかどうかはわかりませんが、利休流の水屋の基準型をして注目されるものです。不審庵と接続して残月亭があります。
この残月亭はその昔利休の屋敷にあって、秀吉がそこに来臨したと江戸時代から伝えられてきたひじょうに由緒の深い建物であります。
現在のものは他の茶室と同様、明治の火災後に立て替えられたものです。
これは茶室とはいっても、広間であって八畳敷きに二畳の上段がもうけられ、さらに付書院を備えた二畳が付いたざしきであります。
このような残月亭の形式は、秀吉も来臨したという利休屋敷の書院の形式をそのままに伝えたものではなく、たぶん少庵がこの地に家を再興したときに、利休の書院を手本にして屋敷の規模にも合わせ建てなおした形がもとになっているようです。
それから江戸時代を通じても細かい点は、少しずつ変遷はあるようですが、二畳の上段や付書院が設けられ、かつその書院の前が化粧屋根裏になっているという残月亭の大きな特徴は、利休時代のそれを伝えているようであります。
この座敷は小間の茶室とはおのずから用途もちがうわけで、いわば台子のお茶もやれる書院座敷なのでした。
利休は、侘びの草庵茶室を普及させ、自分の屋敷にももちろんそれをつくっていましたが、同時に高貴の客を迎えたとき台子のお茶もできるように、こうした書院座敷を合せつくっていたのです。
現在の残月の席はそうした書院座敷であるにもかかわらず、その様式はけっして固苦しい、またいかめしい書院のそれではなく、簡潔で軽快で穏やかな様式を示しているのです。
二畳の上段も、武家の書院造の上段の間のように格式的で重々しいものではありません。
しかも、それはたんなる権力の座としての上段ではなく、いわば小座敷の広さに比例して床を拡大したような上段なのであります。
その上段の壁面がそのまま床となって掛物が掛けられる備えになっています。
このような上段床が、とくに残月床と呼ばれています。
上段の前の化粧屋根裏になったところには、もとは突きあげ窓があり、そこから秀吉は残の月を愛でたといわれており、残月亭の名の由来もそこにあります。
このような広間は、これをちょうど忘筌と比較するとき遠州と利休の好みの相違がはっきりと浮かび上がってくるでしょう。
ここには上段や付書院など書院座敷と同じ要素がとりいれられていながら、ああした書院座敷の重々しさや格式めいた感じは殆ど無く、全体にどこまでも、ものやわらかな雰囲気をかもしだしています。
不審庵も残月亭も、その形は少庵の時代に出来上がったものですが、やはりその母体は利休の作品の中にあります。なお同家には千家中興の祖と仰がれる如心斎の好みにもとづいた松風楼があります。
これはいうまでもなく如心斎のときに制定せられた七事式という新しい茶事の形式に適応しうるよう工夫された座敷で、千家流による広間の型として大変普及しているものです。利休の孫、宗旦は正保四年隠居を表明して、今の表千家の裏(北側)へ退隠しました。
そして、そこに新しく今日庵という茶室を造ったといわれています。
その茶室の名前は、いま二畳敷きの茶室として伝えられており、それが裏千家を代表する名称ともなっております。
宗旦はまた、さらに晩年に又隠(ゆういん)という茶室を造ったといわれます。
その又隠は現在四畳半の茶室として伝えられております。
宗旦は隠居する前の表千家を江岑に譲り、自分の隠居した跡を荘室に譲り、そして宗守をして武者小路に一家をおこさせたのであります。
これが世にいう三千家の起こりであります。
現在の裏千家は、そうした三千家の創設者ともいうべき宗旦の隠居屋敷にはじまったのです。
現在今日庵は二畳敷、又隠は四畳半の席として伝えられていますが、これも天明の大火には表千家とともに焼けてしまって、その後復旧された建築ばかりですが、それらの配膳や露地などには大体宗旦当時の面影が残っているようであります。
また建物も増えてきていますし、宗旦の時代に比べればかなり変化している面のあることも事実です。
今日庵も又隠も建てかえられており、その席名もあるいは、いれかわてのかもしれませんが、ともあれ現代の今日庵や又隠の様式は宗旦の好みをよく受け継いでいることは否めません。露地口を入ると屋根に石を置いた腰掛があります。
この腰掛は宗旦の子の仙叟の好みであると伝えられ、それは彼が金沢の前田候に仕官していた関係で、北国の民家のさまをここに応用したのだと伝えられております。
この腰掛の左手には無色軒という寄付があり、さらにつづいて寒雲亭という広間があり、それから今日庵があります。
その今日庵へ通ずる途中に竹で屋根を葺いた中門があり、それを更に進むと奥に、もうひとつ待合と雪隠があって、そこから左を向くと又隠が南面して建っております。
この又隠は軒の厚い草葺で前に深く庇が付き、ちょうど入母屋造のような屋根の形をして、一端に躙口があけられ、他方には袖壁を付けて刀掛けをつくり、深々とした軒におおわれた、いかにも草庵らしい茶室の外観を示しています。
内部は四畳半で、躙口の真向かいに床が構えられております。
床前から点前座にかけて三畳敷の広さが網代の平天井、躙口寄りの一間半が掛込天井となり、その中央に突上窓があけられております。
内部は客座前の壁面および躙口の上の下地窓と、この突上窓の三つだけで部屋の照明が考えられており、天井も低く、やや薄暗いたいへん緊張した室の雰囲気を組み立てております。
点前座には洞庫がそなえられ、点前座の隅の壁面は柱が途中から消えて上部一尺三寸六分だけ柱が見え、それから下は壁が塗り込まれています。
そしてその柱の上から九寸七分さがりに花入釘を打っています。
このような柱を俗に、楊枝柱または柳柱といいます。
こういう手法も利休の試みはじめたものらしく、妙喜庵の待庵の隅壁が大きく塗りまわされたのと共通した表現です。
しかし、この楊枝柱は、隅に少し曲がりのある柱を用いたために柱が壁の中に隠れてしまったという姿をかたどったもので、侘びの気持ちを反映した技巧と解することができましょう。
これで天井が網代でなく菰天井にでもなっておれば、もっと侘びた雰囲気が強調されたことでしょう。
床柱があて丸太で、やや調子の強い手斧目が付いているのもこの席の個性によく合っています。
利休流の四畳半の形式としては、もっとも基本的、普遍的なものですが、そこにとくにこういう侘びの手法をおりこみ、室全体にきわめて精神的な雰囲気を再現したところに、わび茶人宗旦の面目が示されているといえましょう。
四畳半といえば、広間にも通用する形式で、小間の中ではもっとも広い形ですが、それをまったく侘びの性格のものに仕遂げてしまったのが又隠であります。正保五年(1648)五月にできた今日庵は、天明八年(1788)の大火で焼け、その後、間もなく再興されたのが現存のものであるということです。
この茶室は、わずかに二畳敷で、単純な片流の屋根に覆われた実に何気ない外観を表しています。
一畳の客室と台目の点前座に向板をいれ、洞庫をつけ、床はなく、躙口の反対側が壁床になっています。
そして壁床のとなりに花頭形の茶道口をあけています。
天井はなく、全部竹垂木に竹木舞の化粧屋根裏です。
炉は向切で、向板の端にこぶしの中柱を立て袖壁をつけています。
中柱の袖壁は普通、横竹を入れて下部を吹きぬくのですが、ここでは下まで壁がついた珍しい手法をみせていますが、これも宗旦以来の手法だそうです。
この茶室には床でもありませんから、いわば向板が床の役割を果たす意味もあって、とくに向板の部分を囲うように、
中柱と袖壁がつけられたものでしょう。
この洞庫は、たんなる置洞庫でなく、内部にすのこ渡しをつくり、棚を釣ったいわゆる水屋洞庫になっています。
一畳台目向板という間取りは、さきに表千家の反古張の席でも述べたごとく、利休以来の伝統的な侘びの小座敷なのですが、この今日庵では、向板と袖壁の扱いに独創が示され、さらに洞庫は水屋棚の形式につくられている点が特色といえましょう。
茶室の最小限の形として、利休は床なしの一畳半(一畳台目)をつくったといわれますが、宗旦は、その一畳台目に向板をいれ水屋洞庫をつけた形で、床も水屋もすべてのものを二畳のなかに圧縮することをこの今日庵で試みたのです。
片流屋根で、広さはわずか一坪という、草庵を晩年の遺構としたところに、大わびの茶人宗旦の面目躍如たるところがうかがえます。茶の湯の様々なはたらきを、もっとも簡素な構成の中にあつめることはきわめてむつかしいことといわねばなりません。
このような茶室は、人間的にも、また茶人としても、円熟老境に達した人には、この上もない妙味のある茶境を楽しむことができるのでしょう。今日庵につづいて建てられている広間で、八畳敷きに一間の床の間がつくられ、それと反対側には付書院が備えられています。
庭の方の上がり口には縁がついていて、床脇には一畳の控えの間がとくに付いています。
これを柳の間と呼び、昔は寄付の無色軒と廊下で連絡されていたということです。
天井が三つに分かれており、すなわち床前が棹縁天井、それから点前座の方が一段低くなって落天井、上がり口の方の残りの部分は舟底天井というぐあいに、変化にとんだ天井の構成がつくられています。
真行草の天井のお手本として有名です。
この座敷は宗旦の好んだ広間の遺構と伝えられ、床の横の次の間との境の欄間には櫛形の意匠がありこれは東福門院の拝領物にちなんだといわれます。
ほんとうに宗旦の好みのままであるかどうかは別として、利休流の広間の一例として大いに研究したい実例であります。なおこのほか、同家には利休堂があり、それから咄々斎、ホウ筌斎、随流軒といった広間など、味わうべき座敷がたくさんつらなっています。
又隠の水屋は、やはり利休流のそれとして異色はありませんが、表の方の大水屋は伝統的な千家の型として、やや異風な形式を含んでおり、玄々斎の好みにかかるということです。武者小路千家千家は、宗旦の次男にあたる一翁宗守が武者小路に一家を創立したのにはじまっています。
当家も、やはり宗守が営んだころの建物や庭は火災で焼けてしまい、いまでは新しく建て変わっていますが、表・裏千家と同様に、基本的な輪廓は宗守の時代の様が踏襲されているようです。
当家の代表的な茶室は官休庵と呼びます。
宗旦自身は、どこにも仕官しませんでしたが、子はそれぞれ各大名家へ仕官させました。
宗守は高松家に仕官したわけですが、晩年それを辞してから造った茶室が官休庵であるといわれています。
すなわち致仕後の自適の心境をあらわした茶室といえましょう。
ちょうど宗旦における今日庵にも匹敵するような遺構であります。
それで、官休庵という茶室の名が、そのまま当家の呼称ともなっております。
現在の官休庵は、大正十五年(1926)に再興されたものといわれておりますが、その原型は宗守の好みをそのまま受け継いでおります。
外観は瓦葺にかえられていますが、昔はもちろん柿葺でした。
南面して入母屋造の形を示し、妻の方にさらに庇を付けて躙口をもうけております。
内部は客畳が一畳と台目の点前畳、そのあいだに幅五寸の杉の板を入れたところが、間取りの特色であります。
そして炉は向切です。
この板はそこに炉を切ることのできる一尺四寸の幅をもった中板よりも小さい寸法ですから、俗に、これを半板と呼んでおります。
したがって、この茶室は一畳台目半板入りということになります。
このような間取りは、茶室としても、もっとも切ちぢめられた一畳台目にいま少しゆとりをもたせたいという工夫の表れといえましょう。
点前畳と客畳を一畳ずつ直結した構えの中に板を挟んだことは、その板そのものをどう利用するかということだけでなく、亭主と客との間に、よりよい妙味を作り出そうとした苦心がはっきりとうかがわれるように思います。
そして極限までおしちぢめられた茶室を、ある限界のなかで少しずつ広さを加えていこうという工夫が、宗旦とか、あるいはまたこの宗守らを中心とする人たちによって工夫されていたのでしょう。
このように小さな狭い茶室ですが、畳敷きの框床が下座にもうけられております。
幅四尺、奥行二尺五寸ほどの広さで、なかの隅柱は見せずに壁を塗りまわしております。
栗の手斧目付の柱を立て、茶道口は床のとなりに付けないで、そのとなりに板の間をとって、その側面にあけています。
その板の間は。いわば踏込みのための場所です。
したがって一畳台目の席とはいいながら、この踏込みのための板の間が付いているため、ゆったりとした使い勝手ができるように考えられております。
天井は客畳も点前畳の上も、いちめんに蒲天井をはり、点前座には水屋洞庫を付けていること、やはり宗旦の今日庵と同様です。
このように小さな部屋でありながら天井には変化をつけず、また風炉が先窓の柱も消してしまって大きく壁を塗りまわす手法を使ったり、適切な処理をしているため、けっして狭苦しい感じがいたしません。
中板とはちがう別な寸法の板を工夫したり、所をえた技法を駆使することのできた一翁は、やはり茶室において優れた想像力をもち合わせていた人であるというべきでしょう。なお官休庵には半宝庵という茶室のあることもよく知られております。
これは一啜斎の好みといわれております。
一啜斎が文化(1804-1817)ころに建てたものだといわれております。
いまの席は明治十四年(1881)同家の再興のおりに建てられたものです。
茶室はちょうど全体に四畳半の平面をもっていて、その片隅に方形の床をとった枡床の形式であります。
枡床の形式は、大徳寺の聚光院にあるのが有名ですが、その聚光院の枡床と異なるところは、点前畳に中柱を立て、床柱と中柱の間に袖壁をつけて炉を台目切にしているところです。
そしてまた躙口が高さ二尺六寸でやや大きく、しかも幅が四尺七寸五分あってそこに躙口を引きちがい立てにしている点であります。
ちょうど枡床の席の場合には客の上がり口は貴人上がりになっていましたが、ここでは躙る作法で使えるように躙口の形式をとって、しかも融通のきく引違い戸の出入口にしているのです。
枡床の形式を骨子として、台目構えとか、躙口などの通例の草案茶室の要素をおり込んた工夫は、見るべきものがあります。久保田家(高倉二条南)も堀内家と同様、建てこんだ町なかにいとなまれた茶室らしいたたずまいをみせています。
当家の代表的な茶室は半床庵です。
半床庵は半牀とも書かれていますが、どうも半床と書くのが正しいようです。
久田家もまた、たびたび火災にあっており、現在のは明治十四年(1881)の再興になるのですが、久田宗全(1647-1707)の好んだ当初の型を忠実に伝えた遺構として大切な存在です。
この半床庵は、いわば不審庵系の茶室ともいうべき形式を備えております。
すなわち概観においても切妻造の大屋根の前面に庇を長く付け、ただし不審庵のように、さらに左手に片流の屋根はついていませんが、正面にあらわれた窓の配置などにも、不審庵のそれに共通するものが感じられます。
躙口をあけると、その正面に床がもうけられ、客座は床前に一畳を敷き、それに台目畳を二畳敷いています。
そして点前畳は一畳敷で客座と点前畳のあいだに中板を入れ、そこに炉をきって中柱を立て台目構えを組み立てています。
茶道口は腹口で、床脇に給仕口をひらいています。
床前一畳敷きから中板の上にかけては網代の平天井を張り、台目二畳の上は掛込天井とし、点前畳の上は蒲の落天井となっています。
とくに客畳に台目畳が使われていて、それだけ深くなっているため、化粧屋根裏の部分が普通より深くなっております。
床は普通の框床でなく、蹴込丸太を入れて地板を敷いた蹴込式の板床であるのが少し変わっています。
床柱はもちろん赤松の皮付、中柱もまた赤松の皮付で、しかもそれがまっすぐのものが選ばれており、横竹の入れ方もまた不審庵にみた利休流の適正をそのままあらわしています。
それから概観において、とくに点前座のうしろの窓がやや高くあけられているところなど、不審庵を思わせる要素が少なくありません。
ただ客座の側の下地窓が大きく色紙型に配置されたところは不審庵系の席としては、変わった好みといえましょう。
いわばこの席は宗全が不審庵の形式をもとに、それを少し広げて独特な工夫を加えてなった茶室とみられましょう。
すなわち客座に台目畳をとり入れ、中板をもちこんで新しい間取りを工夫しています。
このような畳の取り合わせ方は、それまでの利休流の茶室にはあまりあらわれていなかった工夫です。
台目畳は点前畳に使う畳のように習慣づけられていたのを、客畳の方へ応用して、普通の畳を二畳横に敷くよりも広くすることができます。
こうした台目畳の応用はおそらく宗全あたりがし始めたのでしょう。
こうした半床庵のもつ特色を通じて宗全が茶室に対して積んでいた独特な工夫をあとを偲ぶことができるわけです。
なお客座の長さが台目の長さプラス間中の幅であり、点前座は一畳の長さであるため、その残りの空間を裏側から利用してそこを水屋にあてております。
半床庵のほかになお、同家には広間があります。
これは表千家の七畳と似かよった間取りを示し、ソツ(口+卒)啄斎好みと伝えられます。
が表千家のよりは、こちらの方が古く木割りもどっしりとしております。
千家流の広間の基本的な作風を学びとるのに好ましい手本の一つです。釜座通二条上ル東側の堀内家は、長屋門(重層長屋門)の形式を取り入れて、しかも、いかにも茶人の住まいらしい風格をあらわした特色ある表構えをみせています。
この門の中は、通路の左方が供待で、右手は三畳敷きの寄付(袴着)があり、さらに二階も茶座敷に使える部屋になっています。
住まい全体が、どこでも茶に使えるような勝手に考えられているのは、茶家の通有性ですが、当家において、そのことが特に興味深くみられます。
堀内家の代表的な茶室は、長生庵と呼ばれ堀内仙鶴の好んだものと伝えられております。
仙鶴当時の長生庵は天明と元治に火災にあって現在のは明治二年(1869)に再興されたものです。
袴着の外に、もうけられた腰掛から梅見門を経て、飛石をまわると何面する長生庵の外観がのぞまれます。
柿葺切妻造の前方に深い庇を付け、躙口の方に袖壁をつくっております。
その前面は土間庇になっていて、中に入ると席は二畳台目ですので、外にはちょうど点前座の風炉先窓の壁面がひっこんでいます。
その空間を利用して刀掛がもうけられております。
その刀掛から躙口へと軒内に飛石が配られております。
まったく洗練された典型的な草庵茶室の外観ですが、とくに、こうした飛石のある深い土間庇の付いていることが長生庵の特色といえましょう。
内部は客畳が二畳で、点前座が台目畳、躙口の真向かいに床が構えられ、その横に給仕口がついており、茶道口は点前座の側面に開かれ、いわゆる腹口になっています。
利休流二畳台目の定石の間取りを示しています。
天井は床前が、のね板張の平天井で躙口に近い方は掛込天井、点前座上は蒲の落天井、曲がりをもった赤松の皮付の中柱が立ち、横竹が入れられ二重の釣棚のあること、すべて千家流の釣束をそのままに洗練された手法で組み立てられております。
客座の広報には二つの下地窓がありますが、躙口寄りの窓がやや高くあけられ、そしてまた躙口の上の連子窓が一方に片寄せてあけられているのでなく、両脇にそれぞれ小窓をみせてあけられているところが目をひきます。
また長生庵の床には見落とせない釘があります。
太平の掛物釘、中釘(花入釘)、床天井右方三分の一の所の蛙釘(花入)、落掛中央見付の花入釘、床柱の花入釘、以上は常識ですが、そのほかに、右側の壁にもう一本竹釘(掛物釘)が打ってあります。
これは平素は必ずしもいらない釘ですが、たとえばこれに短冊掛でも掛けるとか、中釘に花入を掛けて双飾りの趣向をみせることもでき、一向妨げにならない釘であるだけに賢明な用意であると感心させられます。
総体に堀内家の座敷には独創的な働きをもつ釘がよく見受けられます。
二畳台目といえば、出炉の茶室としては最小限の規模ですが、その形をとりあげ、それを伝統的な千家の手法によって洗練された構成に仕上げ、とくに外観にゆとりのある軒内の空間をとり入れて、巧にまとめあげているところ、すぐれた仙鶴の好みを味わうことができましょう。長生庵の北側にもう一つ小間の茶室があります。
それを半桂の席と呼んでいます。
これは不識鶴叟(嘉永七歿)の好みといわれます。
この半桂の席は二畳敷きの広さで点前畳の先に一尺八分の向板を入れ、炉は向切、逆勝手になっております。
そして天井は一面に竹垂木竹木舞の化粧屋根裏であるという、わびきった性格の茶室として造られております。
宗旦の造った二畳、あるいは山田宗ヘン(偏が彳)の造った二畳など、いずれも同じように侘びた構成なのですが、この平柱の席においては、その侘びた表現が一層徹底しているのです。
材料の選び方などもたとえば大きな節が三箇所にもあるような向板や、風炉先の左手の柱など、侘びた枯淡さをにじませています。
点前座の入隅は楊枝柱とされ、腰掛も太鼓襖も反古張り、畳ももとは縁のない坊主畳が敷かれていたそうです。
またこの席の位置などからもそうなってくるのですが、躙口が横の方に、すなわち点前座に向かってついているのも、この種の茶室としては珍しい例といえましょう。
床はむろん壁床で下座になっています。
この席でもまた注目すべきは釘です。
それは点前座の勝手付の壁面に打たれた高さを異にする三本の釘であります。
すなわち、風炉先寄りの高さ三尺六寸二分の所に花入釘、中央に四尺九寸七分の高さに掛物釘、手前に一尺四寸七分高に柄杓掛の竹釘が打たれています。
このほか楊枝柱にも柳釘があるし向板にも花入はおけます。
侘び本位で無装飾の席のように見えますが、実は目立たぬようにいろいろな形で飾りを添えることができるよう、このように隠れた仕掛けが施されているのです。
勝手付の壁に掛物をかける時は、あたかも亭主床といった構えになります。
茶室における釘の働きは実に偉大なものであることがこの席でよく理解できるでしょう。長生庵と共に、この半桂の席も堀内家にとっては重要な注目すべき茶室です。
かような小間に対して一間の柱と付書院を備えた八畳敷きの書院無著軒があります。如心斎好みの広間(八畳)で、台目巾の入側がついています。
七事式をするのに都合よく考えられています。
毎年暑中には、ここに立礼の道具が置かれます。
これもすでに古いことで、明治の初め頃、支邦人の来喫のために特に工夫されたということです。
江戸中期の広間の意匠が偲ばれると共に明治初期の立礼の茶室としても大いに注目されるでしょう。
つづく
残り20席