Top 『浮世画人伝』浮世絵文献資料館
浮世画人伝 さ行
『浮世画人伝』関根金四郎(黙庵)著・修学堂・明治三十二年(1899)五月刊(国立国会図書館・近代デジタルライブラリー) ☆ さだかげ うたがわ 歌川 貞景 ◯『浮世画人伝』p90「歌川国貞系譜」 〝貞景 国貞門人、五湖亭、俗称小嶋庄五郎、目白台但馬屋敷ニ住〟☆ さだしげ うたがわ 歌川 貞繁 ◯『浮世画人伝』p90「歌川国貞系譜」 〝貞繁 国貞門人、後ニ一雄斎国輝ト更号し夭死ス〟☆ さだとし うたがわ 歌川 貞年 ◯『浮世画人伝』p90「歌川国貞系譜」 〝貞年 国貞門人、俗称大竹長次郎、牛込山伏町ニ住〟☆ さだとら うたがわ 歌川 貞虎 ◯『浮世画人伝』p90「歌川国貞系譜」 〝貞虎 国貞門人、五風亭、俗称与之助〟☆ さだひで うたがわ 歌川 貞秀 ◯『浮世画人伝』p90「歌川国貞系譜」 〝貞秀 国貞門人、五雲亭、又玉蘭斎、俗称兼次郎、蘭画ニ着目シテ地図ノ類ニ巧ナリ〟☆ さだふさ うたがわ 歌川 貞房 ◯『浮世画人伝』p90「歌川国貞系譜」 〝貞房 国貞門人、履歴未詳〟☆ さだます うたがわ 歌川 貞升 ◯『浮世画人伝』p1「五蝶亭貞升系譜」 〝歌川貞升(ルビうたかわていせう) 歌川貞升は大阪船場の素封家なり、氏名俗称詳ならず。五渡亭国貞の門に入りて、浮世絵を学び、俳優 を描くに妙を得たり。潤筆を受けず、私財を抛ちて、其流派を弘めたりき。大阪浮世絵師の牛耳を取り て、其門人甚だ多し、今日、大阪に似顔絵と称するものは、多く貞升の画風に倣へるものなり☆ さだゆき うたがわ 歌川 貞幸 ◯『浮世画人伝』p90「歌川国貞系譜」 〝貞幸 国貞門人、五丁亭〟☆ しきまる きたがわ 喜多川 式麿 ◯『浮世画人伝』p69「喜多川歌麿系譜」 〝式麿(歌麿門人) 文化年中、小石川水道橋ニ住ス、通称東海林平次右衛門〟☆ しげのぶ やながわ 柳川 重信 初代 ◯『浮世画人伝』 ◇「葛飾北斎系譜」p121「葛飾北斎系譜」 〝北斎長女、門人柳川重信ノ妻トナリシガ、重信ガ画ノ拙ナルヲ疎ミ家ニ帰テ夭死ス〟 〝重信 北斎門人 柳川氏、二世雷斗〟
◇「柳川重信」の項 p122 〝柳川重信(ルビやながわ) 重信は俗称を鈴木重兵衛と呼びて、志賀理斎(通称理助)の子なり、師なくして北斎風の画を能くせり。 或年、本所一ッ目弁天の前なる、髪結床の障子に牛の時参りする女を、のぶせりの乞食が、犯さんとす る図を画けるを、魚屋北渓之れを見て、画は社中の風なるが、かばかりに画んものを覚えず、何人が画 きしにかと、其家にて問ひしに、重信の筆になりしとの事に、夫より重信に会ひて、遂に我師北斎の門 弟とせしが、如何しけん北斎と確執を生じければ、北渓師の北斎をなだめ、頻りに仲裁を試みたれど、 北斎いかり強く、断然義絶に及びぬ、重信今は是非なく板下を画て筆硯を潤せしが、北斎是をも板元に 通じて禁じたれば、ます/\不和となりしにより、初代柳亭種彦種々とりなし双方を解いて、爰に和す る事となり、後北斎の長女を娶り雷斗の号を譲られき。重信の姓を柳川と称するは、その住居本所柳川 町なればなりと、又一説に種彦の仲裁により和解に及びたれば、柳亭の一字を冠りて、此時より柳川と 呼ぶとも云へり。重信初めて草双紙を描きしは、文化四年の板にて、柳亭種彦が草双紙の初作なりと聞 へし『京一番娘羽子板』なりとか。晩年に至り、鈴木南嶺及び浪花の法橋玉山を慕ひ、又国貞の風に法 (*ノットリ)り、稗史の密画に巧なりき。又木偶の彫刻を好みて精工なりしと聞く。天保三年閏十一月廿八 日歿す、歳四十六下谷坂本宗慶寺に葬りぬ〟☆ しげのぶ やながわ 柳川 重信 二代 ◯『浮世画人伝』p121「葛飾北斎系譜」 〝二世 重信(初代重信門人)初名重山〟☆ しげはる やながわ 柳川 重春 ◯『浮世画人伝』p121「葛飾北斎系譜」 〝重春 重信門人 大坂ノ人〟☆ しげまさ きたお 北尾 重政 初代 ◯『浮世画人伝』p70 〝北尾重政(ルビきたをしげまさ) 北尾重政は、始め鳥居の画法を学びしかど、後一家を成して、紅翠斎また花藍と号す。本姓は北畑、俗 称を太助と呼び、芝金杉御嶽の向ふに住ひ、後大伝馬町二丁目に転居し、又根岸の里に移りぬ。其姓を 北畠となのりしは、素(モト)日本橋通一丁目の書林須原屋茂兵衛方の雇夫(ヤトイ)なりし時、同家の本店紀 州北畠に在るを以て、同家も姓を北畠となせし由なれば、おのれも亦(*マタ)北畠氏の遠裔なりと称して、 北畠の姓ををかしたりとぞ。翁は武者または花鳥俳優等の画筆甚(*ハナハダ)多く、就中(トリワケ)板下の画 に天稟の才ありて、書も亦拙からず。当時江戸の書房にて刊行せし『百人一首』『用文章』『庭訓往来』 又は年毎に出板する、略暦所謂柱暦の類など、悉(コトゴト)く重政の筆になりしものと云ひ伝ふ。文政二 年二月十一日、齢(ヨワイ)八十一にて没しぬ〟☆ しげまさ きたお 北尾 重政 二代 (北尾美丸参照) ◯『浮世画人伝』p69「喜多川歌麿系譜」 〝美丸 菊麿門人、初メ山川(ママ)又歌川ト称ス、又北尾政美ノ門ニ入テ、重政ノ跡ヲ嗣タレトモ拙筆ニシテ行ハ レズ〟☆ しゅうげつ 秋月 ◯『浮世画人伝』p74「堤等琳系譜」 〝秋月 号雪村〟☆ しゅうげつ つつみ 堤 秋月 (堤等琳参照) ◯『浮世画人伝』 ◇「堤等琳」の項 p73 〝堤等琳は初め秋月といひ、後雪山と改む、又深川に住して深川斎の別号ありしが、両国米沢町に移りて 法橋に叙せられ、自ら僧雪舟十一世の孫と称し、天明の頃、専ら行はれし、祭礼の献燈又は摺物団扇の 類を多く画きて大いに世に聞えぬ。等琳未だ秋月と称せし頃、浅草観音堂に、韓信俛出胯下図の絵馬を 画きて奉納し、世間に名を知られ、遂に三世等琳の名を嗣ぎぬ。等琳の名三代ありと雖(イエドモ)も、其 一世二世の事蹟詳(ツマビラカ)ならず。今伝聞する処の家系を左に掲て参考に供ふ〟 ◇「堤等琳系譜」より p74
「堤等琳系譜」 ☆ じゅうざん やながわ 柳川 重山 ◯『浮世画人伝』 ◇「葛飾北斎系譜」p121「葛飾北斎系譜」 〝二世 重信(初代重信門人)初名重山〟 ◇「柳川重山」の項 p126 〝柳川重山(ルビやながわぢうざん) 柳川重山、字は子義、通称は谷城季三太雪蕉と号す。柳川重信の高弟にして其女を娶れり。重信の歿後 其名を継ぎて、二世重信と称しき。馬琴が著作か侠客伝』第二輯の挿画を作るに至りて、師重信が病篤 きに会し、僅に其輯末二丁を描きて筆を擱けり、其後、里見八犬伝巻末の挿画を物し、頗る好評を得た りき〟☆ しゅうりん つつみ 堤 秋琳 (勝川春扇・春好二代参照) ◯『浮世画人伝』 ◇「勝川春扇」の項 p61 〝勝川春扇(ルビかつかわしゆんせい) 春扇は俗称清二郎、麹町貝坂に住し、後芝神明前に転ず。初め堤等琳の門に入り、秋琳と号し、のち春 英を学びて、画格を変じ、神明前の書肆某の庇蔭によりて、文化も末より名を顕せり、後年春好の名を 嗣て板下を描き、又其頃流行せし陶器の焼付に画きて業とせり。妻某風流に富て、草双紙を著述をなし、 戯号(ギゴウ)を月光亭笑寿と云ひき〟 ◇「堤等系譜」p64「堤等琳系譜」 〝等琳 号春扇、後に二世春好を嗣ぐ〟☆ しゅんえい かつかわ 勝川 春英 ◯『浮世画人伝』p58「勝川春章系譜」 〝勝川春英(ルビかつかわしゆんえい) 春英は勝川春章の高弟にて、九徳斎と号しき、本姓磯田氏、通称を久次郎といひ、新和泉町に住せり。 始武者を画きしも、享和の頃には俳優の似顔を描き、ほと/\春章に亞(ツギ)たる出来なりとて世に鳴 たり。又操(アヤツリ)芝居の看板を画きて、自然一流の筆意を残し。且(カツ)狂画をも巧にし世に九徳風と いへり。其頃三芝居の茶屋にて暑中見舞に配る団扇に狂体を描る、筆意の軽妙なること、なか/\他流 の、企(*クワダテ)及ばざる所なりしと、加之(*シカノミナラズ)意表の奇図(キズ)を作りて人を驚かしむなかに も、忠臣蔵十一段続の屏風及び、大火消防の絵巻物など精妙にして賞歎するに余あるものならん。一時 は春章歌麿をも凌げり。故に初代の豊国も春英の画を慕へるとなん。春英常に浄瑠璃を好みて、三弦の 妙手にてありしが、性来放縦にして家を出れば帰らざること数日なりき、あるとき我門前にて、春英が 家は此所(ココ)なるや如何(イカン)と、大声(タイセイ)にて呼はるにぞ、妻女立出て戸を開き見れば、其人なる に驚きて、事の由を問ふに、数日の留守中、家も売却せしならんと推量し、濫(ミダリ)に入て礼を失はざ らん為に、斯(*カ)くは用心せりといひしとぞ。磊々(ライライ)落々なること、此の一事を以ても、其気風 の大方は想像するに足りぬべし。文政二年七月廿六日、年五十八日にして歿せり。浅草本願寺地中善性 寺に葬られぬ、尚墨水牛島の長命寺に碑あり、斯(コ)は翁の友人六樹園雅望の撰文にして、門人等が打 寄りて、七周忌の追善に建しものなりとぞ〟 ☆ しゅんえん かつかわ 勝川 春艶 ◯『浮世画人伝』p56「勝川春章系譜」 〝春艶(春章門人・名前のみ)〟☆ しゅんかく かつかわ 勝川 春鶴 ◯『浮世画人伝』p56「勝川春章系譜」 〝春鶴(春章門人・名前のみ)〟☆ しゅんきゅう かつかわ 勝川 春久 ◯『浮世画人伝』p56「勝川春章系譜」 〝春久(春章門人・名前のみ)〟☆ しゅんぎょうさい はやみ 速水 春暁斎 初代 ◯『浮世画人伝』p136 〝速水恒章(ルビはやみこうしやう) 速水恒章、名は滕、通称は三郎、春暁斎と号す。京都の人なりき。初め大阪北新地壱丁目に住し、幾竹 屋源兵衛と称し、青楼の主人なりしと云ふ。画風は玉山に傚(ナラ)ひて、後ち一家の風を出せり。二世春 暁斎に至り、意匠拙劣にして、更に見るに足るべきところなし。殊に絵本忠臣蔵の挿画の如きは、北尾 政美が作の、東海道名所図絵より、其趣を採り、極めて拙陋(セツロウ)に陥れり。義士等が吉良義央を討じ (*ママ)、本所より泉岳寺に引上る体を描写せしに、恰(*アタカ)も東海道を下りて、高輪に入るの観ありて、 非常に世嘲を招きたりき。日本ピンヘッドの看板に、洋人が在(*ママ左?)袵せる日本美人を画きて、恬然 (カツゼン)恥ぢざるは此類なり。画家が其の事蹟を詳(*ツマビラカ)にせず、又実物を目撃せず、漫然自己の 空想に訴へて、粗忽に筆を下すの弊は、大率(*オオヨソ)斯(*カ)くの如し。蓋し画家たるものゝ恥辱、これ より甚しきはなし。豈(アニ)思はざる可けんや。偖(サテ)恒章は絵画の外、俗文学の智識ありて、小説の著 作あり。文政六年七月十日卒す〟☆ しゅんぎょうさい はやみ 速水 春暁斎 二代 ◯『浮世画人伝』p136 (「速水恒章」の項) 〝二世春暁斎に至り、意匠拙劣にして、更に見るに足るべきところなし。殊に絵本忠臣蔵の挿画の如きは、 北尾政美が作の、東海道名所図絵より、其趣を採り、極めて拙陋(セツロウ)に陥れり。義士等が吉良義央を 討じ(*ママ)、本所より泉岳寺に引上る体を描写せしに、恰(*アタカ)も東海道を下りて、高輪に入るの観あ りて、非常に世嘲を招きたりき。日本ピンヘッドの看板に、洋人が在(*ママ左?)袵せる日本美人を画きて、 恬然(カツゼン)恥ぢざるは此類なり。画家が其の事蹟を詳(*ツマビラカ)にせず、又実物を目撃せず、漫然自己 の空想に訴へて、粗忽に筆を下すの弊は、大率(*オオヨソ)斯(*カ)くの如し。蓋し画家たるものゝ恥辱、こ れより甚しきはなし。豈(アニ)思はざる可けんや〟☆ しゅんきょく かつかわ 勝川 春旭 ◯『浮世画人伝』p56「勝川春章系譜」 〝春旭(春章門人・名前のみ)〟☆ しゅんぎょく かつかわ 勝川 春玉 ◯『浮世画人伝』p56「勝川春章系譜」 〝春紅(春章門人・名前のみ)(門人に春靑)〟☆ しゅんこう かつかわ 勝川 春好 初代 ◯『浮世画人伝』p60「勝川春章系譜」 〝勝川春好(ルビかつかわしゆんこう) 勝川春好は春章の高弟にして、長谷川町に住(スマ)ひ、俳優画を能くし、師が用ひたる壺形の印章を使用 して、小壺(コツボ)の異名あり。春英と倶(トモ)にをさ/\師にまさるのほまれありしが惜むべし。四十余 歳の時、中風症に罹りて、麻布禅福寺に隠遁せり、後(ノチ)友人なる初代立川焉馬の需に応じ、反故庵白 猿(五代目市川団十郎)の肖像を画く、其讃に 開帳のせわのなり田や七左衞門 其れいほうは左りにてかく 此図の落欵に左筆斎春好坊とあるよし、白猿一首に見へたれば、病後隠遁してより剃髪せしものと想は る〟☆ しゅんこう かつかわ 勝川 春好 二代 (堤秋琳・勝川春扇参照) ◯『浮世画人伝』p56「勝川春章系譜」 〝春好(春章門人・名前のみ)(門人に扇里)〟☆ しゅんこう かつかわ 勝川 春紅 ◯『浮世画人伝』p56 (「勝川春章系譜」より) 〝 春紅(春章門人・名前のみ)〟〈春章門人になぜ二つの春紅があるのかわからない〉
「勝川春章系譜」 ☆ しゅんこう かつかわ 勝川 春紅 ◯『浮世画人伝』p56「勝川春章系譜」 〝春紅(春章門人)(弟子に春和)〟〈春章門人になぜ二つの春紅があるのかわからない〉
☆ しゅんざん かつかわ 勝川 春山 ◯『浮世画人伝』p56「勝川春章系譜」 〝春山(春亭門人・名前のみ)〟☆ しゅんしょう かつかわ 勝川 春章 ◯『浮世画人伝』p54「勝川春章系譜」 〝勝川春章(ルビかつかわしゆんしやう) 勝川春章は、俗称祐助、旭朗、井酉、爾李林(*ママ、旭朗井、酉爾、李林)などの数号あり。初めは勝宮 川と称せしなれど、後宮の字を省きて呼べり。尤俳優の容儀を写すに、妙を得しが、その始めは、さも 世に知己を得ず、人形町なる林屋と云へる書肆に寄食してありしを、明和五年五月、中村座に於て「操 歌舞妓扇(アヤツリカブキオウギ)」と題し、浪花五人男の劇を演ぜしに、ある人ふと春章に、その姿を写さしめ、 板に彫らんと需めたり。当時春章の画名、をさ/\世に知られざりし頃なれば、仮に林屋の仕切判とて、 用ふる壺形に林の字なる、印を捺してぞ与へける、これより春章を異名して、壺屋といへりとなむ。春 章別に嵩谷翁につきて一蝶風の草画をまなび、又武者の像を画くにさへ、大に意を用ひたり。当時錦絵 の彫刻、摺術ともに、巧緻を極めし折柄に、春章の筆の微妙なる、遂に東みやげの第一と、もてはやさ るゝに至りしなり。春章特に俳優を描くに秀でゝ、その筋の絵本を出版する事、極めて多かりき。中に も『舞台扇』と題せるは、世評尤(*モットモ)高くして、忽(タチマチ)に千部の需求ありしかば、版元異数の事 とて、千部祝宴といへるを、浅草なる酒楼巴屋に開けりとぞ。其後又『絵本夏の富士』と題して、俳優 の素顔を写せるものを出しゝに、是れはた高評を博したり。かくて寛政四年十二月八日、歿しぬ。浅草 新堀端西福寺に葬る。門下に名材多し、左の伝統表を見てしるべし。☆ しゅんじょう かつかわ 勝川 春常 ◯『浮世画人伝』p56「勝川春章系譜」 〝春常(春章門人・名前のみ)〟☆ しゅんせい かつかわ 勝川 春青 ◯『浮世画人伝』p56「勝川春章系譜」 〝春靑(春玉門人・名前のみ)〟☆ しゅんせつ かつかわ 勝川 春雪 ◯『浮世画人伝』p56「勝川春章系譜」 〝春雪(春亭門人)後ニ逢山米之ト云フ〟☆ しゅんせん かつかわ 勝川 春扇 (堤秋琳・勝川春好二代参照) ◯『浮世画人伝』p61 〝勝川春扇(ルビかつかわしゆんせい) 春扇は俗称清二郎、麹町貝坂に住し、後芝神明前に転ず。初め堤等琳の門に入り、秋琳と号し、のち春 英を学びて、画格を変じ、神明前の書肆某の庇蔭によりて、文化も末より名を顕せり、後年春好の名を 嗣て板下を描き、又其頃流行せし陶器の焼付に画きて業とせり。妻某、風流に富て、草双紙の著述をな し、戯号(ギゴウ)を月光亭笑寿と云ひき〟☆ しゅんせん かつかわ 勝川 春泉 ◯『浮世画人伝』p56「勝川春章系譜」 〝春泉(春章門人・名前のみ)〟☆ しゅんてい かつかわ 勝川 春亭 ◯『浮世画人伝』p56「勝川春章系譜」 〝春亭 春英高弟、後ニ出〟 ◯『浮世画人伝』p61 〝勝川春亭(ルビかつかわしゆんてい) 春亭は山口長十郎と称し、松高斎また勝(ショウ)汲壺(キュウコ)と号す。始め和泉町に住居し、后(*ノチ)馬喰 長一丁目に転ず、絵事を春英に学び、武者俳優等の画に名あり、又読本及び草双紙抔(ナド)の画も多く 著(*アラワセ)しかど、焉馬(*エンバ)の歌舞伎年代記に筆を採り、しさい画は春亭生涯の筆力を尽したるも のなるべし。歿日は文政二年八月三日なりき〟☆ しゅんとう かつかわ 勝川 春洞 ◯『浮世画人伝』p56「勝川春章系譜」 〝春洞(春亭門人)俗称政蔵、大政ト云フ〟☆ しゅんどう かつかわ 勝川 春童 ◯『浮世画人伝』p56「勝川春章系譜」 〝春童(春章門人)春道トモ書く、号蘭徳斎〟☆ しゅんとく かつかわ 勝川 春徳 ◯『浮世画人伝』p56「勝川春章系譜」 〝春徳 春亭門人、俗称千太郎、文化七年ノ頃、本石町ニ住〟☆ しゅんまん くぼ 窪 俊満 ◯『浮世画人伝』p48 〝窪俊満(ルビくぼとしみつ) 窪俊満、俗称は易兵衛と云ふ、楫取魚彦に就きて画を学ぶ、魚彦は下総佐原の人、稲生茂左(*ママ)衞は 其通称なり。加茂真淵に就きて国学を修め、建部綾足に就きて画を学び、鯉魚(リギョ)を描くに妙を得た る人にして、天明二年三月、六十歳にて歿しぬ。易兵衛、師魚彦より春海(シュンカイ)の号を授けられしも、 当時画家に春字を称するもの甚だ多く、勝川春章が門人と誤らるゝを厭(イト)ひて、自ら俊満と改称せり、 又尚左堂と号す、浮世絵は、北尾重政に学びしなり。俊満(トシミツ)左筆を揮ふに妙なり、狂文狂歌戯作を よくし、戯号を南陀迦紫蘭(ナンダカシラン)と称せり。寓居の地は本所亀沢町なりしとぞ〟☆ しゅんよう かつかわ 勝川 春陽 ◯『浮世画人伝』p56「勝川春章系譜」 〝春陽(春章門人・名前のみ)〟☆ しゅんりん かつかわ 勝川 春林 ◯『浮世画人伝』p56「勝川春章系譜」 〝春林(春章門人・名前のみ)〟〈春章門人になぜ二つの春林があるのかわからない〉 ☆ しゅんりん かつかわ 勝川 春林 ◯『浮世画人伝』p56「勝川春章系譜」 〝春林(春章門人・名前のみ)〟〈春章門人になぜ二つの春林があるのかわからない〉 ☆ しゅんろう かつかわ 勝川 春朗 (葛飾北斎参照) ◯『浮世画人伝』p56「勝川春章系譜」 〝春朗 二世俵屋宗理、後ニ北斎ト更ム、後ニ出ス〟☆ しゅんわ かつかわ 勝川 春和 ◯『浮世画人伝』p56「勝川春章系譜」 〝春和(春紅門人・名前のみ)〟 ☆ しょうじゅ げっこうてい 月光亭 笑寿 ◯『浮世画人伝』p61 (「勝川春扇」の項) 〝(春扇の)妻某、風流に富て、草双紙を著述をなし、戯号(ギゴウ)を月光亭笑寿と云ひき〟☆ しんさい 辰斎 ◯『浮世画人伝』p121「葛飾北斎系譜」 〝辰斎(北斎門人 *名前のみ)〟☆ しんせんさい 深川斎 (堤等琳参照) ◯『浮世画人伝』p73 (「堤等琳」の項) 〝堤等琳は初め秋月といひ、後雪山と改む、又深川に住して深川斎の別号ありしが、両国米沢町に移りて 法橋に叙せられ、自ら僧雪舟十一世の孫と称し、天明の頃、専ら行はれし、祭礼の献燈又は摺物団扇の 類を多く画きて大いに世に聞えぬ。等琳未だ秋月と称せし頃、浅草観音堂に、韓信俛出胯下図の絵馬を 画きて奉納し、世間に名を知られ、遂に三世等琳の名を嗣ぎぬ。等琳の名三代ありと雖(イエドモ)も、其 一世二世の事蹟詳(ツマビラカ)ならず。今伝聞する処の家系を左に掲て参考に供ふ〟☆ すうけい こう 高 嵩渓 ◯『浮世画人伝』p17「英一蝶系譜」 〝嵩渓 名宜信、享和三年、浅草観世音エ猩々ノ絵馬ヲ納ム〟☆ すうげつ こう 高 嵩月 ◯『浮世画人伝』p17「英一蝶系譜」 〝嵩月 両国久松町ニ住〟☆ すうこく こう 高 嵩谷 ◯『浮世画人伝』p20「英一蝶系譜」 〝高嵩谷(ルビたかすうこく) 嵩谷、名は一雄、楽只斎と号し、又屠龍(トリウ)斎とも云へり。英一水〔一説に佐脇嵩之とも云ふ〕の門 人にして、頗(*スコブ)る出藍の誉ありしが、後、画格を改め新意を加へ、終(ツヒ)に一機軸を出し、最も 着色に巧なりきと。一年浅草観音堂に、源三位頼政射鵺図の絵馬を献じて、高手の名を著したり。文化 八年八月廿三日、享年七十五にして卒し、浅草新堀西福寺へ葬る、法号、盈誉嵩谷一雄居士、辞世の句 と聞こえしは、 墓建てなき名観する寒(サムサ)かな〟☆ すけのぶ にしかわ 西川 祐信 ◯『浮世画人伝』p29 〝西川祐信(ルビにしかわすけのぶ) 西川祐信は、京都の人なり。本姓は藤原、俗称祐助、後に右京と改め、自得斎と号しき。又文華堂の別 号あり。初め狩野永納に従ひて、その画法を攻めしが、傍ら土佐の風をも好み、土佐ノ光祐に学びて、 祐信と名のり、遂に二流を折衷して、一種の骨法を按出し、西川派の称を得たり。此の人、特に婦女の 姿儀をうつすに、巧妙にして筆致頗(スコブ)る優美なり。曾て英一蝶が『百人女臈品定』に倣ひ、『百人 美女』と題する冊子を著し、高貴(ヤムコトナキ)の姫君たちより、あやしの賤(シヅ)のめの、すがたてぶり を画きたるに、尤も世に行はれき。又『好色双(ウタツ)が岡』と題して、紳縉(シンシン)宮媛(キウクワン)が、あ らぬ秘戯のさまを顕(アラ)はせる、冊子を作りしに、風紀を害し、剰(アマツ)さへ、高貴の人の姿にとりな せるを以て、軽罪に処せられ、版木は官没せられにき。此の時よりして、秘戯淫猥の画を禁ぜらるゝ事 とはなりぬ。是よりさき、西鶴、自笑、其碩など云ふ稗官者流の種々の戯作をなせるうち、殊に遊里洞 房の記事多かりしが、その挿画も、大かた祐信が若年の時の、筆すさび也といふ。此の外、祐信が画本 の著、数十部に及びて、一々枚挙に遑(イトマ)あらず。中にも秘戯の図に巧みにして、施色(シシヨク)の妙、 ほと/\人の心魂を奪ふとや。惣じて、祐信の著はしゝ絵本は、香ぞめ、あるは紫紺の表紙に、金泥し て雲煙雑草などゑがき、体裁極めて高雅なりといふ。さて彼が歿せしは、宝暦元年九月十一日にして、 享年八十一才なりきとぞ。祐信絵事のみならず、いさゝか文字の心得もありて、自画の絵本『和比事』 には、序を書きて載せたり。 文字ありて古人の言辞を聞き、絵ありて其の形容を見る。図説二つながら全ければ、誠に見ぬ世の人 を、友とすなるべし。されば琴碁に並べて世々の翫びとはなれり。蓋(ケダシ)やまと歌に詠みなれし 名所、その数しげし。しかれども、居ながら知るは、歌人の雅情とかや。されど、其地に至らざれば、 豈(*アニ)、風景の絶妙を見ることを得むや。今此小冊は、わが朝(テウ)に名ある景色秀歌に聞きおよび し事、或は堪能(タンノウ)の歌人、風雅の故人、あるは世の人々にある、故事ども取集めて、和比事と題 せるを、浪花の祐佐子、懐にし来りて、予に書画を加へん事を乞ふ。もとより拙き筆にして、無双の 景色を画(カキ)汚(ケガ)さんこと、其の罪深きに似たれども、誠にこれに絵あらば、幽玄閨裏のもてあ そびともなり、且は詞花(シカ)の便とも、なりなむと思ふより、余念なく、其需に応じて筆を採り、終 にかきをはりて、佐子に与(アト)ふ重ねて、其の事を端書(ハシガキ)せよといふ。まいて絵ならずしては、 筆のたてどもたど/\しければ、固辞すれどもゆるさず。仍(ヨツ)て、其の辱しめを、とることにはな りぬ。時に元文三年戌子、冬日なりけらし。 洛陽 西川祐信書〟☆ せきえん とりやま 鳥山 石燕 ◯『浮世画人伝』p51 〝鳥山石燕(ルビとりやませきえん) 石燕は、本姓佐野氏、名は豊房、はじめ狩野周信の門に入り、後(ノチ)出でゝ浮世絵に変じ、宝暦の頃、 各神社仏殿に、絵馬(すなはち扁額)を奉納せんと志し、先づ氷川明神の社には、樊噲(ハンカイ)破門の図 を画きて掛け、湯島天神の社には、時致、義秀の草摺引を図し、雑司ヶ谷の鬼子母神には、大森彦七の 図を掲げたり。浅草寺に、俳優中村喜代三郎の像を掛けたるも、その一なり、かくて此の肖像、当時珍 らしかりければ、世評極めて高く、大(オホイ)に画名を顕(アラ)はせり。此の後『百鬼夜行』『絵事比絹』 『画図勢勇談』『水滸画伝潜覧』『石燕斎画譜』など、絵本の刊行数種に及びたりしが、中(ウチ)に『鳥 山彦』と題するは、安永三年の印行なるが、その彩色摺に、拭(ツキ)コガシと称する隈どりを発明せしは、 恰も刷毛(ハケ)を以てするが如くなりしかば、見る人最(イト)も奇と称せり。蓋(ケダ)し此の発明は、彫工 緑文堂東英、摺工鶴富南季が尽力によるといふ。天明八年八月三日、病みて歿し、浅草阿部川町新光明 寺に葬られぬ。法名、画照院月窓石燕居士とや。 辞世の句と聞えしは、 隈刷毛の消えぎはを見よ秋の月 門人登燕、師の風を得て、狂画に巧みなりきとぞ〟☆ せっきゅう 雪丘 ◯『浮世画人伝』p73「堤等琳系譜」 〝孫三 号雪丘〟☆ せつざん 雪山 (堤等琳参照) ◯『浮世画人伝』p73 ◇「堤等琳」の項 p73 〝堤等琳は初め秋月といひ、後雪山と改む、又深川に住して深川斎の別号ありしが、両国米沢町に移りて 法橋に叙せられ、自ら僧雪舟十一世の孫と称し、天明の頃、専ら行はれし、祭礼の献燈又は摺物団扇の 類を多く画きて大いに世に聞えぬ。等琳未だ秋月と称せし頃、浅草観音堂に、韓信俛出胯下図の絵馬を 画きて奉納し、世間に名を知られ、遂に三世等琳の名を嗣ぎぬ。等琳の名三代ありと雖(イエドモ)も、其 一世二世の事蹟詳(ツマビラカ)ならず。今伝聞する処の家系を左に掲て参考に供ふ〟 ◇「堤等系譜」p74)「堤等琳系譜」 〝等琳 法橋雪山〟☆ せったん はせがわ 長谷川 雪旦 ◯『浮世画人伝』p77 〝長谷川雪且(*ママ)(ルビはせがわせつそ(*ママ)) 雪且、名は宗秀、巌岳斎、また一陽菴と号す、後法橋に叙せられ、等伯が末流(バツリュウ)なるを以て、長 谷川と称せり。雪舟の画風に、宗達光琳の骨法(コッポウ)を折衷して一家をなせり、文政天保の間に『江 戸名所図絵』『東都歳時記』等を画きて妙手の聞えありき。天保十四年正月廿八日歿す、享年六十六歳、 浅草圃幸龍寺に葬れり〟☆ せってい つきおか 月岡 雪鼎 ◯『浮世画人伝』p50 〝月岡雪鼎(ルビつきおかせつてい) 雪鼎は通称を木田丹下、名は昌信、信天翁と号し、江州の産なり。画を高田敬甫(号、竹陰斎、狩野派 の画を学び、法眼に叙せられ、江州日野駅の薬舗にて宝暦年間に歿す)に学び、後年浪花に住し、絵本 を数多著せし中にも、宝暦十二年の板本なる『東国名勝志』など世に知られたるものなり。天明六年十 二月、七十二才にて没す〟☆ せっぽう 雪峯 ◯『浮世画人伝』p73「堤等琳系譜」 〝孫三 二世等琳門人、号雪峯、神田大工町ニ住〟☆ せんり 扇里 ◯『浮世画人伝』p56「勝川春章系譜」 〝扇里(二世春好門人)春(※一字未詳)門人〟☆ そうじ 宗二 ◯『浮世画人伝』p121「葛飾北斎系譜」 〝宗二(北斎門人)三世宗理ト更ム〟☆ そうり たわらや 俵屋 宗理 二代 (勝川春朗・葛飾北斎参照) ◯『浮世画人伝』p56「勝川春章系譜」 〝春朗 二世俵屋宗理、後ニ北斎ト更ム〟☆ そうり たわらや 俵屋 宗理 三代 ◯『浮世画人伝』p121 (「葛飾北斎系譜」より) 〝宗二(北斎門人)三世宗理ト更ム〟
「葛飾北斎系譜」