■■■ 茶の歴史年表
B.C. 28C頃
中国で茶樹が発見される。
人々に農耕を教えた神農が『食経』で茶の解毒作用や効用を説いたという。B.C. 5C
春秋時代に編纂された中国最古の文学書『詩経』に茶の記述がある。B.C. 59
前漢時代に王褒が著した『僮約』から四川省で茶が生産され、武陽では茶が商品として売買され、飲茶が日常的になったことが読み取られる。B.C. 3C〜A.D.1C
前漢時代に豪族を中心に喫茶の風習が広がる。A.D.1C〜3C
後漢、蜀時代には広域で茶が栽培されるようになり、皇帝への貢茶が始まる。
当時は団茶(餅状に固めた茶)だが、茶粥も食べた。A.D.2C(弥生時代)
弥生期の登呂遺跡から泥炭化した茶種が見つかる。490頃
斉の武帝はトルコとの交易に茶を輸出する。520
達磨大使が目をくり抜いて地に投げると、そこに茶樹が生えたという伝説が広まる。581
随の文帝が茶をこよなく愛す。640
朝鮮の新羅で茶が飲み始められる。650
チベットに茶が普及。7C以降
唐代にはあちこちの城郭にいくつもの茶店ができる。729(天平1:奈良時代)
内裏で行茶の儀。748(天平20:奈良時代)
行基が49寺に薬の木として茶を植える。760頃
茶神といわれる陸羽が、初めての茶の専門書『茶経』をまとめる。8〜9C
唐では茶に10〜15%の税を課し、新茶の時期に帝王への貢茶を義務づける。770
唐代に官営の大規模な製茶工場が造られる。788(延暦7:平安時代)
帰朝した最澄が比叡山に茶樹を植える。794(延暦13:平安時代)
平安京に茶園開設、貴族階級に喫茶の風習が広まる。
団茶を臼でひき、粉を煎じ、塩を混ぜて飲んだ。806(大同1:平安時代)
空海、茶種や茶碾を持ち帰る。815(弘仁6:平安時代)
『日本後記』に、永忠が梵釈寺で嵯峨天皇のために煎じるとある。951(天暦5:平安時代)
空也、流行病に薬として大福茶を施す。10C
宋時代には給料の支払いに、現金の代わりに茶や塩も使われる。11C前後
宋で散茶が開発され、片茶、研膏茶の三種類となる。
散茶は芽葉を蒸して乾かした、現在の茶とほぼ同じもので熱湯に入れて飲む。
片茶は団茶のように、つき固めて賦形にしたもの。
研膏茶は過程が複雑なため、とても高価で竜茶、鳳茶として天子に献納された。
固形茶は薬研や茶碾で細粉にし、茶碗の熱湯に茶粉を加えて茶筅で攪拌して飲む。(=抹茶)1058
宋では密売や茶賊が横行して収拾がつかなくなった茶の専売法を廃止。
以後は、商人が茶を仕入れて官がこれに課税し、自由販売を認める通商法を施行。1060代
英宋皇帝に応え、祭襄が内容の充実した宋代最古の『茶録』をまとめる。1071(延久3:平安時代)
『風土記』に、茶産地として甲斐国八代郡、参河国八名郡、但馬国が記される。平安後期
遣唐使の廃止や国内の戦乱で一時的に喫茶の風習が衰退する。1107
宋の徴宋皇帝『大観茶論』を著す。
産地、栽培条件、製造法、点て方、品質など詳しく記述。1126(大治1:平安時代)
勅撰和歌集『金葉集』に目ざまし草の名で茶が歌われる。1175(安元1:平安時代)
後白河法皇の御賀の儀に煎茶を供するが、その道具類を仁和寺より借りる。1185(文治1:鎌倉時代)
平家の落人、薩摩に茶を植える。1191(建久2:鎌倉時代)
栄西、茶の種子を平戸の千光寺と脊振山の霊仙寺の石上坊付近に蒔く。1192(建久3:鎌倉時代)
栄西、筑後に千光寺を開山。
星野の大円寺は千光寺の末寺なので、この時期に茶樹が植えられた可能性もある。1194(建久5:鎌倉時代)
栄西、博多の聖福寺に脊振の茶樹を移し植える。1207(承元1:鎌倉時代)
明恵、栄西より茶種を譲り受け、京都の栂尾に植える。1211(建暦1:鎌倉時代)
栄西、『喫茶養生記』を完成し、三年後に源実朝に茶とともに献じる。1223
蒙古帝国の成吉思汗、敵国の嗜好品である茶を飲むことを厳禁する。1227(安貞1:鎌倉時代)
道元、漢の茶入れの逸品を持ち帰る。
その著、『永平清規』は茶礼の基礎となる。
同行した陶工が瀬戸で茶器の製造を始める。1236(嘉禎2:鎌倉時代)
瀬戸の陶工・加藤六郎が星野に陶窯を築く。1241(仁治2:鎌倉時代)
聖一国師『東福寺規則』に茶の湯の原形となる茶礼をまとめる。
また、静岡に茶をもたらす。1267(天永4:鎌倉時代)
大宰府の崇福寺の大応、宋で盛んだった茶宴や闘茶の習俗を日本にもたらす。鎌倉中期
大宰府に光明寺が建てられ、茶室・一滴庵が造られる。1276
元で、茶の取扱量によって税金を納める茶引の税を制定する。
その後、数回にわたり増税される。1280代(弘安3:鎌倉時代)
西大寺で大衆に振舞う茶盛を起こした叡尊、宇治の橋寺にも茶房を設ける。1320(元応2:鎌倉時代)
出陣した足利尊氏が鹿児島で茶を植える。1320代(元応2:鎌倉時代)
闘茶が盛んとなる。
栂尾の本茶とそれ以外の非茶の味別を競い、得点に応じて賭けて勝負する。1326頃(嘉暦1:鎌倉時代)
茶礼が日常飲食儀礼として用いられる。1336(建武3:南北朝時代)
足利尊氏は『建武式目』で、群飲佚遊として連歌会や茶寄合を禁止する。1350前後(観応1:南北朝時代)
銘茶産地、京都、大和、伊賀、伊勢、駿河、武蔵。
この頃、茶園の北限・茨城でも栽培されていた。1351(観応2:南北朝時代)
『慕帰絵詞』に茶道具として天目茶碗、茶筅、棗、茶釜、風炉などが見られる。1378(永和4:南北朝時代)
足利義満、宇治、醍醐、栂尾を茶園を佳地と定め、諸国にも茶樹の繁殖を促す。南北朝末期
茶寄合の様子を知らせる往復書簡4通で構成された『喫茶往来』なる。
書院造の様式があらわれ、婆裟羅大名・佐々木道誉らが盛んに茶会を催す。1386
明の茶馬交易で馬と茶が交換される。1391
明で固めた茶を禁じ、散形を用いる。1394(応永1:室町時代)
光賢上人、茶を飲む亭を始めて数寄と呼ぶ。1395(応永2:室町時代)
宇治に本格的な茶園ができる。15C初(室町時代)
関東まで茶園が広まる。15C〜17C
明で釜入りの散茶に沸かした湯を点じる飲み形が一般的になる。1403(応永10:室町時代)
東寺南大門に一服一銭の茶売り現る。1406(応永13:室町時代)
黒木町の霊巌寺の周瑞、明から茶種を持ち帰って植える。
松尾太五郎に釜妙法による製茶技術を伝授。1423(応永30:室町時代)
茶屋の出現1440(永亨12:室町時代)
唐人が嬉野に陶芸と茶種を伝える。1450前後(宝徳2:室町時代)
栂尾茶が衰微し、宇治茶が隆盛を誇って本茶となる。1482(文明14:戦国時代)
足利義政、銀閣に茶室・同仁斎を造る。
東山派の豪華厳粛な茶の湯を流行させた。15C末(戦国時代)
村田珠光、茶禅一味の侘茶を創始する。
「古今唐物を集め名物飾り数寄の人は大名茶湯という。目利にて茶湯も上手に数寄の師匠として世を渡るは茶湯者と云う。
一物をも持たず、胸の覚悟一ツ、作分一ツ、手柄一ツ此三ヶ条ととのへたるを侘数寄と云う」1506(永正3:戦国時代)
求菩提山から諸大名や京の聖護院へ茶が贈られる。1515(永正12:戦国時代)
景徳鎮で青磁の製法を修得した五郎太夫、有田で磁器の製造を始める。1517
広東に渡来したポルトガル人、初めて茶を知る。1523(大永3:戦国時代)
相阿弥の『茶湯秘伝』、池坊専栄の『花伝書』なる。1525(大永5:戦国時代)
明人、嬉野で中国茶を試製。1532(天文1:戦国時代)
武野紹鴎、茶道を簡素で庶民の親しみ易いものにする。
「侘と云うことは故人も色々に歌にも詠じたけれども、ちかくは正直にて慎み深くおごらぬ様を侘という。」1554(天文23:戦国時代)
今井宗久、『茶湯日記』に35年間におよび、信長、秀吉、紹鴎、利休の茶会の様子を書き残す。1559
イタリア人ラムージオが著書『中国茶』で初めて茶をヨーロッパに紹介。1570代(元亀1:戦国時代)
織田信長、東福寺や相国寺などで茶会を催す。1580代(天正8:安土桃山時代)
千利休、茶道を確立する。1586(天正14:安土桃山時代)
豊臣秀吉の金の茶室完成。1587(天正15:安土桃山時代)
秀吉、千利休を伴い筥崎でふすべの茶会を催す。1587(天正15:安土桃山時代)
秀吉の北野の大茶会に公武庶民800余人が参会。
茶頭は千利休、津田宗及、今井宗久。1590代(天正18:安土桃山時代)
博多の商人・神谷宗湛、島津宗室、関西の茶人と親しく交わる。1593(文禄2:安土桃山時代)
朝鮮出兵の最前線である肥前の名護屋敷に仮設した黄金の茶室で茶会を催す。1593(文禄2:安土桃山時代)
南坊宗啓、利休の教えをまとめ、茶道の法典といわれる『南坊録』を記す。1599(慶長4:江戸時代)
黒田如水、『茶湯定書』を記す。1602
オランダ東インド会社の創立、明国の茶および茶器をヨーロッパに紹介。1607
オランダ船がマカオから中国茶を運び、ヨーロッパで広く販売する。1609(慶長14:江戸時代)
オランダ東インド会社が平戸に商船を設置し、翌年から日本茶をヨーロッパに輸出。1612(慶長17:江戸時代)
徳川家康、お茶壺屋敷を大日峠に建てる。1625(寛永2:江戸時代)
桂離宮の造営なる。1632(寛永9:江戸時代)
宇治茶のお茶壺道中が制度化される。1649(慶安2:江戸時代)
御触書に
「大茶を飲み、物まいり遊山ずきする女房を離別すべし」
「酒茶買いのみ申すまじく候」
などとあり、茶消費の大衆化がうかがわれる。1654(承応3:江戸時代)
長崎の万福寺に渡来した黄檗僧・隠元、日本に唐茶の鍋煎茶をもたらす。1656(明暦2:江戸時代)
葉茶屋ができ、飲茶女郎の言葉が生まれる。1660(万治3:江戸時代)
古田織部が茶事指南書『古織伝』を版行。1662
英国、チャールズ2世の宮廷で飲茶の風習が人気を集める。1682(天和2:江戸時代)
お茶屋が増え、小豆飯に茶をかけた茶漬けが流行。1696(元禄9:江戸時代)
『農業全書』に「空閑地に茶を植えるべし」などの記述が見え、田畑の境や家の垣根にまで茶樹が植えられる。1699(元禄12:江戸時代)
貝原益軒、この年に『茶礼口訣』、14年後には『養生訓』を著す。1700(元禄13:江戸時代)
立花実山、『南坊録』を写本して、黒田藩にもたらす。1711
イギリスで茶のクラブが組織され、茶話会が流行。1716
オランダの茶の買い付けが10万ポンド、うち1割が紅茶で9割は緑茶。1735(享保20:江戸時代)
売茶翁と呼ばれた高遊外(佐賀出身)、60代で京の東山に通仙亭という茶店を設け、文人好みの煎茶道を開花させる。1738(元文3:江戸時代)
宇治の永谷宗円、蒸煎茶を創る。1754(宝暦4:江戸時代)
日本山海名物図会に茶摘み、茶こしらえ、焙籠、抹茶臼が見られる。1767
イギリス、増大した茶輸入の支払いのため中国にアヘンを輸出し始める。1773
イギリス本国は東インド会社にアメリカ植民地での茶の専売と課税取立てを認めたが、
ボストン茶会事件が起こり、アメリカ独立戦争の導火線となる。1785
中国茶が初めて直接ニューヨークへ出荷される。1794(寛政6:江戸時代)
上田秋成、代表的な煎茶書『清風(王ヘンに肖)言』を刊行する。1798
アッサム茶樹発見。1831
インド茶の栽培が始まる。1835(天保6:江戸時代)
江戸の山本嘉兵衛、玉露の製法を工夫。19〜20C
世界規模で急速に茶生産地が広がる。江戸末期
静岡が全国一の茶産地として浮上。1868(明治1)
英人ガベバ、ヘリア商会などが長崎で茶の買い付けを始める。
このため八女茶の生産が急増するが、粗放な切替茶畑で自然生の山茶を育成した日乾釜妙茶だったため、5年後に神戸に移転してからは地域間競争に負ける。1870代前半(明治3)
彦根藩『製茶図解』、増田充績、『製茶新説』に詳しい当時の茶業を図解。1884(明治17)
高林謙三、生茶葉蒸器、焙茶器、製茶摩擦器を発明し、15年後には粗揉機をつくって、半機械製茶時代を招来する。1890
パリの万国博覧会に日本茶宣伝のため喫茶店を開設。明治以降
朱泥の急須、茶の間に普及。1906(明治39)
岡倉天心、『茶の本』を日本、英、仏、独語で出版。1907(明治40)
藤江亀太郎が摘採鋏を考案。1915(大正4)
内田三平が手鋏を開発。手鋏みの5〜10倍に能率が上る。1916(大正5)
第1回全国製茶品評会を静岡で開く。1917(大正6)
日本茶の輸出が記録的な伸び30.101トン。1925(大正14)
6工程の煎茶機械製造が確立する。1941(昭和16)
第2次世界大戦のため米英への輸出が中断。
また食糧作物増産体制の強化で茶園は壊滅的な打撃を受ける。1945(昭和20)
終戦後、茶がアメリカからの食料輸入の見返品として首位の輸出品となり、急速に復興。1947(昭和22)
第1回全国茶業者大会を静岡で開催。1950(昭和25)
動力摘採機の発明、10年後くらいから普及する。1955(昭和30)
茶業斜陽論がささやかれ、ミカンへの転作が急増する。1965頃(昭和40)
日本経済の高度成長により茶価が上昇、再び増殖気運。1971(昭和46)
貿易の自由化で国産紅茶は海外との競争に負け、急速に減少してやがては終息する。1975(昭和50)
フィードバック制御の製茶機が開発され、蒸気流量計や茶温計が普及。1980(昭和55)
ウーロン茶の需要が急速に伸びる。