Top 『浮世画人伝』浮世絵文献資料館
浮世画人伝 た行
『浮世画人伝』関根金四郎(黙庵)著・修学堂・明治三十二年(1899)五月刊(国立国会図書館・近代デジタルライブラリー) ☆ たいと 戴斗 二代 ◯『浮世画人伝』p121「葛飾北斎系譜」 〝北泉(北斎門人)二世戴斗〟☆ ちょうしゅん みやがわ 宮川 長春 ◯『浮世画人伝』p32 〝宮川長春(ルビみやかわちやうしゆん) 宮川長春は、本姓尾藤氏、世々尾張国宮川村に住めるをもて、宮川を氏とせり。通称良左衞門、後喜平 次と改む。元禄の末(スエ)江戸に来り、土佐家に就きて画を学びしが、後(ノチ)発明する所ありけむ。菱 川の風を慕ひ、美人の容姿をうつすに妙なりき。始め町役を勤め、傍ら絵事(カイジ)を業とせしが、後に は女婿源次郎に町役を譲り、己れは、専ら画の道に身を委ねて、宝永正徳の頃を盛りとせしが、元文二 年、日光なる東照公の廟舎修繕の事ありて、当時の画所(エドコロ)、狩野春賀、壁画(カベエ)の補修をうけ たまはりぬ。然るに長春はその頃丹青に名あり、且(カツ)彩色に巧みなりしかば、春賀彼れに托し、彼れ が門生等をして、此の役に就かしめたり。かくて此の事功竣(オハ)りし後、春賀慳貪(ケンドン)卑吝(ヒリン) なる性にて、長春等に報(ムク)ゆべき工銭を私せり。仍(ヨ)りて長春、我が門生等に代り、春賀につきて 之を促しゝより、互(タガヒ)に口諍を始め、遂に格闘に及びたりしに、狩野の門弟等、打寄りて長春を乱 擲(ランテキ)し、果ては縛(バク)して塵芥中に投棄せり。長春、此の時、既に五十六歳、神気疲労し、身体 傷れて、ほと/\死に抵(イタ)らむとしき。長春の子只七(タダシチ)、父の帰らざるを訝(イブカ)り、夜、狩 野氏の邸に至り、父が悲呻(ヒシン)の声を聞きて大に驚き、窃に扶(タス)けて家に還り、さま/\介抱した りし後、父が遺恨を散ぜんと、白刃を振ひて、深夜、狩野の邸を侵し、春賀および門生三名を斬害(ザン ガイ)し、其の身も傷を負ひて自殺せり。此の事件により、狩野春賀の家は断絶、長春も全愈の後、江戸 を追放せられたり。されども元文四年に至り、赦を得て帰り、本所菊川町に住し、宝暦二年十一月十三 日を以て歿しぬ。時に年七十一とぞ。門生中、春水といふもの、ほと/\師にも劣らぬ妙手にして、宝 暦明和の頃より、盛に行はれたりしが、罪人の姓を称(トナ)へんことを憚(ハバカ)りしか、但しは忌みてか、 勝宮川と名告りにき。是れ勝川家の始祖にして、彼の春章と号せし名手も、此の門葉なりしなり。その 伝委しくは別に云ふべし〟☆ ちよじょ きたがわ 喜多川 千代女 ◯『浮世画人伝』p69「喜多川歌麿系譜」 〝千代女(歌麿門人・名前のみ)〟☆ ちんちょう はねかわ 羽川 珍重 ◯『浮世画人伝』p28 〝羽川珍重(ルビはねかわちんちやう) 羽川珍重、本姓は真中(マナカ)、通称太田弁五郎と云へり。武州埼玉郡、川口村に生る。若うして江戸に 来り、鳥居清信の門に入り、絵事を学ぶ。資性謹厚荘重にして、観花納涼のため出遊すと雖(イエド)も、 必、肩衣(カタキヌ)を着す、一日書肆某、来りて珍重に云ひけるは、我れ今より先生のために、衣食住を資 (タス)けむ、願くば居を近隣に移して、板下を画き給(タマ)はるべしと、勧誘甚、懇篤なりしかど、珍重、 儼然(ゲンゼン)として更に応ぜず、それ貧は士の常なり、人の恩恵に浴するものは心に畏るゝところあり、 我れは五斗米のために、腰を折るものにあらず、況やそこの為に筆を售(ウ)りて、口糊を甘んぜんやと、 いたく書肆(シヨシ)某(ナニガシ)を屈折しけり。されば心(ココロ)画にあらざる時は、利のために筆を執らず。 これに反して、意に適すれば演劇の絵看板と雖も、更に辞することなし。画家たるの節操凛乎として、 気韻高く、寔(マコト)に古への士風ありと云ひつ可きなり。 説経浄瑠璃本および、吉原細見記の挿画を多く物せり。晩年自ら三同宣観居士と号す。宝暦四年七月廿 二日、武州葛飾郡川津間郷なる藤浪氏の家に没す。年七十余。江戸下谷池の端、東円禅寺に葬る、其辞 世に、 たましひのちり際もいま一葉かな〟☆ つきまる きたがわ 喜多川 月麿 (喜多川菊麿参照) ◯『浮世画人伝』p69「喜多川歌麿系譜」 〝菊麿 歌麿門人、俗称小川六三郎、後ニ月麿ト改、文化文政ノ頃 小伝馬町ニ住テ、専ラ板下ヲ画キ、後ニ浮 世絵ヲ廃シテ観雪ト更ム〟☆ とうえい つつみ 堤 等栄 ◯『浮世画人伝』p73「堤等琳系譜」 〝等栄(等琳門人)茅場町に住〟☆ とうけい つつみ 堤 等慶 ◯『浮世画人伝』p73「堤等琳系譜」 〝等慶(二世等琳門人)履歴不詳〟☆ とうしゅう つつみ 堤 等舟 ◯『浮世画人伝』p73「堤等琳系譜」 〝等舟(二世等琳門人)履歴不詳〟☆ とうめい つつみ 堤 等明 ◯『浮世画人伝』 ◇「堤等系譜」p74「堤等琳系譜」 〝等明(等琳門人)履歴不詳〟 ◇「葛飾応為」の項 p129 〝応為は北斎の三女にして、通称を阿栄と呼びたるものなり。栄女初め橋本町の油渡世、庄兵衛の男吉之 助へ嫁せしが、障る事ありて離別となりぬ、其故は栄女が良人(オット)たる吉之助は、幼年の頃より、画 を深く好みしが、長じて堤等琳を師となし、等明と号して、一心に業を修めたり、栄女も父北斎の骨法 を得て、女絵を能く描き、また芥子人形を作るに巧なりしかば、是等の事に余念なく、更に家政を顧み ず、且針のわざ縫物などは手にさへとらぬ程なれば、かた/\舅の心に適はず、遂に不熟となりて、家 に戻りたり〟☆ とうよう つつみ 堤 等揚 ◯『浮世画人伝』p73「堤等琳系譜」 〝等揚(等琳門人)麹町住〟☆ とうりん つつみ 堤 等琳 初代 ◯『浮世画人伝』p73「堤等琳系譜」 〝元祖 等琳 堤氏、世俗聾等琳と云ふ〟☆ とうりん つつみ 堤 等琳 二代 ◯『浮世画人伝』p73「堤等琳系譜」 〝二世等琳 堤氏、本姓月岡、俗称吟二〟☆ とうりん つつみ 堤 等琳 三代 (堤秋月・雪山・深川斎参照) ◯『浮世画人伝』 ◇「堤等琳系譜」p73「堤等琳系譜」 〝等琳 法橋雪山〟 ◇「堤等琳」の項 p73 〝堤等琳(ルビつつみとうりん) 堤等琳は初め秋月といひ、後雪山と改む、又深川に住して深川斎の別号ありしが、両国米沢町に移りて 法橋に叙せられ、自ら僧雪舟十一世の孫と称し、天明の頃、専ら行はれし、祭礼の献燈又は摺物団扇の 類を多く画きて大いに世に聞えぬ。等琳未だ秋月と称せし頃、浅草観音堂に、韓信俛出胯下図の絵馬を 画きて奉納し、世間に名を知られ、遂に三世等琳の名を嗣ぎぬ。等琳の名三代ありと雖(イエドモ)も、其 一世二世の事蹟詳(ツマビラカ)ならず。今伝聞する処の家系を左に掲て参考に供ふ。 因に云ふ、当時雪舟の遠孫なりと称する画工多し。市谷に住居せる革嶋雪亭(田安侯の画師にて、雪 舟の遠孫なりと称す、尤も浮世絵師にてはあらず)桜井秋山(天明寛政年間の人にて、雪舟の遠孫と 称し、画則七冊を著す、是も浮世絵にはあらず)長州侯の藩に雲谷(原等顔の末流)の孫ありしと、 此輩みな長谷川等伯(天正年中の人なり)が雪州第五世の孫なりと自称せしにより、後数派に分割せ し者の如し。堤氏三世の等の字を冠り来れるは、等伯信春(等伯の子なり)が遠裔なる故なるべし〟☆ としゆき うたがわ 歌川 年雪 ◯『浮世画人伝』p96「歌川国芳系譜」 〝芳宗 松五郎(*初代芳宗)実子、初メ芳年門人年雪 〟☆ とものぶ いしかわ 石川 流宣 ◯『浮世画人伝』p34 〝石川流宣(ルビいしかわとものぶ) 流宣は伊左衞門俊之(トシユキ)と称し、江戸浅草に住(スマ)ひ、『江戸紫』『江戸図鑑綱目』『大和作絵抄』 等を著(アラワ)せり。その履歴詳(ツマビラカ)ならずと雖(*イエド)も、当時菱川師宣の画、大に流行せしかば、 是に因て流宣の名を、設しものなりと云ふ。同時に探幽斎守信に擬して、探幽斎正信と号する浮世絵師 もありしと聞けば、此の如き戯れも、一時流行せしものならむ〟☆ ともふさ ひしかわ 菱川 友房 ◯『浮世画人伝』p8「菱川師宣系譜」 〝友房(名前のみ)〟☆ とよくに うたがわ 歌川 豊国 初代 ◯『浮世画人伝』p80「歌川豊国系譜」 〝歌川豊国(ルビうたがわとよくに) 歌川豊国は、俗称倉橋雲吉と云ひ、一陽斎と号す。父は倉橋五郎兵衛と称し、宝暦の頃、芝神明前に住 居し、木像制作を以て業と為せり。俳優市川柏莚(二世団十郎)の像を彫刻するに、頗(*スコブ)る妙を 得たる人なりきと云ふ。其子豊国、歌川の画祖豊春の門に入りて、歌川派の妙を得、加ふるに、一蝶、 玉山、春英が画風を折衷して、歌川派に調和し、更に一己の工夫にて、修飾和合して、時好に適応すべ き画風を案出したり。婀娜(*アダ)たる美人、骨格逞(*タクマ)しき力士、艶麗なる俳優の似顔を描きて、 画筆巧を弄し神(カミ)に入る、これによりて、其名都鄙(*トヒ)に籍甚(セキジン)たり。されど其初めは、更 に流行せず、或日豊国芝神明前の絵草紙屋和泉屋市兵衛の処に行き、己れの携持ちたる下絵を市兵衛に 渡し、筆料は取らぬ程に、これを錦絵となし、販売し呉れよと、切に依頼しければ、市兵衛甚(*ハナハダ) 不愍(*フビン)に思ひ、快よく承引して、これを出板せしに其售(*ウ)れゆき甚よろしかりしかば、市兵衛 気を励まし、随分熱心励精あるべし、そこの下絵は我等必受引く可(ベ)しと云ひければ、豊国これに勢 を得て、鋭意画筆を揮ひ、必(*ズ)和泉屋に持行きて売弘めしより、其画次第に評判高く、遂に、隆々 の名を揚るに至る、されば、芝三島町より中橋通横町三笑亭可楽が隣家に、転居して、画名の全盛を極 むるに至りし時も、常に和泉屋市兵衛の恩誼を忘れしこと無かりきと云へり。 豊国既に嬌艶の画筆に其名喧(カマビスシ)く、貴顕公子の其門に遊ぶものさへありて、歌川の画風益々熾 (サカン)なり。豊広と豊国と共に豊春が門人にして、浮世絵の高手なりしかば、互に相(アイ)馳駆(チク)して 勢(イキオイ)、弟たり難く兄たり難き間柄なりしものから、遂に両人の間に不和を生じ、式亭三馬、仲裁の 労をとり、『一対男時花歌川』と題する合巻ものを作り、豊国、豊広両人をして、挿画(サシエ)を為さし め、以て和睦を結びたりき、豊国は、文政八年正月七日に没す、享年五十七歳、三田聖坂功運寺に葬る、 法号は得妙院実彩麗毫信士。文政十一年八月、門人等、義子豊国と謀りて、碑を柳島妙見の境内に建立 せり、撰文は狂歌堂真顔、篆額は山東京伝なり、其辞世の句に、 焼筆のまゝかおむろの影法師 これは他人の代作なりと云ふものあり、或(アルイ)は然(シカ)る歟〟☆ とよくに うたがわ 歌川 豊国 二代 ◯『浮世画人伝』p82「歌川豊国系譜」 〝一龍斎豊国 初代豊国門人、初名国重、俗称源蔵、師豊国ガ寡婦ノ夫トナル、故ニ二世豊国ノ号ヲ嗣ギ早世ス、同門 中ニ技量大ニ劣レリ、世俗源蔵豊国ト云フ〟☆ とよのぶ いしかわ 石川 豊信 ◯『浮世画人伝』p49 〝石川豊信(ルビいしかわとよのぶ) 石川豊信は、俗称糖屋七兵衛、秀葩と号しき。江戸小伝馬町なる、旅亭の主人なり。画の師は、西村重 長とて、享保の頃、文角、清春等と、名を等しうせしものなりしが、豊信ほと/\出藍の誉ありて、宝 暦の頃、紅絵に高評を得たり。生質温厚謹直にして、生涯青楼に遊びし事なし。然れども、巧みに男女 の状態を写して、頗(スコブ)る其の情に通ぜしものゝ如くなりき。天明五年五月廿五日、享年七十五才に て歿し、浅草黒舟町正覚寺に葬られき。彼の狂歌の名人、国学の博識たる、六樹園石川雅望は、此の子 なりけり〟☆ とよのぶ うたがわ 歌川 豊宣 ◯『浮世画人伝』p90「歌川国貞系譜」 〝豊宣(歌川国久門人) 国久長男、俗称勝田金太郎、三世豊国ノ孫ナルヲ以テ、一陽斎(四世)香蝶楼(二世)ト号ス、俳優ヲ画ク ニ疎シ〝
☆ とよはる うたがわ 歌川 豊春 ◯『浮世画人伝』p77「歌川豊春系譜」 〝歌川豊春(ルビうたがわとよはる) 歌川豊春は通称但馬屋庄次郎、一龍斎と号しき、豊後国臼杵の人にして、初め京都に出で鶴沢探鯨を師 とし、後ち江戸に来り石川豊信が門に入り、当時の風俗を画き一家を起す、是則ち歌川派の始祖なり、 初め芝三島町及び日本橋桧物町等に住し、後ち赤坂田町に転住し剃髪して一龍斎潜蔵と云へり、豊春操 芝居土佐結城両座の看板を画き、意匠を凝らし彩色を巧にし大に好評を得たり。又春英、春徳、春亭等 も操座の看板を画きしと云ふ。豊春、寛政の頃、日光東照宮営繕の時、野州に出張して絵職人の頭たり し事あり、豊春、板行の錦絵を画く事にも浮絵を専らにせり、文化十一子年正月十二日歿す、年七十八、 広徳寺前光明寺に葬る〟☆ とよひさ うたがわ 歌川 豊久 ◯『浮世画人伝』p78「歌川豊春系譜」 〝豊久(豊春門人)堺町ニ住、狂言ノ絵本ヲ多ク画ク〟☆ とよひで うたがわ 歌川 豊秀 ◯『浮世画人伝』p78「歌川豊春系譜」 〝豊秀(豊春門人)京都ノ人、未詳〟☆ とよひろ うたがわ 歌川 豊広 ◯『浮世画人伝』 ◇「歌川豊春系譜」p78「歌川豊春系譜」 〝豊広 豊春門人 一柳斎〟 ◇「歌川豊広」の項 p79 〝歌川豊広(ルビうたがわとよひろ) 歌川豊広、通称は藤次郎と云ひ、一柳斎と号しき。江戸の人にして芝片門前町に住せり、豊春の門人な り。豊広、生涯俳優の似顔を画かず、初代南仙笑楚満人作の復讐物語等の草双紙合巻物の挿画を物せり、 此類の挿画を作るは豊広に創る、山東京伝、曲亭馬琴等が著作に豊広の挿画多し。豊広また草筆の墨画 をよくして張交(ハリマゼ)画の板行少なからず、画業の余暇に義太夫節の浄瑠璃を稽古し、また三絃に巧 にして聞くものをして両つながら、其妙を感ぜしめしと云ふ、素人をして寄席に出でしむるの端(ハシ)を 開きしは豊広なりしとぞ、但其当時は席料は一切受けざりしと云ふ、豊広は文政十一年五月廿三日歿し、 享年五十六歳なりき〟☆ とよまる うたがわ 歌川 豊丸 ◯『浮世画人伝』p78「歌川豊春系譜」 〝豊丸(豊春門人)未詳〟