Top             浮世絵文献資料館            浮世絵師総覧       ☆ よぶこどりわかさんちょう 呼子鳥和歌三町    浮世絵事典  ☆ 弘化三年(1846)<四月>       筆禍「呼子鳥若三町」三枚続の絵図(「呼子鳥和歌三町」か)       処分内容 ◎制作者 英泉・露助 残品没収、板木削除、再犯しない旨の請書の提出       処分理由 禁制違犯(役者の紋所・名前を入れたこと。無断出版・売買)       処分内容 ◎制作者 半兵衛・忠蔵 上に同じ       処分理由 禁制違犯(英泉・露助制作の絵図の重板(無断複製)制作・売買)       処分内容 ◎制作者 喜三郎・上州屋重蔵 上に同じ       処分理由 禁制違犯(英泉・露助制作の絵図から狂歌を抜いた類板を制作・売買)     ◯『大日本近世史料』「市中取締類集 十九」書物錦絵之部 第七二件 p4   (弘化三年四月、絵草紙掛り名主の町年寄・館市右衛門宛伺書)   〝錦絵と唱、歌舞伎役者・遊女・女芸者等を壱枚摺ニ致候義、風俗ニ拘候筋ニ付、以来決て売買致間敷旨、    去ル寅年(天保十三年)六月中、被仰渡有之、猶又、去々卯年(天保十四年)五月中、総て商ひ物其外    何品ニよらず、歌舞伎役者名前・紋所ヲ付候義不相成旨被仰渡候、然ル処、猿若町役者共名前書顕シ候    絵図、内分ニて摺立売買致候趣承り候間、密々為買取候処、人呼子鳥若三町と申標題ニて、役者共名前    ・住所等巨細ニ書顕彩色入ニ摺立、帙上包え役者紋所是又彩色入ニ有之候間、元方取調候処、左之名前    者共彫刻・売買仕候趣相分り候間、板木・摺溜取上ヶ置申候、今般之儀は、仕来り之通り私共立合板木    削取、以来右体無改之品彫刻・売買致間敷旨申渡、証文取置候様可仕哉                     坂本町壱丁目  太左衞門店 善次郎事 浮世画 英泉                     浅草茅町弐丁目 平八店       狂言作者 露助     右之者共儀、懇意之者え当正月年玉ニ相配り候心得ニて彫刻致候趣申立候得共、絵草紙屋其外之者共     え売捌候趣ニ御座候                       小石川富坂町代地 利八店      古本糴売 半兵衛                     鎗屋町      勇蔵店      古本糴売 忠蔵     右半兵衛儀は、右絵図買取重板彫刻致、忠蔵儀、絵草紙屋其外え売捌候趣ニ御座候                       堺町家主              板摺   喜三郎                     元大坂町代地  彦右衛門店 絵草紙屋(上州屋)重蔵     右喜三郎儀は、前書露助より被相頼摺立候節、下之方狂歌ヲ抜キ自分摺致シ、重蔵其外之者え売捌候     趣ニ御座候    右は、市中絵草紙屋其外素人え手広ニ売捌候趣ニ相聞申候、無改之品と乍存重板致、又は抜摺等致候は、    全私共手限取扱候儀と見居、此上外品迄も追々増長可仕哉奉存候、依之右摺立絵図三枚相添、此段法伺    候、以上     (弘化三年)午四月         絵草紙掛名主共〟    〈禁じられている歌舞伎役者の紋所・名前を露わにした「人呼子鳥若三町」なる錦絵が、改(アラタメ=検閲)を受けない     で出版され、摘発を受けた。画工は英泉、作者は露助。当初、これを正月の年玉として配るつもりで制作したと、英     泉たちは弁解したのだが、調べてみると、実際には絵草紙屋等に売り捌いていた。それを古本糴売りの半兵衛が買い     取って重板(無断複製)を作り、他の糴売りや絵草紙屋に、これまた売り捌いた。一方、板摺の喜三郎なるものは、     作者の露助に摺りを頼まれた時に、狂歌を抜いた類板を摺って上州屋重蔵ほかに売った。絵双紙掛りの名主はとりあ     えず残品と板木を差し押さえた上で、この絵図は禁制違反だから、慣例通り、名主立ち合いのもとに、板木は削り取     り、今後改印のないものは彫刻および売買しない旨の証文を取りたいと、町年寄に伺いを出した〉    〈この伺いを受けて、町年寄・館市右衛門は次のような「ヒレ(添え書き)」を付けて、町奉行所の判断を仰いだ〉      〝書面之通絵双紙掛(カカリ)名主共申立候、去ル寅年(天保十三年)八月、猿若町割絵図売板相願候者有之    候節、役者共名前書顕シ、番附之類とは差別有之難成旨可申渡段、北御役所ニて被仰渡、下絵相下ケ候、    此度之品、兎の角も其筋掛之者改も不受彫刻・売買仕候段、不束ニ付、名主共申立候通取計候様可申渡    哉ニ奉伺候      午四月              館市右衛門〟    〈この手の出版には前例があるとし、天保十三年(1842)の八月、「猿若町割絵図」なるものの出版許可願いが出された     が、役者の名前を明記するのは、これは役者番付とは違うのだから認められないとして、北町奉行が却下したことが     ある。今回の絵図については、その上に改(アラタメ)無視の出版販売であるから、名主たちの提案通りしてはどうか、と     の伺いを立てた。これは奉行所の市中取締り掛りも受け入れたから、確定したのであろう。     さて、上記「人呼子鳥若三町」とはどのようなものか、町年寄・館市右衛門が天保八年の「猿若町割絵図」の例をあ     げているところからみると、三座のある猿若町を絵図面にしたものと考えられる。ネット上を探したら「呼子鳥和歌     三町全図」という絵図が出ていた。英泉が制作した紋所・名前入りの錦絵「人呼子鳥若三町」と同じものとも思えな     いが、参考のため下に引いておく。     また、天保十三年、出版不可になったという「猿若町割絵図」についても、いかなる絵図か詮索しておこう。同年の     出版に「猿若町芝居之略図」なるものがある。面白いことにこの略図を画いていたのがやはり英泉。曲亭馬琴に記事     によると、この絵図は同年九月中旬、改を通って出版された。当然、役者の紋所や名前はない。(『馬琴書翰集成』     ⑥50 天保十三年(1842)九月二十三日 殿村篠斎宛(第六巻・書翰番号-10)本HP、英泉の天保十三年の項目     参照)同年八月、館市右衛門が伺いをたてたとき、前例としてあげた「猿若町割絵図」とは、画工がおなじ英泉だか     ら、あるいは「猿若町芝居之略図」と同様の図柄であった可能性が高い。推測になるが、八月に、紋所と名前を入れ     て却下されたから、九月にはそれを削除して出版したのかもしれない。     ところで、この名主の伺書には次のような「下ケ札(付箋)」がついていた〉      〝本文英泉義、去十二月類焼後、当時千住小塚原町旅籠町ニて、若竹屋と申者方ニ罷在候趣ニ御座候〟    〈この「十二月類焼」とは、『武江年表』によれば、弘化二年「十二月十一日夜、坂本町より出火、茅場町表裏薬師境     内焼亡」とある火事であろう。斎藤月岑の『増補浮世絵類考』(天保十五年成立)に英泉の〝居住・坂本一丁目〟と     あり、曲亭馬琴の日記、嘉永元年八月三日付に英泉の死亡記事中に〝居宅、茅場町ニあり〟とある。してみると、焼     け出されて一時的に避難した先が千住小塚原の「若竹屋」ということなのだろう。この若竹屋、関根黙庵の『浮世絵     画人伝』によれば、英泉はかつて若竹屋理助の名で根津の妓楼の主人をしていたというから、寄宿先の若竹屋は縁者     なのである〉
    「呼子鳥和歌三町全図」無款(東京大学総合図書館「南葵文庫」)
    「猿若町芝居之略図」渓斎英泉画(東京都立中央図書館東京資料文庫所蔵)