観音堂
寺の言い伝えによると、往古寺の北方に小さな池があり、兵乱の時、寺の梵鐘 が沼中に沈んでしまったので、その後この沼を「鐘沼」と呼ぶようになった。ま た一説によると当寺の鐘は何者かに盗まれて、常陸国筑波山頂に埋められたとも 伝えられています。
観音堂の十一面観世音菩薩立像にもいい伝えがあります。文化年間(1804〜17 年)のはじめに、何者かの手によって観音像が盗まれ、江戸駒込の古物商に売払われた。ところが、古物商の妻が高熱にうなされ、しきりに「樋の爪村の薬林寺に帰リたい、帰りたい」とうわごとをいうようになった。これをおそれて古物商はこの像を寺にかえした。この像を住職が村人達とねんごろに礼拝供養した折 、観音像はさも満足気に首を振ってうなずいた。それより誰いうとなく「薬林寺 の首振り観音」と呼ばれ、人々によって益々願い事が成就するよう信仰が広まっ た。この十一面観世音菩薩像は、首部が抜け、胴部は内ぐりされており、その胎内には元禄十五年(1702年)の古文書が納められています。




岡の薬師お堂内の姥像について
婆
近年、このお堂の姥像については、葬頭河婆(ショウヅカノババ)と伝承されてきました。しょう ずかのババとは三途の川の脱衣婆のことです。奪衣婆 だつえばとは、三途(サンズ)の 川のほとりにいて,死者の衣を奪いとる鬼女.衣領樹(エリョウジュ)の下で待ち,死者の衣を はぎとって懸衣翁(ケンエオウ)に渡すと,懸衣翁がこれを衣領樹にかけ,枝のしなり具合で 罪の軽重を定めるというババです。〈葬頭河婆〉とも称します。中国成立の偽 経である十王経などに見えますが、日本では民間信仰と習合し、路傍に道祖神の 一種である姥神として祭られることもあります。なお,国書に見える奪衣婆に関 する最古の具体的記事は,__法華験記_(1040_44)巻中の70、蓮秀法師に「汝今ま さに知るべし.是は三途河,我は是れ三途河の嫗なり.汝衣服を脱ぎて我に与へ て渡るべし」とあるもので,これによると当時すでに十王経の所説が行われてい たことになって注目されます。

しかし、民俗学者の柳田国男先生は、その著書『女性と民間伝承』一つ家の姥 のなかで『我々の想像もしなかったくらい大昔の信仰が、たとえ間違いだらけにもせよ 、今日まで伝わって、いたというには、必ず相応の理由がなけれぱならぬと思い ますが、それには物語のの女主人公と、同一系統の職業婦人が永く地方を旅行し ていたことを想像すれば、容易に疑問はとけるのであります。
仏教のはじめて田舎に行われた時代には、自身その霊験を体得したという女の 、身の上話をしてて歩くことが、ことに今よりも盛んであったかと思われますが 、近代になってからも関東地方などは、それがなお引き統いて行なわれていまし た。あるいはそんな手段をもっていわゆる鼻の下のくう殿を建立していたのかも しれませぬが、少なくとも質朴なる信者の側には、それが忘れがたき歴史として 評判せられたので、その例はとても列挙し得ないほど多く残っております。
たいていは勧進と称して土地の人々に堂を建てさせ、自分はその中に住んで一 生を終わったと称して、木像などがその御本尊の脇に安置してあります。
東京近くでは北足立郡樋の爪の岡の薬師なども足利時代の終わりに再興した 寺ですが、ちゃんと一体の老女の像を祭っています。しかも薬師と婆とは本来間係はないのです。
亀井戸の天神の社内にはもと法華堂というものがあってここにも老婆と老翁の 木像がありました。老女は太宰府の榎寺に住む浄妙尼という女で、管神左遷の折 に栗飯を献上した者だと申しますが、老爺の什随していたのが珍しいと思います 。それよりも新しい一例は、今から百年ほど前の『嘉陵紀行』という書に、白子 の近くにある吹上の観音堂の中に・・・』と岡の薬師の姥像について著述されて おります。この姥の木像には女性の民間信仰の永い歴史を感じます。



薬林寺と鎌倉街道・日光御成街道について

日光御成道は、おおむね中世の鎌倉街道を前身として整備されましたが、部分的には後に道すじを変更したと考えられるところもあります。川口宿と鳩ヶ谷宿の間の御成道の一部もそうであったと考えられます。この部分には、古くは芝川の堤防上を通る鎌倉街道(現薬林寺西側道路)を利用していた箇所があったそうです。ところが、この付近の伝承によると、いつの頃か将軍が日光社参りの折り、薬林寺から旧前田村にかかるあたりで、美しい娘を見初めて側室にしたいと言い出しました。そこで家臣たちが計って帰路はそこを通らぬよう、急遽現在の御成道(国道122号)に変更してしまったといわれています。
事の真偽はともかくも、この道すじの変更を思わせるいくつかの事柄があります。まず、今でも土地の古老の中には、現在の御成道を「しんけえどう(新街道)」と呼んでいる人がいること、また、『新編武蔵風土記稿』の前田村の項に、昔は芝川の堤の上が日光御成街道であったという意味の記載がみられること、さらに、現在の御成道部分(国道122号)がほぼ一直線の道路であり、新たに造られたものであると考えられることであります。