Top 浮世絵文献資料館浮世絵師総覧 ☆ よたか 夜鷹浮世絵事典 ☆ 弘化元年(天保十五年・1844) ◯『藤岡屋日記 第二巻』p460(藤岡屋由蔵・天保十五年(1844)記) 〝十一月廿七日、今晩より両国ぇ夜鷹 五人初て出る也、大繁昌にして五十文宛なりとの評判也。尤出るに は諸方ぇ付とゞけ百両も懸りしよしなり、其後采女が原ぇも出る也〟〈弘化二年十月二日の記事にもこの夜鷹記事あり。参照のこと〉 ☆ 弘化二年(1845) ◯『藤岡屋日記 第二巻』②509(藤岡屋由蔵・弘化二年(1845)記) 〝東辻君花の名寄 抑辻傾城と申ハ、むかしよりやんごとなき方の忍びて出給ひしよし、故ニ京都ニてハ辻君 と称し、大坂 にてハ惣嫁 と唱ふ、江戸ハ夜鷹 と云、是辻売女也、今ハ下賤のものゝ戯れ遊ぶ売女にして、古来より護 持院ヶ原・石町河岸床見世うしろ・数寄屋河岸・浅草御門内物干場明地・柳原床見世後ろ・下谷広小路 ・木挽町采女ケ原杯ハ如何之小家を拵へ置、夜分渡世致し候処、近年夜鷹女を抱置候者ハ本所吉田町・ 鮫ケ橋・下谷山崎町ニも有之、右之女共江同居致居候男を差添、夫々へ出すなり、是をぎうと云也、壱 度ニて花代廿四文なり、然ル処ニ天保十三寅年中、市中端々料理茶屋・水茶屋名目ニて、隠し売女渡世 之者共、残らず吉原一廓ニ被仰付、外ニハ渡世替致し候処に、同十五辰年八九月頃より、誰存付候哉、 東両国広小路床見世後ぇ両三人、木挽町采女ケ原へ同断差出、夫より追々場所相増し候、暫く遠のき夜 鷹珍らしく候故、貴賎ニ限らず見物大群集致し候故、これが為ニ夜鷹蕎麦・茶めし・あんかけ豆腐・鮮 ・おでん・濁かん酒ニ至迄、大繁昌致し候故ニ、右夜鷹場所附細見を目論見、東辻君花の名寄と題号致 し、半紙二枚摺之細見番附を出板致し、本所辺・日本橋辺所々へ夜る/\出て、はし/\に於て古今珍 らしき鳥の出候次第を御ろふじろと、巨細に女の年・善悪・上品・中品・下品と品定メ致し売歩行候故 ニ、珍敷故大評判にて売れ致し候得共、巳三月下旬より売歩行鷹の細見、三日程売歩行候と絶板ニ相な り候。 木刀の鞘両国で売はじめ 花ござは花の道中波銭の 六文字にてあゆむ辻君 顔と㒵見合す時の柏子木は おりも夜たかと袖を引ケ四ツ なじみ客跡見かへりの柳原 露の情になびく辻ぎみ 蛤もたこも中にハ有磯海の 浜の真砂の辻君のかづ 日毎ある中にもつらき辻君の 顔さらしなやらん(ママ)の月影〟 ◯『藤岡屋日記 第二巻』p558(藤岡屋由蔵・弘化二年(1845)記) 〝十月二日夜より、深川八幡表門前、川向あひる居見世有よし、跡ぇさゝやかなる仮家を作りて、すわり夜鷹 と唱し、遊女七人出る也、花代百廿四文也、是切見世の真似故に居り夜鷹と唱し、勤は廿四文にて、 外に百文は客より相対にて貰ふ由、右久々にて出し故に珍らしく、殊之外繁昌致し、右場処賑ひて法会 之如く、諸人群集致す故に往来ぇは商人迄出る也、右に付、是にて故障も無之に於ては切見せに致し候 積り之処、惜しい哉、纔に三日にして、同四日表向之御沙汰は無之候得共、御仁政を以、内々取払申付 る也、四日昼八ッ時に取払也。 但、天保十三寅年三月御改正之後は、所々隠売女は厳敷御法度に相成候に付、弘化元辰年十一月廿七日、 初て本所吉田町増田屋千太郎と申者、両国橋へ夜鷹を五人出せし処、大繁昌にて五十文宛にて売る也、 此時の川柳に 太刀の鞘両国で売はじめ〟 ◯『巷街贅説』〔続大成・別巻〕⑩35(塵哉翁著・弘化二年(1845)記事) 〝辻君再興 天保丑の冬、世上に有来(アリキタ)りたる遊女共、悉く制禁ありて、皆吉原の中へ移さるゝによりて、辻君 も辻に立ことかたく止られて、夜鷹てふ烏の巣のよし田町も荒果ぬとや、今年弘化巳なる秋の初の頃、 いかにしけん願済たり迚(トテ)、両国橋の辺りをはじめ、有来りたる端々に出る事にぞなりぬ、御免のよ たかとかや云触て、売初より賑ひ繁昌なりと、其中に築地采女が原に出るは、枕付と云物あるよし、秋 の末に深川の端に居(スワ)り、夜騰といへるもの出来たりと聞ぬ、こや是迄切見世(キリミセ)と唱へ、長屋と 呼、また鉄砲などゝ仇名せし、吉原に云局見世(ツボネミセ)の類のものも、同じころ止(ヤミ)たるを、再興の 手始ならんか、 説に、辻君は文治の乱に平氏亡て、官女共世渡のたづきなくして始りぬる由を、世俗に 云伝ふをもて、 願立たりと、辻君、立君、夜発(ヤホツ)、そうか、夜鷹、江戸にて云にや、 寛政の末享和の頃まで、船鰻頭(フナマンヂウ)と云しもの有、小き船に苫かけて河岸々々に漕寄つゝあやし き声して客をよぶ辻君のたぐひにして、劣たるものとぞ、今は絶てきかず、 因に云、京摂に臭屋(クサヤ)、間短(ケンタン)、蹴倒(ケタホシ)など云は、前に曰、切見世・長屋の類か、寛享の 頃けころとて、茶屋女体の遊女ありし、けころは蹴ころばすの略にして、蹴倒に同じ、東叡山下広小路 抔(ナド)にありしは、とんだ茶釜と通名せし由、予稚(オサナキ)ころおばろに見たり、切見世遊女の一段よ ろしき歟、 船鰻頭 舟は繋ぐ辻番の傍 値(アタエ)賤(ヤスシ)鼻落んと欲す 雛(シハ)は深し振袖の情 人を留ること更に幾度り 右は、明和七年梓行娯息斎狂詩集に見ゆ、因に記して笑証とす〟〈天保丑年は天保十二年。三月に岡場所(私娼)禁止令〉 ☆ 弘化三年(1846) ◯『藤岡屋日記 第三巻』③77(藤岡屋由蔵・弘化三年(1846)記) 〝新板伊予節葉うた 〽京で辻君 大坂でそうか 、江戸で夜鷹 と夕化粧、〽いきは本所あだは両国、うかり/\とひやかせば、 爰に名高き御蔵前、ひと足渡しニ乗おくれ、〽夜たかの舟ときがつかず、あぶなさこわさきミわるく さおゝいれ〟 ◯『藤岡屋日記 第三巻』p105(藤岡屋由蔵・弘化四年(1847)記) 〝去午年(弘化三年)夏頃より今川橋へ夜鷹 五人計出で、群集致す也。此頃は新シ橋・和泉橋辺へひつぱ りと云歳間女出で、客に逢て相談を致し、宿ぇ連行、泊る也、つとめ金弐朱也、是地獄 也。 地獄とはいへ共鬼はおらずして 迷ふ男を救ふ女菩薩〟 ☆ 年代未詳 ◯『わすれのこり』〔続燕石〕②125(四壁菴茂蔦著・安政元年?) 〝夜たか 夜発といひて、庭訓往来にも載せ、また辻君と云ては、俳諧発句に季をもたせて吟ずること多し、され ども、今其風俗極めて鄙し、浪銭六孔を以て、雲雨巫山の情けを売る。本所吉田町、また鮫が橋より出 て、両国、柳原、呉服橋外、其外所々に出るうちにも、護持院が原とりわけ多し、 落首に ごぢいんをふたつにわれば二十四いんひるはおたかばよるは夜たかば〟 ☆ 明治以降 ◯『絵本風俗往来』下編 菊池貴一郎(四世広重)著 東陽堂 明治三十八年(1905)十二月刊(国立国会図書館デジタルコレクション) 〝夜鷹 (105/133コマ) 昔、平家壇の浦滅亡の後、生残れる娘児們(をんなたち)、今は糊口の手業(たつき)なきに難受(なやみ) 羞恥(はぢ)を忍び、賤しき世渡りせしとかや、江戸の頃、辻君(つじぎみ)といふものありたり、此れを また夜鷹と呼ぶ、夜鷹てふは何の仔細ある言葉にや、其の起根(もと)を知らず、年々春夏秋の三季、毎 日日暮れに至るや否(いなや?)、本所割下水といふ所の巣窟(すみか)を飛び出し、鷹の名あれども船に て御厩河岸(おんまやがし)の津渡(わたし)を此方の岸へつき夜も暗夜も浅草御門外なる葦屋(こや)の裏 頭(うち)へ入りにけるは、老女破瓜(わかき)の別もなく、獅々鼻も白牡丹の白粉に価直(ねうち)を高ふ し、厚き唇も薄紅の色を鬻(ひさ)ぎ、百結衣(つゞれ)も絹布と見違(まが)ふは、打茶団(ひやかし)の僻 眼(ひがめ)にあらず、月蔭の蘆棚(よしずばり)薦垂(こもたれ)の裏頭ぞ、怪しの暗き商ひにして、淫を 以て糊口をしのぶ因果者、袖を口頬(くち)に掩ひ、怪しきこはねをして「サァお出で、サァお出で」と 客官(きゃく)を呼ぶ、此所(こゝ)に集まる客官は、皆低下的人(げにん)の、夜鷹の色を貪る嫖蕩子(だ うらくもの)、夜鷹の貌陋貌美(よしあしママ)を撰ぶに、手巾(てぬぐひ)にて己が貌(かほ)を包み、蘆棚 の裏頭を覗く、また夜鷹と客と打喧(さゝやき)つゝ、快楽(たのしみ)未だ半途(なかば)ならざるに、夜 鷹の付き添ふギウと俚言する男、声あらく「ヘエあッさりと/\代はつて/\」と頻りに催(うなが)さ れ、出気(はらだち)を堪へて舌尖鳴(したうち)して、薦垂の外頭(そと)へ出するや、早や彼方(かしこ) には闘争(けんくわ)起こり、此方(こなた)は酔漢(なまえひ)のギウの足許暗きを利して悩ましむるあり、 前頭(まへ)には狗(いぬ)の吠(ほゆ)るあれば、後頭(うしろ)より石礫を蓬屋(こや)に投げ込むなど、喧 噪(さわぎ)は全く甚しく此の始末、宵の程五点鐘(いつゝどき)にして、ギウ夜鷹を伴ひ己が巣窟へ立ち 帰るなり、蜀山翁「夜鷹小屋を過ぎる」の詩あり曰く「夜鷹小用を好み 此の隅彼処の隅 妾は怪異鳥 の如し 君は磔場(はりつけば)鳥に似たり」