Top 『浮世画人伝』浮世絵文献資料館
浮世画人伝 か行
『浮世画人伝』関根金四郎(黙庵)著・修学堂・明治三十二年(1899)五月刊(国立国会図書館・近代デジタルライブラリー) ☆ がきょうじん 画狂人 二代 (北黄参照) ◯『浮世画人伝』p121「葛飾北斎系譜」 〝北黄(北斎門人)二世画狂人〟☆ きくまる きたがわ 喜多川 菊麿 (喜多川月麿参照) ◯『浮世画人伝』p69「喜多川歌麿系譜」 〝菊麿 歌麿門人、俗称小川六三郎、後ニ月麿ト改、文化文政ノ頃 小伝馬町ニ住テ、専ラ板下ヲ画キ、後ニ浮 世絵ヲ廃シテ観雪ト更ム〟☆ きょうさい かわなべ 河鍋 暁斎 ◯『浮世画人伝』p130 〝河鍋暁斎(ルビかわなべきやうさい) 河鍋暁斎、名は洞郁、俗称は周三郎、暁斎は其号なり。また惺々狂斎の別号あり。天保二卯年四月七日、 下総国西葛飾郡、古河に生れき。父は甲斐喜右衛門とて、土井侯の臣なりき。父子其氏を異にするは、 父故ありて、後年江戸に出で、甲斐氏を冒せしによる。暁斎、幼にして画を好み、其遊戯の具に絵画を 与ふれば、喜びてこれを弄び、また其他のものを顧みざりしと云ふ。されば事に激して泣涕止まざる時 は、慰撫に代ふるに絵画を以てすれば、必泣きやみたりしとぞ。斯(カ)く暁斎が、絵画に付きて、自然 の嗜好は教へざるに能く画き、五歳の時、既に人物画を作りて、人を驚かし、七歳の時、井草国芳の門 に入り、十一歳の時、前村洞和に就き、終りに狩野洞白に従ひ、四年の星霜を経て、全く業を卒へたり。 暁斎、初め国芳の門を出づるや、暫らく家居して絵事に熱心し、鳥獣草木を描写して、手に筆を絶たざ りき。暁斎九歳の五月、梅雨連旬、神田川の水勢いと盛なるを見て、親しく眼を水波の勢状に注ぎて、 画想を錬(ネ)りたるが如き、また其時川辺に漂着したる死者の生首を見て、これ得難き好粉本なりとて、 我が家に携へ帰りて家人に秘し、竊(*ヒソカ)にこれを描写して、其写生の真にせまらんを希ひしが如き、 皆是れ尋常画人の得て為し能はざる事どもなり。暁斎また深く李龍珉の筆意を慕ひ、そが作の水滸伝中、 百八人の肖像の如きは、尤も暁斎が画筆を成さしむるに、与りて力ありしものなりと云ふ。これよしし て、暁斎の武将画は、筆力勇健にして、活気充満し、頗(*スコブ)る絵画の精神を得たりき。暁斎、嘉永 二年に至り、剃髪して洞郁陳之と称せり。暁斎が其画名を顕はしたる始めは、上野東照宮、芝大徳院廟 修繕の時、其彩色を命ぜられし時よりなり。蓋し暁斎は狩野洞白の門人なりしを以て、此命ありしなり。 洞白は当時高名の画家にして、幕府の絵所なりき。暁斎は師洞白の死後、猶其家に在りて、画業に精励 せしが、安政五年に至り、始めて独立して一旗幟を揚げたり。暁斎また狂画を喜び、鳥羽僧正の筆意を 仰慕し、自ら狂斎と号して、飄奇逸妙の筆を揮ひたりき。暁斎既に諸家の画法に精通し、これに加ふる に自家の天才を以てす。蓋し画道に於て、既に其鞏固(キョウコ)なる基礎を得たるものと謂ふべきなり。偖 (*サテ)此の主観的画想を以て、更に進で名山勝水を観察し、親しく其実物実景に触目して、観客的画想 を増大し、茲(*ココ)に主客両観を和合調溶して、一大完璧の画想を養成す。これ完全なる画家に於て、 必取るべき順路なり。此に於てか、暁斎漫遊の途に上れり。先づ筆を携へて信州に赴き、小布施道中の 難(ナン)、善光寺近水の汎濫、若くは戸隠山中院本社の天井、更科の月、皆是れ暁斎の画懐をして、富胆 ならしめし材料ならざるはなし。されども暁斎が尤も得意の処は、山川草木を描写するにあらずして、 人物にあり、勝川春章、喜多川歌麿等が、嬌艶の筆を狩野の画風に折衷混溶して、別に一機軸を出(イダ) し、加ふるに自家磊落の気質は、直ちに筆端に発揮されて、他人の得て及ぶ可からざる、一種粗活の奇 画となり、真に飛動の妙あり。暁斎、平生大酒に耽り、鯨飲飽くなく、大酔路傍に倒れ、石を枕として、 大の字を描き、嚊息(ビソク)雷鳴に擬して、人を驚かし、若(*モシ)くは酔狂に乗じて、乱暴狼藉、更に憚 らず。蓋し彼れが酔眼中には、王侯貴人無く怒罵口に任せ、搏闘手足(ハクタウシユソク)のまゝなり。実に其行 為に於ても、亦狂斎の名空しからず。明治三年十月六日、下谷不忍弁天の境内なる長蛇亭に於て、書画 会の催しありき。会主は其角堂雨雀なりしが、暁斎は雨雀と極めて熟懇の間柄なりければ、早朝より来 会し、鯨飲量なく、自ら快と呼び、満坐を圧視して、意気頗る豪なり。例の癖とて、酔へば益々揮毫し、 興に乗じて寓意画を作り、来会の官吏に、時の顕官を誹毀(ヒキ)するものと認められ、直ちに其場にて捕 縛せられたり。暁斎は満酔して、更に前後を別(*ワカ)たず、己れの縛に就きしをも覚えず、只陶然、口 に酔気を吐くのみなりしが、其頭脳稍々(*ヤヤ)冷却して心気旧に復するの一刹那、彼れは既に獄裡(ゴク リ)の人にてありき。其翌年正月三十日、放免せられき。暁斎獄中の実景を描きて、家に蔵(オサ)め、以て 自ら後来を誡めたり。是れよりして狂斎を改めて暁斎と号せり。暁斎また揮毫極めて神速(ジンソク)たる を以て名高し、其例は神田明神の金障に二獅奮争の図を、手に任せて疾風の如く、揮毫したるが如き、 また延遼館(エンリョウカン)にて、八時間に百八十張の画墨を染めし如き、孰(イズ)れも皆筆力雄健にして、世 人の挙げて嘆賞するところなり。其他暁斎が逸事は、枚挙に暇あらず。其明治以来の出来事は世人これ を熟知するを以て、多くは略して記さず。茲(ココ)には只其一端を記するのみ。既に記述せし如く、暁斎 は酒の為に、偶々其身を誤ると雖(*イエ)ども、常時は温厚にして、且報恩の志に篤かりき。師洞白の妾 石川氏が、生前に恵みたる恩を報ずるに、死後其墓前にて三番叟の演舞せし如きは、洽(*アマネ)く人口に 膾炙(*カイシャ)して、其義に篤き一端を伺ふに足るべし。暁斎、明治二十二年四月廿六日、金杉村に没す。 年五十九、谷中端林寺に葬す〟☆ きよかつ とりい 鳥居 清勝 ◯『浮世画人伝』p24「鳥居清信系譜」 〝清勝 清長門人、高砂町ニ住〟☆ きよくに とりい 鳥居 清国 ◯『浮世画人伝』p24「鳥居清信系譜」 〝清国 五世清峯実子、俗称和三郎、廿才ニテ夭死ス〟☆ きよさだ とりい 鳥居 清定 ◯『浮世画人伝』p24「鳥居清信系譜」 〝清定 清長門人、花房町ニ住〟☆ きよさだ とりい 鳥居 清貞 ◯『浮世画人伝』p24「鳥居清信系譜」 〝清貞 号蝶蜂、俗称斎藤長八、蛎売町一丁目三番ニ住〟☆ きよさと とりい 鳥居 清里 ◯『浮世画人伝』p24「鳥居清信系譜」 〝清里 清長門人〟☆ きよしげ とりい 鳥居 清重 ◯『浮世画人伝』p24「鳥居清信系譜」 〝清重 小網町ニ住、二代目団十郎ノ肖像ニ巧ナリ〟☆ きよただ とりい 鳥居 清忠 初代 ◯『浮世画人伝』p24「鳥居清信系譜」 〝清忠 米沢町ニ住〟☆ きよただ とりい 鳥居 清忠 二代 ◯『浮世画人伝』p24「鳥居清信系譜」 〝清忠 清峯門人、住吉町ニ住、初代清信門人ニ同名アリ〟☆ きよただ とりい 鳥居 清忠 三代 ◯『浮世画人伝』p24「鳥居清信系譜」 〝三世 清忠 二世清忠息子、俗称亀次郎、住所住吉町、三齢湯を売傍勘亭流ヲ書〟☆ きよたね とりい 鳥居 清種 ◯『浮世画人伝』p24「鳥居清信系譜」 〝清種 六世清満門人、俗称徳〟☆ きよつぐ とりい 鳥居 清次 ◯『浮世画人伝』p24「鳥居清信系譜」 〝清次 清長門人〟☆ きよつね とりい 鳥居 清経 初代 ◯『浮世画人伝』p24「鳥居清信系譜」 〝経清(ママ) 清信門人〟☆ きよつね とりい 鳥居 清経 二代 ◯『浮世画人伝』p24「鳥居清信系譜」 〝二世 清経 清満門人〟☆ きよとき とりい 鳥居 清時 初代 ◯『浮世画人伝』p24「鳥居清信系譜」 〝清次 清長門人〟☆ きよとき とりい 鳥居 清時 二代 ◯『浮世画人伝』p24「鳥居清信系譜」 〝清次 清長門人、和泉町ニ住、初代清時、歿後二世ヲ嗣〟☆ きよなが とりい 鳥居 清長 ◯『浮世画人伝』p26「鳥居清信系譜」 〝鳥居清長(ルビとりゐきよなが) 鳥居清長は、三世清満の門人にて、通称を関新助と云へり(父は本材木町に住して家守(イエモリ)たりし) 初め菱川の画風を慕ひ、後に鳥居家を嗣ぎて、鳥居四世と号しき。尤も武者を画くに巧みにして、猛勇 者の手足を、瓢(ヒョウ)の縊れたるか如くに描きて、一家の骨法とせり。後世より東錦絵の祖と称せられ、 一時清長が右に出るものなきに至りき。歿せし年は、五十九にて、文化十年八月の事なりきとぞ〟☆ きよのぶ とりい 鳥居 清信 初代 ◯『浮世画人伝』p22「鳥居清信系譜」 〝鳥居清信(ルビとりゐきよのぶ) 鳥居清信は、通称を庄兵衛といひ、江戸難波町に住せり。清信が父は鳥居庄七とて、難波の演劇にて、 俳優の小旦たりしものなりき。この庄七こゝろの巧みあるものにて、曾て前額(ゼンガク)を蔽(オオ)ふに、 紫帽子を以てせしこと、此の優より始り、後には、野郎帽子とて、維新前まで、小旦たる俳優、一般に 用ふる事となれり。庄七また絵画の筆を把りて、頗(スコブ)る妙手なりければ、自から鳥居清元と称し、 大坂道頓堀なる、劇場の看板といふものを画き、貞享四年には、江戸に下りて、元禄三年、始めて江戸 市村座の看板をも画けり。それが子にして、清信又画に巧みに、父の画風を得たる上に、菱川師宣の筆 意を慕ひて、画名漸く高うなりぬ。元禄の末より、丹絵(タンカイ)と称して、丹と黄汁とを以て、板行の 画に設色をなし、販売するものありけるが、清信および子の清倍、専らこれを画きて、世に行はれき。 中にも俳優の小照(コテル)、劇場の看板は、鳥居風に物する事、定まれる習ひとなれり。一時江戸絵の風 は、鳥居の流に傾ける様なりき。清信は、享保十四年七月廿八日に身まかれり。浅草松山町清成寺に葬 り、法名浄光(*ママ)院清信日立といふ。其の子孫連綿として、家業を改めず。後世に至りては、俳優の 似せ絵かく事は止みにけれど、彼の看板といひ、番附といふものは、今日も猶その法を守れり。さて鳥 居の家系、本支の伝統は、浮世絵類考、同附録にも見えたれど、おの/\小異あり。こゝには、同家に 就いて問ひたゞしたる所を掲ぐ〟☆ きよのぶ とりい 鳥居 清信 ◯『浮世画人伝』p24「鳥居清信系譜」 〝清信 清信男。難波町ニ住す。宝暦十三年二月二日卒ス、法号清巌院宗林日浄、法成寺ニ葬ス〟〈この清信は二代か、また清倍とも目されている〉 ☆ きよはる こんどう 近藤 清春 ◯『浮世画人伝』p38 〝近藤清春(ルビこんどうきよはる) 清春は通称を助五郎といひ、正徳享保年間の人にして、妙腕の筆をもて、赤本或は金平本を画きて名を 顕(アラ)はせり。又吉原細見記及び芝居のことを自作画にて著せしもの多し、とりわけ『江戸名所百人一 首』(自作画にて狂歌の書添(カキソエ)あり)一冊を刊本にして大に行(オコナ)はれぬ。清春のことを浮世絵 類考に、鳥居清信が門人なりとあるは誤りにして、清信重信【西村】政信【奥村】はおの/\独立せし ものなり、さるを清信が門人とせしは、其頃の浮世絵は皆鳥居風なりし故にやあらん。当時に近藤清信 といへる人ありしが、清春の子なるか、はた門人なりしか詳ならず、尚(ナホ)考ふべし〟☆ きよひさ とりい 鳥居 清久 ◯『浮世画人伝』p24「鳥居清信系譜」 〝清久 清長門人、小松町ニ住〟☆ きよひろ とりい 鳥居 清広 ◯『浮世画人伝』p24「鳥居清信系譜」 〝清広 清長門人、堺町ニ住〟☆ きよまさ とりい 鳥居 清政 ◯『浮世画人伝』p24「鳥居清信系譜」 〝清政 清長門人、幸四郎宗十郎富十郎ノ肖像ニ長ズ〟☆ きよみつ とりい 鳥居 清満 ◯『浮世画人伝』p24「鳥居清信系譜」 〝清満 次男、通称半三、葭町ニ住。三味線渡世。天明五年四月三日卒、法名善院(ママ)要道日達、法成寺ニ葬ス〟☆ きよみつ とりい 鳥居 清満 三世 ◯『浮世画人伝』p24「鳥居清信系譜」 〝清満 五世清峯実ノ次男、俗称栄蔵、初メ清芳ト称ス、父清満没後、三世清満ト改、新福井町ニ住ス〟☆ きよみね とりい 鳥居 清峯 ◯『浮世画人伝』p27「鳥居清信系譜」 〝鳥居清峯(ルビとりゐきよみね) 清峯は、幼名庄之助と云へり。三世清満が孫なりき。清満の子、亀次といふもの、家業を改め、刺繍の 技を職とせしが、其子は即ち清峯にて、夙くより清長の門に入り、遂に鳥居五世を相続しぬ。清長歿後 に、祖父清満の号を嗣ぎ、唯(タダ)家宝の画に妙なるのみならず、文化文政の頃は、歌川豊春の筆意に ならひて、錦絵草紙の類を描くに、嬋娟艶美の風をなせり。此の人、明治元年までながらへて、同年十 一月の廿一日に身まかりにき。年八十二。浅草松山町法成寺に葬りて、栄昌院清真日満と謚せり、是れ より以来、演劇の看板、および番附の類ひの絵は、むげに拙くなりにけり〟☆ きよみね とりい 鳥居 清峯 ◯『浮世画人伝』p24「鳥居清信系譜」 〝清峯 五世清峯養子、俗称米次郎、三十余才ニシテ夭死ス〟☆ きよもと とりい 鳥居 清元 ◯『浮世画人伝』p22「鳥居清信系譜」 〝清信が父は鳥居庄七とて、難波の演劇にて、俳優の小旦たりしものなりき。この庄七こゝろの巧みある ものにて、曾て前額(ゼンガク)を蔽(オオ)ふに、紫帽子を以てせしこと、此の優より始り、後には、野郎 帽子とて、維新前まで、小旦たる俳優、一般に用ふる事となれり。庄七また絵画の筆を把りて、頗(スコ ブ)る妙手なりければ、自から鳥居清元と称し、大坂道頓堀なる、劇場の看板といふものを画き、貞享 四年には、江戸に下りて、元禄三年、始めて江戸市村座の看板をも画けり〟☆ きよもと とりい 鳥居 清元 ◯『浮世画人伝』p24「鳥居清信系譜」 〝清元 清峯門人、俗称三甫助〟☆ きよやす とりい 鳥居 清安 ◯『浮世画人伝』p24「鳥居清信系譜」 〝清安 清峯門人、俗称虎次郎〟☆ きよゆき とりい 鳥居 清之 ◯『浮世画人伝』p24「鳥居清信系譜」 〝清之 清長門人〟☆ ぎんせつ とみかわ 富川 吟雪 ◯『浮世画人伝』 ◇富川吟雪」の項 p51 〝富川吟雪(ルビとみかわきんせつ) 吟雪、名は房信、通称山本九左衞門と云ひ、世々江戸大伝馬町三丁目に住して、絵草紙問屋を業と為し、 貞享年間板本なる『江戸鹿子』にも載たる、高名なる商家なりしが、漸々衰微して房信が世となり、断 然肆(シ)を閉るに至りけれれば、止むなく西村重長を師と仰ぎ、又鳥居風を慕ひ浮世絵を描きて業とし、 一時世にもてはやされ、傍ら赤本の戯作に富て、丈阿(赤本に名ある作者なり)を圧倒せんとする勢力 ありき。吟雪歿後、門人妙之助山本氏、二世吟雪と号せしが、后(コウ)北斎の門に入りて、北雅と改む、 房信の一子に長兵衛と云ふものありしが、板摺を以て職業となし画を学ばずと云ふ〟 ◇「葛飾北斎系譜」p121「葛飾北斎系譜」 〝北雅(北斎門人)二世富川吟雪〟☆ くにあき うたがわ 歌川 国明 ◯『浮世画人伝』p90「歌川国貞系譜」 〝国明 国貞門人、一鳳斎、俗称斧三郎、通三丁目湯屋ノ忰ニテ押絵を業トス〟☆ くにかげ うたがわ 歌川 国景 ◯『浮世画人伝』p84「歌川豊国系譜」 〝国景(二代目豊国門人)(名前のみ)〟☆ くにかね うたがわ 歌川 国兼 ◯『浮世画人伝』p84「歌川豊国系譜」 〝国兼 三世(ママ)豊国門人〟〈「系譜」上は二代目豊国の門人〉 ☆ くにきよ うたがわ 歌川 国清 ◯『浮世画人伝』p90「歌川国貞系譜」 〝国清 国貞門人、一楽斎、俗称江守安蔵、幕府小吏、茶番狂言ヲ能クス、芸名ヲ松魚ト云〟☆ くにさだ うたがわ 歌川 国貞 ◯『浮世画人伝』 ◇「歌川豊国系譜」p83「歌川豊国系譜」 〝国貞(初代豊国門人)一雄斎 後年三世豊国ト更ム〟 ◇「歌川国貞」の項 p84「歌川国貞系譜」 〝歌川国貞(ルビうたかわくにさだ) 歌川国貞は、俗称角田庄蔵、家号は亀田屋と云ふ、一雄斎、五渡亭、香蝶楼、月波楼、富望山人、富眺 庵、樹園、梅戸、一蝶の数号あり。後年初代豊国の跡を継ぎて、一陽斎豊国と称せり。天明六年、武州 葛飾郡西葛西村に生れき。父は五橋亭琴雷と称し、俳諧を能くす。五橋亭とは本所五ッ目に、住みし故 なるべし。俗名は何と云ひしか詳(*ツマビラカ)ならず、天明七年八月十六日、歳六十九にて没す。亀戸村 光明寺に葬る。法号は、観行院理山善知信士なり、其辞世の句に、 もとかしき糸はほぐれて散る柳 国貞は其の子にして、浮世絵を好み師に就かずして、美人俳優を描くに、筆力老成にして、尋常画家の 及ぶところにあらず、初代豊国の門に入りし時、豊国其初めて画きしものを見て、大に其才筆に驚きし と云ふ。既にして一雄斎国貞の号を得て、門下出藍(シュツラン)の誉(ホマレ)高し。文化の初年に山東京山、妹 背山と云へる小作を、江見屋より出板せり、其挿画は国貞なり、これ国貞が稗史画を物せる始めなりき と。文化五年の三月、浪花の俳優、中村歌右衛門(三世、梅玉)初下りの御目見得狂言として、中村座 に於て『艶色競廓操(ハデクラベクルハノミサホ)』と名題して、玉屋新兵衛を勤め、好評を博し、三日目より客留 の札を掲ぐる程の、大人気なりしが、同月十三日より御礼の為と称し『近頃河原達引(チカゴロカワラノタテヒキ)』 に堀川の段を、大切に演じ、梅玉与三郎を勤めて、非常の大当りなりき。此時国貞、梅玉の猿廻し与二 郎を描き、世評高く大に称賛されたり、是其錦絵を描きし始めなり。又此の年の末に、吃又平に絵双紙 を物し、頗(スコブ)る好評お得、これより画名益々高し。国貞極て絵事に熱心し、芸娼妓相撲俳優の、古 実を研究して、絵画の趣向に工夫を凝らせり。或時は、深川品川四谷新宿根津弁天松井町常盤町お旅谷 中三田三角などの、芸娼妓の有様を、夫々精細に、描きわけて、一見其いづれの風俗たるを、判然たら しむる抔(ナド)、絵事に心を用ふる、実に周到と謂ふ可し。国貞既に俳優の似顔を描きては師の豊国に 亞(ツ)ぎて、佳作の聞え高し。また団扇絵に巧なりき、特(コト)に稗史の合巻ものに密画をものするに至 りては、其技倆他に比ぶるものなく、一家独特の妙技なりき。柳亭種彦が傑作、偐紫田舎源氏の挿画は、 国貞が手に成りしものにて、実に稀世の艶筆なりとて、世人の愛玩一方ならざりき。 天保十五年正月、師一陽斎豊国の号を継ぎて、二世豊国と称す、これより先き一龍斎豊重、初代豊国の 後を承けて、二世豊国と称しき。されば国貞は理(リ)当(マサ)に、三世に当る筈なり、さるを二世と称す るは、元祖豊国の血脈絶えたるをもて、伊賀屋勘右衛門が母某と、立川焉馬との勧めにより、国貞、そ が名目相続する事となり、其時国貞の云へるは、先きに国重憗(*ナマジ)ひに師の名目を継ぎて、二世豊 国と称し、師の名を汚(ケガ)しゝゆゑ、己れ三世と称するは好ましからずとて、国重が称したる二世を 省きて、無きものとし、自ら一陽斎二世歌川豊国と称せしとか、蓋(ケダ)し己れの技倆国重に超越せる をもて、直ちに初代豊国の後を承くるも、恥しからずと、思意したればなるべし、されど世間の謗(ソシ) りは免れ難しと見え、 或るものゝ狂歌に 歌川をうたかはしくも名のり得て二世のとよくに偽(イツハリ)のとよくに 続浮世絵類考に、国貞の画、天保の末より、衰へたり故に、この狂歌ありたりと、あれどいかにや。弘 化二年剃髪して肖造と改称せり。亀戸村の家宅は、次女の婿門人国久に譲りて、己れは柳島に退隠しぬ。 安政二年、長女の婿門人国政に国貞の号を譲りたりき。肖造は年齢既に古稀を過ぐと雖(イエド)も、心身 共に衰へず、艶麗の筆依然として、旧の如し、老て倍々壮なりとは此の翁の事なりけり。国貞の本領は 以上記するが如し、然るに旁ら英一蝶が草筆の、軽妙洒落を愛し、天保四年、英一珪が門に遊び、墨画 (スミガ)に英一蝶と落欵せり、香蝶楼(カチョウロウ)の号は一蝶の別名、信香の香と一蝶の蝶を取りて、名付し ものなりとぞ、斯(カ)くてまた嵩谷が裔、嵩陵が門にも遊びて、そが画風をも学びたりきとぞ。斯く一 蝶嵩谷が筆意を慕ひしかど、これ等は似るべくもあらざりきとなり。偖(サテ)又国貞が性行は如何と云ふ に、壮年の時は花街柳巷に遊びて、品行よからざりしかど、晩年に至り謹慎方正にして、観劇の外、出 遊すること稀なりしと云ふ。元治元年十二月十五日没す、享年七十九歳、亀戸村光明寺に葬る。法号、 豊国院貞匠画仙居士、二世国貞が描きて、販売せし一世国貞が、肖像の上にそが辞世といへるを見るに、 一向に弥陀へまかせし身のやすさただ何事も南無阿弥陀仏〟☆ くにさだ うたがわ 歌川 国貞 二代 ◯『浮世画人伝』p90「歌川国貞系譜」 〝二世 国貞(初代国貞門人)号一寿斎〟☆ くにさと うたがわ 歌川 国郷 ◯『浮世画人伝』p90「歌川国貞系譜」 〝国郷(国貞門人)立川斎、俗称政次郎、本所立川住〟☆ くにしげ うたがわ 歌川 国繁 ◯『浮世画人伝』p90「歌川国貞系譜」 〝国繁 国貞門人、浅草田町ニ住、提灯張ヲ職トス〟☆ くにたか うたがわ 歌川 国孝 ◯『浮世画人伝』p90「歌川国貞系譜」 〝国孝 国貞門人、俗称喜之助、瘋癲病ニテ夭死ス〟☆ くにたま うたがわ 歌川 国玉 ◯『浮世画人伝』p90「歌川国貞系譜」 〝国玉 国貞門人、一宝斎、俗称江田岩次郎〟☆ くにちか うたがわ 歌川 国周 ◯『浮世画人伝』p83「歌川豊国系譜」 〝国周(初代豊国門人)一英斎、俗称藤次郎〟☆ くにちか うたがわ 歌川 国周 ◯『浮世画人伝』p90「歌川国貞系譜」 〝現存 国周 国貞門人、一鴬斎〟☆ くにつぐ うたがわ 歌川 国次 初代 ◯『浮世画人伝』p83「歌川豊国系譜」 〝国次(初代豊国門人) 一応斎、俗称中川幸蔵、京橋銀座四丁目住、文久元年卒ス、時ニ六十二〟☆ くにつぐ うたがわ 歌川 国次 二代 ◯『浮世画人伝』p83「歌川豊国系譜」 〝国次 初代国次男、俗称幸蔵〟☆ くにつな うたがわ 歌川 国綱 (歌川国輝二代参照) ◯『浮世画人伝』p90「歌川国貞系譜」 〝国綱 国貞門人、一曜斎、俗称山田金次郎、後ニ二世国輝ト更ム〟☆ くにつる うたがわ 歌川 国鶴 初代 ◯『浮世画人伝』p84「歌川豊国系譜」 〝国鶴(二代目豊国門人) 俗称和田安五郎、大阪遊歴後、本丁二丁目ニ住、家伝ノ紋(二字不詳)ヲ鬻グ〟☆ くにつる うたがわ 歌川 国鶴 二代 ◯『浮世画人伝』p84「歌川豊国系譜」 〝国鶴(初代国鶴門人)二世、現存、安五郎男、俗称勘之助、影絵ヲ業トス〟☆ くにてる うたがわ 歌川 国照 ◯『浮世画人伝』p84「歌川豊国系譜」 〝国照(初代豊国門人)俗称甚右衛門〟☆ くにとく うたがわ 歌川 国得 ◯『浮世画人伝』p90「歌川国貞系譜」 〝国得(国貞門人)本所松倉町ニ住ス〟☆ くにとみ うたがわ 歌川 国富 初代 ◯『浮世画人伝』p84「歌川豊国系譜」 〝国富 三世(ママ)豊国門人〟〈「系譜」上は二代目豊国の門人〉 ☆ くにとみ うたがわ 歌川 国富 二代 ◯『浮世画人伝』p90「歌川国貞系譜」 〝国富 国貞門人、俗称磯吉、蒔絵師某ノ子ニテ、煙草渡世京橋ニ住〟☆ くにとめ うたがわ 歌川 国登女 ◯『浮世画人伝』p84「歌川豊国系譜」 〝国登女(初代豊国門人)不詳〟☆ くにとも うたがわ 歌川 国朝 ◯『浮世画人伝』p90「歌川国貞系譜」 〝国朝 国貞門人、未詳〟〈二代目国朝か〉 ☆ くにとら うたがわ 歌川 国虎 ◯『浮世画人伝』p83「歌川豊国系譜」 〝国虎(初代豊国門人)俗称粂蔵〟☆ くになお うたがわ 歌川 国直 ◯『浮世画人伝』 ◇「歌川豊国系譜」83「歌川豊国系譜」 〝国直(初代豊国門人)浮世菴〟 ◇「歌川国直」の項 p97 〝 歌川国直(ルビうたかはくになほ) 国直は信濃国の産にして、俗称鯛蔵一斎と号しき。初め麹町に住ひ、後田所町に転ず、初代豊国の門に 入りて、錦絵また稗史を多く描き世評高く、式亭三馬の庇蔭を蒙りて三馬が草双紙の挿画を描く、後年 為永春水が物したる中本の挿画に筆を揮ひ、画名前に倍す、歿日詳ならずと雖(*イエド)も、思ふに天保 の末ならむ〟☆ くになが うたがわ 歌川 国長 ◯『浮世画人伝』p83「歌川豊国系譜」 〝国長(初代豊国門人)一雲斎〟☆ くにのぶ うたがわ 歌川 国信 ◯『浮世画人伝』p83「歌川豊国系譜」 〝国信(初代豊国門人) 幕臣某、戯作ヲ好ミ、作名志満山人ト云、本郷元町ニ住シテ終ル、通称金子惣四郎、天保初年御小人目 付ヲ勤、此時湯嶋三組町ニ住ス、故有テ師ヨリ一陽斎ノ号ヲ貰フ、別号陽岳舎、一名一礼斎〟☆ くにひさ うたがわ 歌川 国寿 ◯『浮世画人伝』p90「歌川国貞系譜」 〝国寿(国貞門人)未詳〟☆ くにひさ うたがわ 歌川 国久 ◯『浮世画人伝』p90「歌川国貞系譜」 〝国久(歌川国貞門人) 三世豊国姿(*ママ)ノ婿、俗称勝田久太郎、陽龍斎ト号ス、明治廿四年二月五日歿、亀戸村光明寺ニ葬〟〈二代目国久か〉
☆ くにふさ うたがわ 歌川 国房 ◯『浮世画人伝』p84「歌川豊国系譜」 〝国房(初代豊国門人)俗称他三郎〟☆ くにふさ うたがわ 歌川 国房 ◯『浮世画人伝』p90「歌川国貞系譜」 〝国房(国貞門人)俗称大竹勝五郎〟〈二代目国房か〉 ☆ くにふさ うたがわ 歌川 国総 ◯『浮世画人伝』p84「歌川豊国系譜」 〝国総(二代目豊国門人)(名前のみ)〟☆ くにまさ うたがわ 歌川 国政 初代 ◯『浮世画人伝』 ◇「歌川豊国系譜」p83「歌川豊国系譜」 〝国政 一陽斎門人、一寿斎、俗称勘助〟 ◇「歌川国政」の項 p97 〝 歌川国政(ルビうたがはくにまさ) 国政は通称を勘助と云ひ、奥州会津の産にして紺屋の雇夫(ヤトイフ)なりと云ふ。勘助幼き頃より頻りに画 を好み、遂に業をすてゝ江戸に出(イデ)、初代豊国の門に入り浮世絵を学び、一心に業を修め俳優の似 顔絵を描くに巧みなりき、就中(ナカンズク)中山富三郎(錦車)の肖像の描に至りては、師の豊国も尚及ざ るが如く頗(*スコブ)る世評高く、故に豊国は国政が門弟なるべしとの評ありき、文化の初めより画工を 廃し、俳優の仮面を製し鬻ぎしと云ふ。文化七年十一月晦日、病歿す、年三十八〟☆ くにまさ うたがわ 歌川 国政 ◯『浮世画人伝』p90「歌川国貞系譜」 〝三世 国政(二世国貞門人)梅堂、俗称竹内栄久〟☆ くにまつ うたがわ 歌川 国松 ◯『浮世画人伝』p84「歌川豊国系譜」 〝国松(初代国鶴門人)現存、安五郎二男、俗称国松、一龍斎ト号ス、左筆ヲ以テ画ク〟☆ くにまる うたがわ 歌川 国丸 ◯『浮世画人伝』p83「歌川豊国系譜」 〝国丸(初代豊国門人)一円斎〟☆ くにまる うたがわ 歌川 国麿 ◯『浮世画人伝』p90「歌川国貞系譜」 〝国麿 国貞門人、俗称菊越菊太郎、俳名菊翁、本所北割下水ニ住〟☆ くにみつ うたがわ 歌川 国満 ◯『浮世画人伝』p83「歌川豊国系譜」 〝国満(初代豊国門人)俗称熊蔵、桧物町ニ住ス〟☆ くにみね うたがわ 歌川 国峯 ◯『浮世画人伝』p83「歌川豊国系譜」 〝現存 国峯(歌川国久門人)国久次男、号梅蝶楼、大坂毎日新聞ニ従事ス〟☆ くにむね うたがわ 歌川 国宗 ◯『浮世画人伝』p83「歌川豊国系譜」 〝国宗(初代豊国門人)始国長門人〟〈この国宗は初代か〉 ☆ くにもり うたがわ 歌川 国盛 ◯『浮世画人伝』p90「歌川国貞系譜」 〝国盛 国貞門人、台北根岸ニ住ス、春画ニ巧ニシテ他ノ画ヲ作ラズ、家ヲ出ズ、終日閉戸シテ画ク、最モ奇人ナリ〟〈この国盛は国貞門人とあるので二代目か〉 ☆ くにやす うたがわ 歌川 国安 ◯『浮世画人伝』 ◇「歌川豊国系譜」p83「歌川豊国系譜」 〝国安(初代豊国門人)一鳳斎〟 ◇「歌川国安」の項 p98 〝歌川国安(ルビうたかはくにやす) 国安は通称を安五郎と云ひ、一鳳斎と号し、初代豊国の門弟なり。初め大門通りに住し、後本所相生町 また深川扇橋に移れり。若年より豊国の塾にありて、文化の頃発梓したる錦絵に名あり。一時事故あり て西川安信と改め、幾何もなく再び国安に復す。天保三年七月六日、享年三十九にして卒す〟☆ くによし うたがわ 歌川 国芳 ◯『浮世画人伝』 ◇「歌川豊国系譜」p83「歌川豊国系譜」 〝国芳(初代豊国門人)一勇斎〟 ◇「歌川国芳」の項 p92「歌川国芳系譜」 〝歌川国芳(ルビうたかわくによし) 歌川国芳は、俗称井草孫三郎、一勇斎また朝桜楼と号す。寛政九年十一月十五日、江戸神田本銀一丁目 に生(ウマ)る、父は柳屋吉右衛門と称し、染物を業とせり、国芳十二歳の時、未だ師に就かずして、鍾馗 提剣図を描きしに、筆勢勇烈画才の蓋(*オオ)ふ可(*ベ)からざるものあり。初め勝川春英が画風を学び、 後に初代豊国が門に入る、同門人国直が画風を慕ひ、三氏の筆意を得て、これに洋画の長所を取り、和 洋相折衷して別に一家を為(ナ)せり。文化文政の間、一旗幟(キシキ)を本所に掲ぐ、然れども其名未だ世に、 知られざるを以て、其の画を需むるもの少なし。家計甚だ貧しきを告ぐれど、自ら清貧を楽むを以て北 斎に比し、飯器(ハンキ)を机に代用して平然たりき、梅屋鶴寿、其奇行を聞き、行きて貧を助け、無二の 友垣を結びたりき。或人の説に、国芳壮年の時、本所石原に借家す、赤貧名状すべからず、夏日葭戸を 売却して、食料に充てんと欲し、或夜竊(*ヒソカ)に葭戸を負ひ、大川の東岸を過る時、同門人国貞愛婦を 携えて、得意顔に散歩するを見、国芳己れの技倆劣りて、斯(*カ)く浅ましき様に至るを愧(*ハ)ぢ、携 え持ちし葭戸を河中に投じて、家に帰り、爾来(*ジライ)刻苦励精して、遂に国貞と並び称せらるゝに、 至りぬと云ふ。国芳或人の媒介(ナカダチ)にて井原氏を嗣ぎ、居を米沢町に、又長谷川町に移す、文政の 初め頃、平知盛が亡霊の錦絵を描き(馬喰町東屋大助板)始めて、世に名を知られたり。これより国芳、 名将勇士の画に其名高く、同時に五渡亭国貞、美人俳優に妙を得て、其名喧々(*ケンケン)たり。一は硬を 一は軟を描きて、均しく精妙の域に進み、実に恰好の一幅対たりき。水滸伝中豪傑百八人の錦絵は、国 芳が作の最も傑出したるものなり、こは文政の末頃の作にして、板元は両国加賀屋吉右衛門なり、天保 十四年の夏、源頼光蜘蛛の精に悩まさるゝ、恠異(カイイ)の図を錦絵に物し、当時の政体を誹毀(*ヒキ)す るの、寓意ありとて、罪科に処せられ、版木をも没収せられたりき。其寓意と云へるは、頼光を徳川十 二代将軍家慶に比し、閣老水野越前守が非常の改革を行ひしを以て、土蜘蛛の精を悩まさるゝの意に、 比したりと云ふにありき。 嘉永六年六月廿四日、両国柳橋南河内屋の楼上にて、鶴寿が画会の時、国芳己れが着したる、単衣を脱 (ダッ)し墨に浸し、毫に代(カエ)て七十畳敷の大広間に三十畳の渋紙を拡げ、其上に九紋龍史進奮勇の図 を作れり、画勢雲湧き龍跳るの趣ありて、一坐其奇作に、驚嘆せざるもの無かりしと云ふ。浅草観世音 開扉の時、吉原の妓楼岡本楼より、寄進せし観音利生記中、一家の悪婆の絵馬、並に深川永代寺に於て、 成田山不動明王開帳の時画きし、祐天上人記の絵馬に、共に国芳の手に成りし、傑作にて頗(スコブ)る世 人の高評を得たるものなり。総じて国芳が画きし、人物の衣服の模様装飾などの、精細周緻なるは、染 物職の家に人と成りしゆゑならん。今其性行如何(イカン)を考ふるに、或年日吉神社祭典の時、そが氏子 の商家は美を競(キソ)い華を争ふ中に、国芳は格天井(カクテンジヤウ)の縫模様ある高価の衣服を、着し出でん とするに臨み、偶々(タマタマ)驕奢を戒むるの禁令出でければ、直様(スグサマ)格天井の墨絵を白木綿に描き、 これを着して御輿(ミコシ)に従ひしと云ふ。晩年中風症に罹りて業を廃し、文久酉(*ママ)三月五日、遂に没 す、年六十五、浅草八軒町大仙寺に葬す、法名は、深修院法山国芳信士、明治六年門人等相謀りて、碑 を墨江牛島神社境内に建つ、撰文(センモン)は東條琴台、書は萩原秋巌なり。国芳二女あり各々画をよくす、 門人に良材乏しからず〟☆ こうかん しば 司馬 江漢 ◯『浮世画人伝』p43 〝司馬江漢(ルビしばこうくわん) 司馬江漢、名は峻(シュン)、字は君岳(クンガク)、通称は勝三郎、後年孫太夫と改む、不言道人また春波楼 の号あり、延享四年に生る、初め鈴木春信の門に入りて、春重と称し、師の歿後其名を継ぎて二世春信 と称せり。当時洋画未(*ダ)行はれず、蘭人僅に外科医法を伝ふるのみ、江漢長崎に到り蘭語を研究し、 洋画を修む。後に江戸に帰り、専ら油画銅版画に従事し、天球図地球全図および、東都八景の図を作り て其名世に高し。江漢幼年の時より、和漢の人物山水などを描きて、既に画才を顕(アラ)はせり。壮年に 及び筆力雄健にして益々精妙の域に進めり。或時仙台侯の召しに応じて、席画を試みけるに、侯は簾(ス ダレ)屏風の内より御覧あり、用人役平賀蔵人其側に侍しけり、江漢命(メイ)に従ひて、先づ和美人を描き、 次にこれと一対の美男子を描く、侯はいと興に入りて、自ら其画を持ち簾屏風の内に入れり、是れより 筆を縦横に揮ひ、種々のものを描きて御感に預りしと云ふ。江漢既に名を成して洋画家の聞え都雛に喧 (*カマビス)し、若うして漢学を研修し、和漢の画法を会得し、了りて更に洋画の深趣を解す、されば其見 識尋常画家の比にあらず。江漢、唐和画家が富士山を画くを評するの言に、我国の画家に土佐家、狩野 家また近来唐画家あり、富士山を写す事をしらず。探幽富士の画多し、少しも富士に似ず、只筆意筆勢 を以てするのみ、又唐画とて日本の名山勝景を図する事能(*アタ)はず、名も無き山を画きて山水と称す、 唐の何と云ふ景色(ケイシヨク)、何と云ふ名山と云ふにもあらず、筆にまかせておもしろき様(ヨウ)に、山と 水を描きたる者なり、是は夢を画きたると同じ事なり、見る人も描く人も、一向理(リ)のわからぬと云 ふものなりと、其意見少しく偏するの嫌ひを免れずといへども、探幽を眼下に見、和唐の画家を論殺し 去るのところ、最も其識量のあがれるを見る。江漢は斯くの如く和漢の画法に達せり、殊に洋画に於て は、これを我国に伝へし始祖にして、今日の洋画家たるものは、一日も江漢の功労を忘却すべからざる なり。江漢又理学に通じ、哲理思想に乏しからず、人間の一生涯を論じて、それ人間の小慮を以て瞻(ミ) れば、一生は永き夢、天の大理を以て視る時は、実に短き夢、夢を夢と思はぬうちこそ、人間の境界な れ、我は夢も覚めかゝりて、何事にも迷はざればおもしろからず、さつぱり覚めては夢もむすばず、此 の世は夢の迷の中なれば、吾も夢中の人、向ふ人も夢の人、只迷ひ惑ふ事のみをして、是を楽しみ、或 は苦しみ、亦(*マタ)歓び患ひて、此の世に居るうちは、懼(オソロ)しき夢を見ぬ様にして安居すべし、大 なる歓楽をする時は、必また大なる困(*ママ)み心配あるなれば、其(ソノ)度(ド)を能く考ふべき事なり、 名利とて此の二に迷ふ事なれば、爰を知り給へ、巨万の富貴も、名の高く聞える人も、一世の中の事な り、釈迦も孔子も名にみ残りて、其人なし、わが子、われ一人の者に非ず、夫婦の間より生ず、子また 孫を生ず、孫また曾孫(ヒコ)を生ず、漸々血脉の遠く浅く淡くなりて、末に至りては悉く他人となる、然 れば他人皆われなりと云へり、又儒者なるものを評して、今の儒者は儒者にあらず、躬の持ちやうも知 らず、大酒を呑み放蕩不埒者なりと誹(ソシ)る事なり、是は甚(ハナハダ)間違なり、儒者と云ふ者は、漢の 字を能く知り、読みがたきをも能く解し、和歌をも漢文とし、又は聖経をも能く解し、聖人の心を譬(* タトヘ)て以て教示し、講釈すれば俗人は聖人の行を為(ス)るやうに思ふは甚間違なり、聖人の道を行ふは 儒者のあづかる所にあらず、是は人による事なり、いかほど利口にても邪悪の人あり、又愚にても聖人 のふるまひの人あり、文学を能く知り学者と他より誉らるゝ人にても、一向に理の分らぬ人あり、数万 巻の書を読み、博識なりと云はるゝ人にても、聖人の意を知らざる者あるなり、故に聖経を以て、其の 道を儒者に能く聴き、己に能く得(エ)て躬に行ふ者を、真の儒者と云ふなり、然れば世にある渡世儒者 の事には非ずと知るべしといへり。江漢が思想大率(*オオヨソ)斯(*カ)くの如し、其当時にありては寔(マコ ト)に得難(エガタ)きの卓識と謂ひつべきなり、其他江漢が釈子・孔子・老子三家の学説を区別するとこ ろ、仏教の経義を論議するところ、若(*モ)しくは宇宙人間を解釈するところ、宛然哲学者の如し、江 漢が学者としての伝記は、本伝の関するところにあらざれば、多くは略して記さず、只(タダ)其(ソノ)一 二を記して、本伝の副とし、其人となりの、一端を示すになん。江漢晩年に至り諸侯の召あれども、敢 て其聘に応ぜず、悠々山水を楽しみ、四方に漫遊し名山勝水を瞻(ミ)ては家に帰りて画に摸(モ)し、又 己の天文地転の説を歓び、聞くものに向ひて窮理を談じ、超然として凡俗を脱しぬ。江漢、文政元年十 月歿す、年七十二。因(*チナミ)に云ふ、江漢と云へる号は、己が祖先は紀州の人なりしにより、紀の大河 日高河、紀の河にちなみ洋々たる江漢は南の紀なりと云ふ、句より江漢と号せしとぞ〟