《その3》

野口整体とは何か

《その3》

 

3-1「整体」とは心身が統一していること

 野口先生は、「整体」ということを次のようにも言われました。

整体とは
いつどこででも
活元運動が
発動している
状態である

 活元運動というものがきちんと出る体、それは正坐が正しくできる「上虚下実の身体」を目指すことです。それが整体を保とうとすることです。「自然治癒力を行使する」といっても、普段から基礎的な体力と身体感覚を養う訓練をして行かなければできないことなのです。
 その上で、風邪などの症状をきちんと経過し、すっきりと気持ちよい体に戻った時、「身体が整った」と感じます。この時、症状が出る前の体は、偏っていて「整体」ではなかったと気づくこともできます。私等は、このようにして「整体である」ことを保持して生活しています。金井個人はこの道四十年、医薬の世話になったのはムヒを一回塗ったことだけで、体の持つ抵抗力により健康を保持しています。
(このことから、当会を「自然健康保持会」と名づけています。)

   

野口晴哉 『野口晴哉著作全集 第一巻』(全生社)

 人体が物質化する理由は、体から心が離るゝためです。又心が一部分に滞つて感覚の伝導が公平に行なはれぬためです。ですから、全体が一つにならず、ために合目的性が発揮されない状態になってしまふのです。しかし、心滞ることなく、体の働き鈍ることなければ、人は如何なる障害刺戟にも反応し、抵抗することができるのです。毒を薬に変ぜしむる位、簡単なことです。冷い風とか、病菌とかにさう易々冒さるゝものではありません。毒物が何です、病菌が何です、私らは生きてゐるのです。

    

 このように、体の抵抗力がきちんとはたらくには、心身がひとつのものとして保持されることが必要です。
 人間の体を物質的に扱うのは、体を肉体、また、さらに人体として考えていると思うのです。
 野口整体では、体をもちろん、肉体としてではなく、「身体」、それは「心身と言うべきもの」として扱っています。

  

3-2「身体」を観るとは「気」によって心身を観ること

 最近になって私の野口整体・身体論の展開が固まってきましたが、医学で観ているのは肉体です。私が観るのは「身体」というもので、これは即、「心身」と言い換えることができるものです。例えば、科学的に最も進んだMRIによっても、借金の苦労も恋愛感情も写りません。相手の心と体に関心を持ち、「気」を集めて観ようとする時、身体は「心身として」私の前に存在します。
 そして「身体」とは、他者に対しては「気」で相手の心身を観ようとするときの対象であり、自己にとっては「気」を通して心身統一を図ろうとするものなのです。
 私が「身体」という時には、「気」が不可欠のもので、「気」の鍛錬により、「自己の心と体を一体のものとして把握する」ことができます。この感覚を「主体的自己把持感覚」と言います。
 若い人の「うつ」が増え、これは大きな社会問題でもあります。私は身体を観ていく上で、長い間「うつ」というのはどのような状態なのかを考えてきました。医学では「脳内の伝達物質の問題」が指摘されていますが、私から観ると心(身体)が何かにとらわれ、頭がぐるぐるしている状態です。この時、「気」が頭に集まってしまい、身体の重心は腰肚の方にないことが分かります。体がきちんと働いておれば心がそのようになることはないのです。
 体から心が離れず、いわば、心身が統一した状態であれば抵抗力が働き、病症を自然経過し健康を保つことができます。野口先生は「心と体はひとつ」と言われ、もとより心身は一如なのです。
 このように、「身心統一」を目指すことが、より自らの潜在力、それは治癒能力だけに限ったものではなく、さまざまな能力が拓かれることにもつながります。
 病院の薬だけを頼りにする人は、自分の身体というものを顧みず、日頃、自分の身体がどのようであるか、それは「心身の状態がどのようであるか」を感じることですが、こういう自己管理能力というものをきちんと養いもせず、徒に病気の怖さだけに心が振り回されています。
 「身心統一の身体」であれば、やみくもに病気の心配をする必要はないのですが、心が乱れ、気が頭に上がってしまうと「身体」を感じることもできず、病気が進行することの空想に心が引っ張られてしまうのです。
 一般に病気になることを恐れ、病症を敵視しますが、「病気の心配はすれど身体の心配はしていない」というのが私四十年の経験から人々に訴えたい念
(おも)いなのです。
 私は長年の整体指導を通じて、どうしても医薬に頼ってしまう人も見てきましたが、こういう人たちは最終的に、やはり自分の力を現すことができないと痛感しています。それは内なる医のはたらきを理解せず、これを使わないためにその力が増えていかないからです。いや、むしろ徒なる医薬の行使により、その力が衰退するのです。頭もそうですが、自分の心身の働きを使わないことには何ら増えるものではありません。鍛えて使い、そしてきちんと休めることで潜在能力を顕在化させることこそ「体育」そのものであるのです。

 

《その3》