Top            『浮世画人伝』          浮世絵文献資料館
   浮世画人伝              は行             
  『浮世画人伝』関根金四郎(黙庵)著・修学堂・明治三十二年(1899)五月刊   (国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)     ☆ はりつ おがわ 小川 破笠    ◯『浮世画人伝』p21   〝小川破笠(ルビおがわはりつ)    小川破笠は江戸の人にて、名を観(クワン)と呼び、夢中菴また卯観子(ウクワンシ)と号し、通称平助、俳名を    宗宇と云ひき。美人の図の浮世絵を多く描きしが、専門とする処は、蒔絵なりき。印章に尚行の文字あ    るは、実名か画号か詳ならず、後年、津軽侯に仕へしが、延享四年六月三日、病に臥して遠行せり。時    に歳八十七、親しき友は、一蝶其角嵐雪などにて、最も磊落なる一奇人なりきと。其奇人なりし事は、    其角嵐雪と醉倒(スヰフ)したる自画讃にても知られたり〟    ☆ はるのぶ 春信     ◯『浮世画人伝』p121 「葛飾北斎系譜」〝春信 北渓門人定岡〟    ☆ はるのぶ すずき 鈴木 春信    ◯『浮世画人伝』p41   〝鈴木春信(ルビすゝきはるのぶ)    鈴木春信も、重長の門人にして、明和の初めより、美人画に名を得たりしが、当時新年の略暦を、彩色    五六遍して、美麗に摺(スリ)搨(ウツシ)する事ありければ、春信がかける絵にも、又之を応用して、大に行    (オコナ)はれ、これより錦絵の称起れりといふ。されども、そが門人にて、始め春重(ハルシゲ)といひ、後    に洋画の法をかき初めたる、司馬江漢が後悔記といふ書に、「其の頃鈴木春信といふ浮世絵師、当世の    女の風俗を描く事を妙とせり。四十余にして病死(ビョウシ)しぬ。予、此の似せ物を描きて、版行に彫り    けるに、似せものといふものなし、世人我を以て、春信なりとす。予、春信に非れば、心伏せず。春重    と号して、唐画の仇英、或ひは周臣等の彩色の法を以て、吾国の美人を画く。夏月(カゲツ)の図は、薄    物の衣、裸体の透き通りたるを、唐画の法を以て画く。冬月の図は、茅屋に篁めぐり、庭に石燈籠など    皆雪にうづもれしは、淡墨(ウスズミ)を以て、唐画の雪竹の如く隈(クマ)どりして、且(カツ)其頃より、夫人    髪に髱(タボ)さしと云ふもの始めて出来、爰に於て髪の結ひ風、一変して之を写真して、世に甚(*ハナハ    ダ)行はれける、吾名この画のために失はんことを懼(オソ)れて、筆を投じて描かず云々」と見えき。か    ゝれば、後世、春信の絵とて、もてはやすものゝ中には、江漢の偽筆も多くあるにや、さらば、春信が    錦絵における名誉は、なかば江漢の功なりけらし。又一説に、春信は気魄(キコン)高尚にして、生涯俳優    の像を画かず、予は苟(イヤシク)も日本画師なり。いかでか、賤者の肖像を描かんと云へりとぞ、されども、    近時、故斎藤月岑氏の所蔵に、俳優市村家橘が、業平に扮する、大谷十町が、角力に扮する画とを蔵せ    り。此の説もいかゞ、唯(*タダ)春信は、多く俳優を画かざりしにや。兎にも角にも、此の道の高手(カウ    シユ)にして、世に普(アマネ)くもてはやされし程に、さま/\附会(フカイ)張大(チョウダイ)の説も出来にけむ。    さて春信は、明和七年の六月十五日、四十六才にて歿せりといふ〟    ☆ はるまち こいかわ 恋川 春町 初代    ◯『浮世画人伝』p53   〝恋川春町(ルビこひかわしゆんてう)    春町は松平丹後守の留守居役にして、俗称を倉橋寿平といひ、格寿山人と号す。其の恋川春町と著名    (チョメイ)するは、小石川春日町に住めればなり。画を鳥山石燕に学び、又戯作を能くし、自作の黄双紙を    数多著せり、就中(トリワケ)安永四年に上梓したる『金々先生栄花夢』又其翌年にものせし『高慢斎脚行日    記』『詩句市窓』など、其冠たる者ならん、左れば春町は画より反て戯作に名を挙げたる者なり、又狂    歌をも能くし、酒上不埒と狂名せり。享年四十六にして、寛政元年七月七日歿す。法号寂静院廓誉湛水、    四谷新宿裏通浄覚寺に葬る、其墓標の左に辞世を刻せり      生涯苦楽四十六年 即今脱却浩然帰天〟    ☆ はるまち こいかわ 恋川 春町 二代(喜多川歌麿二代参照)    ◯『浮世画人伝』p69 「喜多川歌麿系譜」   〝二世 歌麿    初名不詳、二世恋川春町ノ号ヲ嗣ギ、後ニ初代歌麿ガ寡婦ノ夫ト成テ、二世ノ名を襲フ、天保ノ頃錦絵    ヲ画クニは甚拙ナリ〟    ☆ ばんう つきおか 月岡 幡羽(月岡雪僊参照)    ◯『浮世画人伝』p74 「堤等琳系譜」   〝幡羽     月岡と称す、俗称庄五郎、後革嶋雪亭の門に入、雪僊と改む。金吹町に住す、関宿藩の画師なり〟    ☆ ひろしげ うたがわ 歌川 広重    ◯『浮世画人伝』p99   〝一立斎広重(ルビいちりふさいひろしげ)    一立斎広重、俗称は安藤徳太郎、後に十兵衛、また徳兵衛と改む、幕府の小吏なりき。初め大鋸町に住    居し、後に常盤町に転ぜり。広重は初代豊国の門に、入らんとせしかど、門生満員をもて謝絶せられ、    更に豊広が門に入りて、技芸熟し大に画格を変案して、遂に広重流を創意し、名所の真景を描くに妙を    得たりき。増補浮世絵類考に、広重は同僚の士、岡島林斎に就きて、狩野家の絵画を、学ぶとあるは非    なり。    さて広重が物せしうち、最も佳作の聞えあるは、東海道五十三次、諸国百景、江戸百景等の錦絵是れな    り。又草筆の画譜類数部を板行す。皆世に行はれたり。広重剃髪せしは、天保年中なりき。安政五年九    月六日、時疫(ジエキ)に罹(カカ)りて歿す、時に六十二歳、浅草松山東岳寺に葬る、法名顕功院徳翁立斎    居士、明治十五年四月、門人等相謀りて、碑を墨江須崎村秋葉神社境内に建立す。三世広重其背面を草    筆に写し上に、      東路(アヅマヂ)に筆をのこして旅の空にしのみくにの名所を見む    こは広重が辞世の句なり、あるは云ふ、後人の作ならんと〟    ☆ ぶんちょう いっぴつさい 一筆斎 文調    ◯『浮世画人伝』p54   〝一筆斎文調(ルビいつぴつさいぶんてう)    一筆斎文調は江戸の人、本所亀沢町に住めり、斎藤月岑が随筆『蜘之糸巻拾遺』に宝暦年中より、歌舞    伎役者を画き創るもの、文調、続きて勝川春章、春好、春英等なりとあり、されば俳優の似顔を画きし    は文調を以て嚆矢とす。文調の画艶麗にして能く其当時の風俗を写せり、俳優の似顔にては二代目中車    (市川八百蔵)を画くに最も妙を得、殆ど真にせまりて口を開き、物云はんとするの風情ありきとぞ。    文調また狂歌をよくし、雅号を頭之光と号したりき〟    ☆ べいし ほうざん 逢山 米之        ◯『浮世画人伝』p56 「勝川春章系譜」〝春雪(春亭門人)後ニ逢山米之ト云フ〟    ☆ ほうりゅう ごせだ 五姓田 芳柳    ◯『浮世画人伝』p128   〝五姓田芳柳(ルビごせいだはうりう)    五姓田芳柳は、幼時岩吉、源二郎、伝次郎、弥平次、半七、芳次郎、芳之助、重次郎の数名あり、後年    芳瀧と称し、大阪遊歴中、東大輔と改称す、無名子、詠化亭緑翁、五柳の数号あり、紀州藩の人浅田富    五郎の次子にして、文政十年二月十日、江戸に生れき。七歳にして、秋田藩の浪士本多庄兵衛の養子と    なり、十三歳にして、久留米藩の人猪飼兵衛の養子となり、又同藩人森田弥左衞門の養子となり、右三    家を出でゝ、後遂に仙台藩の人吉沢金之助の義弟となりて吉沢氏を嗣ぐ、幼より五家の姓を冒し来りし    をもて、自ら五姓田と称せり。芳柳十四歳の時、国芳の門に入りぬ、国芳歿後、鹿島藩の画家樋口守保    に従ひて狩野家の画風を学ぶ、芳柳と号せしは此時よりなり。明治六年、横浜に移住し、倭絵に洋画の    光線写法を応用して、当世の人物を絹本に画くことを工夫せり。同年、赤坂皇居に召れて辱(*カタジケ)な    くも、至尊の御肖像を臨写し奉りて、画家たるの面目の施せり。同十年、西南の役には、陸軍々事病院    に雇はれ、重傷の患者数百名を写し、第二内国勧業博覧会に軍事病院施療切断図を作りて出品せり、同    十五年、浅草公園地の自宅に光彩舎と云へるを起して、専ら人物の肖像を臨写するに至りて、画業盛々    繁昌を極めたり。芳柳、常に大酒に耽る癖ありて、顔色朱に注げるが如く、真白の美髯(ビゼン)胸を蓋    (*オオ)ひ帯に逼る、老て益々壮に矍鑠(カクシャク)として、異風の掬(*キク)すべきものあり、尋常画家の比    にあらず、同二十五年二月一日歿す、歳六十五〟    ☆ ほくうん 北雲     ◯『浮世画人伝』p121 「葛飾北斎系譜」〝北雲(北斎門人)東南四(ママ)〟    ☆ ほくおう 北黄     ◯『浮世画人伝』p121 「葛飾北斎系譜」〝北黄(北斎門人)二世画狂人〟    ☆ ほくが かつしか 葛飾 北雅    ◯『浮世画人伝』   ◇「富川吟雪」の項 p51   〝吟雪歿後、門人妙之助山本氏、二世吟雪と号せしが、后(コウ)北斎の門に入りて、北雅と改む〟     ◇「葛飾北斎系譜」p121 「葛飾北斎系譜」〝北雅(北斎門人)二世富川吟雪〟    ☆ ほくが 北鵞     ◯『浮世画人伝』p121 「葛飾北斎系譜」〝北鵞(北斎門人)名政周、号卍楼費蔭、通称岸本庄七、本所番場ニ住〟    ☆ ほくさい かつしか 葛飾 北斎    ◯『浮世画人伝』p108 「葛飾北斎系譜」   〝葛飾北斎(ルビかつしかほくさい)    北斎は、初め勝川春章に就きて、春朗と称せしなり。幼名は時太郎、後に鉄太郎と改め、又八右衛門と    も名告りぬ。画名は春朗の外に、辰斎、雷斗、雷信、戴斗、錦袋舎、是知翁、為一、画狂老人、魚仏、    群馬亭、卍翁の数号あり。是等の号は、いづれも門人等に授けて、己れ幾度も其の号を換へたるによる。    本姓は中嶋氏にて、その葛飾と称せしは、江戸本所に生れしを以てなり。父は中嶋伊勢とて、幕府用達    鏡師なりき。母は吉良上野介義央の家臣小林平八郎とて、武芸絶倫の聞えありしが、孫女とかや。平八    郎は、元禄十五年、赤穂の義士復讐の夜に、防戦して斃(タオ)れしが、この時八歳なる女子一人あり、吉    良家滅亡の後、親戚に寄りて成長し、他家に嫁して女子を生めり。此の女子中嶋伊勢の妻となりて、宝    暦九卯年正月三日、本所割下水の家に北斎を生みたり。    北斎幼児、狩野融川に就きて画を学び、天稟の意匠ありて、往々人を驚かしき。寛政の始め、融川、日    光廟の修営にさゝれて門人等を率て下りしが、北斎、少年にして亦その中にあり。途上宇都宮の旅亭に    宿りし時、亭長、画を融川に請へり。融川、やがて一童子の、竿をあげて高き梢の熟柿を落さんとする    図をなせり。北斎、側にあり、之を熟視し、退きて同門の徒に語りけるは、此の図、童子が持てる竿の    端ほと/\柿子に近づく、今すこし踵(キビス)をあげなば、達すべし。師の君、何ぞ画理に疎きやと、門    生密かに之を融川に告ぐ、融川、怒りて云はく、余初めより、然(シカ)心づかぬにあらねど、全く童蒙の、    無智無心なる体を写さむが為なるを、未熟の輩(ハイ)深くも察せずして、妄(*ミダリ)に師を誹譏(ヒキ)する    よと、執拗して聴かず。遂に北斎を逐ひて、師資の緣を絶ちぬと云ふ。此の後しばらく、住吉内記広行    に従ひ、又洋画の法を、司馬江漢に学びしが、終に勝川春章に就きて、浮世絵の風をならひ、後又不和    の事ありて、其の門を脱し、叢春朗と称せり。其の後天明七年、北斎廿八の時、俵屋宗理の遺跡を続ぎ    て、二世菱川宗理と称したりき。是よりさき、春朗と号せし頃は、俳優の小照をも画きしが、宗理の名    跡を継ぎしよりは、専ら自重して、品格よき画題をのみ撰みたりとぞ。されば、北斎の画は、当時坊間    の需求少く、随ひて窮困甚しくなり、果ては操(ミサオ)も作りあへず。さりとて既に家産を破り、別に営    むべき活業もなきまゝ、浅ましくも七色唐がらしを売り、市中を呼びありきしに、是れさへ買ふ者少く、    僅かに両日にして止みぬ。次に柱暦を売りありきしが、生憎なるかな、浅草蔵前の町に於て、兼ねて不    和なりし、春章夫婦に行き合ひたるに、北斎進退谷(キハマ)り、汗水になりて、赤面せし由、此の二事は、    北斎晩年に至り、親しく山口屋藤兵衛といふ、書肆の主人に語りしを、藤兵衛のちに物語りぬ。かゝれ    ば、一度は断然画筆を擲(*ナゲウ)ちて、業を転ぜんと覚悟せしに、たま/\人あり、五月幟(ノボリ)の画    を誂へたり。仍(*ヨリ)て、紅もて鍾馗の像を描き与へしに、筆勢非凡なりとて、その人いたく喜び、謝    金弐両を贈りたり。北斎その意外なるに驚き、且喜びて、是れより亦(マタ)志を励まし、絵画に従事して    独(*ヒトリ)つらつら按ずるに、かくまで貧困に迫り、家道立ち難くなりにしも、畢竟(ヒッキョウ)わが画術の    未熟にして、世に知られざればなりとて、柳嶋妙見菩薩に立願し、遠きをも厭(イト)はずして、日々に参    詣しつゝ、家に帰りては、画事の工夫に余念なかりき。是よりさき、堤等琳の画風を慕ひ、門人宗二に    宗理の名跡を譲りて、之を三世宗理と呼ばせ、己れ別に画風を創(ソウ)して、北斎辰政と改称せり。蓋(ケ    ダ)し平常、北辰妙見を信ずるによるならん。此の時、更に和漢の古風に法(*ノット)り、諸名家の妙を萃    (*アツ)め、洋画の写真をも参へて、浮世絵中に新規の骨法を剏(*ハジ?)めし也けり。時に寛政十一年、    北斎四十才の程なりき。これより錦絵を描かず。その後も、絶えず柳嶋へ詣でしが、ある夏の夕ぐれ、    驟雨(シュウウ)霹靂(ヘキレキ)、落雷にあひ、北斎驚き堤(ドテ)下の畠中に陥(オチイ)りたり。然れども、此れい    よ/\、雷名の揚るべき兆(チョウ)ならんと、心に勇みて号を雷斗と改め、後此の号を、女婿柳川重信に    譲りて、戴斗と云ひしが、これをも門人北泉にゆづり、また画狂人の号を、北黄に譲り、北斎の号をも、    橋本庄兵衛といふに譲りて、後は前北斎為一と称せり。此の前後、北斎の門に入りて画を学ぶ者夥(オビ    タダ)しく、一々扮(ママ)本を描き授くるに遑あらずとて、書肆角丸屋某に謀(ハカ)りて、画手本数十部を    版行せり。中にも「北斎漫画」の如き、新意絶妙にして、普く世にもてはやされ、書肆の嬴利量るべか    らずと云へり。(【後此の版尾張の永楽屋東四郎が蔵となれり】)    当時曲亭馬琴、柳亭種彦等が、戯作の艸子(サウシ)に、挿画を請はれしも少なからず。中には、北斎が名    画のために、書籍の声価を増したるもありきと聞ゆ。元来北斎は、尋常浮世絵師の流ならねば、往々自    己の意匠のまゝに筆を揮ひ、作者の誂へに従はず。さしもの曲亭すら、遂に己れを屈して、彼れに従ふ    に至りにき。そは馬琴が「三七全伝南柯夢」を著したる時、例の挿画を北斎に需めたり。然るに北斎、    三勝半七が情死をはかる所を描き、傍に、野狐の食をあさるかたをかき添へて、馬琴の許へ送りけるに、    馬琴一見眉を顰(ヒソ)めて曰く。是れこそ蛇足なりれ。かくては、この男女、ただ野狐に誑迷せられしに    似たり。此の狐を除かざれば、情死の趣向見ゆべからずと、その旨を使者に含めて、その画を北斎の許    に返しけるに、北斎拂然(フツゼン)としていふやう、彼れ馬琴の著は、余が画筆のために、光彩を放つを    しらずや。強ひて余の画く所に容啄(ママ、ヨウタクのルビアリ、容喙(ヨウシ)?)せんとならば、自今(ジコン)彼が著    書には、筆を染めじと憤(イカ)りければ、版元たる書肆、双方に奔走して、馬琴を宥め、北斎を慰めけれ    ば、両人遂に和解せり。其の後、馬琴「絵本水滸伝」を著しゝが、挿絵の様態につきて、又北斎と意見    を異にし、双方確執して聴かざりしかば、版元たる者、大に困じて、遂に江戸の書肆一統を、某所に会    し、衆の意見を問ひたりけるに、皆いふやう、馬琴の文、北斎の画、素より伯仲しがたし、然れども、    本書は絵本水滸伝と題し、既に絵本と冠するからは、画工の意に任すべきにやと、仍(ヨ)りて此の旨を    馬琴に通ぜしかば、馬琴苦笑して、しぶ/\に諾(ダク)しつといふ。    是のみならず、北斎が絵事につきて、世語りに伝ふるものあまたあり。文化元年四月十三日の事かとよ。    音羽護国寺に於いて、観世音の開帳ありし時、堂前の広庭に、麦稗を市(シ)き、上に百廿畳継(ツギ)の    大紙を延べ、四斗納(イリ)の酒樽数個に、墨汁を湛(*タタ)へ、藁箒(*ワラボウキ)の大なるを筆に代へて、恰    も落葉を掃ふが如く、之を擁して紙上に走り、右(カ)ゆき左(カク)ゆき、忽ち異様の山水めく図をなせり。    然れども、観者(ミルモノ)その何たるを認め得ず。北斎、衆をさし招きて、堂上に昇れといふ。いふがまゝ    に、高欄に凭(*ヨ)り観下(ミオロ)せば、是れなむ半身の達磨なりける。其の大さ、口に馬を通(ツウ)すべく、    目に人坐して余りあり。しかも筆勢非凡、健腕の程現はれて、人々あと叫ぶこゑ、暫しは鳴りも止まざ    りきとぞ。此の後、又本所某市の、広場に於て、紙筆かたの如く敷設(フセツ)して、逸馬の大画を試み、    看者の魂を奪ひたる事もありき。かゝる曲筆妙技聞え、世上に高くなりにしかば、市井の画工にしては、    無上の栄誉を博したる事もありき。そは徳川十一代の将軍、文恭院家斉公、ある時放鷹のかへるさに、    北斎を御座近く召されて、席画を命ぜり、此時、北斎、鶏趾に朱を塗り、点々紙上に投じて、紅葉のち    りかふに擬し、聊(*イササ)か筆を加へて、龍田川の秋色を描けり。此の外、鶏卵酒器の類を筆に代へて、    種々の物態を画くに、咄嗟(トッサ)の意匠、奇を極め、妙を尽くして、大に感賞を蒙れり。北斎の名画は    当時既に海外人にも知られて、長崎に渡来の蘭人、頻りに彼れが筆跡を購(アガナ)ひ求めき。されど三年    程ありて、官禁を蒙れり。    北斎の性質行状を按ずるに、平生素朴謙遜にして、自ら傲(ホコ)らず。然れども意を枉(マ)げて、人を諛    (ヘツラウ)ることなく、頗(スコブ)る侠任(ケフニン)の風あり。曾て同業者歌川豊国が、両国辺の某楼に於て、    書画会催しゝに、たま/\風雨烈しく、参会する者極めて少し。独り北斎、蓑笠にわらんじはきて、葛    飾の百姓が参り候ふぞと。案内いひ入れ、席に上りて終日筆を揮ひたるとぞ。又随分に奇癖もありて、    世のすねものなりけらし。家の表札には「百姓八右衛門」としるし、壁に「おじぎ無用、みやげ無用」    とかきて張りたり。又家を移す癖あり、生涯八十七度におよび、甚だしきは一日の中両三度、移り住み    たる事もありき。是れ新居の四隣に、厭はしきものある時は、片時も忍ぶこと能はざりしによるとぞ。    その移り住める家は、いづくにもあり。絶えて清掃する事なし。席上常に臥具を敷きて、昼夜その中に    あり、眠りを催す時は、衾(*フスマ)を引かつぎて臥し、覚むれば筆を執りて絵をものす。衣食の美、素    (モト)より好まず。人の鮮魚を贈るがあれば、割烹の煩ひありとて、そのまゝ貧民に取らせけり。調度器    財、はた貯ふる所なし。仏壇だになかりしを、書肆山口屋藤兵衛より、ある時一箇の仏像をもらひうけ    て、喜びながらも、安置すべき所なければ、遂に春慶ぬりの重箱といふ器を、横さまに、釘して取りつ    け、其中にぞをさめたる。その画名天下に轟くに至りても、かくひたすら清貧を楽しみ、名利を欲せざ    りしこと、頗(スコブ)る古隠者の風ありき。    ある時の事とぞ聞く。三代目尾上菊五郎(始栄三郎、後梅寿)当時俳優中の巨擘(キョハク)にして、傲気    (ガウキ)人を凌ぐ。曾て幽霊の画を欲して、北斎を招けども、例のすねものなれば、俳優を賤業者と卑み    て行かず。梅幸やむを得ず、駕輿(カゴ)うちはへて彼れが茅屋を訪ひたるに、室内の不浄いはん方なし。    梅幸元来潔癖あり、しばしも得(エ)堪(タ)へず。駕中の氈をとりて、席に敷かんとす。北斎その不礼なる    を怒り、背きて一語も発せざりしかば、梅寿も眼を恚(イカ)らし、遂に語を交へずして去りぬといふ。    北斎の妻をことゝ云ふ。文政十一年六月五日、夫に先だちて歿しき。一男三女あり。北斎また文雅の才    あり。小説戯作を好みて、時太郎可候、また是知斎魚仏とも名告り。又狂句にも巧なりき。    一男は、幼少多吉郎といふ。幼き時、故有て本郷竹町の市人、勘助といふものに養はれ、長じて幕府の    御家人、加瀬某の嗣子(シシ)となり、喜十郎となのりて、御小人目付より、累進して御天守番までなり昇    れり。年ごろ俳諧を楽みて、葛飾蕉門の宗匠となり。椿岳菴木峨と号し、本郷丸山鎧坂に住せり。長女    は柳川重信に嫁せしが、不熟の事あり、家に帰りて早世し、二女は幼き程に身まかりて、三女お栄とい    ふが、北斎の老躯を介抱せり。お栄も、始め南沢等明【堤等琳の弟子】に嫁せしが、父の性質を亶(ママ    稟?)けて奇癖ありければ、離別せられて家にありき。母が没後は、家事万端、此の女の理(リ)すべきが    常なるに、さる細事(サイジ)に携はるを欲せず。剰(*アマツ)さへ食を調じ、衣を裁する事をさへ厭ひ、猶    (ナオ)麁食弊衣を恥とせず。例の室内を掃はずして、父の業をたすけ絵事を勤めて日を送れり。その画又    巧妙にして、美人を描ける、父北斎にも劣らずとぞ。誠に北斎が女なりけり。    さて北斎は嘉永二年、四月十八日、本郷丸山なる、加瀬家にありて病没せり。享年九十、辞世の句と聞    えしは、      人魂でゆくきさんじや夏の原    浅草八軒寺町(現今栄久町)誓教寺に葬る法名南総奇誉北斎信士とす、刊行せし北斎の画帖は北斎画式、    北斎画筆、北斎漫画、北斎画譜、北斎画鑒、北斎麁画、略画早稽古、略画早指南、略画早引、戴斗画譜、    戴斗三体画譜〟    ☆ ほくじゅ 北寿     ◯『浮世画人伝』p121 「葛飾北斎系譜」〝北寿(北斎門人)薬研堀ニ住ス〟    ☆ ほくしゅう 北洲     ◯『浮世画人伝』p121 「葛飾北斎系譜」〝北洲(北斎門人)大阪ノ人〟    ☆ ほくすう 北嵩     ◯『浮世画人伝』p121 「葛飾北斎系譜」〝北嵩(北斎門人)閑々楼闌(*ママ)斎、本郷ニ住ス〟    ☆ ほくせん 北泉     ◯『浮世画人伝』p121 「葛飾北斎系譜」〝北泉(北斎門人)二世戴斗〟    ☆ ほくせん 北僊     ◯『浮世画人伝』p121 「葛飾北斎系譜」〝北僊(北斎門人)月江亭、尾州名古屋ノ人〟    ☆ ほくたい 北岱     ◯『浮世画人伝』p121 「葛飾北斎系譜」〝北岱(北斎門人)浅草ニ住〟    ☆ ほくば ていさい 蹄斎 北馬    ◯『浮世画人伝』   ◇「葛飾北斎系譜」p121 「葛飾北斎系譜」〝北馬(北斎門人)蹄斎〟         ◇「蹄斎北馬」の項 p124   〝 蹄斎北馬(ルビていさいほくば)    北馬は本姓星野氏、俗称有阪五郎八と称し、駿々亭と号す。天保年間下谷二長町に住み、御家人の隠居    なり。蹄斎、幼き頃より画才ありしが長じて、北斎を師と仰ぎ、馬琴、振鷺亭、蘭山等の小説の挿画を    かきて名を顕せり。戯れに左筆を揮て曲画を作り、又彩色に巧なるを以て、谷文晁に愛せられ、密画の    模様を手伝ひ、奇才の聞え高し、晩年薙髪して、浅草三筋町に移り、弘化元年八月六日、七十四歳にて    歿す、一子を二世北馬と称し、門人遊馬、逸馬もまた善く蹄斎の風を守れり〟    ☆ ほっけい ととや 魚屋 北渓    ◯『浮世画人伝』   ◇「葛飾北斎系譜」p121 「葛飾北斎系譜」〝北渓(北斎門人)拱斎〟     ◇「魚屋北渓」の項 p125   〝魚屋北渓(ルビうをやほくけい)    北渓、名は辰行、通称岩窪金右衛門、また初五郎と呼び、拱斎また葵園と号しき。始め狩野養川院(養    川名は惟信、号玄之斎、文化五年正月十三日歿す、歳五十六)に画を学び、後、北斎の門に入て、浮世    絵をものし、落欵に魚屋北渓と記せり、(※一字未詳)は固(モト)松平志摩守の用達町人にて、魚商なれ    ばなりと。北渓の住居は四谷鮫橋なりしが、晩年赤阪永竹町代地に転じ、専ら師の画風に傚ひ、狂歌摺    物の画を認め、世に知られしが、一見識ありて、俳優画は一回も描かゝざりしと。著す所の『北渓漫画』    『吉原十二時』の挿画など高評を博したるものあり。嘉永三年、歳七十一にして歿す、墓は青山立法寺    にあり。      あつくなし寒くなし又うゑもせず憂きこときかぬ身こそやすけれ    此狂詠、北渓の辞世なるや、碑の裏面に刻せり〟