Top 浮世絵文献資料館浮世絵師総覧 ☆ よそおい 粧 (遊女)浮世絵事典 ◯『閑談数刻』二〔百花苑〕⑫294(駐春亭一指?記・明治初年成稿)(「ぇ」の原文表記は「江」) 〝松葉や粧【角町まつばや半蔵抱也】 幼児より郭へ入て娘同様に育ち、中の町ぇ出しより大に客有て、吉原の一と呼れたり。 書 敬義先生門人 茶 広井宗微 和哥発句 鴬邨君 香 松葉屋隠居 糸竹の道は少しは知るといへどもあまり好まず。 広座敷 銅炉 囲 二畳、向切、逆勝手 新造、禿、皆々茶を点ず 床 探幽、尚信の類を懸る 花生 古物。花、珍花を生る 煙草盆、火鉢の類にいたるまで、傾城のざしきとはみへず 次の間の箪笥は桐の糸柾ぇ非色のかなもの。壁は赤砂ゐしめ。襖は金砂子蒔つぶし、桑の机、硯其外唐 ものまきへもの類 黒天の被布に、裏紫羽二重に金泥計にて、梅の画抱一上人、鵬斎先生賛 座布団、黒天毛きらずへ紋所四ッ銀杏を切らす。緋羅沙の座ぶとん うちかけは羽二重へ、敬義の大字を石摺にす。下着白茶、古はくへ黒糸にて光琳の松。縫、上人筆。 帯、紫ごろふくれんのしごき也。下着すゞめがたの縫。屏風の趣向也。年中着類、上人下画。 突出しをする時、暮に及んで約束の金子来らず待居たるに、中町江戸やより折の大いなるが田舎よりと ゞきたりとて持来る。宗微先生居合せて、針を抜きるに生栗也。いかゞいたせし事と明みるに、下に金 三百両入来りし也。宗微きもを潰したりと、折々咄たり。 見附うら嶋屋【糸渡世】の妻と成、其後夫長右衛門病死して家も人にゆづり、剃髪して岡田屋孝助より 扶持をもらひ、出見世【二けん】よりも月々のものを送りもらひ、新鳥越に閑居して居けり。 岡田屋松やの世話になり、孝助主は日々有難き本をよみて仏道へ手を引下さるゝ、真実有難さのまゝ 岡田なる稲のみのりに恵まれて露にもぬれぬ松かげの庵 称専尼といへる名孝助主のつけられし喜びに ありがたや誓の舟にのり初て世の浪風をよそにみるかな 吉原に居た時の句 松虫の知りてなくかよ我心 うたゝ寐の夢見直さん五月雨 猫の恋屋根からやねのいもせ出 夜桜の可愛き夢はさめ行て 朝のさくらのにくき別れ路 唯恵法子の御恩を日々わすれやらぬ事を ねがへよと教へし君は居ませずと御恩わすれず称ふ名号 浅草奥山に詩文の碑あり。粧の筆 蕊雲(ズイウン)【鵬斎先生附る】 文鴦(ブンワウ)【敬義先生附る】 抱一上人、宗微、日々来る 敬義、書を教に来る 鵬斎先生郭中へ入時は必来る たいこ五丁、源次、常に来る 団扇【上人の画】 庭の面はまだかはぬにといふ哥 粧の書にて数多出したる事あり。 詩の摺物を出す 死なんとして脇ざしを持来る客へ意見して助けし事、両度ありと云。 羽織、ゆかた、帯の類、げいしゃへ出せし事度々也。 当辰六十四歳也〟〈「当辰六十四歳」とは、写本「丙」の巻末に「丙明治九年子六月」とあることから明治元年(1868)か。すると遊女 粧(よそおい)は文化元年(1804)頃の生まれと推定できる。遊女の年期明けは二十代だから、粧が吉原に勤めていた のは文政年間(1818-1829)頃と見てよい。酒井抱一は文政11年(1829)没、亀田鵬斎は文政9年(1826)没だから年代的 にも矛盾はない〉 ◯「金龍山景物百詩」(三)(文久仙人戯稿 『集古』所収 昭和七年一月刊)(国立国会図書館デジタルコレクション『集古』壬申(1) 9/16コマ)より収録) (※ 返り点と送り仮名は省略) 〝蕋雲碑 北里松葉屋の遊女粧 、書を中井董堂に学び蕋雲と号す 歌道の上達を人丸祠に祈願して此還 願碑、万葉仮名を以て朝霧の神詠を書す、事は董堂碑陰記に詳し 蕋雲還願碑 遊女風流好 吾畏損和歌 客尻敷島道〟〈吉原の遊女粧(よそおい)号蕋(蕊)雲(ずいうん)、歌道の上達を祈願して、万葉仮名で認めた「ほのぼのと~」の 人麿歌碑を浅草寺境内の人丸社に奉納〉