かつ輪書 地之巻

一、登りでは防御に徹し、無視すること。

山では人とすれ違うたびに「こんにちは」などとよく挨拶を交わす。ときには立ち止まって話をし、これから歩く道の情報を得られることもある。万一遭難したときのために、なるべく自分を他の人に印象付けようと積極的に話かける、という単独行の人の談話を本で読んだこともある。
このように、山道ですれ違う際のコミュニケーションは重要な側面を持っているのだが、ここで私が語ろうとしているのは、もっぱら迷惑なときである。


ザックをミレーの60リットル(だいたいの容量、品名不明)からタトンカのキンバリー70-85リットルに替えた。ミレーのものは横幅が広く、タトンカは縦長のタイプ。10リットル程度の違いだが、見た目にはタトンカの方がはるかに大きく見える。そしてそれは実際に山を歩いてみて実証された。すれ違う人に訊かれるのだ。「大きいねえ」「何キロくらいあるの?」
今までのミレーではほとんど訊かれなかったのだが、タトンカに替えた途端に回数が激増した。そして、2度、3度と山行を重ねると、質問者にある傾向があることに気付いた。

  1. 必ずおばさん
  2. 必ず5人以上のパーティ(特にツアー登山に顕著)
  3. 必ず登りで訊かれる

この3要素を満たしていれば、敵はおそらく90パーセントを超える確率で、「大きいわねえ、何キロあるの」攻撃をしかけてくるであろう。特に3が問題だ。こちらが登りということは、つまり向こうは下りということだ。こちらの状況などはお構いなし、急登で息を切らせていてもこの攻撃は容赦なく続くのだ。
それに対する反撃の手段はこうだ。「何キロくらいあるの」「あなたのザックよりは重いでしょうね」
これでは相手にかなりの不快感をあたえることになり、相手のやっていることとまるで変わりはない。お互いに嫌な感情が残る。ここはやはり防御に徹するべし、である。この場合の防御は無視が一番である。無視すると、敵は階段を猛ダッシュしてきたにもかかわらず目の前で電車のドアを閉められてしまったときのような気まずい表情で、「あらー、たいへんなのね」と苦笑しながら、通り過ぎるあなたを振り返るだろう。しかし、気を緩めてはいけない。それから敵は足をとめ、「すごいわねえ、ちょっと、ほら、○○さん、ごらんなさいよ」「きっと20キロはあるわよ」とさらに第2次攻撃をしかけてくるであろう。だが、ここまでくればもうあなたの勝利は間違いない。視線を背中に浴びながら、悠々と登ればよいのだ。そのまま敵は遠ざかってゆく。また静かな山旅に戻ることだろう

ツアー登山が高山をも席捲している現在の登山界では、このように登りでは体力のみならず精神的にもかなりの忍耐が要求される。また下りにおいても、登り優先だからと道を譲ったのにノンキにビデオカメラなんぞまわしながら昔の国会の野党も顔負けの牛歩で歩かれると、向こうはひとりやふたりじゃなく大人数なもんだから待ち時間も必然的に長くなるということともあいまって、「テメエ人を待たしといてそりゃあねえだろう」と文句のひとつも言いたくなるが、我慢が肝要である。もし仕返しのつもりで「多いねえ、何人くらいいるの」などと聞いたところで敵にはまったくダメージはないのだから。