Top             浮世絵文献資料館            浮世絵師総覧          ☆ やくしゃにがおえ 役者似顔絵        浮世絵事典  参考 役者絵  ☆ 元禄八~九年(1695~96)    ◯『嬉遊笑覧』巻三「書画」p410(喜多村筠庭信節著・文政十三年(1830)自序)   〝芝居役者似顔は〔江戸真砂子六十帖〕に、元禄八九年の頃、元祖団十郎鍾馗に扮す、其容を画き刻みて    街に売、価銭五文、これより役者一枚画をいふもの数種を刻すといへるは非なり。又〔寸錦雑綴〕に壺    春章が嵐音八の似顔画を俳優真図のはじめにやといへる何ことぞや。似がほの一枚ゑは延宝天和の頃よ    りもあり。菱川の筆とおぼしくて坊主小兵衛似がほの一枚絵を見たり。図もうつし置きぬ〟    ☆ 寛延元年(延享五年・1748)    ◯『歌舞伎年表』③4(伊原敏郎著・昭和三十三年刊)   (寛延元年・1748)   〝正月、中村座「錺蝦鎧曾我」。これを「大仏供養」とも「呼戻し景清」ともいふ。「戻りかご」の始也。    (中略)    当供養場を、清信筆にて、重忠ゑぼし素袍、大将太刀、陣中幕をあけ、景清法師武者、長刀を横たへ、    横向きの図大に行はる。是似顔絵の最初也〟    ☆ 宝暦年間(1751~1763)    ◯『塵塚談』〔燕石〕①282(小川顕道著・文化十一年成立) 〝歌舞伎役者写真の事、宝暦始の頃、画工鳥山石燕なる者、白木の麁末なる長サ弐尺四五寸、幅八九寸の    額に、女形中村喜代三郎が狂言の似顔を画して、浅草観音堂の中、常香炉の脇なる柱へ掛たり、諸人珍    敷事に沙汰に及し也、是江戸にて似顔画の濫觴成べし、其頃迄は、一枚絵とて、役者一人を、糊入紙を    三ッ切にして、狂言の姿を色どり、三四遍摺にし、肩へ、市川海老蔵、又は瀬川菊之丞抔と銘を記すの    みにて、顔は少しも似ず、一枚四文づつに売たり、近頃は、右体の一枚絵は更になし、浮世草紙迄も似    面絵になれり、錦絵と名付、色どりも七八遍摺にする也、歌舞伎役者に限らず、吉原遊女、水茶屋女、    角力取迄も似顔絵にしてうることゝなれり〟    〈屋代弘賢著『輪翁画譚』も「歌舞伎役者の似顔」の項でこの記事をそのまま引いている。『日本画談大観』「中編随筆」参照〉    ☆ 明和年間(1764~1771)    ◯『明和誌』〔鼠璞〕中193(青山白峰著・文政五年序)   〝明和の頃、役者似顔の一枚絵はじめて出る。一目にてたれと分り候やう書ことなり。画は、勝川春章、    文調といふ両人なり。其後安永に至り、美人合すがたかがみと云ふ本を出す。吉原女郎の似がほ、是等    にしき絵のはじめ成べし〟    〈一枚絵ではないが、春章と文調の競作で役者似顔絵の『絵本舞台扇』が出版されたのが明和七年(1770)。また「美人     合すがたかゞみ」すなわち勝川春章・北尾重政画の『青楼美人合姿鏡』の出版が安永五年(1776)の刊行である。春章     は役者及び遊女似顔絵の創始者と見なされていたようである〉    ◯『半日閑話』〔南畝〕⑪398(大田南畝・安永五年(1776)五月記)   〝地紙形錦絵    此頃、地紙形の錦絵、芝居の役者似顔出る。折り目をつけ置、扇の古ル骨に張て扇とす〟      ☆ 天明~寛政年間(1781~1800)    ◯『江戸風俗総まくり』(著者・成立年未詳)〔『江戸叢書』巻の八 p28〕   (「絵双紙と作者」)   〝天明の頃は勝川春英、北川政信(ママ)、春章が輩、役者絵、女絵、風景を書て賞せられしが、寛改の末よ    り歌川豊国専ら歌舞妓役者の肖像に妙を得て、松本幸四郎か市川高麗威、助高屋高助か市川八百識、坂    本三津五郎か蓑助の頃、瀬川菊之丞か市川男女丞、岩井牛四郎か久米三郎のむかし中村のしほ、嵐昔八、    片岡仁左衛門、物いふがごとし、舞台顔を絵かきて豊図が筆を振ひし跡を、国政又是につぎ、半に写楽    といふ絵師別風を書き顔のすまひのくせをよく書たれど、その艶色を破るにいたりて役者にいまれける〟    〈北川政信は未詳。役者の似顔絵は明和以来の勝川派より、寛政から登場してきた豊国、国政等歌川派の方が「物いふ     がごとし」でずっと刺激的であったようだ。写楽はよく顔立ちのよく写し取ったものの「艶色を破るにいたりて役者     にいまれける」役者としての色艶を破壊したとして役者たちから嫌われたいうのである〉    ☆ 天明二年(1782)    ◯『浪花見聞雑話』〔百花苑〕⑦31(著者未詳・成立年未詳)   〝顔似世絵    役者顔にせの絵師は少し宛むかしより有といへども、天明二年寅どし、堀江に流光斎如圭より多く書初    たりと言〟  ☆ 享和元年(1801)  ◯『名歌徳三升玉垣』桜田治助作(河原崎座 顔見世狂言 享和元年十一月興行)   (一番目 市川団蔵扮する順礼の台詞)   〝江戸の名物 役者の似顔絵、知辺の方へ土産と思ひ、買ふて来た一枚絵〟   〈『歌舞伎脚本集下』(日本古典文学大系54)所収〉    ☆ 享和三年(1803)    ◯『摂陽奇観』巻四十三 浜松歌国編(『浪速叢書』第五 所収)   〝(年間記事)近世浪華市中流行    絵本太閤記  都名所図会    役者の似画  おやま芸子の顔似せ絵〟  ☆ 文化元年(1804)    ◯『繪本敵討待山話』(画巧 歌川豊国画 作者 談洲楼焉馬・享和四年正月刊)    〈この読本に関して、三升屋二三治は『貴賤上下考』〔未刊随筆〕⑩151(弘化四年(1847)序)の中で、次のよう     に証言している〉     〝(立川焉馬に関する記事)此人、一世の内残せしは、白石噺の七ッ目、歌舞伎年代記、敵討松山噺とい    ふ本、歌川豊国の筆にして役者似顔絵の始り(云々)〟    〈この「敵討松山噺」とはこの『繪本敵討待山話』のことと思われる。三升屋はこの読本が版本における役者似顔絵     の始まりとした。なおこの作品の序で作者の談洲楼焉馬は豊国を「心友歌川豊国」と呼んでいる〉    ☆ 文化三年(1806)  ◯『戯場粋言幕の外』巻之上(式亭三馬作)   〝(やしきの女中、奥方の)御代参にいたゞいたるさいなんよけのお守りよりも、役者の紋の銀のはしと、    自筆の扇が大せつにて、豊国画の似顔を見ていたづらに心をうごかすは、もみうらの人情也〟    〈屋敷奉公に出ている着物に紅裏をつけた若い女中の楽しみは奥方に随って見る芝居見物だが、不断は豊国の画く贔     屓役者の似顔絵をみて胸をときめかしているのである〉  ☆ 文化四年(1807)    ◯『蛛の糸巻』〔燕石〕②300(山東京山著)   〝文化の中頃にや、京伝、お六櫛木曾の仇打を作られし時、画師豊国おもひつきにて、巻中の人物はじめ    てやくしやの似顔になせり、又口絵といふ物【さうしのはじめに巻中の人物をいだし、讃などあり】を    はじめて加ふ〟    〈山東京伝作・歌川豊国画の合巻『於六櫛木曾仇討』は文化四年刊〉  ☆ 文化八年(1811)  ◯『梅由兵衛紫頭巾』合巻(山東京伝作 歌川豊国画 鶴金板)   (早稲田大学図書館・古典籍総合データベース)    (前編見返しに作者・画工・板元の句あり。豊国の句    〝似顔絵ハかほを似するのミにあらず (歌川豊国画)      こゝをか(画)けといハぬばかりや梅のふり 一陽〟    〈「梅のふり」とは舞台上の梅の由兵衛の身振りをいう。役者似顔絵とは単に顔を似せるに止まらない。役者は「ここ     を画け」という瞬間を必ず見せる。それを見逃さず捉えて表現してこそ似顔絵というものだ、と豊国はいうのであろ     う。見得を切った瞬間などが「ここ」に相当するか。一陽とは豊国の俳名であろうか〉  ☆ 文化十四年(1817)  ◯『役者似顔早稽古』一陽斎(初代豊国)画・著 仙鶴堂板 文化十四年序   (国文学研究資料館「新日本古典籍総合DB」)※(ひらがな)は原文のふりがな、(漢字)は本HPが当てた漢字   「凡例」   〝近頃画(ゑ)の道しきりにおこなはれて、其業(わざ)にしもあらぬ人までも、もてあそぶ事とはなりぬ。    それが中に浮世絵てふもの、殊に人のもてはやすものから、今東都のにしき絵いにしへとはかはり、彩    色美麗にして、もはら(専ら)芝居役者の似顔をかけるもの、ひたもの流行(はやり)て、犬うつわらはべ    の戯れにも、松本幸四郎の鼻高きを譬(に)せ、岩井半四郎のくちびるの出たるをもその侭にゑがきて、    おのづから画師(ゑし)の目をも驚(おどろか)すもの少からず。よて今一陽斎、この役者似顔をあらは(著)    し、筆の骨利(こつり)をよ(世)に弘むるは、こころうと(心疎)きおふな(嫗)わらはべ(童)までも、是に    たよらば、おもふほどの事、出来やすきやうの工夫をもてかきたるものなり〟   「役者似顔画法」   〝鼻一 口二 眼三 眉四 顔五    すべて人のおもて(面)をえがくに、まづ鼻よりさきにゑがくべし    次にこの図のごとく(図省略)口二眼三とその順にゑがくべし    さあるときはおもてめんぶ(表面部)のかつこう(格好)おのづからよくそなはりて、たとへゑごゝろなき    人にても出来やすく、ことに役者にがほ(似顔)はいろどるゆへに、すこしのきみ(気味)あひばかりにて、    たれ(誰)はたれ、かれ(彼)はかれと、ひとめ(一目)にしるゝものなれば、そのくせ(癖)をゑがくことか    んじん(肝心)なり     〈以下、面・目・眉・鼻・口・耳を画く心得あり、略〉    凡(そ)似顔を画くに癖ある面は譬(にせ)やすく、癖なきはにせがたきものなり。唯顔の備へ眉目(びもく)    鼻口(びこう)の差別にて、おの/\相肖(あいにる)と似ざる違(たが)ひあるなれば、先画法をよく会得    し、此冊中を照し合せて、勘考あるべし〟    ☆ 文化年間(1804-17)  ◯「世上流行」大坂(『摂陽奇観』巻45『浪速叢書』第5所収)   〝江戸産物店  江戸色のし紙  江戸歯磨  役者似顔の摺もの    錦絵の日傘  せんべい店ニにしきえのあんどう〟  ☆ 天保十二年(1841)    ◯『江戸見草』〔鼠璞〕下57(小寺玉晁・天保十二年(1841)記)   〝三月十九日、水野正信と加藤何某と三人同道にて、吹屋町芝居見物、次にとぢ入し似顔、後に絵草紙屋    にて見しに、再吹屋町芝居へ入し如く、余り能似たりし故、爰に入    (あつ盛・尾上栄三郎、熊谷直実・市川海老蔵、石川五右衛門・嵐吉三郎、真柴久吉・板東彦三郎、     笹野三五兵衛・関三十郎、さつま源五兵衛・嵐吉三郎、香蝶楼国貞画)〟    ☆ 天保十三年(1842)<五月>    ◯『藤岡屋日記 第二巻』(藤岡屋由蔵・天保十三年記)   ◇役者似顔絵禁止 p271   〝天保十三寅年五月    飛騨内匠棟上ゲ之図、菅原操人形之図役者似がほニて御手入之事    去十一月中、芝居市中引払被仰付、其節役者似顔等厳敷御差留之処、今年五月、神田鍋町伊賀屋勘左衛    門板元ニて、国芳之絵飛騨内匠棟上ゲ図三枚続ニて、普請建前之処、見物商人其外を役者の似顔ニ致し    売出し候処、似顔珍らしき故ニ売ル也。又本郷町二丁目家根屋ニて絵双紙屋致し候古賀屋藤五郎、菅原    天神記操人形出遣之処、役者似顔ニ致し、豊国の画ニて是も売る也。     右両方の画御手入ニて、板元二人、画書二人、霊岸島絵屋竹内、日本橋せり丸伊、板摺久太郎、〆七     人三貫文宛過料、     画師豊国事、庄蔵、国芳事、孫三郎なり。     六月中役者似顔・遊女・芸者類之絵、別而厳敷御法度之由被仰出〟    〈この二つの役者似顔絵、「飛騨内匠棟上ゲ図」(国芳画・伊賀屋板)と「菅原操人形之図」(豊国画・古賀屋板)に     関して、曲亭馬琴が次のような記事を残している〉     (天保十三年九月二十三日付、殿村篠斎宛書翰(『馬琴書翰集成』第六巻・書翰番号-10)⑥50)   〝当地之書肆伊賀屋勘右衛門、当夏中猿若丁両芝居之普請建前之錦絵をもくろミ候所、役者似顔絵停止ニ    成候間、其人物の頭ハ入木直しいたし、「飛騨番匠棟上の図」といたし、改を不受して売出し候所、其    絵ハ人物こそ役者の似面ならね、衣ニハ役者之紋所有之、且とミ本・ときハず・上るり太夫の連名等有    之候間、役者絵ニ紛敷由ニて、売出し後三日目に絶板せられ、板元勘右衛門ハ御吟味中、家主ぇ被預ケ    候由ニ候。又、本郷辺之絵双紙や某甲の、改を不受して売出し候錦絵ハ、似面ならねど役者之舞台姿ニ    画き候を、人形ニ取なし候て、人形使の黒衣きたるを画き添候。是も役者絵ニ似たりとて、速ニ絶板せ    られ候由聞え候。いかなれバこりずまニ、小利を欲して御禁を犯し、みづから罪を得候や。苦々敷事ニ    存候。是等の犯人、合巻ニもひゞき候て、障ニ成候や。合巻之改、今ニ壱部も不済由ニ候。然るに、さ    る若町の茶屋と、下丁成絵半切屋と合刻にて、猿若町両芝居之図を英泉ニ画せ、四五日以前ニ売出し候。    是ハ江戸絵図の如くニ致、両芝居を大く見せて、隅田川・吉原日本堤・田丁・待乳山・浅草観音抔を遠    景ニ見せて、人物ハ無之候。此錦絵ハ、館役所ぇ改ニ出し候所、出版御免ニて売出し候。法度を守り、    後ぐらき事をせざれバ、おのづから出板ニ障り無之候を、伊賀屋の如き者ハ法度を犯し、後ぐらき事を    せし故ニ、罪を蒙り候。此度出板の両芝居の錦絵ハ高料ニて、壱枚四分ニ候。夫ニても宜敷候ハヾ買取    候て、後便ニ可掛御目候〟        〈馬琴記事の「飛騨番匠棟上の図」と「似面ならねど役者之舞台姿ニ画き候を、人形ニ取なし候て、人形使の黒衣きた     る」図とは、その板元名から『藤岡屋日記』の国芳画「飛騨内匠棟上ゲ之図」と豊国(国貞)画の「菅原操人形之図」     に相当すると考えられる。しかし、藤岡屋記事の方は「役者の似顔ニ致し」たのが処分理由であり、馬琴の書翰にい     う「似顔ならねど」「役者絵に紛識」故の絶板処分とはちがっている。とりあえず、双方の記事に信を措いてみると、     『藤岡屋日記』の「飛騨内匠棟上ゲ之図」と馬琴書翰の「飛騨番匠棟上の図」とは別ものと考えられる。馬琴のもの     は、禁制の役者似顔をやめ入木して頭を直し紋所を入れたものであった。つまり似顔絵仕立ての原画が存在すること     になる。それは『藤岡屋日記』が記す五月に手入れに遭い板元・絵師ともども過料を命じられた「飛騨内匠棟上ゲ之     図」であろうか。しかしそうだとすると、似顔絵仕立ての「飛騨内匠棟上ゲ之図」とその自主規制版である「飛騨番     匠棟上の図」とがそれぞれ処罰されたことになる。五月、似顔仕立てに対して処分が下ったのち、こりずにまた入木     して異版を出す、それが三日も経ずしてまたもや絶板処分である。いかに「こりずまニ、小利を欲」する板元だとし     てもそんな危険を冒すであろうか。いずれにせよ、馬琴記事と藤岡屋記事との関係については、後考に待ちたい。と     ころで、幸いなことに、似顔絵仕立ての画が残されているので、画像を引いておく。ただ、画題は藤岡屋の記す「飛     騨内匠棟上ゲ之図」ではなく「飛騨匠柱立之図」である。それで、藤岡屋由蔵が「柱立之図」を「棟上之図」と書き     誤ったとする説もあるのだが、これまたよく分からない。ともあれ豊国画の「菅原操人形之図」の方も役者絵に紛ら     わしいという理由で、即刻絶版になった。役者似顔絵にとって、受難の時代がなお続く、九月下旬になると、英泉画     の「猿若町両芝居之図」が館市右衛門の改めを通して出回るようになったが、これは人物像のない「江戸絵図」のよ     うな芝居図であり、依然として役者絵の出版に関しては警戒すべき状況が続いていたのである。参考までに、英泉の     「猿若町芝居之略図」(大々判錦絵、板元、中野屋五郎右衛門・三河屋善治郎、文花堂庄三郎)も併せてあげておく〉
    一勇斎国芳画「飛騨匠柱立之図」     (ウィーン大学東アジア研究所FWFプロジェクト「錦絵の諷刺画1842-1905」データーベース)
    一勇斎国芳画「飛騨匠柱立之図」     (Kuniyoshi Project「Comic and Miscellaneous Triptychs and Diptychs, Part I」に所収)
    渓斎英泉画「猿若町芝居之略図」     (東京都立中央図書館・東京資料文庫所蔵)    ☆ 天保十三年(1842)<六月>    ◯『藤岡屋日記 第二巻』p276(藤岡屋由蔵・天保十三年(1842)記)   〝六月四日 町触    錦絵と唱、哥舞妓役者・遊女・芸者等を一枚摺ニ致候義、風俗ニ拘り候ニ付、以来開板ハ勿論、是迄仕    入置候分共、決而売買致間敷候、其外近来合巻と唱候絵草紙之類、絵柄等格別入組、重ニ役者の似顔、    狂言之趣向等ニ書綴、其上表紙上包等粉(ママ)色を用、無益之義ニ手数を懸、高直ニ売出候段、如何之義    ニ付、是又仕入置候分共、決而売買致間敷候、以後似顔又ハ狂言之趣向等止、忠孝貞節を取立ニ致し、    児女勧善之為ニ相成候様書綴、絵柄も際立候程省略致、無用之手数不相懸様急度相改、尤表紙上巻(包    ?)も粉色相用候義、堅可為無用候、尤新板出来之節は町年寄ぇ差出改請可申候。      但、三枚続より上之続絵、且好色本等之類、別而売買致間敷候〟    〈浮世絵界の飯の種とでもいうべき役者・遊女・女芸者の絵が一切禁じられてしまった〉  ☆ 弘化三年(1846)    ◯『賀久屋寿々免』(三升屋二三治著・弘化三年稿成)   (国立国会図書館デジタルコレクション「演劇文庫」第4編所収)(29/194コマ)   〝役者似顔絵師     勝川春章  同 春英 春章門人元徳斎  同 春亭 春英門人 いづみ町に住す    他流役者絵師     東洲斎写楽 きら摺の大錦絵役者似顔を出す     歌川風       豊国 豊春門人一陽斎 植木町に住す      豊国門人 国貞 亀井戸に住  国安 早世  国政 早世 二代目 同しんば木坂屋をいふ           国芳 玄冶店に住 朝桜楼といふ名有 向島に住し時      二代目豊国 元祖実子早世      三代目豊国 初国貞 一陽斎     此外に役者似顔江師は錦絵を見ず 数多有は此分に限る〟    〈三升屋二三治は二代目豊国を後素亭豊国いわゆる本郷豊国とせず、初代の実子をもって二代とした。二三治が国貞の     自称「二代目」も容れず、後素亭豊国の「二代目」も採らなかったのはなぜであろうか〉  ☆ 弘化四年(1847)<二月>    ◯『大日本近世史料』「市中取締類集」二「市中取締之部」二 第二三件 p5   (「市中風聞書」)   〝哥舞妓役者共似顔絵之儀ハ御制度之品ニ候処、昨年之春頃より役者共之名前ハ認不申候へ共摺出し、去    年秋之頃より甚敷相成、新狂言之似顔を商ひ候而より、当春抔ハ通例之絵ハ三四分ニ而、六七分ハ役者    絵を商ひ候よし、勿論近年紙価値貴く候間、其儀可有之候へ共、御改正以前よりも高料之品有之、勿論    色摺之篇数も多く手込ミ候品共ニ有之、且春画之儀草紙ニ綴候分ハ勿論四ッ切・八ツ切抔と唱、大奉書    を裁候而、早春世上ニ而交易等いたし候儀之処、春画ハ御政革以前迚も厳敷御制禁ニ候処、昨年春頃よ    り次第ニ多く相成、天道干しと唱へ路傍ニ莚を布、古道具等並へ置候向ニ多く有之、八ツ切之方ハ当春    抔大分ニ世上ニ相見へ、是ハ錦絵と違ひ猶又遍数も多く金銀摺も有之候由、其内ニも六哥仙と唱へ候春    画は金銀多く遣ひ有之候由〟    〈町奉行の市中取締り掛りが作成した市中風聞の報告書である。     役者似顔絵は禁じられているが、弘化三年の春頃から役者名のない役者絵が出始め、秋頃から甚だしくなり、新芝居     の役者似顔絵も売買されるようになった。今春は売買の六~七分が役者絵で、通常の絵は三~四分というありさま。     しかも天保の改革以前より高価な品や摺り数の多い手の込んだ品も出回っている。また春画は草紙仕立てのものは勿     論のこと、四ッ切・八ッ切などと称して大奉書を裁断したものまで売買されている。春画は改革以前から禁止であっ     たが、やはり昨年の春頃から次第に多くなり、天道干しなどと称して、路傍に筵を敷き古道具屋のような体裁で売ら     れている。そのうち八ッ切がこの春多く出回り、摺り数も多く中には金銀摺りのものもある由である。特に「六歌仙」     なる春画は金銀を多く使っているとのことだ。     役者名のない役者似顔絵のことを、町奉行では「踊形容」と呼んでいた。嘉永六年(1853)、国芳の「浮世又平名画奇     特」が問題視され、町奉行の隠密廻りが国芳の身辺を探索したとき作成された報告書の中に、「踊形容と申立候は、     歌舞妓役者共狂言似顔之図二候得共、名前・紋所を不印」とある。(この文書は本HP「浮世絵の筆禍」嘉永六年の     項で引用する)この「踊形容」なるものは、実は、弘化三年十一月、改(アラタメ=検閲)掛りの名主たちが連名で「風俗     ニ可拘品ニ無之踊形容之絵姿位之処は改印致し遣し候ハゝ、渡世向も行立ち下潜商ひ等不仕、却て取締方可然哉」と、     つまり許可した方が草双紙・錦絵を生業とするものとっては有り難いから、不正に走ることもなく、かえって取締り     やすいとして、許可するよう要望していたものであった(注)     町奉行はこれに応える形で名主の要望を認めたのだが、その三ヶ月後にこの風聞である。市中取締り掛りはこの成り     行きに不安を抱いていたのである。これを受けて町奉行の見解が五月に下される。以下、下出<五月>の『大日本近     世史料』(「市中風聞書」「町奉行上申書」)事項に続く。     なお、露店での春画売買については、天保十三年一月の取締り掛りによる報告があり、弘化二年の十二月には町触を     出して取締りを強化したが、徹底しなかったようだ。ところで、この「六歌仙」の春画、国文学研究資料館の「日本     古典籍総合目録」によると、浮世又平(歌川国貞)の『閨中六歌仙』(三冊?)と北渓の『六歌仙』(一帖)とある。     今いずれとも決しがたい。画工の特定は後考に待つ。金銀摺が手がかりとなろうか。     (注)この場合の不正とは、下絵の段階で改を受けたのち、完成見本を提出して再度の改を受ける前に勝手に売り出        すことをいう。『大日本近世史料』「市中取締類集 十九」書物錦絵之部 第八三件)〉    ◯『事々録』〔未刊随筆〕③351(大御番某記・天保二年(1841)~嘉永二年(1849)記事)   (弘化四年・1847)     〝歌舞伎役者岩井半四郎は頗る生延びて七十余に及び、去年も桂川の狂言にお半の娘がたなどなしけるが、    此水無月初に死て、深川浄心寺に棺送りも、其輩は皆々供にたち、又見る者も山をなせり、只近き頃に    しき絵の役者似顔禁ぜられ、にしき絵の辞世なんどの絵は出さず、因みいふ錦絵役者絵の禁ぜられては、    武者絵専ら行はれしが、今年にいたり名にはあらはさねど、役者似顔絵ひさぐ事に成たり〟    〈「にしき絵の時世なんどの絵」とはいわゆる「死絵」をいうのであろう。改革に緩みが生じ始めたのであろう、弘化     四年頃から再び役者似顔絵の商売が出来るようになったという記事である〉     ◯『大日本近世史料』「市中取締類集 二」市中取締之部 二 第二三件 p22   (「市中風聞書」「町奉行上申書」)   〝(前文に上出<二月>の「市中風文書」と同じ文あり・省略)    此儀、歌舞伎役者共似顔錦絵ハ前々より御構無之、尤当時之如く巧ニハ有之間敷候得共、東マ(ママ)錦絵    と唱え、東都之名物ニ相成居、国々え之土産等ニもいたし、享保・寛政度も其侭御沙汰無御座候処、去    ル寅三年(天保十三年)、錦絵と唱え哥舞伎役者・遊女・芸者等を一枚摺にいたし候儀、風俗に拘り候    筋ニ付、以来開板は勿論、是迄仕入置候分とも決て売買致間敷旨、町触いたし候後は、右渡世之もの共    差当売ものニ差支、子供踊り之絵組ニて開板売出し候処、是以狂言筋之由ヲ以被差留候間、工風いたし、    趣意弁別致し兼候絵を板行致し、右之内頼光四天王之絵、又は天上人間地獄之絵、其外品々不分り(ママ)    之絵柄など差出、人々之目ニ留り、是は何に当り可申抔、判断を為附候様ニ致成、奇を好候人情ニ付、    新絵出候度毎争て買求、彼是雑説いたし候ニ付、絶板売止申付候後は、猶々難得品之様ニ相心得、探索    いたし相調、残り少ニ相成候所ニ至候ては、纔三枚ツヾキ之絵弐朱壱分位ニも、素人同士売買致し候由    ニ相聞く、右は何となく御政事向御役人え比喩いたし候事ニも相聞、以外之不宜筋ニて、其頃兎角右体    之取計いたし、人ニ為心附候様致し成、専利を求候儀ニて、夫も渡世薄く取続兼候所よりいたし成候儀    ニ有之、当時右体之儀は更ニ無之候得共、似顔絵よりは尤不宜筋ニ有之、併前書之通差留相成候役者似    顔絵を公然と商ひ候は、全触背之義ニ付、早速咎も可申付処、役者名前ヲ不顕は憚居候筋ニ付、此後新    狂言之絵組ニ当り候分は、売出し申間敷旨申渡置候様可仕候、其外春画好色本ハ前々より制禁之品之処、    極密板行いたし候ものも有之哉、顕露ニ売買いたし候義ニは曾て無之、且道路ニ古道具等並べ置候内ニ    稀ニ好色本有之候は、全古ル本ニて紙屑買など買出し来、売渡候儀と相聞申候、春画大小等は、先ッハ    蔵板重もニて交易いたし候儀ニ候得共、本屋共之内新規板行等致し、高価に売捌候ものハ猶探索之上取    調、夫々及沙汰候様可仕と奉存候〟    〈この文書は上出二月の「市中風聞書」を受けて、町奉行が意見の述べたもの。     役者似顔の錦絵は前々より禁止ではなかった。東錦絵と称して江戸の名物土産にもなっていた。享保・寛政の時は別     段の沙汰もなかったが、去る天保十三年六月、役者・遊女・芸者絵は風俗に拘わるとして、開板は勿論、在庫の売買     も禁じられた。その後、これらを生業とするものたちは当面の商品にも差し支え、子供踊りの絵を売り出したが、こ     れも芝居絵とされ禁止になった。そこで工夫して、絵の趣旨が何であるか判断しかねるようなものを売り始めた。そ     のうち「頼光四天王之絵」や「天上人間地獄之絵」など、判読しがたい絵柄のものが出て、人々の目に止まり、これ     は何あれは何などと、解釈に興ずるようになった。奇を好むのが人情だから、新しい絵が出るたびに競って買い求め、     かれこれと雑説を立てる。それで絶版と売買禁止にしたのだが、人々は逆に一層入手が困難とみて探し求めるように     なった。在庫があと少しともなると、僅か三枚続きの絵を、素人の間では二朱一分で取引しているとのことだ。これ     らは、それとなく政治内容や役人を擬えているとも聞くので、甚だ宜しくない。この頃はこうした体裁にして、人の     気を引こうとしたのは、専ら利益を求めてのことで、生活が成り立ちにくいからであった。現在、そうした体裁の絵     はないが、役者似顔絵より宜しくない。禁じられている役者似顔絵を公然と売買するのは違犯であるから、早速処罰     せねばならないところだが、役者の名を顕わにしないなど、お上に遠慮するような姿勢も見えるから、新狂言の絵に     ついては販売禁止と申し渡すことにする。春本好色本については、極内密に発行したものはあろうが、あからさまに     売買したものはない。路上に古道具等と並べ置くものの中には稀に好色本もあるが、これは全くの古本であって、紙     くず買いから買ったものと聞く、春画の大小などは蔵版を主に売買しているようだが、もし新規に板行して高価に売     り捌いた場合は探索して取り調べ、それぞれ裁定を下したい。     町奉行が示した指針は、役者名の入らない役者絵(所謂「踊形容」)については不問に付す。ただし新狂言の絵は販     売禁止にした。また春画好色本に関しては、新規板行に限って吟味の対象とするというものであった〉    ☆ 嘉永元年(弘化五年・1848)    ◯『勧善青砥演劇譚』五編(一陽斎豊国画 藪雀庵斗文 菊屋幸三郎板 嘉永元年刊)書誌   (『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』〔日本書誌学体系67・近世文学読書会編・青裳堂書店・平成五年刊〕)   〝向井信夫著「勧善青砥演劇譚紹介」(『江戸文芸叢話』所収、平成七年、八木書店刊)によると、天保    改革により禁じられていた役者似顔の挿絵が本書四編あたりより復活、大当たりとなり、五編では摺付    表紙が間に合わず、仮表紙仕立の出版となったとある〟    〈孫引きになるが向井説を引いておいた。四編五編とも弘化五年刊。四編がベストセラーになり、五編は表紙が間に合     わず仮表紙のまま販売したようである。市中の役者似顔絵に対する渇望のほどを示すエピソードといえよう〉    ☆ 嘉永五年(1852)  ◯『浮世絵と板画の研究』樋口二葉著 日本書誌学大系35 青裳堂書店 昭和五十八年刊    ※ 初出は『日本及日本人』229号-247号(昭和六年七月~七年四月)   「第一部 浮世絵の盛衰」「七 続き絵の出版」p51   (三代豊国画「東海道五十三」嘉永五年(1852)刊 いわゆる「役者似顔見立絵」について)   〝〈天保改革の〉峻厳な禁令は背景を主題とした見立風俗絵に逃を張り、東海道木曾街道の如き一枚づゝ    で、続いて行く題材を撰んで国貞・国芳・広重の合筆の東海道五十三次なども出来る。擬源氏五十四帖、    擬百人一首、名所見立、料理店見立、曰く何、曰く何と此様種類が続々と出るやうに成つた。広重の東    海道五十三次や、江戸名所、諸国名所等も産出されるに至つたのは、無意義な役者風俗絵は有意義なも    のと成つて、一時の打撃は再び隆盛を歓呼する媒介と成つて来た。    此禁令も次第に弛んで三年目の弘化二年には国貞は既に三世豊国を名乗つた後で、役者の似顔に見立て    た東海道五十三次の大錦を出した。久々で役者似顔の出たのだから大歓迎である。けれども憚つて役者    の名を入れる事はしなかつた、役者似顔とは一目瞭然であつても、其の名を捺棒(ママ)に入れないから、    並の風俗絵で通り大いに世に行はれ、岡崎駅中村歌右衛門の見立、荒木政右衛門の如きは三十五杯も摺    立てたと云ふ。三十五杯と云へば七千枚である。当時錦絵の売高は能く売れたと云ても三四千枚である    に、七千枚を捌いたと云ふ古今未曽味の事と評判された。此の役者似顔見立が試験石となつて、ポツリ    /\役者絵の出版を見たが、役者の名は皆署せないで禁令の網の目を潜り、其の習慣は文久頃まで繋続    して来たやうである〟     〈なお樋口二葉はこの「役者東海道」と弘化二年のこととしている〉  ☆ 嘉永六年(1853)<六月>      ◯『藤岡屋日記 第五巻』p238(藤岡屋由蔵・嘉永六年(1853)記)   ◇役者似顔絵出回る    〝嘉永六丑年三月、当時世の有様    錦絵も役者は差留られ候処、右名前を不書候ても釣す事はならず候処に、少々緩み、去年東海道宿々に    見立故へ(ママ)役者の似顔にて大絵に致し釣り置候所、珍敷故大評判と相成、板元は大銭もふけ致し候所、    益々増長致し、右画を大奉書へ金摺に致し、壱枚にて価二匁宛に商ひ候より御手入に相成、板木を削れ    ら候仕儀に相成候〟    〈「去年東海道宿々に見立故へ(ママ)役者の似顔にて大絵に致し釣り置候所、珍敷故大評判と相成、板元は大銭もふけ致     し候」とあるのは、三代目歌川豊国の「東海道五十三次の内(駅名)(役名)」という形式の標題をもつ作品群をい     うのであろう〉
    「東海道五十三次内 まり子 田五平」三代目歌川豊国画 (東京都立中央図書館・東京資料文庫所蔵)    ◯『近世風俗史(三・四)』(『守貞謾稿』)   (喜田川守貞著・天保八年(1837)~嘉永六年(1853)成立)   ◇巻之十六「女服」③89   〝今世も芝居俳優の処女に扮する者、都鄙貴賤貧富を択ばず専ら振袖を着せり(当時の浮世絵と云ふもの    は、専ら俳優肖像を専務とす。故にすべてこの徒の画は、自づから芝居の扮に似たり)    後世の人、今世の画図をもつて全く当時の風姿とせば誤謬多からん〟     ◇巻之二十八「遊戯」④313   〝天保府命前は役者肖像の一枚摺り、各役者の名を大書し、扮する所の名を肩に細書す。府命後、この肖    像を禁ずるにより、今は肖像なれども、扮する所の名を書きて、役者名を書かず。後年に至らば、某は    某と云ふ役者名を伝ふべからず。     役者肖像の始め、『塵塚談』に云ふ、宝暦比の画工鳥山石燕なる者、白木の麁末なる長さ二尺四、五     寸、幅八、九寸の額に、女形中村喜代三郎が似面を画きて、浅草観音堂の中、常香炉の脇なる柱へ掛     たり、諸人珍しきことに沙汰に及びしなり、これ、江戸にて似面絵の濫觴なり。その比までは、一枚     絵、役者一人をのりいり紙を三つぎりにして、狂言の姿を彩どり、三、四へんずりにして、肩へ市川     海老蔵、瀬川菊之丞などゝ銘を記すのみにて、顔は少しも似ず、一枚四文づゝに売たり。近比は、右     体の一枚絵は更になく、浮世冊子迄も似面になり、錦絵を表紙に付け、彩も七八へんずりにするなり。     かぶき役者に限らず、吉原遊女、水茶屋女、角力取までも似面絵にして見ることになれり、云々。    これ文化中に云へることなり。当時七、八遍摺を美とせしなり。今は皆十余遍摺りのみ〟     ◇巻之三十「傘・履」⑤27   〝文政頃、京坂製小児日傘    芝居俳優肖像等の錦絵三枚を張り、その余は浅黄紙張りとして、専ら女児の日傘とす。長柄にあらず、    小形なり。男児は用ひず〟    ◯『宮川舎漫筆』〔大成Ⅰ〕⑯318(宮川政運著・安政五年序・文久二年刊)   〝(『愛閑楼雑記』を引いて、役者肖像画の創始を勝川春章とする説を紹介した後に)    政運云、歌舞伎役者似顔は、鳥山石燕といえる画工が始めなるべし。此頃塵塚談といえるにしるしある    を其まゝ出す。    歌舞伎役者写真画の事、宝暦のはじめの頃、画工鳥山石燕なるもの、白木の麁末なる長サ二尺四五寸、    幅八九寸の額に、女形の中村喜代三郎が狂言似面(ニガホのルビ)を画して、浅草観音堂の中常香炉の脇な    る柱に掛たり。諸人珍敷事とて沙汰に及びしなり。是江戸にて似顔絵の始めなるべし。其頃までは一枚    絵とて、役者一人を糊入紙を三ッ切にして、狂言の姿を色どり三四遍摺にし、肩へ市川海老蔵、瀬川菊    之丞などゝ銘を印すのみにて、顔は少しも似ず、一枚四銭ヅヽに売たり。近年は右体の一まい絵は更に    なし。浮世草紙迄も似顔絵になれり。錦絵と名づけ拾三四へん摺にするなり。歌舞伎役者にかぎらず、    吉原遊女水茶屋女、又は相撲取まで似顔絵にして売事になれり〟    ◯『寒檠璅綴』〔続大成〕③186(浅野梅堂著・明治初年記)   「錦画」   〝歌舞伎役者ノ似顔ト云モノハ柳文調ヨリ始リ〟    ◯『蜘蛛の糸巻拾遺』(斎藤月岑著)   〝宝暦年中より一筆斎文調、歌舞伎役者の似顔を画き創む、つゞきて勝川春章似顔絵を出だし、春好、春    英等に至つて盛に行はる〟    〈出典は大野静方著『浮世絵と版画』〉    ◯『読売新聞』(明治25年7月10日)   〝西洋人が本邦の古画に於ける嗜好    俳優の似顔をもて米櫃にせる歌川派の画工中豊国三代の画きたる似顔絵が 古今独歩の価あるに引き換    へ 西洋人は更に之を珍重せずとの事なり 其(そ)は見世物の引札なるべしとの観察をもて 一図(づ)    に排斥するに由るなり 故に西洋人との売買を家業にする者 其の内の口上絵又は追善絵をぬきて 是    れこそ日本大名の絵なりと名づけて 纔(わづか)にはめ込むとなり 斯(か)く歌川派の名人が精神こめ    て画がきたる特色あるものが 声価を落としたるに反して 画工自身すら嘔吐の間に画きたる醜怪の春    画は殊に西洋人の好む所となり 当時名もなき画工の手に成れるものすら 非常の高価を有(たも)てる    に付 何時(いつ)しか豊国三代・応挙・北斎又は又平などの春画 何(いづ)れよりか湧て出て 百枚続    き五十枚続きの大板もの 一巻五六百円に売れ行くとは 驚き入たる話なり 豊国とて応挙とて北斎と    て将(は)た又平とて 多少さる画は書きたらんも 斯く夥しく品の出んは不思議の至り 恐くは何者か    偽筆を試むるに由るなるべしとて 心ある画工は古人の名誉の為めに太(いた)く嘆けり〟    〈西洋人には役者似顔絵が見世物の宣伝ビラ同様のものと見えていたようでたいそう不人気であった。それで画商たち     は僅かに口上絵と追善絵すなわち死絵を大名の肖像だとして捌いていたようである。それに反して春画のもてはやさ     れようは異様で、名も無き画工のものですら高値で取引されるから、豊国三代・応挙・北斎・又平などの春画はいう     までもない。しかし一方で「斯く夥しく品の出んは不思議の至り 恐くは何者か偽筆を試むるに由るなるべし」とい     ぶかしく思う識者もいたようである。このブームには当時から不審がつきまとっていたのである  ◯『古代浮世絵買入必携』p21(酒井松之助編・明治二十六年(1893)刊)   〝役者の似顔絵は百年以前の第八図より以上の物は宜しくも、第九図より以下の物は其の価甚だ廉なり。    又画工によりては価に係はらず買い入れざるもの多し。尤も第八図以上の役者絵にても美人画の殆ど半    額くらいなり〟
   「女絵髪の結ひ方」第一図~第九図 第十図~第十三図 (国立国会図書館 近代デジタルライブラリー)  ◯「錦絵と俳優名」石井研堂著(『錦絵』1号 綜芸書院 大正六年四月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝(天保期・水野忠邦の治世より、役者絵・遊女絵・女芸者絵の出版が禁止されたこと)     これ錦絵界には大打撃であつたらうと思はれる。俳優似顔を主的としたもので、其似顔の持主を明記    すること出来ないとあつては宛も名所の景色画に其地名を現はさゞると一般、何となく不具の画たるを    免れない。     併し絶対に俳優の名を記してならないと有つては、錦絵の死の宣告である 是に於て錦絵の製作者は    自衛上左の二種の手段を執つて法網外に俳優名を記してあつた。     第一 此の法は俳優の紋所を、其の簪、其着衣、其地紋等に用ひて、其誰たるを暗示するものにして、    世人の熟知する所である。     第二 予の特に述べんとするは此法で 俳優名を印刷したる小箋を錦絵と同時に売り、需要者をして    錦絵面に糊付さするのである 今日卑猥の古書を翻刻する者が 官の咎めを蒙りさうな部分を総て◯◯    ◯として欠字しおき、別に其欠字の本文と頁数を印刷したる小箋を製し、本書に添付して出版の目的を    達して居る様に聞て居るが これ六七十年前の錦絵出版者の故智に倣へるものであらう。     〈その具体例として、石井研堂は次の二種を示す〉    (イ)嘉永五年、住政井筒屋等の版、豊国筆「東海道五十三次」大首俳優似顔絵百三十八枚続のもの、     各葉皆此小箋が糊付されてある(以下略)    (ロ)同じく豊国筆 山久版(嘉永間の発行と思はれる)お三茂兵衛の狂言画に、坂東しうか、市川団     十郎の二枚糊付されてある      「古人尾上菊五郎」東海道五十三次の内 白須賀猫塚に張紙されてある俳優名箋      「市川団十郎」  お三茂兵衛の狂言画に張紙されてある俳優名箋     法律には楯つくこと出来ず、不利を忍んで記名を避けて居つた発行者は、海内騒擾幕府の綱紀漸く弛    むに乗じ いつとは無しに法を無(なみ)するやうになつて来た 豊国筆万延元年申年四月錦昇堂版の、    三筋の綱五郎の河原崎権十郎の大首絵は 優名を題とせるのみならず一枚絵である 此頃より追々法令    を無視したるものらしく其翌々年文久二年版の近世水滸伝等などより後は 公々然と摺出し、以て今日    に至れつて居る。     之を要するに 徳川幕府の為政者が風教上の取り締まりとして発布した俳優似顔錦絵に記名を禁ずる    法令は約二十年間実行されたやうだが 真実は二種の方法の下に 法を破られてあつたのだ〟  ◯『浮世絵と板画の研究』(樋口二葉著・昭和六年七月~七年四月(1931~32))   △「第二部 浮世絵師」「九 役者似顔絵の流行」p103    (役者似顔絵の享受層)   〝芝居と甘藷を好まぬ女は江戸に居ないと云はれた程、武家の素ツ堅気な女の外は芝居を見るが唯一の娯    楽で、役者に知己でもあるを無上の名誉のやうに思うた風が、江戸の女気質と成つて居て、それが民間    の俗を成すのみでない、柳営の大奥でも諸侯方の奥向でも、旗本などの後庭にしても河原者よ歌舞伎者    よと貶しつゝ、碌々芝居を観た事もなく、役者の顔をも知らない女で、似顔絵を介して顔馴染の贔屓々    々を生じ、誰れの彼れのと嘖々噂する不思議の現象があつた。    此の現象が役者の似顔絵をして勢力を占め、芝居の興味を誘り立て憧憶させるので、役者似顔の芝居絵    と云ふと、観劇の出来ない婦人向に歓迎を受け、次第に拡まると同時に営利を目的とする版元は、其の    出版を続々と行ひ役者似顔の一絵が多くなつて来て、後には風俗美人絵よりも遥に版数も多く、売高も    亦た多いことに成り、東錦絵の隆昌を導く急先鋒の役を勤め、化政度に至つては錦絵の売高、出版の版    数は役者絵に敵する絵は殆ど無いやうに成つた。     (中略)    殊に五渡亭国貞が盛んに役者似顔絵を出すやうに成つて、浮世絵界を風靡した頃から、芝居の座元・狂    言作者または役者との関係が密になつた。(中略)国貞の役者絵は師匠の一世豊国よりも、顔の描き方    の円満で愛嬌に富み、何様醜い顔でも何処にか美点のあるものだから、其の美点を誇張して癖を取るの    で、描かれる者は勿論観る者も更に悪感を与へない特長があつた〟   △「第二部 浮世絵師」「一〇 新狂言の役者絵」p106    (出版への段取り)   〝芝居の座元・狂言役者または役者との間には連鎖が附いて居るから、新狂言が極ると直ぐ画工の許へ知    らせて来る。此処に於て画工は其の狂言に依て構図を作るだが、新しく書下した狂言で無い限りは、夫    れ/\にお約束の型はあるもので、廿四孝輝虎配膳とか狐火とか云ふやうに、絵にする処は極り切て居    るから、画工は腹案を定めて下絵を作るし、書下しものゝ新狂言になると、作者より其の筋と場面を聞    き、主要の人物が仕業を尋ね、また役者が其の役々に対する工天を探り、下図を考へて一番目物、二番    目もの、中幕ものと、先づ五六番の下絵を描き弟子を地本問屋へ走らせて相談するのだ。     (中略)    地本問屋には年行司と云ふものを設け組合内の事務を執り、画工から廻る下絵の如きも年行司が先主権    を有して居るので、先づ自分の家にて出版せんとする絵柄の好きものを選定し、他を組合中へ紹介して、    例へば世界が忠臣蔵とすれば、甲の座は三(ママ)段目の腹切を取る、乙は五段目の二つ玉、丙は七段目の    茶屋場と云ふやうに絵の衝突を避けて、新狂言に対する出版が決定すると、画工はいよ/\板下絵に着    手して描き揚げるのである〟
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