不思議な懐かしさに身をゆだね・・・
3度目の長崎は、いつもにも増してこゆーいまるま旅になりました。と言っても、私にとってはまさしさんの足跡を訪ねることは、ごくごく普通の感覚なんですけどね(笑)
ホテルで朝食を済ませ、まずは、まさしさんにとって一番思い出深い町じゃないかなと思われる上町へ向いました。ここは、駅から近いです。去年も訪ねていますが、自分でも不思議なぐらい、勝手知ったる町のようにどんどん歩いて行けました。
真っ白な風格のある中町教会を過ぎると、まさしさんが小学校2年生ぐらいまでよく遊んでいた(はずの)中町公園が見えてきます。公園の片隅に、真赤なアスレチックの滑り台がありました。もちろん、まさしさんが遊んでいた頃とは遊具も違うでしょうけれど。
道を一本山側のほうに入ると、一方通行のため車の通りが多い細い道があります。玉園町と上町の境あたり。このへんは、お屋敷町だったそうで、言われてみれば、古い門がまえの家や庭に松のある家がありました。
「ぼくが小学校1年の頃は、親父が一番羽振りのいい時期だったから、相当大きな家に住んでいたんです。部屋の数が十以上もあってね、それに大きな庭があった。池がブワーッとあってね、橋がヒュッと、こうかかってて、その下で錦鯉がワチャワチャワチャワチャ泳いでいるわけですよ。そういうところに、ぼく住んでたんです」(「噺歌集」)
このあたりは、お寺も多く(長崎はお寺だらけだけど(A^^;))たぶん、まさしさんは、5,6才の頃、このへんのお寺さんの境内で遊んでいたのかもしれませんね。写真のお寺は、聖福寺です。ここは、ファンクラブ会報に写真が載っていたのを覚えていたので、撮ってみました。
“まさしさんの生まれた家は、この寺のある玉園町から道一本向うの東上町にあってね、ここから直線距離にして100m位かな。だからこの寺の境内はそれこそその頃の彼にとって庭同然だったんですって
。”(まさしんぐWORLD VOL.27「詩の故郷を訪ねて」)
『聖福寺の鐘の音ちかしかさなれる家の甍を越えつつ聞ゆ』/斉藤茂吉
歌人・斉藤茂吉が長崎大学医学部の精神科教授を着任していた頃(1917(大正6年)〜1920年)に詠んだ歌です。茂吉の住居は、この近く上町にあったらしいです。聖福寺は、長崎四福寺(興福寺、崇福寺、福済寺)のひとつで、「福」を呼ぶお寺としてお参りする人が多いとか。長崎で一番大きい鐘と、山門に特徴があります。境内には「ジャガタラお春」の碑があります。
まさしさんが小学校2年生まで通った「勝山小学校」(現・桜町小学校)も近くにあります。3年前にも来たのですが、今回訪ね直してみてビックリ。ぐるりと工事用の壁に囲まれ、校舎が全部取り壊されてすっかり無くなってしまっていました。目のまえの陸橋から覗いてみると、石碑(おそらく校訓などが刻まれていたのでしょう)が、取残されたように建っていました。
聞くところによると、立て替えではないらしいとか。統廃合でしょうか?時代の流れで仕方のないことですが、まさしさんに関わる場所が無くなってしまうのは、ファンとしても淋しいものですね。(でも、もしかして私だけかしら?(A^^;))
一旦ホテルに戻ってチェックアウトして、自由飛行館へ。11時の開店を目指して、すでに30人以上の列が出来ていました(A^^;) 知り合いが何人かいたので、待っている間も退屈しなくてすみました。ちょうど私達が入店する頃はお昼だったので、ランチのハヤシライスを食べました。(カレーもありましたよ)
去年、一昨年は、打ち上げのときにゲストの皆さんが書いてくださった寄せ書きがあったので、今年もと期待して行ったんですが、残念なことに今年は書いてもらう時間がなかったそうです。ちなみに一昨年の寄せ書きには、原田泰治さんの絵が入った大きなものです。打ち上げの最中にさらさらと描かれたんでしょうけれど、これが結構凝っているんですよ。友人に指摘されて初めて気がついたんですが、蔵の絵をよく見てみると「まるま」の紋が入っていました(笑) そういえば、泰治さんは「セントラルパーク」の絵の中にも、コンサートトラックを描き込まれていましたよね(^^)
自由飛行館を出たときに、最近ネットで知り合った方に、声をかけられてビックリ!(なにしろ、初めてお会いしたもので)これも「長崎から」でしかできない出会いですね。(お声をかけていただき、ありがとうございました。)
自由飛行館のすぐ傍にある「崇福寺」のわきに、まさしさんと喜代子お母様が寄進なさったお大師様があります。どういういきさつで寄進なさったのかは、勉強不足なので書けませんが、実はこの鍛冶屋町あたりは、喜代子お母様にとって、子供の頃の思い出の場所なんです。
長崎市今籠町十四番地、赤寺で有名な国宝崇福寺のある町です。あの赤門と石段は、私の子供時代を夢中に遊ばせてくれた、ゆりかごでした。静かな街並みは二号さんと料理屋と、お寺との不思議なほど自然に溶け合った平和な町でした。(「永き旋律」/佐田喜代子著)
そして次に訪ねた場所は、鍛治屋町1丁目にある大音寺。大音寺は、浄土宗の名刹で1614年に創建されています。境内に、喜代子お母様のご祖父にあたる岡本安太郎翁の記念碑があります。すけっちぶっく番外編に書きましたが、岡本組というのは、長崎港の荷揚げ作業や倉庫業を取り仕切っていたんですね。沖仲士の元締めであり、町の顔役だったそうです。功績をたたえる碑が建つぐらいですから、その権力は相当大きかったでしょうね。実際に石碑を見て、想像していた以上に大きく立派なものだったのでビックリしました。高さ3mぐらいはあったと思います。まるで宝物を見つけたぐらいに、感動してしまいました。いやー、お見それしました。失礼しましたm(__)m<ご先祖様
その祖父は、私が生まれて間もなく他界したものですから、私の知っている我が家は父の代でして、それでも隣り町までぬける長い屋敷の玄関には、家名と家紋の入った、手提げ堤燈が、ずらりと並んで長押に掛けてあった事、それに勘定と云って、つまり給料日のことですが、その日は、それぞれの組頭が、我が家のハッピに地下足袋と云ういでたちで、ぞくぞく集まられ、お座敷には緋毛せんが、しっかりと敷きつめられ、卓袱テーブルの上にはごちそうが並び・・・・。(「永き旋律」/佐田喜代子著)
「永き旋律」によると、喜代子岡様のお父上はいやいや跡を継がれたそうで、あまり仕事に熱心でなく、また時代の流れもあって、岡本家は衰退していったといったことも書かれていました。
自由飛行館からご一緒した広島の吉田さん達と別れ、友人と二人で諏訪神社へ向います。お諏訪さんは去年も一昨年も行きましたが、今年は「ほんパラ!関口堂書店」の影響もあって、また訪ねることにしました(笑)
午後から雨雲が出始め、片降りの空になっていました。まさしさんが、小学生の頃バイオリンのレッスンに通ったときのように、寺町通りを歩いて行ってお諏訪さんまで行こうかとも思いましたが、あまりの暑さに歩きは断念しました(A^^;) (まさしさんは、新中川町の家から寺町通りを歩いて、レッスンに通っておられたと思います)
じっとしていても汗が吹き出てくるような蒸し暑さの中、お諏訪さんの坂(石段)を上るのはきつかったです(A^^;)
お参りもそこそこに、まずは月見茶屋へ。まだお腹がいっぱいだったので、名物のぼた餅は食べませんでしたが・・・。3年前に撮りそこなったサインを写真を撮りました。あとでわかったのですが、数日前に、まさしさんはこのあたりで撮影をなさっていたそうです。(「ほんパラ!」用かな?)
「ほんパラ!」でまさしさんがしていたように、石段のてっぺんに腰掛けてみました(笑) 写真の下のほうに見える(車が停まっているところ)のは、おくんちのときのステージ「踊り馬場」になるところです。そういえば、前出の岡本組の相撲大会も、大正時代にここで行われていたようですね。向いに見える山は、左の高い山が英彦山(ひこさん・標高402)で、右がハタ揚げで有名な風頭山(標高150)。さっきまでいた大音寺、自由飛行館は、その麓にあります。中腹には、坂本竜馬の亀山社中跡があります。いつかまた機会があれば、一度は行ってみたいところです。
月見茶屋の脇から長崎公園(諏訪公園)に下りて行くと、途中に小さな動物園があります。そして、月見茶屋のまえの広場とは、またちょっと趣の違う広場・丸馬場があります。ここは去年も来たのですが、もしかしたら『サンデーパーク』の詩のイメージになったところでは?と言われている場所です。小さな石のステージがあり、そのわきにある銅像、石碑や慰霊塔になんとなく霊的なものを感じてしまうのですが(A^^;)
「永き旋律」を読んでいると、喜代子お母様が丸馬場の野外音楽堂で、長崎児童バイオリンオーケストラの
演奏を子供達と聴きにいったのが、まさしさんにバイオリンを習わせるきっかけになったようなことが書かれていました。まさしさんが3才のときでした。
きっと、小さいまさしさんは、おばあちゃんに手を引かれて、よくここに来ていたんじゃないかな。おばあちゃんは、毎日、午前と午後に繁理さんを乳母車に乗せ、まさしさんの手をひいて公園に出かけておられたそうです。公園の片隅に、小さなブランコと滑り台がありました。藤棚の下のベンチは、風が通りぬけて涼しかったです。
丸馬場を下って行くと、長崎県立図書館のまえに出ます。まさしさんが、小学校に上がる前からここで本を借りて読んでいたという話は、結構知られていますね。建物は、当時と違うかも知れませんが、記念に写真を撮りました。
それから、もう一度、上町を歩きました。まさしさんの家は、どのへんにあったのだろう?松竹じいさんは、どんなおじいさんだったんだろう?そんなことを思いながら(笑)
玉園町にある観善寺と福済寺の間にある坂を上って、しばらく墓地の中を歩いて行くと、長崎観音の背中が見える場所に出ました。そこは、とても見晴らしが良かったです。まさしさんが大好きな「城の古址」から見える景色と、ほぼ同じように思いました。正面に長崎駅と港と稲佐山、ピースミュージアム建設予定地の松ヶ枝埠頭あたりまで見えたでしょうか。手前には、大好きなおばあちゃんとの思い出の上町、お諏訪さんの森。まさしさんは、きっとここからの風景も好きだろうなぁ。いつまでも眺めていたい景色でした。まさしさんが、いづれこの町に帰られるということ(お墓に入られるということです(A^^;))を思うと、長崎の町をたまらく愛しく感じてしまった今回の旅でした。