Top            『浮世画人伝』          浮世絵文献資料館
   浮世画人伝             あ行              
  『浮世画人伝』関根金四郎(黙庵)著・修学堂・明治三十二年(1899)五月刊   (国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)     ☆ いさい かつしか 葛飾 為斎    ◯『浮世画人伝』p121 「葛飾北斎系譜」   〝為斎 葛飾ト号ス、外神田ニ住シ、後ニ本所小梅村ニ移リテ卒ス、姓ハ神尾氏ニテ、文政六年四月廿二    日、於西丸、松平外記ノ為、軽傷ヲ負タル神尾五郎三郎ガ子ナリ〟
     ☆ いっけい はなぶさ 英 一珪    ◯『浮世画人伝』p17 「英一蝶系譜」   〝一珪 本所法恩寺橋ニ住、天保十四年十二月廿一日歿ス。歳八十六、二本榎顕乗院ニ葬〟    ☆ いっしゅう はなぶさ 英 一舟    ◯『浮世画人伝』p17 「英一蝶系譜」   〝一舟    初代一蝶門人、名信種、号東窓翁、俗称弥三郎、後ニ一蜩ノ養子ト成テ師家を相続ス、明和五年正月十    七日歿、二本榎顕乗院ニ葬〟    ☆ いっすい はなぶさ 英 一水    ◯『浮世画人伝』p17 「英一蝶系譜」   〝一水    一蝶晩年の門人、本姓佐脇道賢、号一翠斎、后ニ嵩之と更ム。俗称甚蔵。明和九年七月六日歿、六十六、    誓願時寺地中、称名院ニ葬〟
      ☆ いっせん はなぶさ 英 一川    ◯『浮世画人伝』p17 「英一蝶系譜」〝一川 二世一舟男〟    ☆ いっちょう はなぶさ 英 一蝶    ◯『浮世画人伝』p9 「英一蝶系譜」   〝英一蝶(ルビはなぶさいつてふ)    英一蝶は、多賀氏、名は信香(ノブカ)、又安雄と称す、幼名は猪三郎、通称は助之進、又次右衛門と呼    べり。承応元年大阪に生る。父は多賀伯庵と称し、某侯の侍医なりき。一蝶幼児より絵事を好み、寛文    六年江戸に来り、当時高名の画家、狩野安信の門に入りて、絵画に励精せり、後土佐家の趣を折衷し、    尚ほ又兵衛、師宣等の筆意に倣ひ、自ら一家をなしぬ。されば其本領は狩野の正風にあるも、亦(マタ)浮    世絵に巧なりき。一蝶は藤原姓なるを以て、初年の作には藤信香の落欵(ラッカン)を用ひたり。然れども、    此時、未(イマダ)画名高からず、後剃髪して潮湖と称するに及び、意匠艶麗清新にして、別に一趣向を具    (ソナ)へ、愈々精妙の域に進めり。    潮湖、画名日に高し、これによりて元禄七年四月二日、幕府、六角越前守に内命を伝へ、金屏風に芳野    立田の真景、及、四季耕作の倭(ヤマト)人物を描かしむ。こは徳川五代将軍綱吉の母堂、桂昌院より本願    寺に、寄附の料なりとぞ。元禄十一年は、潮湖四十六歳の、書筆入神時期にして、其(ソノ)尤(モットモ)意    匠を凝らせしものは、百人女臈(ジョロウ)と題する絵本是れなり。この絵本は村田半兵衛、仏師民部の両    人と謀りて、出板せしなり。同年の十二月、潮湖遠謫の刑に処せられき、其遠謫の場所に付き、三説あ    り。其伊豆の大島ならむと、主張するものは、江戸真砂(マサゴ)六十帖に、和応(潮湖の別号)は本石    町三丁目村田半兵衛、仏師民部と謀り、百人女臈を出板せし科に依て、三名共に伊豆大島に、流さると    あるに拠れるならん。他の二説は、一は三宅島と云ひ、一は八丈島と云ふ。其八丈島と云ふものは、画    乗要略に、潮湖離別に臨み、悲歎して曰く、我、今遠き孤島に赴く、生死測る可からず。又数々音信を    通ずること能はず、然れども、八丈島の産、乾鰺(モロアジ)は江戸に輸出すること、多きを以て、数箇の    乾魚苞中(ホウチュウ)に、竹葉を挿(ハサ)むもの有らば、潮湖が存生なるを知るべし、とあるに拠れるならむ。    其三宅島なりと、断定するものは、浮世絵類考に拠るなり。右三説中いづれが、真ならん、未定かなら    ず。姑(シバ)らく疑ひを存じて、好事の士の精密なる考証を俟つ。    偖(*サテ)また其遠謫(エンチヤク)の原因に付きても、種々説あれども、百人女臈の絵本出板が其原因たるこ    と、最も真に近く、これは何人も殆ど疑ふものなかるべし、今其顛末を記述せんに、将軍綱吉、華美の    遊興を好み、また数多の嬖妾を蓄へて、紅閨に名花を飾れり、中にもお伝の方と云へるは、黒鍬組の白    須才兵衛(【初め十五俵一人扶持の小身なりしが、後年、旗本の士に昇進し、遠江の守に任ぜらる】)    の娘にして絶世の佳人なりければ、将軍の寵愛、特(コト)にいちじるく、常には三の丸に住(スマ)はせて、    花の中の花とぞ看められける。此お伝の方、諸遊芸に長じ、特に小鼓に妙を得たり。或時は吹上庭園の    瑶池に小舟を浮かべ、将軍自ら、棹さしつゝ謡曲をうたひ玉へば、お伝の方其側に侍して、小鼓を打鳴    らし、君の謡曲に調子をぞ合せける。其楽み限りなくやありけむ。後には此遊び毎日の如くなりにき。    されば誰言ふとなく、江戸市中此噂知らぬものなかりき。潮湖が画ける百人女臈の絵本中、当時専ら風    聞せる、小舟に乗じて小鼓を打ち、櫂に勇む貴人美姫の絵ありしより、忽ち官の知るところとなり、奉    行所に召し捕られ、暗に将軍の娯楽を写したるものと見為(ミナ)され、罪の表は陰に殺生の禁令を犯せし    者として、遠謫の刑に処せられたり。是れ実に元禄十一年十二月の事なりけり。    潮湖既に流刑に処せられて、孤島に在り日々母を思ふの情切なりければ、自ら窓を北方に開けて(【配    処は江府の南方に当ればなり】)望郷窓と称す、これより配所にて画きしものには、北窓翁の落欵を用    ひたり。潮湖島中に在りて石塊木皮を採集して、絵具の料を製する抔(ナド)、絵事に心を用ひて、更に    怠ることなかりき。或時便船に属して、自ら謫居の図と源氏絵とを、苧衣(ウイ)に写して、老母の許に送    りたることありき。後年、横谷宗珉より、三谷氏に伝へて秘蔵せりと云ふ。潮湖島中に星霜を経ること、    元禄十一年十二月より、宝永六年九月に至るまで、十二年間なり。此時より氏号を改めて、英一蝶と称    す。潮湖、一日前栽の草花に、胡蝶の来り戯(タワム)るを見る、其時偶々赦罪の快報に接し、喜びの余り    一蝶と改名せりとなり。英とは赦罪後、母方の氏花房なりしを、英と一字に約して、改め冒すと云ふ。    一蝶遠島より還りし後、暫らく深川海辺宜雲寺に寓居せり、該寺の絵障子は悉く皆一蝶の筆に成れるを    以て、世俗この寺を一蝶寺と呼べり。後年、祝融(シユクユウ)の災に罹りて、絵障子悉く烏有に帰せしは、    実に惜むべき事なり。朝妻舟の絵は、一蝶改名後の傑作の一にして、大に世上の嘆賞を受けたり。現今    世に伝ふるものは、十の八九は贋作なるにや、書画共に拙劣なるもの多し。此絵は百人女臈を翻案した    るものならむと云へり。一蝶が浅草寺境内に於て、一日に千枚の絵画を作りし時も、此絵を望むもの多    かりしと云へば以て、其趣向の如何に時好に投じたるかを知るを得(ウ)べし。又女達磨の絵は、一蝶が    画き始めしなり。そは当時吉原の妓楼、近江屋の拘(カカ)え半太夫が、苦界を脱して、良家の夫人となり、    苦界十年の長きは、九年面壁にも、優らむと戯れ語りしを聞き、半身美人を達磨に画きて、着想の妙を    極めしは、流石に画才に長じたる人なりけりと、人々其奇想に驚かざるものなかりしとぞ。    一蝶の長所は無論、絵画にありと雖(*イヘド)も、また其他の諸芸にも暗からず、特(コト)に文才ありて、    書道は佐々木玄龍の学べり。玄龍は字(アザナ)煥甫と称し、池庵と号す、通称は佐々木万次郎、江戸の人、    文山の兄にして、当時知名の書家なりき。又俳諧は芭蕉翁に学び、其角嵐雪等は、其風流の友なりとぞ。    一蝶が作の四季の絵の跋を、一読する時は、一蝶は浮世絵に志せしを知ると同時に、如何に其抱負の勇    壮なるかを知るを得べし。而して其文章の趣きあるに至りては、彼れは文学者なるか、将(ハタ)画家なる    かを疑はしむるものあり、特に短歌に妙を得て、間々誦すべきもの尠なからず。朝妻船の短歌の如きは、    人の能く知る処なれど、事の序(ツイ)でに下に掲げん。    一蝶は美術家と文学者を兼ね、多芸の人たりし事は、既に記するが如し。今一歩を進めて、其性行と其    当時に於ける地位とを考ふるに、一蝶が老母妙寿に孝養を尽せし事は、慥(タシカ)なる事実なり。潮湖離    別に臨み、悲歎云々の話は、老母妙寿に離別の辞とぞ聞えし。斯く一蝶は、孝養の心には篤かりしも、    濁流に従ひて波を揚げし一凡骨たるの謗りは、免(マヌカ)るゝ能はざるなり。いかにとなれば、紀文奈良    茂等の如き遊客に愛せられて、多くの遊里に日を暮し、放蕩を極めし人なればなり。其花街柳巷に在り    て、俗歌の筆を弄(ロウ)するの日には、和央(カオウ)和応などの号を用ひたり。一蝶別に数号あり、即ち、    牛丸、暁雲、旧草堂、隣樵庵、隣濤庵、閑雲、蕉雪、一蜂閑人、一閑散人、翠蓑翁、義皇上人、萍雲逸    民、宝蕉、虚白山人、狩林山人等是れなり。老母妙寿一蝶に先だち、正徳四年三月病死す。一蝶は其後、    享保九年正月十三日に歿す。白銀二本榎承教寺塔中顕乗院に葬る。行年七十三歳、法号を、英受院一蝶    日意と云ふ、其辞世の歌に、      まぎらはす浮世のわざの色どりもありとや月薄墨のそら        あさつまぶね    あだしあだなみ、よせてはかへるなみ、あさづなぶねの、あさましや、あゝまたの日は、たれにちぎり    をかはして、いろを、まくらはづかし、いつはりがちなる、わがとこの山、よしそれとても、よの中、    うきねつらきの、まつちの山の風、ゆふこえくれてさゝをふね、あゝさだめなや、とこのうら波、友な    きちどり/\、たえぬおもひに、月日をおくるも、あだ人心よしあふまでの、うつりが、    あだしあだなる、身はうきまくら、ならはぬほどの、とことつゆ、あゝいく度か、そでにあまれる、な    みづのいろを、あゝたもとのいろを、みねのもみぢば、ひとりこがれて、まくらのなみだ、あはれと人    のとへかし、      朝妻船の画賛 其一    伝へ聞く美濃国、野上の里、近江のや、朝妻の江は、そのかみ遊女の初まりし処となむ、若かりし頃、    さゞなみや、東近江に渡らひ行て、鍋の数見んと、名高く伝ふ、つくまの古へなど、ながめつゞけて、    朝妻の里にもとめ到れば、畑(ハタ)うつますらを、四手ひくすなどりのみにて、なになまめきたるゆかり    も、今は絶たるに、其所に床(ユカ)の山といふ、名所打つゞきたるも、えにしありやと興じて、一曲の章    歌につゞりて、うたかた人の、口ずさみとせしも、今はむかし、      朝妻船の画賛 其二    隆達(タカタツ)がやぶれ菅笠、しめ緒のかつら、ながく伝(ツタワ)りぬ。是から見れば、あふみのや、あだし    あだ浪、よせてはかへる浪、朝妻船の浅ましや、嗚呼(*アア)またの日は、誰に契(*チギリ)をかはして、    色を枕はづかし、偽がちなる、我(ワガ)とこの山、よしそれとても、世の中〟    ☆ いっちょう はなぶさ 英 一蝶 二代    ◯『浮世画人伝』p17 「英一蝶系譜」   〝二世 一蝶    名信勝、称長八、号茎容斎、八丈島ノ産、父ニ従テ江戸ニ来ル。後ニ島一蝶と称す、元文二年十一月十    二日歿、深川陽嶽院ニ葬〟    ☆ いっちょう はなぶさ 英 一蜩    ◯『浮世画人伝』p17 「英一蝶系譜」〝一蜩 次男信祐、俗称百松、又源内、号湖雲、後ニ一舟ト更ム〟  ☆ いっぽう はなぶさ 英 一蜂 初代    ◯『浮世画人伝』p17 「英一蝶系譜」   〝二世 一蜂    初代一蝶ニ一蜂閑人ノ号アリ、故ニ二代目トス、号春窓翁。宝暦十年四月廿八日歿ス。深川法禅寺中南    龍院ニ葬〟    ☆ いっぽう はなぶさ 英 一蜂 二代    ◯『浮世画人伝』p17 「英一蝶系譜」   〝三世一蜂 二世一蜂門人、天明八年六月十二日歿、西本願寺中真光院ニ葬ス〟    ☆ うたまろ きたがわ 喜多川 歌麿    ◯『浮世画人伝』p62 「喜多川歌麿系譜」   〝喜多川歌麿(ルビきたがわうたまろ)    喜多川歌麿は、幼名市太郎、通称を勇助と称し、紫屋と号す、宝暦三年江戸に生る。初め通油町の絵草    紙舗(ミセ)、蔦屋重三郎の家に寓居し、後神田久右衛門町、馬喰町、大丸新道などに転居せり。画風は狩    野家より出でゝ、後に鳥山石燕の門に入り、別に一格を創意して、専ら浮世絵に力を尽せり。蓋(ケダ)    し錦絵の精華の域に進みしは、此時を以て始めとすべし。当時俳優の錦絵盛に行はれ、一陽斎豊国は其    最も巧なるものにして、画名歌麿の右に出る勢ありき。斯(*カ)く俳優の錦絵流行しければ、絵師は悉く    此趨勢に追はれて、錦絵は俳優の外、別に材料無きものゝ如く、人気に媚び営利に汲々たりき。歌麿、    天質剛腹一見識ある者にて、終身俳優の似顔を描かず、流行の俗気に打たれ、婦女子に心を致して、そ    が贔屓役者を描き、名を売り利を貪らむとするは、末技者流(バツギシャリュウ)の為すことなり、自ら技倆を    有して、名を当世に鳴らさむと欲するもの、豈(*アニ)河原乞児の余光によらむやと、特更に流行に背馳    して、画道の粋をみがきたりき。    享和三年八月市村座にて「桂川纈月見(カツラガワイモセノツキミ)」と題して、市川八百蔵(三世、後助高屋高助)    長右衛門を、岩井粂三郎(五世半四郎、壮若大太夫是なり)お半を演じ、三代目八百蔵一世一代の狂言    なりとて頗(*スコブ)る高評を得たりしかば、浮世絵師等競うて桂川情死の俳優錦絵を出板す、就中(*ナカ    ンヅク)歌川豊国の画、最も評判高かりし、然るに歌麿は尋常の美人絵にて、お半長右衛門の道行の図を    出し、其讃に、浮世絵師が猥(ミダリ)に世に媚び、流行に奔(*ハシ)るを以て、意匠拙劣卑陋を極め、其画    見るに足らずと嘲罵(チョウバ)しければ、人々皆其抱負に感ぜざるもの無かりきとぞ、以て其気風の一端    を想見(ソウケン)し得べし。かゝれば、其画自ら趣ありて、名匠の聞え遠く海外に轟き、長崎在留の清国人、    歌麿の名を慕ひ来りて、数千枚の錦絵を買求めたりと云ふ。明治十七年の冬に至りては、歌麿が錦絵の    価(*アタイ)大に騰貴し、三枚続五十銭、甚しきは、一枚参拾銭に及べり、蓋し歌麿の錦絵能く時俗(ジゾ    ク)を写し、殊に美人を描くに巧妙にして、世人の嘆賞する処なりしかば、外客こゝに着眼して、之を買    〆めむとしたればなり。今も尚ほしかり。    歌麿また秘画に於きては、西川祐信に亜(ツ)ぐ妙技を有せしとぞ。今歌麿が手に成りし重なるものを挙    れば、絵本江戸雀、詞の花、数寄屋釜、二十四孝、花の雲、銀世界、譬喩篩(ママ、譬喩節)、美人競、筆    の鞘、百千鳥、虫撰、駿河舞、吉原年中行事等なり、吉原年中行事の作者は十返舎一九にして、挿画(サ    シエ)は則ち歌麿なり。非常に好評を得て、一時人口に嘖々(サクサク)たり。歌麿曰く、斯(カ)く吉原年中行    事の高評を得たるは、我挿画の巧妙なるに因る、若(モ)しこれなかりせば、吉原年中行事、誰かまた之    を口にするものあらむと、自負(ジフ)たり、一九これを聞き、大に腹たゝしき事に思ひ、怪しき歌麿が    口振りかな、挿画(サシエ)豈(アニ)好評を得る点に於て、半分の価あらむや、只我が文の妙なればなりと、    互に相争ひ相誇りて、果ては隔意(カクイ)を生ぜしかば、知己の人々其間に入り、調和を計りしが、未だ    其落着を見ざるうち、歌麿等の身上に、災厄降りかゝれり、其事の起りを尋ぬるに、寛政の頃、難波の    絵師法橋玉山と云へる人、一世の健筆を揮ひて、絵本太閤記初編十巻を作り、大に世にもてはやされし    かば、年を重ねて、七編まで刊行せり。江戸にては勝川春亭、歌川豊国及(*オヨビ)歌麿等、玉山の趣向    にならひ、太閤記の巻中、所々を撰出して、これを錦絵に描き、二枚続若(モ)しくは、三枚続として出    板せり。文化元年の五月、歌麿は太閤の御膳に石田三成、児子髷にて目見(メミ)えの手を取り給ふ所、長    柄(ナガエ)の侍、女袖をおほひたる形、加藤清正、甲冑酒宴の側に朝鮮の妓婦(ギフ)三絃ひきたる形を、    錦絵に描き出板せしが、端なく官の咎めにあひ、直ちに呼出されて、吟味中入牢を申付られ、出牢の上、    手鎖となり、板元は錦絵を取上られし上、拾五貫文の過料を申付られたり。    歌麿手鎖中、京伝、焉馬、板元西村などの見舞に来りし時、歌麿これ等の人々に向ひ、己れ吟味中、恐    怖の余り心せきて、玉山が著(アラワ)したる絵本太閤記の事を申述べたり、これによりて、同書も出板を    禁ぜられたるは、此の道のために惜むべく、且(*カツ)板元に対して気の毒にて、歌麿一世の過失なりと    語れり。されば、絵本太閤記が七編までにて絶板となりしは、これが為なり。    右の出来事は、非常に歌麿の気力を害せしと覚しく、精神衰へ身体弱はりて見えければ、営利に抜目な    き、絵草紙問屋等は皆々云合せし如く、歌麿は此度の心配に、疲労して身体衰弱しければ、遠からず病    死すべし、されば死せざるうち、早く依頼するこそよけれとて、錦絵の依頼者、踵を接し、殆ど他に絵    師無きものゝ如くなりきとぞ。果して翌年、即ち文化二丑年五月三日、溘然として不帰の客となりぬ、    時に年齢六十三歳なりき。    歌麿と同時に、豊国、春亭、春英、月麿及一九等も吟味を受けて、各五十日の手鎖、版元は出板物没収    の上、過料十五貫文宛申付られたり。豊国等の描きしは、太閤記中賤ヶ嶽七本鎗の図にして、一九は化    物太平記と云ふを物し自画を加へて出板せしによるなり。右歌麿豊国一九等の吟味未だ落着せざるうち、    根岸肥前守より左の如き町触(マチブレ)ありたりき。    一 絵草紙類之儀ニ付、度々町触申渡之趣、有之処、今以如何敷品売買致候段、不埒之至ニ付、今般吟      味之上、夫々咎申付候、以来左之通可相心得候    一 壱枚絵に和歌之類、并に景色の絵、地名又相撲取、歌舞伎役者、遊女之名等者格別、其外詞書一切、      認め間敷候    一 彩色摺之絵本、草紙類、近年多く相見え、不埒に候、以来絵本草紙、墨許りにて板行可致候、      文化元年五月十七日    右之通相心得、其外前々触申渡之趣、堅相守、商売致、行事共入念可相改候、此絶板申付候外にも、右    申渡相違候分、行事共相糺、早々絶板致、以来等閑之儀無之様可致候、若於相背者、絵草紙取上、絶板    申付、其品に寄り、厳敷咎可申付候〟    ☆ うたまる きたがわ 喜多川 歌麿 二代(喜多川月麿参照)    ◯『浮世画人伝』p69 「喜多川歌麿系譜」   〝二世 歌麿    初名不詳、二世恋川春町ノ号ヲ嗣ギ、後ニ初代歌麿ガ寡婦ノ夫ト成テ、二世ノ名を襲フ、天保ノ頃錦絵    ヲ画クニは甚拙ナリ〟      ☆ えいざん きくかわ 菊川 英山    ◯『浮世画人伝』p100 「菊川英山系譜」  〝菊川英山(ルビきくかはえいざん)   菊川英山、名は俊信(トシノブ)、通称は佐花屋万吉また万五郎を云ひ、重九斎と号す、江戸の人にして麹町   六丁目に住したりき。英山、幼にして画を父英二に学べり。英二は狩野家の門人東舎の弟子にして、終身   板下を画かず。一家の浮世絵師たり。造花を本職として家号を近江屋と云ふ。英山、後年鈴木南嶺の門に   入りぬ、又魚屋北渓とは竹馬の友たるをもて、自然北渓の師北斎の画風を慕ふの心起れり。喜多川歌麿の   死後、其画風を模範として、美人を描けり。英山殊に団扇画に妙を得て、文化三四年頃、最も行はれたり。   麹町三河屋と云へる絵草紙屋は英山の画を出して、世評頗(スコブ)る宜く大利を博せりと云ふ。併し俳優の   似顔は英山の長所にあらざりしとぞ。英山は初代豊国と交際最も親密にして、諸藩主より席画の招きにも   両人席を同じうせし事屢々(シバシバ)なりしとなん、又両人合作の板行あり、殊に両人の徽章を織模様にし   たる一対の煙草入を持料とせしが如きは、其親密のなみ/\ならぬを知るに足るべし〟    ☆ えいざん つきおか 月岡 栄山(堤等琳参照)    ◯『浮世画人伝』p74 「堤等琳系譜」〝栄山 月岡と称す、浅草山谷に住〟    ☆ えいし ちょうぶんさい 鳥文斎 栄之    ◯『浮世画人伝』p62   〝細田栄之(ルビほそだえいし)    栄之は藤原を姓となし、時富治部卿と称し、狩野栄川の門人なり。後文龍斎に従ひ、浮世絵を描き、是    に鳥居の画風を折衷せい、大に賞美されければ鳥居文龍の一字を採り、鳥文斎と号し、浜町より向両国    割下水に居を移し、寛政年間最も盛んなりき。後年北斎の画風を慕ひ、遊女を多く画き、愈々(*イヨイヨ)    画名高し。晩年事故ありて揮毫を断しと云ふ。栄理、栄文、栄昌などの名あるはみな門弟なり〟    ☆ えいしょう きくかわ 菊川 英章    ◯『浮世画人伝』p102 「菊川英山系譜」〝英章 英山門人、浅野氏〟       ☆ えいしん きくかわ 菊川 英信    ◯『浮世画人伝』p102 「菊川英山系譜」〝英信(英山門人)俗称安五郎、摺物画多し〟    ☆ えいせん けいさい 渓斎 英泉    ◯『浮世画人伝』   ◇「菊川英山系譜」p102 「菊川英山系譜」〝英泉 英山門人 号渓斎〟     ◇「渓斎英泉」の項 p102      〝渓斎英泉(ルビけいさいえいせん)    渓斎英泉、姓は藤原、名は茂義(シゲヨシ)、通称は池田善次郎、後年里介と改名す。一筆庵、国春楼、無    名翁、北花亭の数号あり。寛政二年、江戸に生れ、父は池田茂春と称し、瓊山と号す、不言庵の門に入    りて、俳諧茶事を楽み、又書をよくす。池田氏の宗家は、上総国周准郡に在り、渓斎、幼にして、狩野    白桂斎の門に入りて、狩野家の画風を学び、其他土佐家を窺ひ、北斎を慕ひ、英山に就き、遂に一家の    画風を創意し、頗(スコブ)る意匠の嶄新(ザンシン)を以て名ありき。当時世上に最も高評を得しは、菊川英    山の画なりき。或時細川肥州侯英山に命じて、其門人等の画を呈せしむ、そが中に茂義も加はりて、英    泉と落欵せり、これ其画号を用ひし始めなりと云ふ。画家は紙鳶(イカノボリ)羽子板(ハゴイタ)幟(ノボリ)の如    きものに描くを恥辱となし、少しく其名を知られたるものは、更にこれ等に描く事なし、されども英泉    は品の何たるを撰ばす、手に従うて描かずと云ふことなし。筆力極めて神速にして、立どころに画を為    し、敏腕の聞え高りき、英泉、藍を以て山水を画き、俗にべろ摺と称して、一時に大に行はれたり、こ    れ英泉が創意にかゝるものなり。偖(サテ)又英泉得意なるは遊女を描くにあり、当時遊廓大楼の風として、    各楼娼妓の服色装飾を異にせり、されば如何(イカ)なる高手(コウシュ)なりと雖(イエド)も、一々これを描き    わけ、着るものをして、直ちにこれは何楼の風なりと、知らしむるは難し、然るに英泉独り能くこれを    為し、精々細々描得て、甚だ分明なりき。蓋(ケダ)し彼れは常に遊里に遊びて、能く其風俗を精察し得    ればなるべし。高手の国貞と雖も、遊女を描くに於ては、常に英泉の画意に傚へりと云ふ。英泉また文    字の人なるを以て、遠く元明の古画を味ひ、能く其意を得たりき。英泉、中頃業を転じ、後年復業し、    菊川英山の父英二が家に寓居し、京伝、馬琴、春水等が稗史の挿画を作れり、天保の末年自ら揮毫を謝    し、人盛なれば必ず衰ふ、衰へて人に棄てられむよりは、寧(ムシ)ろ人を棄るに如(シカ)ずとて、各板元の    請求を拒み、根岸時雨の里に隠れしが、晩年に再び旗を板本町植木店に掲げて、画道に従事したりき。    英泉深く、文学を好み読書夜を徹すと雖も、更に厭倦せざりきと云ふ。稗史の著述少なからず、また暫    らく本業を廃して、狂言作者篠田金治(二代目並木五瓶)が門弟となり、千代田才市と称し、狂言作者    となりたることありき。或時は四谷門外に住せる、妹婿弥十郎なるものと組合ひ、己れ若竹屋理助と称    し、根津に於きて妓楼の主人となりし事さへあり。英泉幼時父母に仕へて孝なり、実母は英泉が六才の    時没し、爾後(ジゴ)継母(ケイボ)に仕へて、孝心更にかはることなし、文化の初め年を同うして、父母共    に世を去れり。英泉貧窮の裡に、三人の幼妹を養育し、具(*ツブ)さに艱苦を嘗(ナ)め、漸くにして仕官    の途を得しかど、幾何(*イクバク)もなく讒者(*ザンシャ)の舌頭(ゼツト)にかゝりて、再び流浪惨憺の状に陥    り、断然仕官の念を棄て、遂に浮世絵師となりしなり、三四年間近国を遊歴して、江戸に帰りしよりは、    剛胆粗放自ら恣(*ホシイママ)にし、暴飲暴食甚しきは、河豚の臓腑を去らずして喰(クラ)ひ、酩酊すれば、    如何なる業務の急を告ぐるあるも、筆を抛(*ハナ)ちて遊里に数日を消し、更に意に介せざるものゝ如し。    或は羽織を着け木履を穿(ウガ)ちし儘(ママ)、飄然として船に乗じ、上総国木更津港に赴き、旧故を訪ふ    など、近隣の友人を訪ふよりも、猶(ナオ)易(ヤス)きものゝ如し。或時芝金杉濱の魚問屋仁兵衛なるもの    (【家号碇屋、後に錦絵稗史の板元となりて巴屋と云ふ】)絵画を好むを以て、英泉を食客とせり。一    夜、英泉主人の衣服を借着し、外出せし儘、数日を経れども帰り来らず、漸く其在所を捜索し得て、到    り見れば衣服は既に売却して酒料に充て、暴飲泥酔して、精神蕩尽(トウジン)し、殆ど己れの居所も忘れ    たるものゝ如し。又新橋宗十郎町に、借家せし時の如きは、夜間門を鎖さず、食客を集めて放蕩を事と    しければ、家主は後難を恐れて、大に迷惑せしと云ふ、されども親戚朋友に金銭を借らず、自ら得たる    金を以て、塵芥の如くに消費し去り、磊々落々只(*タダ)心のまに/\、挙動(フルマ)ひける。老後(ロウゴ)    子なきを以て、一女児を養ひしより、品行大(オオイ)に修り、父母在世の時の如くなりきと云ふ。今叙し    てこゝに至り顧みて、英泉が一世の行路を概観し来れば、何ぞ其英一蝶の経歴に似るたるの甚しきや、    一蝶は画家にして文学者を兼ねたりき。これも亦(マタ)然り、一蝶は親に仕へて孝なりき、これも亦然り    而(シコウ)して、其花街柳巷にさまよひて、浮世絵師伝記中放蕩無頼の烙印を留むるは、共に同一轍(テツ)    たり、若(*モ)し夫れ時を隔てゝ浮世絵師の二幅対を索めなば、此二家は其最も恰好の者ならん歟。英泉    は嘉永元年八月廿六日没す、年五十九、其辞世に曰く      かぎりある命なりせばをしからで唯かなしきは別れなりけり       又      色どれる五色の雲にのりの道こゝろにかゝる隈どりもなし〟    ☆ えいたく こばやし 小林 永濯    ◯『浮世画人伝』p144   〝小林永濯(ルビこばやしえいたく)    小林永濯、名は徳宜(*ママ)、通称は秀次郎、鮮斎と号す。天保十四年三月二十三日、日本橋区新場に生    る。父は三浦吉三郎と称し、魚問屋を業とせり。永濯、幼にして画を好み、五六歳の時、父に従ひ、湯    屋に往き、浴客の文身に眼を注ぎ、家に帰りて此れを写すに、恰(*アタカ)も真を見るが如し。或人の勧め    によりて、十三歳の時、当時の画伯狩野永悳の門に入り、五年の星霜を経て、狩野派の筆意を極めたり。    時の大老井伊侯に召されて、画職の臣となり、五人扶持を賜はりたりしが、井伊侯逢難後は、井伊家を    辞して、遂に居を日本橋通り四丁目に定め、頻りに写生に励みて、一機軸を出(イダ)せり。今其画作の    重なるものを挙ぐれば、万物雛形画譜、博聞社出版小児遊戯図、及び近世紀聞、明治太平記等の挿画、    是れなり。其他、都の花、風俗画報等の雑誌に、其巨腕を揮ひしもの頗(*スコブ)る多し。永濯、嘗(カツ)    て神奈川の妓楼、神風楼の襖に、左甚五郎が京人形を彫刻するの絵を物せり。其後ち伊太利公使マルチ    ーノ、之を見て其画の巧妙に感じ、楼主に請うて譲り受けんとせしが、楼主も之を惜みて其請ひを容れ    ず。公使は猶も断念しがたく、さりとて詮(セン)すべなければ、これを暫く借受け、渡邊省亭氏をして模    写せしめたれども、其意に充たざれば、再び楼主に強請し、巨額の金を贈りて、漸くこれを譲り受けし    と云ふ。是れ永濯の尋常ならざるを知るに足(タ)るべし。其時よりして、伊国公使の依頼によりて、屢    々揮毫し、又美人フエノロサ氏の依嘱を受けて、鑑画会の常備品を物する抔(*ナド)、永濯の画名、内    外人の間に喧々(ケンケン)たり。偖(サテ)永濯、日本橋通りより、其後杉の森、また向島小梅村に移れり、永    濯性質極めて温順にして、敢(アエ)て人と争はず。殊に礼節を重んじ、頗る君子の風ありき。惜しい哉、    年来肺患に罹り、遂に肺焮衝に変じ、明治二十三年五月廿七日、溘焉(コウエン)して不帰(フキ)の客となる。    時に年四十八〟    ☆ えいちょう きくかわ 菊川 英蝶    ◯『浮世画人伝』p102 「菊川英山系譜」〝英蝶(英山門人)未詳〟    ☆ えいり きくかわ 菊川 英里    ◯『浮世画人伝』p102 「菊川英山系譜」〝英里 英山門人、冬木氏、錦絵に名在〟    ☆ おうい かつしか 葛飾 応為    ◯『浮世画人伝』p129   〝葛飾応為(ルビかつしかおうい)    応為は北斎の三女にして、通称を阿栄と呼びたるものなり。栄女初め橋本町の油渡世、庄兵衛の男吉之    助へ嫁せしが、障る事ありて離別となりぬ、其故は栄女が良人(オット)たる吉之助は、幼年の頃より、画    を深く好みしが、長じて堤等琳を師となし、等明と号して、一心に業を修めたり、栄女も父北斎の骨法    を得て、女絵を能く描き、また芥子人形を作るに巧なりしかば、是等の事に余念なく、更に家政を顧み    ず、且針のわざ縫物などは手にさへとらぬ程なれば、かた/\舅の心に適はず、遂に不熟となりて、家    に戻りたり、後再縁をすゝむる者ありといへども、堅くこばみて随(シタガ)はず、専ら父が業を助け、美    人を描くに至りては、父にも優(マサリ)たりとの高評ありき。栄女は其性質に似て、洗ふが如き赤貧を事    ともせず、加之(*シカノミナラズ)侠任の風ありて、麁衣疎食を恥ぢず。好みて三食の下物(サイ)は、みな露店    (ロテン)より調へ来れり。故に竹皮(食物を包めるもの)座右に塡(*ウズ)高きも、敢て清掃する事なし。    傍ら占考観相を能くし、晩年に至り仏門に帰依して、誦経に怠らず。常に茯苓(*ブクリョウ)を服して女仙    とならんことを望めりとぞ。栄女が没年詳(*ツマビラカ)ならずといへども、安政二三年の頃、加州侯、寡    婦の老衰を愍(アワレ)み、扶持せられしが、遂に加州金沢に於て、病に罹り歿せしよしにきゝね(ママ)〟