Top 『浮世画人伝』浮世絵文献資料館
浮世画人伝 ま行
『浮世画人伝』関根金四郎(黙庵)著・修学堂・明治三十二年(1899)五月刊(国立国会図書館・近代デジタルライブラリー) ☆ まさのぶ おくむら 奥村 政信 ◯『浮世画人伝』p39 〝奥村政信(ルビおくむらまさのぶ) 政信は、通称源六、後に源八と改む。江戸通油町の書估(ショテン)なりしが、浮世絵を好み画工となり、文 角堂、観妙、芳月堂、丹鳥斎(タンチョウサイ)、倭画師(ヤマトエシ)などゝも号しき。政信元来師宣の風を慕ひ、そ の技に達せるのみならず、当時版行の墨摺の画に、膠を加へて光沢を出すを工夫し、漆絵(ウルシヱ)と称 するものを、多く画けり。中にも、鍾馗の画をなすに妙あり。金箔を以て、眼に点じて光じて光を放つ 如き、いさゝかの事ながら、意匠あるにあらざれば能(アタ)はず。また横画にいさゝか遠近向配(コウバイ) をとりて、一種の照影法を発明し、富士の牧狩の図などを画けり。世に之を浮絵(ウキエ)と称す。当時政 信が画ける、三枚続の美人絵、大に流行せしが、着色は尚、紅と草緑(ソウロク)との二種のみにして、而も 一々筆にて塗抹(トマツ)したるなり。是れより臙脂絵(ベニエ)といふもの始れり。かくて大(オホイ)に世にも てはやされ、政信が絵を重版し、或は偽版(ギハン)して、売るものあるに至りしかば、遂には落款には 「正名奥村文角政信筆」と記したり。或は「又(ママ、又「?)芳月堂正名奥村政信正筆」と記して、画 面の下、左の方へ、さゝやかに版元の名を記し、それが次に、 私方の絵を、直に張、跡方(アトカタ)もなきゑかきの名印、まぎらわしく付け、似せるい重版(ジュウバン) 彫出し候、御しらせ申上候、正名(ショウメイ)奥村絵を御召可被下候、以上 とかけり、以て当時政信の絵の、流行を証すべし。さて政信は、明和元年二月十一日、享年七十九にて 歿しぬ〟☆ まさのぶ きたお 北尾 政演 ◯『浮世画人伝』p71 〝北尾政演(ルビきたをまさのぶ) 政演は誰人(タレビト)も知る如く、小説家中興の翹楚(ギョウソ)と称せられし、山東京伝のことにして、本姓 岩瀬、俗称を京屋伝蔵と云ひ、家製の薬剤及(*オヨビ)紙製の煙草入を鬻(ヒサ)ぎて生業とせり、始め画を 北尾重政に学びて、葎斎(リツサイ)政演と号し、又狂歌を好みて、身軽折助(ミガルノオリスケ)といふ戯名あり、 後小説をものして、山東菴京伝と号す。斯(*コ)はその家、銀座にありて、銀座は愛宕山の東京橋にある を以てなり。京伝の事蹟はくさ/\あれども、爰(ココ)には要なき故あげず。絵事に係る事も、既に豊芥 子(ホウカイシ)が『文化見聞集』、活東子が『戯作六家撰』、曲亭が『いはでもの記』にく(*は)しければ省 きぬ。安永九年の板なる草双紙の評判記『菊寿草』に閲(*ミ)るに、政演が名を画工の中に加へたり、然 れば画号の政演に草双紙に著したるは、安永七八年頃の事にて、鳥居清経などに傚(ナラ)ひて、画作を兼 ねたるものならん。文化十三年九月七日、享年五十六にして歿しぬ、法号を弁誉智海京伝といひ、両国 回向院に葬る〟☆ まさのぶ ひしかわ 菱川 政信 ◯『浮世画人伝』p8「菱川師宣系譜」 〝政信 師宣門人、字守節〟☆ まさよし きたお 北尾 政美 ◯『浮世画人伝』p72 〝北尾政美(ルビきたをまさよし) 北尾政美、通称は鍬形三治郎と云ふ、惠斎、杉皐の数号あり。政美は重政の門より出で、狩野家の画風 を慕ひ、又光琳芳中の筆意を得、一種の略画に長ず、淡彩色(ウスサイシキ)の略画式数部を著はせり。江戸の 真景を略図して、神田神社の額堂に奉納し、またこれを一枚摺の画(エ)となして板行せり。其他日本全 図を作りて非凡の画才を顕せり。政美、後年に至り福井侯に仕へて、画職の臣となり、紹真と改名し、 門人花蘭斎美丸をして、師重政の号を継ぎ、二世重政と称せしむ。政美は資性磊落にして、また好古癖 あり、太(*ママ)田南畝、屋代弘賢、中村仏庵、狩谷掖斎等は其(ソノ)風流の友垣にてありき。政美初め小 網町に住し、後ち於玉ヶ池に転ぜり、文政七年三月廿一日没す、年齢不詳〟☆ またべい いわさ 岩佐又兵衛 ◯『浮世画人伝』p1 〝岩佐又兵衛(ルビいはさまたべゑ) 岩佐又兵衛は、名を勝重と称して、摂津守荒木村重の子なり。村重曾(カツ)て、織田信長に仕へて軍功あ り。仍(*ヨ)りて、摂津守に任ぜられ、此の地に又兵衛を生みてけり。其の後、命(メイ)に逆ふ事ありて、 自から剣に伏して死せり。是れ天正七年なりと云ふ。当時又兵衛、年わずかに二歳、乳母の懐に抱かれ て越前国に遁れ、長ずるに及び、其国の岩佐某に養はれて、其氏を継げりとも、又母の姓を冒して、然 (シカ)称(トナ)へつとも云伝ふ。寛永の始なりけむ。京都に出でゝ、土佐光則に従ひ、絵事を学び、後に其 の風(フウ)を一変して、当時の風俗、新様の姿勢を写し、専ら美人の容姿を画き、遂に其妙域に入りて、 一家をなすに至れり。かゝれば、人渾名(アダナ)して、浮世又兵衛と呼べりとぞ。一説に、又兵衛は荒木 の家臣、久蔵重郷とて、後に内膳、画号を一翁と称せる人に学びたるにて、一翁は、狩野松栄の門生な れば、又兵衛の画は、狩野の流を汲めるにやとあれど、又兵衛の画風は土佐の筆こそあれ。狩野のすが たならず。そも/\又兵衛は、寛永より正保の間を、年(トシ)の壮りに経たる人なめれど、その閲歴詳(ツ マビラカ)ならず、其の画ける所も、今を距(サ)ること遠くして、たま/\その真跡を、伝ふるも有りとい へど、落欵名印あるはまれなり。是れ己が画風、古来の規矩に随はず、つとめて時粧をうつし、新様を 創せるを以て、心に憚りて然るにやとぞ。 附記 浮世又兵衛は、大津絵の元祖なりと、享保三年の刊本、東華坊『本朝文鑑』に見えたれども、 確証なし。但し大津わたりにて仏画を鬻(*ヒサ)ぎける由は元禄四年、芭蕉翁が粟津の無名庵にて 大津絵の筆の始は何仏(ナニブツ) とよめる句にて、誰も知る所なれど、尚是れよりさき、天和二年版行の井原西鶴が『一代男』にも、 大津絵の追分にて、種々の戯画を売れる事見え、近世山崎北峯翁が蔵せし、大津の古画、奴の鎗を持 てる図には、「八十八才又平久吉」とかきて、花押ありきと云へば、その伝記は詳ならねど、大津に 又平といふ、別の絵工(エカキ)ありきと思はる。然るを、近松巣林子が作の院本『傾城反魂香』に、土 佐の末弟浮世又平重興といふもの、生れつき口吃(ドモ)りなるが、大津に住みて、自ら画ける戯画を 售(ウ)り、世を渡りけるよしをかけり。おもふに、彼れ是れ同名にして、名高き画工なりしからに、 一時附会して伝奇に、作りけるならし。是れよります/\、彼れ是れを打混じて同人とする説も出来 しならむ歟〟☆ まとら おおいし 大石 真虎 ◯『浮世画人伝』p139 〝大石真虎(ルビおほいししんこ) 大石真虎、幼時は小泉門吉、壮年の頃大石小門太、後ちに衞門七、また寿太郎と改名せり。鞆舎は其号 なり。寛政四年、尾州名古屋門前町に生る。父は医師にして、小泉隆助と云ふ。氏を大石と改めしは、 小泉家は、大石良雄の後なるを以てなりと云ふ。真虎、初め画を月樵に学び、樵谷と号したりしが、其 後有職故実を研究し、渡邊清に就きて学べり。これよりして真虎と称せり。其画風は諸家を参照して、 別に一機軸を出(イダ)し、頗(*スコブ)る風韻の尚(*トウト)ぶべきもの多し。麁画(ソガ)国風、麁画百物、 神事行燈、百人一首一夕話等の挿画は、皆其非凡なる画才を顕はせり。殊に百人一首一夕話の挿画の如 きは、洽(*アマネ)く人口に膾炙して、希有の傑作たり。これによりて、真虎が有職故実を百端検討せし苦 心を見るべし。真虎、或年、松平楽翁公の命により、舞楽の木偶に模様を施せしことありしと云ふ。後 ち去りて京阪以西の地方を遊歴し、或日、京都比叡山に上り、古戦記録に、山法師が一朝事あるの時に、 袈裟を以て頭を包むことあり、蓋し法師武者を画かん時、知らで協(カナ)はぬ事なりとて、袈裟包みの 事をそこの法師等に乞ひ、尋ぬれども、真虎が容子(ヨウス)の卑しげなるを見て、法師等は鼻の先にてあ しらひ、剰(アマツ)さへ嘲り笑うて、其包みかたを教ふべき様(ヨウ)も見えざりけり。真虎は只管(ヒタスラ)乞 うて止まざりければ、法師等口を揃へて、汝(*ナンジ)烏滸(*オコ)なる事を云ふものかな、そも袈裟包み の事を聞きて何をかなす、汝は何国の誰れなるぞと云ふ。真虎答へて、我れは尾張の国の画人、大石真 虎と云へるものなり。法師武者の絵を画かん折、袈裟包みの事、知らで協はぬ事なり。願ふは其法を知 らせ給へと云ふ。法師等云へるは、汝画人ならば其証拠に一筆画きて見よやとて、筆紙を与へければ、 真虎大に打喜び、比叡山頭、黒雲烟を生じ、点々横斜、見事に揮毫しければ、法師等も感に堪へ、前言 の麁忽(ソコツ)を謝し、袈裟包みの事、最(イ)と精しく教へけり。真虎其後、法師武者を画き、其教へられ し如くに、袈裟包みを施し見るに、其画真に迫れりと云ふ。之を要するに、真虎が猥(ミダリ)に先人の画 法を踏襲せず、自ら其実際に就きて、新趣向を案出して、絵画の神髄を得る、大率(*オオヨソ)此の類なり、 世に真虎は、浮世絵師にあらずと云ふ人もあれども、深く北斎の画風を慕ひ、北斎其儘(ソノママ)の画をも のせし事あれば、其浮世絵師たるや疑ひなし。真虎、天性粗放磊落にして、殊に機智に富み、其行為の 奇異にしてをかしき事、実に其比類(ヒルイ)を見ざるなり。其一例を挙れば、真虎の知れる菓子屋の夫婦、 常に喧嘩口論を事とし、殺せ、打て、なぐるぞ抔(ナド)の声喧(カシマ)しく、近家の迷惑云はん方なし。知 れる人々、仲裁の煩に堪へず、後ちには其儘になし置きたり。今日(コンニチ)しも例の夫婦喧嘩始まり、夫 は棒を振り上げ、妻は口を尖らせ、形勢頗(*スコブ)る面白くなりけり。人ありて之を真虎に告ぐ。真虎 急ぎて菓子屋に到り、見れば、今や喧嘩の最中にて、頑是(*ガンゼ)なき近辺の子供等や面白がり、連は 其前に立塞(*フサガ)りて、見物してけり。真虎其中を割つて入り。夫婦の方は見向きもやらず、そろ/\ 菓子箱の方に進み行き、中に入たる菓子を遠慮なく掴み出し、群(*ムラガ)る子供の中にバラリ/\と投 げければ、子供等は嬉しき事に思ひ、茲(*ココ)に/\と、両手を拡げて争ひ拾ひけり。此方(コチラ)の火 花を散して揉合ふ夫婦、この体を見て仰天し、喧嘩の手を止めて、こは何事ぞと真虎をなじれば、真虎 平然として答へて曰く、御夫婦は、只今まで殺せ殺すとの掛声にて、劇(*ハゲ)しき喧嘩、見ればお子供 衆もなき様子、御両人御死去の跡に、此の菓子のみ残りても無益の事なり。されば何(ド)ふで死ぬるに 極(キ)まりたる御両人、責(セ)めてはまだ気息のある内、追善に代ふるに、此の施しが増しならんと存じ、 余計ながら老婆心を起して御座る。必ずおかまひなさるなと、猶(*ナオ)も菓子を掴み出さんとするにぞ、 夫婦は呆れて物をも得(*エ)云はず、漸く其手を止めさせける。夫婦もこれに懲りて、其後は全く喧嘩口 論を止めたりとぞ。其他真虎の逸事奇談、挙げて数ふ可(*ベカ)らず。精(クワ)しき事は、饗庭篁村氏著 叢竹を見るべし。偖(*サテ)真虎、後年耳を憂ひて聾(ツンボ)となり、また癲狂病を発し、遂に天保四巳年 四月十四日没す。名古屋大須の真福寺に葬す。碑面の銘は大和絵師大石真虎之墓〟☆ もりかず いずみ 泉 守一 ◯『浮世画人伝』 ◇「堤等琳系譜」p74「堤等琳系譜」 〝守一 泉氏、目吉と云ふ〟 ◇「泉守一」の項 p76 〝泉守一(ルビいづみもりかず) 泉守一、通称は吉兵衛と云ふ、寿香斎と号す、二世等琳、二世探信等に就きて画を学べり。守一の名は 狩野家より得たるなり、父は信義と称し、狩野風の画家なり、日光久能両社、寛永寺増上寺、其他(ソノ タ)神社仏閣修復の受負人斎藤源左衞門が下職(シタショク)となりて、彩色の用を務め、町絵職人の頭なり、 異名を目吉と呼び、本郷壱丁目に住して、未だ侠客の名ありき、守一長じて父の職を継ぎ、亦(マタ)其異 名をももうけたり、守一の画は尋常の浮世絵に比して其品格稍々(*ヤヤ)あがれり、これ其画風狩野家よ り出でたるゆゑなるべし。花鳥を描くに巧にして摺物団扇等を出せり、守一嗣子なきを以て、門人林之 助を養子となし、幕府営繕の用を初めしむ、二世泉吉左衞門とは即ち此人なり〟☆ もりくに たちばな 橘 守国 ◯『浮世画人伝』p37 〝橘守国(ルビたちはなもりくに) 橘守国、氏は楢林、名は有税、後素軒と号す、大阪の人なりき。狩野探山の門に入り業を受く、深山名 は守見、又良信、又兼信と云ふ、大阪の人にして探幽斎守信の門人なり。守国の画、精緻奇功、別に一 家の画風を為す、守の字を名乗るものは、狩野探幽斎が免許の弟子なり。守国既に狩野家の免許を得て、 画名一時籍甚(セキジン)たり。されば其本領は狩野の正風にあるも、板行の絵本多きこと以て、浮世絵師 の部に列す、浮世絵類考にも此意を云へり。守国博識多才にして、世の画師(エシ)のために広く画法を伝 へんと欲し、丹誠を尽して唐本を平仮名に訳して其意を得せしむ。一説に守国は不平の事ありて、師家 と絶交し、狩野に秘する所の、模本(モホン)を委しく板行して世に公にせり、所謂、写宝袋其他数部、今 日に至るまで、画家の重宝となすところのもの是れなり、さるによりて板下画工の誹を免かれずと云ふ、 然れど従来の画家と趣を異(コト)にし、洽(*アマネ)く世上に画法を知らしめし功績は決して没すべからざる なり。守国は寛延元年七月十九日、七十歳にて没す、生前出板の書目は、絵本通宝志、同直指宝、同写 宝袋、同鴬宿梅、同故事談、同画典通考、同謡曲志、唐土訓蒙図彙、本朝画苑、万歳武者絵鑑、扶桑画 譜等なり〟☆ もろしげ ひしかわ 菱川 師重 ◯『浮世画人伝』p8「菱川師宣系譜」 〝師重 本姓古山太郎兵衛、元禄中の人、江戸長谷川町に住す〟☆ もろなが ひしかわ 菱川 師永 ◯『浮世画人伝』p8「菱川師宣系譜」 〝師永 師宣次男、父と共に画を業とし彩色に巧みなり、江戸鹿子、江戸図鑑には作之丞と有り又造酒之丞とも〟☆ もろのぶ ひしかわ 菱川 師宣 ◯『浮世画人伝』p8 〝菱川師宣(ルビひしかわもろのぶ) 菱川師宣は安房国平群郡の保田の里に生る。俗称吉兵衛、晩年剃髪して、友竹と号せり。父は吉左衞門 道茂とて、縫箔刺繍を業とせしが、師宣幼時、そが上絵といふことせんために、画を学びしが、生来絵 事に巧みなれば、遂に家業を改めて江戸に来り、土佐の画法に入り、岩佐又兵衛の筆意に倣ひて、別に 一家をなし、名声一時籍甚(セキジン)たりき。されば天和貞享の頃より、版刻の画本数十部を著して、専 ら世上に行はれぬ。その名は『浮世絵づくし』『続うき世づくし』『和国百女月次のあそび』『やまと の大寄』『恋のみなかみ』の類是なり。他邦(タホウ)の人、江戸絵と称して、印刻の画を賞美すること、 菱川より起れりとぞ。師宣の江戸に在るや、始め村松町に住し、又橘町に移れるなど、所々に転居せし ものと見えたり。師宣、橘町に住せし頃、家に性いと疎忽なる小童を召仕へり。常に事を過つこと多か りしが、ある年七月十三日の夕かげに、彼の小童に命じて、門口に迎火(ムカイビ)を焼かせけるに、あわ たゞしく走入りて、精霊様御出といふに、吉兵衛ほゝえみて、又例のおろかしきことな言ひそ。さるも の来べき様(ヨウ)なし。驚くことなかれと諭しけれども、いな白衣きて、みづから精霊軒幽霊と、名のり 給へるものをとて、聞かざれば、師宣いとゞ笑ひて、軒号のある幽霊こそ、めづらしけれとて、出でゝ 見るに、兼ねて魄あへる友なる俳人高井立志が子の松葉軒立栄といへる者、白地の浴衣にて、訪らひ来 ける也けり。さは例の小童がと、互に語らひ興じて師宣たはぶれよむ。 何といふれい麁相(ソサウ)が又いでゝしやうれうけんのなきうつけもの 世に名高き、英一蝶は、師宣とやゝ同時代の後輩なりしが、若き頃、頻りに菱川が上にたらむことを 願ひて、勉めきといふ。絵画韻事の天縦ある一蝶すら、師宣の画風を、仰慕したる事想ふべし。また 俳書『実なし栗』中にも 山城の吉屋むすびも松にこそ 其角 菱川やうの吾妻おもかげ 嵐雪 とあり。されば菱川流の吾妻絵こそ、後世東錦絵の、濫觴(ランショウ)とは謂ひつべけれ。 師宣は、正徳四年八月二日、享年七十七才にして歿し、谷中の某寺に埋葬せり。 師宣が子、師房、師永、および門流の画工たち、連綿として丹青に従事せしが、六世に至りて、家絶え ぬ。左に山東菴京伝が、はる/\房州なる菱川が家に就きて、取調べしといふ系統を掲ぐべし。
「菱川師宣系譜」 菱川の血統、六世にして絶えたり。七世某は、養子にて、其女は他家に嫁し、近き頃まで、その裔(エイ) 存せりきといふ〟☆ もろふさ ひしかわ 菱川 師房 ◯『浮世画人伝』p8「菱川師宣系譜」 〝師房 師宣長男、別名吉左衞門、後に吉兵衛父と同居して画を業とす、後、染物業に転ぜり〟☆ もろまさ ひしかわ 菱川 師政 ◯『浮世画人伝』p8「菱川師宣系譜」 〝師政 師重門人、俗称新九郎、号文志山人、此人に至りて、菱川の画風を失へりと世事談に云へり〟