岩塊(トンネル)の価値~歴史編~


  北鎌倉駅ホーム脇のトンネル(岩塊)の歴史的価値について詳細に解説した文章がありましたので、著者の快諾を頂き、以下にご紹介します。朝比奈峠の東の防塁と対になり、鎌倉の重要な境界であったことがわかります。

以下 『鎌倉地図草紙』(歴史探訪社,2004)より引用
    著者:馬淵 和雄 氏 (日本考古学協会理事)

北鎌倉~一遍上人と北鎌倉の入口~

 「ああ、あれか」と思う人は多いはずだ。JR北鎌倉駅下り線ホームなかほどに、北の山裾から突き出ている岩の塊のことである。岩盤を削り残した幅8~10m、高さ5~6mほどの盛り上がりで、ホーム沿いの小道を通行する人びとにとっては邪魔者以外の何ものでもなかったのだろう、横腹に穴があけられ、辛うじて人や二輪車が通れるようになっている。北鎌倉の風景の中に埋もれたこの岩塊は、私たちを中世都市鎌倉へと導く、文字通りの入口である。
 明治22年(1889)の横須賀線敷設によって大部分が削り取られたが、それ以前は前面の鎌倉街道近くまであったらしい。この突き出た岩塊の存在は、建武元年(1334)から同2年7月の間に描かれたとされる「円覚寺境内絵図」からも確認できる。そこでは弘安5年(1282)創建の円覚寺の西側結界(境界線)とされ、いまでいう鎌倉街道十王堂橋の橋詰めまで伸びている。幹線道路わきに大きな障害物があったことになる。しかし、これは自然の岩盤であり、円覚寺創建時にはじめて出現したわけではない。それ以前は何だったのだろうか。

「円覚寺境内絵図」

円覚寺境内絵図

 結論からいえば、これはおそらく頼朝以前から存在した、鎌倉の北(西)の入口を守る防塁である。それをのちになって、円覚寺が西の結界に利用したと考えられる。さらに、これを防塁と考えることによってはじめて理解可能な施設が、鎌倉をはさんで対象位置にあたる東の朝比奈峠の麓にも存在する。それが朝比奈峠旧道の鎌倉側入口にある、大きな防塁である。詳しくはその項(P70)にゆずるが、古くから、鎌倉の北側の山裾には東西に幹線道路が通じていた。東京湾側の六浦から朝比奈峠を越えて鎌倉に入り、大倉から後世の鶴岡八幡宮あたりを真っ直ぐに通過して、現在の寿福寺の場所にあった源義朝邸(鎌倉之楯)にいたり、さらに北鎌倉に抜ける経路である。朝比奈峠の塁壁は、北鎌倉のそれと対をなす、この北側山際道路の東側の防塁だろう。近年とみに注目されているこの道路の重要性は、東西ふたつの防塁の存在を知ることでいっそう鮮明になるはずだ。

東西の防塁

東西の防塁

 そしてこの防塁先に接する鎌倉街道の路上こそ、『一遍聖絵』中のあの巨袋坂の地点にほかならない。
 弘安5年3月1日、鎌倉に入ろうとした一遍たち時衆は、円覚寺から山内に向かう「太守」(ここでは執権の意)北条時宗一行に出会い、阻止される。一遍は20人を超える時衆の先頭にたち、白い狩衣姿で馬に乗る時宗に向き合っている。時衆の後ろには木戸のようなものがあり、彼らに付き随っていた乞食・非人たちが小舎人に追い払われる光景が描かれている。道の両側の家、見守る通行人たち、馬で駆けつける武士、路上の溝。あまりにも有名な場面である。時宗随行の武士が一遍に、「木戸の外は御制にあらず」といっているので、この木戸は確かに鎌倉の内と外を分ける境界である。この場所については従来様々にいわれてきたが、現代の目印でいえば、北鎌倉駅前から鎌倉街道を西に70~80m行った瓜ヶ谷道の交差点付近に相当する。その理由は、防塁の存在以外にもいくつか挙げられる。

『一遍聖絵』(部分)

一遍上人絵伝

 まず、北鎌倉駅ホームの北、岩塊の西隣にある八雲神社の場所が、元仁元年(1224)に北条泰時がおこなった四角四境祭の斎場跡だという点だ。6月に第3代執権に就任したばかりの泰時は、疫病の流行を抑えるため、12月26日四角四境鬼気祭をおこなった。そのときの四境、「東六浦。南小壷。西稲村。北山内(『吾妻鏡』)のうち「山内」の跡地が、ここ八雲神社だという。四境祭は境界の外縁でおこなわれる。このときもちろん円覚寺はまだ存在しない。このことは岩塊が境界そのものだった事実をよく示している。
 つぎに、ここには橋の名に名残をとどめる十王堂が存在していた。正確にはその場所は防塁がかつてあったそのすぐ西(北)に当たる。鎌倉時代中期以降、鎌倉の境界には十王像や地蔵などが置かれるが、現在円覚寺桂昌庵に収められているここの十王像も、十王岩や浜の十王像(荒居閻魔)などと同じく、異界標識のひとつだったのであろう。

北鎌倉周辺図

北鎌倉地図


※ 文中の図等は史跡研究会で掲載