Top 浮世絵文献資料館浮世絵師総覧 ☆ やくしゃえ 役者絵浮世絵事典 参考 役者似顔絵 ☆ 承応元年(1652) ◯『男色大鑑』巻五・三 井原西鶴作・貞享四年(1687) 〝承応元年秋(ある公家が)川原の野郎若衆、きゝしばかりにて見ぬ事ぞかし。せめては其姿ありのまゝ に移せよと、浮世絵の名人花田内匠(タクミ)といへる者、美筆をつくしける〟〈役者の姿絵を肉筆で描くことは承応年間の頃から既に行われていたのであろうか〉 ☆ 延宝~天和年間(1673~1683) ◯「吾妻錦絵の考」〔燕石〕③276(無名翁(渓斎英泉)著・天保四年序・『無名翁随筆』所収) 〝山東醒世翁曰、延宝、天和の比の一枚絵といふ物を蔵せる人ありて、みるに、西の内といふ紙一枚ほど の大きさありて、おほくは武者絵にて、丹、緑、青、黄土をもて、ところまだらに色どり、大津絵の今 少し不手ぎはなる物なり。画はみな上古の土佐風にて甚よし。画者の名はしるさず。もとより歌舞伎役 者遊女の類ひの姿をかゝず。元禄のはじめより、役者の姿をかきはじむ。丹と桷といふもので色どれり。 江戸真砂子六十帖に云、元禄八九年の頃、元祖団十郎鍾馗に扮す、その容を画き刻て街に売る。価銭五 文、是より役者一枚絵と称するもの数種を刻すと云れり〟 ☆ 貞享四年(1687) ◯『男色大鑑』巻五・五 井原西鶴作・貞享四年(1687) 〝玉村吉弥が情にて、命捨し人数をしらず、江戸中寺社の絵馬に、吉弥面影を乗掛に、坊主小兵衛が馬子 の所、是を見てさへ恋にしづみ、今に世がたりとはなりぬ〟〈坊主小兵衛は本HP浮世絵事典参照のこと。玉村吉弥と坊主小兵衛の役者絵、絵馬にして寺社に奉納の由。玉村吉弥 は万治~寛文年間(1658-73)の役者で、晩年江戸に移って女役から立役になったと伝えられる。貞享ごろには既に伝 説化していたのだろう〉 ☆ 元禄八~九年(1695~96) ◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本) (斎藤月岑編・天保十五年(1844)序) 〝浮世絵類考云 京伝按、江戸真砂六十帖云、元禄八九年の頃、元祖団十郎鍾馗に扮す、其容を画き刻て街に売、価銭五 文、是より役者一枚絵 と称するもの、数種を刻す云々、以上略す〟〈山東京伝は役者の一枚絵の始まりをこの元禄八九年あたりに求めているようだ。次項『江戸真砂六十帖広本』参照〉 ☆ 元禄年間(1688~1703) ◯『江戸真砂六十帖広本』〔燕石〕④97(和泉屋某著・宝暦(1751~1764)頃) 〝元禄年中、勘三郎座にて親団十郎荒岡に成て、切に鍾馗大臣と成て大当り、其鍾馗を西之内四ッに切て、 板行して出す、読売の者、鍾馗大臣団十郎と、呼かけ売ける、我も七八歳の頃、珍敷五文宛に買ける、 夫より段々外の役者絵 はやりて出ぬ〟 ☆ 宝暦年間(1751~1763) ◯『塵塚談』〔燕石〕①282(小川顕道著・文化十一年成立) 〝歌舞伎役者写真の事、宝暦始の頃、画工鳥山石燕 なる者、白木の麁末なる長サ弐尺四五寸、幅八九寸の 額に、女形中村喜代三郎が狂言の似顔を画して、浅草観音堂の中、常香炉の脇なる柱へ掛たり、諸人珍 敷事に沙汰に及し也、是江戸にて似顔画の濫觴成べし、其頃迄は、一枚絵とて、役者 を一人を、糊入紙 を三ッ切にして、狂言の姿を色どり、三四遍摺にし、肩へ、市川海老蔵、又は瀬川菊之丞抔と銘を記す のみにて、顔は少しも似ず、一枚四文づつに売たり、近頃は、右体の一枚絵は更になし、浮世草紙迄も 似面絵になれり、錦絵と名付、色どりも七八遍摺にする也、歌舞伎役者に限らず、吉原遊女、水茶屋女、 角力取迄も似顔絵にしてうる事になれり〟〈錦絵以前の役者絵の記事。役者似顔絵は鳥山石燕が浅草寺に奉納した額の肉筆絵から始まるという。板画の役者絵の 方はまだ似顔がなく、しかも糊入紙を三ッ切にした三四遍摺とあるから、紅摺絵である。それが一枚四文であった。 なお、この中村喜代三郎は初代で安永六年(1777)没。浮世草紙とは草双紙(黄表紙・合巻)か〉 ☆ 明和七年(1770) ◯『半日閑話 巻十二』〔南畝〕⑪343(大田南畝著・明和七年六月十五日) 〝鈴木春信死す 十五日、大和絵師鈴木春信死す。【この人浮世絵に妙を得たり。今に錦絵といふ物はこの人を祖とす。 明和二年乙酉の頃よりして其名高く、この人一生役者絵をかヽずして云、われは大和絵師也、何ぞや川 原者の形を画にたへんと。其志かくのごとし。役者絵 は春章が五人男の絵を始とす。浮世絵は歌川豊春 死して後養子春信と名のりて錦絵を出す】〟〈春信は錦絵が登場する以前の宝暦末に役者絵を画いている。しかし「われは大和絵師(云々)」と言い放って、その 事実まで隠そうとしたことは、春信に歌舞伎役者を賤視する姿勢があったことを示すものであろう。勝れた役者とし て称賛することはあっても、身分上の垣根は厳然とわきまえる。これはある意味では江戸人一般の意識であろう。そ の自覚は浮世絵師たちにも当然あったに違いない。しかし、勝川春章は当時新技術でもあった錦絵でもって、それも 似顔で画いて役者を称賛した。一方の春信はそれをあえてしなかったのである〉 ☆ 明和年間(1764~1771) ◯『反故籠』〔大成Ⅱ〕⑧252(万象亭(森島中良)著・文化初年成立) (江戸絵の項) 〝(明和二年、鈴木春信の「吾嬬錦絵」に続いて)一筆斎文調、勝川春章似顔の役者絵を錦摺にして出す。 是をきめといふ〟 ☆ 安永三年(1774) ◯「川柳・雑俳上の浮世絵」(出典は本HP Top特集の「川柳・雑俳上の浮世絵」参照) 〝ひやうぐ屋へ役者絵の来る長つぼね〟「柳多留9-12」安永3【川柳】 〈大奥の女中から役者絵を掛幅にするよう注文が入るのである〉 ☆ 安永五年(1776) ◯『半日閑話』巻十三(大田南畝 安永五年五月記事)⑪398 〝地紙形錦絵 此頃、地紙形の錦絵、芝居の役者似顔 出る。折り目をつけ置、扇の古ル骨に張りて扇とす〟 ◯『江戸風俗総まくり』(著者未詳 弘化年間成稿) (『江戸叢書』巻の八 江戸叢書刊行会 大正六年刊) ◇「絵双紙と作者」(19/306コマ) 〝天明安永の頃は、錦絵の板に彫るに下絵の如く役者 の目の下なんとうすく色どるを、ボカシいふ事奇工 のさまざま出たれど是を彫る事あたはず、是をすりわくる業を知らずといひしが、今はボカシのみかは 白粉さへ其まゝすりわけ、髪に面部の高低までも彫分摺わくる、奇工妙手の出来たりといはれき、天明 の頃は勝川春英、北川政信(ママ)、春章が輩、役者絵、女絵、風景を書て賞せられしが、寛政の末より歌 川豊国ら歌舞伎役者の肖像に妙を得て、松本幸四郎か市川高麗蔵、助高屋高助か市川八百蔵、坂本(ママ) 三津五郎か蓑助の頃、瀬川菊之丞か市川男女蔵、岩井半四郎か久米三郞のむかし中村のしほ、嵐音八、 片岡仁左衛門、物いふがごとし、舞台顔を絵かきて豊国が筆を振ひし跡を国政又是につぎ半に写楽とい ふ絵師の別風を書き顔のすまひとくせをよく書たれど、その艶色を破るにいたりて役者にいまれける〟 ☆ 天明七年(1787) ◯『秀鶴随筆』⑧20(中村仲蔵著・天明七年) ◇四月下旬記 〝江戸狂歌連中、問屋酒船、鱠盛方、右両人様より、仲蔵上下、団蔵上下、二人立の錦絵百枚、両人へ参 申候 賭的のたゞ仲蔵の大当り浪華のひいき強弓にして 問屋酒船 難波江の蘆とはいわずよし/\と三枡市江は芸のふしもの 鱠 盛方〟〈中村仲蔵は天明六年十二月、大坂へ登る。翌七年正月「傾城桜の陣立」「義経千本桜」で評判をとる。その大坂での 評判を聞いた江戸の狂歌連中が、仲蔵と団蔵の裃姿・二人立の錦絵を贈ったものであろう。この役者絵は贔屓筋が作 って配りものとしたものか〉 ◇五月中旬記 〝江戸深川様より、忠信鼓くわへ申候錦絵、百枚参申候。 くわへてははなさぬよしの桜かな〟〈これも「義経千本桜」。狐忠信は中村仲藏の当たり役であったという〉 ◯『宝暦現来集』〔続大成・別巻〕⑥61(山田桂翁著・天保二年(1832)自序) 〝役者の一枚絵、天明比迄は西之内紙三つ切、今は二つ切也、三つ切の時分は、新板の絵は一枚八文、古 板の絵は一枚六文、又は糊入紙三つ切にて、一枚二文三文と売たるもの也、今の二つ切は、一枚価何程 なるや予不知〟〈「今」は「序」の天保二年頃と思われる〉 ☆ 寛政元年(天明九年・1789) ◯『江戸芝居年代記』〔未刊随筆〕⑪245(著者未詳) (寛政元年(1789)正月、市村座『恋使(コヒノヨスガ)仮名書曽我』) 〝此鬼応、為十郎大当りにて、江戸狂言道中より、訥子、奥山、路考、杜若、三舛、五人の似顔 を勝川春 好 に画かせ、摺物五百枚送りし也。立川談洲楼催主にて、前書は略す、 のぼり迄ひいき/\の二ツ引丸に当るはゑらい紋じやぞ 立 川 烏亭焉馬 見物のいる矢当りの強弓は為ともならぬ為十郎かな 久魚亭 蔵前代地道朝 小高しや奥山ならぬあづまにも実に花道の上の鬼王 秀民亭 俵小槌 見物もわれ市村に朝起きて鬼王入の人は奥山 万多良登志頼 ことしから江戸染の兵にそみてすごき椿の灰のあくがた 朱楽菅江〟〈『歌舞伎年表』⑤81(伊原敏郎著・昭和三十二年刊)は外題を『恋便仮名曽我』とする。また「江戸狂言道中」を 「江戸狂歌連中」とする。立川談洲楼と烏亭焉馬は同人。2010/10/24訂正〉 ☆ 天保四年(1837) ◯『馬琴書翰集成』第三巻・書翰番号-14 四月九日 河内屋茂兵衛宛 ③51 〝(「俠客伝」三集)画工国貞 、二月下旬より団扇の画、并ニ役者にしき画、こみ合居候よしニて、今以さ し画ハ一枚も出来不申候。さて/\はり合なく、こまり申候〟〈当時、国貞は役者似顔絵の第一人者。錦絵の注文が混み合い、読本挿絵に支障が出始めたのである。板元からすると、 錦絵の方が経済的効率は高い。昨年の正月を振り返ってみると、ひと月足らずで役者の死絵が三十数万枚も出る時世 である。本HP「浮世絵事典」「死絵」天保三年の項参照〉 ☆ 嘉永年間(1848-53) ◯「錦絵と俳優名」石井研堂著(『錦絵』第一号 大正六年四月刊) 〝(天保期・水野忠邦の治世より、役者絵・遊女絵・女芸者絵の出版が禁止されたこと) これ錦絵界には大打撃であつたらうと思はれる。俳優似顔を主的としたもので、其似顔の持主を明記 すること出来ないとあつては宛も名所の景色画に其地名を現はさゞると一般、何となく不具の画たるを 免れない。 併し絶対に俳優の名を記してならないと有つては、錦絵の死の宣告である 是に於て錦絵の製作者は 自衛上左の二種の手段を執つて法網外に俳優名を記してあつた。 第一 此の法は俳優の紋所を、其の簪、其着衣、其地紋等に用ひて、其誰たるを暗示するものにして、 世人の熟知する所である。 第二 予の特に述べんとするは此法で 俳優名を印刷したる小箋を錦絵と同時に売り、需要者をして 錦絵面に糊付さするのである 今日卑猥の古書を翻刻する者が 官の咎めを蒙りさうな部分を総て◯◯ ◯として欠字しおき、別に其欠字の本文と頁数を印刷したる小箋を製し、本書に添付して出版の目的を 達して居る様に聞て居るが これ六七十年前の錦絵出版者の故智に倣へるものであらう。〈その具体例として、石井研堂は次の二種を示す〉 (イ)嘉永五年、住政井筒屋等の版、豊国筆「東海道五十三次」大首俳優似顔絵百三十八枚続のもの、 各葉皆此小箋が糊付されてある(以下略) (ロ)同じく豊国筆 山久版(嘉永間の発行と思はれる)お三茂兵衛の狂言画に、坂東しうか、市川団 十郎の二枚糊付されてある 「古人尾上菊五郎」東海道五十三次の内 白須賀猫塚に張紙されてある俳優名箋 「市川団十郎」 お三茂兵衛の狂言画に張紙されてある俳優名箋 法律には楯つくこと出来ず、不利を忍んで記名を避けて居つた発行者は、海内騒擾幕府の綱紀漸く弛 むに乗じ いつとは無しに法を無(なみ)するやうになつて来た 豊国筆万延元年申年四月錦昇堂版の、 三筋の綱五郎の河原崎権十郎の大首絵は 優名を題とせるのみならず一枚絵である 此頃より追々法令 を無視したるものらしく其翌々年文久二年版の近世水滸伝等などより後は 公々然と摺出し、以て今日 に至れつて居る。 之を要するに 徳川幕府の為政者が風教上の取り締まりとして発布した俳優似顔錦絵に記名を禁ずる 法令は約二十年間実行されたやうだが 真実は二種の方法の下に 法を破られてあつたのだ〟 ◯『狂歌やまと人物』(天明老人尽五郎撰 立斎広重画 安政四年(1857)刊) 〝役者絵に皆うかされて奥女中つとふて一夜寝ざる御茶の間 魚海〟 ☆ 慶応年間(1865-68) ◯「私の幼かりし頃」淡島寒月著(『錦絵』第二号 大正六年五月) (『梵雲庵雑話』岩波文庫本 p390) 〝私なぞが錦絵でよく買ったのは、やはり役者絵 であった、権十郎(九代目団十郎)、田之助、彦三郞な どを盛んに集めた。そしてその錦絵は三枚読き大抵一朱で、一枚絵天保銭で二枚位、よほど上等な奉書 紙ででも使ったのでなければ二朱なんていうのはなかった〟〈梵雲庵淡島寒月は安政6年(1859)生まれ、幼い頃というと慶応年間(1965-7)にあたる。天保銭は額面100文だから、一 枚絵は200文である。三枚続1朱は、当時の銭相場は不安定なので換算しずらいが、ネット上の「江戸時代貨幣年表」に よると、慶応三年は1両=16朱=8164~8432文の間、この平均を取って1両=8313文とすると、1朱は520文となる〉 ☆ 明治十年(1877) ◯『明治十年内国勧業博覧会出品解説』山本五郎纂輯 内国勧業博覧会事務局 明治十一年六月刊 (『明治前期産業発達史資料」第七集) 〝元禄以来俳優ノ容貌 ヲ描キタル者ハ鳥居庄兵衛清信ヲ以テ巨擘トス。清信初メ菱川ノ画風ヲ脩メ、後チ 屡変化シテ遂ニ一格ヲ開ク。第二世清信第三世清倍共ニ名手ナリ。其他清満・清長・清峯ノ輩ハ皆伯仲 ノ間ニ在リ〟 ☆ 明治二十年代(1887~) ◯『旧聞日本橋』p249(長谷川時雨著・昭和四~七年(1929~1852)刊) (明治二十年代の日本橋界隈、長谷川時雨の少女時代、二絃琴の師匠の許にて) 〝古い錦絵、--芝居の絵を沢山に張った折本を、幾冊かでしてくれた。私の家にもそれらはいくらかあ った。だが、ここのように系統だって集めたものではない。夫婦は熱心に、これはなんという役者で誰 の弟子、当り芸はなにで、こんな見得(ミエ)をした時がよかったとか、この時の着附はこうだとか、誰の 芸風はこうで彼はこうと、自分たちの興味も手つだってよく話してくれた〟〈江戸の人々の役者絵の楽しみかたがどういうものであったのか、よく分かる記事である〉 ☆ 明治二十四年(1891) ◯「読売新聞」(明治24年1月26日付) 〝浮世絵師の困難 俳優の似顔を画けるもの 国周を始め何れも 古術を市川団六に問ひ合せて写し来りしが 同優は旧蠟 より肺病に罹り 本月四日死去したるに付 一同大いに困難し居れりと云ふ 尤も同優の師匠市川九蔵 は斯かる事にも精しきゆゑ 以来九蔵自ら其の問に応ずるに至れば 却って画工の幸福なりとも云へり〟〈旧蠟とは昨年12月。役者似顔絵を画く浮世絵師にとって、市川団六や市川九蔵のアドバイスは必要不可欠であったよ うだ。おそらく表情・所作・衣装・着こなし等全般にわたって注文を付けてもらったのだろう。記事には出てないが、 彼等の存在は下掲の国芳における梅の屋と同様、国周らにとっては作画の「種」を提供してくれる何とも代え難い存 在であった〉 ☆ 明治三十六年(1903) ◯「羽子板の顔」東京朝日新聞 明治36年1月10日記事 (『明治東京逸聞史』②p106 森銑三著 平凡社「東洋文庫」昭和44年刊) 〝羽子板の顔〈東京朝日新聞三六・一・一〇〉 この間までは、団十郎、菊五郎、左団次、芝翫など、押絵の羽子板を見ても、錦絵を見ても、はっき り見分けが附いたのに、今の羽子板や錦絵では、若手の役者は見分けが附けかねる。画工の方で、まだ 若手を描き馴れないのであろうが、紋を描き添えて、誰れと分るようにしたのなどもある〟〈明治33年、豊原国周が亡くなって以降、役者の似顔を満足に画き分ける若手が育っていなかったようだ〉 ☆ 明治四十年(1907) ◯「錦絵問屋」東京朝日新聞 明治40年10月4日記事 (『明治東京逸聞史』②p252 森銑三編 平凡社「東洋文庫」昭和44年刊) 〝錦絵問屋錦絵 は振わなくなった。画く人もなければ、彫る人もないという有様だ。それで錦絵問屋も、つぎつ ぎと閉店し、今は両国の大平と、室町の滑稽堂との二軒が残っているだけだ。この二軒とても、アメリ カから美人画の註文のあるのを頼りに商売を続けているに過ぎぬ。人形町の具足屋は、役者の似顔絵の 板木も売って、今は石版画を商っている〟〈錦絵の役者似顔絵が振るわなくなったのは、写真製版による役者プロマイドが登場してその勢いにおされたばかりで はない、上掲「羽子板の顔」が指摘するように、紋などに頼らなくとも、役者の「見分け」がつくようキチンと顔を 画き分ける画工がいなくなったせいでもあろう〉 ☆ 大正四年(1915) ◯『浮世絵』第一号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正四年(1915)六月刊)(国立国会図書館デジタルコレクション) ◇「役者絵の順序」あふぎ生記(梅堂豊斎(当時六十八歳)翁談 聞き書き)(16/21コマ) 似顔画を画く順序ですか、それは先づ中村屋(いちちようめ)なり市村座(にちやうめ)なりが、狂言の 世界が極(き)まると、作者が画組(ゑぐみ)の下書(げしよ)を亀井戸(豊国)へもつて来る、大概一狂言に 七八枚位であります。これが師匠の許へ届きますと、今度はこれを持たして古組の所へ見せに廻します。 此古組と云ひますのは、錦絵の版元の事で、昔の錦絵問屋(とひや)は株になつて居たもので、江戸に 十一軒あつてこれを古組と称しました、其後職人の手を明けさせるのが気の毒と云ふので、此古組の内 から別に仮組と云ふものを七軒出しました。 その古組へ見せに行くものが、小僧の役で方々持つて歩行(あるく)のでどうしても一日かゝります、 朝宅(うち)から天保銭一枚呉るのを持つて、昼飯時(じぶんどき)に「しがらき」で三十二文のお茶漬を やつて、跡の残りが焼芋と云ふような訳になるのです。 扨(さて)古組へその下書を持廻つて、こつちの店ではこれ、あつちの店ではこれと、それへぢかに印 をつけて貰ひます、仮令(たとへ)ばそれが忠臣蔵なら、コリャァ皆佳い所を取つて仕舞つたな、三段目 に仕ようと思つたら山口屋に取られたから仕方がない 藤慶が六段目を取つて居るが腹切だから、其奴 (そいつ)を避(よ)けて身売りの所をやつて貰(もら)をふ、又平野屋ぢやァ七段目か ヂャァ此方は九段 目にしよふ、と云つた具合に 決して同じものを注文しない、こゝは昔は義が堅かつたので、この狂言 にしろ、国芳の武者にしろ、片々で一ノ谷を出せば、一方では曽我の討入と云つたように、いくら他で 評判よく、売れるものでも、それを真似すると云ふ事をしなかつた。 それからこの注文に、見立(みたて)と中見(なかみ)との二つがあります、見立と云ひますと、型もの と称する極り切つた狂言で、着附け万端在来の型で宜(い)いと云ふ事で、これを見立と称します、これ は開場前(あくまへ)に取りかゝれますが、中見と云ふと、新狂言又は型ものにしろ、鈴ヶ森の権八は今 度はお定まりの黒の着附でなくつて、鴬茶でやるからなぞと、云ふと其芝居の開場のを待つて、その着 附其他を見て書き止める、これを中見と云ひます、此中見の役が、見習、中僧、時に依つて師匠も出掛 けます、芝居の方ではちやんとサガリが取つてありまして 大概さじきの三枚目位ひです、こゝで新狂 言なら鬘から着附、大小柄糸の色まで書き止めます、それで分らぬ時は楽屋迄行つて見るのです、です から、中見となると、どうしても開場てから、十日目位ひでないと売出せません。 若(もし)上方役者なぞが下つて来ると、人が附随(つい)て師匠の所へ土産物やら包物なら持つて挨拶 に参ります、師匠は応対をして居る内に 其人の特長を見て置いて、此人に目隈を入れればコウとか、 アヽとか工夫をして書上げます、名題下なぞも、画面の中に入れて貰へば名誉にもなるし、名も随つて 知れますから、是等の附届けも随分ありました。〈「名題下」とはいわゆる看板役者を引き立てる役者〉 さて前に言いました、見立なり中見なりで、原図が出来ますと、是を名主の所へ持つて行つて検印を 捺して貰つて夫から彫屋へ廻して、墨板(すみはん)が出来上る、それを見て色ざしを附けてやる、これ の校合摺が又来て、愈々よしとなつて始めて摺上げとなるのです〟 ◯『浮世絵』第四号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正四年(1915)九月刊)(国立国会図書館デジタルコレクション) ◇「浮世絵と国々」酉水(8/24コマ) 〝日本橋辺の旧商家の大店の芝居好きの細君や娘たちは 版元と特約を結んで錦絵を買つたもので、新版 物の出るのを待遠しがると云ふ状態で 値段にお構ひなく写樂や春章、文調の役者似顔絵とか上品な御 殿遊びの三枚続とかの上物を仕入れたものだ、それは一流の錦絵問屋十軒店の武蔵屋辺から納めたので 今も此旧家の土蔵の中には珍品が保存されて居るものがある〟〈日本橋十軒店の武蔵屋(東洲堂・小宮山昇平)は明治期の板元とされているから、天明寛政期の写楽・春章・文調など の役者似顔絵とは時代が違う。ただ江戸の大店が板元と特約を結んで購入していたというのは事実なのであろう〉 ◯『浮世絵』第五号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正四年(1915)十月刊)(国立国会図書館デジタルコレクション) ◇「浮世絵師掃墓録(五)」勝川春章 荘逸郎主人(21/27コマ) 役者絵は鳥居派から出たが、単に紋どころで其人を利かせた甘い仕打は明和頃の人にはおかたるく(マ マ)なつた、其傾向を早くも見てとつて、あの太い描線を避けて其人の特長を巧みにとつた、真の似顔絵 と云ふものを創作したのは此春章である。 ト云つて後の写樂のような極端な写実でもない、例へばこの画(挿絵)を芝居から見たものとすると、 春章は土間の七三、写樂は小(こ)一からと云ふ行方(ゆき)であつた。〈「土間の七三」とは花道のスッポン付近の客席。「小一」は未詳〉 春章 は勝宮川春水の門で俗称祐助、旭朗井、酉爾、従(ママ)画生、六々庵、李林等の別号がある、嵩谷 翁について一蝶風の草画を学び、美人絵、武者絵等 肉筆に版画にその卓越せる伎倆を示して居る。 明和五年の夏 中村座で「操歌舞伎扇」と大名題を据えて、雁金五人男、車引、忠臣蔵、青柳硯、十 帖源氏の寄集めで 役者は幸四郎(五世団十郎)、二世八百蔵、初代秀鶴、天幸、伝九郎、四世団十郎と 云ふ顔揃ひ 各々得意の出しものに 隅から隅迄ズーイと響き渡つた大評判をとつた。これを当時人形 町絵双紙問屋林屋に寄宿して居た春章に描かしたのが この狂言の内雁金五人男の一組、落款の所へ店 の判箱から壺形に「林」と彫つた仕切判を 間に合わせの印章がはりに ポンと押して売出した。 物珍らしいのは江戸の常、鳥居風の大まかに飽きた眼には又一倍、満都の人気を錦絵屋の店先に集め て、利いた風な大本田が村田張をしやくつて ドウモ似顔は壺屋に限りやすと、頼まれもせぬ吹聴を頼 まれたやうに云触らす、これらの手合から奉つた壺屋の表徳が大層な広告となつて、版毎に売行夥しく、 名声頓(とみ)に昂(あが)ると見ると、手の鳴る方へ魚の寄るとひとしく、春潮、春英、春好、春朗(後 に北斎)を始めとして 勝川の流に寄るもの、十数名の多きに至つた。 明和七年、一筆斎文調と合作になれる似顔絵彩色摺の『絵本舞台扇』二冊を売出した、これが又頗る 世評高く 忽ちにして千部売切の好況に、版元異数のことゝして 浅草の酒楼巴屋で 千部売切の祝宴 を開いたとある、後安永八年に同続篇を売出した これも又前に劣らぬ評判であつたと云ふ〟〈役者絵は、紋所でしか区別のつかぬ鳥居風から、個々の容貌や役柄を写す役者似顔絵の世界へと変異していったが、 そのキッカケとなったのが勝川春章と一筆斎文調の合作『絵本舞台扇』であった〉 ◯「近世錦絵製作法(三)」石井研堂著(『錦絵』第廿四号所収 大正八年三月刊)(国立国会図書館デジタルコレクション) 絵師と芝居と出版者と 錦絵の最多数は、役者芝居に関したものである、で、絵師と錦絵出版者と芝居と、この三者の関係を 少しく述べておかう、芝居と錦絵の関係は、今日の芝居と新聞紙の関係と、殆ど同一であつた、たとへ ば、芝居のまだ蓋の明かない幾日前かに、市内の錦絵店に新版の芝居狂言錦絵がずらつと下る、市民は それを見て、始めて其の出し物や役割を知つて評判するといふ風であり、或は新版の錦絵を一揃買ひ、 之を重ねて上の一枚を巻くれば次の錦絵が見えるやうに重ねて張り下げ、淡島さまをかついで歩くやう な体に、之を持つて市上の各家の軒さきに立ち、今度の一番目狂言は是々、中幕は是々と説明を加へな がら錦絵を巻くつて之を見せ、銭を貰つて歩く乞食の一種もあつた、若し夫れ名優の死去でもあれば、 追善絵(俗に死絵といふ)を多数買い込み「これはこの度……無常の風に誘はれて……」などの定文句 を呼び立て、市上を売り歩く者有り、各家は呼び止めて之を買つて見、始めて其の死去を知ること、猶 今日の新聞号外に露違はない、斯く、芝居に就ての錦絵は、全部今日の新聞紙の役を勤め、芝居の為め に錦絵が売れ、錦絵の提灯の為めに、芝居の人気を湧き立たせるといふ風で、相互利得の関係であつた、 で、芝居の座元や作者と、絵師との間柄は、今日の新聞記者と劇場の間柄以上に、親密で円滑であつた。 芝居の方で、出し物が決定すれば、座付作者から先づ通知を受けるのは、錦絵を書く浮世絵師であつ た、忠臣蔵とか太閤記とか、筋の極つたものは、只其の役割だけに止つて居るが、中幕などには、大抵 新作などを挟むので、新作ものには、絵番付のやうに登場者を略図し、それに一々、役名年齢かつら衣 裳、道具の類まで注語を加へてものを通報す、絵師は、之に拠て各場面の概略を数枚の下図に画き、得 意さきの絵草紙店に使を廻し、今度の狂言は斯う極つたが、どれを書かうかと、注文を取らず、絵草紙 店主之を見て、売れさうな場面、たとへば初段と五段の下絵に、店名を注記して注文を定む、第二の絵 草紙店では、甲店が初段と五段ならば、手前の方は三段と七段といふやうに、成るべく重複を避けて注 文を極める、或は又、五段目が好ささうだから、甲店の注文もあるが、手前の方も五段目をと重複さす ることもあるが、それは又その様に、絵師の方で趣を別にし、衝突しないやうに画いてやるから差つか へは起らない。 以上は、開場前に見立て―想像で書いて仕舞ふので、其の為めに、実演と相違を生ずることも少なく ない、登場人名の、新之丞を新之助とかき、下女お兼を下女お亀と書くの類、今日現存の錦絵に、間々 其の例を見るが、これは早急を主として上木するので已を得なかつたのだ。 又、絵双紙店の望みで、絵師が中見をしてから書いてやることもある、絵師は、開場の三日目などに ―初日に出揃ふことは少かつた―興行元から招待されて往く、大抵鶉の三間めなど、舞台に近い観覧席 を供せられ、無料で見るのだが、それに従いて往く門人まで木戸御免、今日の新聞社の劇評記者の待遇 に酷似して居つた、絵師の、此の日の観劇は、中々楽なものでは無く、登場者の顔面部に属する観察は、 一毛漏さずスケツチするなり、頭に納めるなりしなければならない、お供役の門人亦、衣裳の模様、か づらの種類、背景等、悉くスケツチの仕事あり、一時に多数登場する時などは、とても観察行届かず、 幕がおりると直ぐ楽屋に往つて、一々写生しなければならぬこともある、此の日は、楽屋の方から、絵 師へ色々の進物などもあるので、それをよッとこサと提げて帰らねばならないのが、弟子の役であつた。 大阪などから、下つた役者が有れば、其の役者の頼寄(たよ)つて来た役者又は作者などが紹介者とな り、近づきとして、絵師の処へ連れて来る、勿論相当の進物を持つて来、世間話しなどをして帰るのが 常だ、絵師は、其の間に、相貌の癖を眼に留めおき、錦絵の上に出すことになる、下り役者の顔を、其 の役者の少しも関係の無い場面の錦絵に出しておくことが間々有るが、これは、絵師の方への鼻薬が能 く利いた結果なのだ。斯かる間に出来た錦絵の版稿が、彫刻師の手に渡つて彫刻され、色ざしを済ませ て出来上りとなるまでに、彼是一週刊位を要したものだ、中には、芝居が終つて後に出来上る錦絵など もあつた、が、今日とは違つて、芝居の興行日数が永く、又、興行が済んで後までも相当に売れて居た ので、敢て十日の菊にはならなかった〟〈「十日の菊六日の菖蒲(あやめ)」時期に遅れて役に立たないことのたとえ〉 ☆ 昭和以降(1926~) ◯「梅ヶ枝漫録(一)」 伊川梅子(『江戸時代文化』第一巻第六号 昭和二年七月刊)(国立国会図書館デジタルコレクション) 〝歌川家では、芝居に関する絵を書きました。美人画や景色もやりました。似顔絵が重(おも)でした。そ れで上方から俳優が下ると、歌川鳥居両家に挨拶にまはりました。 或る時、加賀屋歌右衛門が参りまして「先生、私は此度千本桜の忠信をしますが、忠信のしつけが、一 寸江戸のお方の目のつくやうに変へたいのですが」と聞きましたが、豊国が云ふには「これはどこで姿 をかへるかと云つても難しい。静が、義経のあとを慕つて行きたいといふ所を、初音の鼓を与へて、鳥 居へ静を縛る。すると、静のしばられてゐる所へ、藤太といふトボケが出て大騒ぎをする。そこへ忠信 が出て助ける。そこは稲荷の景色で、赤い鳥居、赤い道具である。むかしは長裃で出た。こんどは忠信 の扮装をかへるのは鳥居場の所ばかりである。其時の姿は、鎌倉三代記の佐々木の姿、赤いよてんに、 永楽銭がついてゐるが、これを源氏車をつけて、顔を赤く狐ぐまにとつたらいゝだらう」と云ひました。 よろこんで歌右衛門は其の通りにしました。すると鳥居場は、すばらしい評判でした。それで只今もし きたりになりました。加賀屋歌右衛門は大層喜んだといふ事です〟〈役者と歌川派との強い結びつきを表すエピソードである〉 ◯『浮世絵と板画の研究』(樋口二葉著・昭和六年七月~七年四月(1931~32)) ※ 初出は『日本及日本人』229号-247号(昭和六年七月~七年四月) △「第二部 浮世絵師」「一〇 新狂言の役者絵」p106 (出版への段取り) 〝芝居の座元・狂言役者または役者との間には連鎖が附いて居るから、新狂言が極ると直ぐ画工の許へ知 らせて来る。此処に於て画工は其の狂言に依て構図を作るだが、新しく書下した狂言で無い限りは、夫 れ/\にお約束の型はあるもので、廿四孝輝虎配膳とか狐火とか云ふやうに、絵にする処は極り切て居 るから、画工は腹案を定めて下絵を作るし、書下しものゝ新狂言になると、作者より其の筋と場面を聞 き、主要の人物が仕業を尋ね、また役者が其の役々に対する工天を探り、下図を考へて一番目物、二番 目もの、中幕ものと、先づ五六番の下絵を描き弟子を地本問屋へ走らせて相談するのだ。 (中略) 地本問屋には年行司と云ふものを設け組合内の事務を執り、画工から廻る下絵の如きも年行司が先主権 を有して居るので、先づ自分の家にて出版せんとする絵柄の好きものを選定し、他を組合中へ紹介して、 例へば世界が忠臣蔵とすれば、甲の座は三(ママ)段目の腹切を取る、乙は五段目の二つ玉、丙は七段目の 茶屋場と云ふやうに絵の衝突を避けて、新狂言に対する出版が決定すると、画工はいよ/\板下絵に着 手して描き揚げるのである〟