Top 浮世絵文献資料館浮世絵師総覧 ☆ やくしゃ みたてえ 役者 見立絵筆禍 浮世絵事典 ☆ 嘉永五年(1852) ◯『浮世絵と板画の研究』樋口二葉著 日本書誌学大系35 青裳堂書店 昭和五十八年刊 ※ 初出は『日本及日本人』229号-247号(昭和六年七月~七年四月) 「第一部 浮世絵の盛衰」「七 続き絵の出版」p51 (三代豊国画「東海道五十三」嘉永五年(1852)刊 いわゆる「役者似顔見立絵」について) 〝〈天保改革の〉峻厳な禁令は背景を主題とした見立風俗絵に逃を張り、東海道木曾街道の如き一枚づゝ で、続いて行く題材を撰んで国貞・国芳・広重の合筆の東海道五十三次なども出来る。擬源氏五十四帖、 擬百人一首、名所見立、料理店見立、曰く何、曰く何と此様種類が続々と出るやうに成つた。広重の東 海道五十三次や、江戸名所、諸国名所等も産出されるに至つたのは、無意義な役者風俗絵は有意義なも のと成つて、一時の打撃は再び隆盛を歓呼する媒介と成つて来た。 此禁令も次第に弛んで三年目の弘化二年には国貞は既に三世豊国を名乗つた後で、役者の似顔に見立て た東海道五十三次の大錦を出した。久々で役者似顔の出たのだから大歓迎である。けれども憚つて役者 の名を入れる事はしなかつた、役者似顔とは一目瞭然であつても、其の名を捺棒(ママ)に入れないから、 並の風俗絵で通り大いに世に行はれ、岡崎駅中村歌右衛門の見立、荒木政右衛門の如きは三十五杯も摺 立てたと云ふ。三十五杯と云へば七千枚である。当時錦絵の売高は能く売れたと云ても三四千枚である に、七千枚を捌いたと云ふ古今未曽味の事と評判された。此の役者似顔見立 が試験石となつて、ポツリ /\役者絵の出版を見たが、役者の名は皆署せないで禁令の網の目を潜り、其の習慣は文久頃まで繋続 して来たやうである〟東海道五十三次の内 岡崎駅 政右衛門 三代歌川豊国画 (国立国会図書館デジタルコレクション) 〈荒木政右衛門が四世中村歌右衛門の似顔絵になっている。この売り上げ枚数が七千枚にも及んだという。なお売値 および売り上げ高については下掲『藤岡日記』を参照のこと。ところで樋口二葉はこの「役者東海道」を弘化二年 の出版としているが嘉永五年刊が正しい〉 ☆ 嘉永六年(1853)<二月>筆禍 「東海道五十三次」「東海道五十三次合之宿」「木曾街道」 「役者三十六哥仙」「同十二支」「同十二ヶ月」「同江戸名所」「同東都会席図絵」 処分内容 ◎板元板木没収削除 商品没収裁断 (絵草紙掛名主の裁量によるもの) 処分理由 禁制の金使用と高額華美および無断出版が咎められたか ◯『藤岡屋日記』第五巻 ⑤237(藤岡屋由蔵・嘉永六年二月記) 〝東海道五十三次、同合之宿、木曾街道、役者三十六哥仙、同十二支、同十二ヶ月、同江戸名所、同東都 会席図絵、其外右之類都合八十両(枚カ)是も同時ニ御手入ニ相成候。 右絵を大奉書へ極上摺ニ致し、極上品ニ而、価壱枚ニ付銀二匁、中品壱匁五分、並壱匁宛ニ売出し大評 判ニ付、掛り名主村松源六より右之板元十六人計、板木を取上ゲられ、於本町亀の尾ニ、絵双紙掛名主 立会ニて、右板木を削り摺絵も取上ゲ裁切候よし。 東海で召連者に出逢しが 皆幽霊できへて行けり〟〈この記事は前項の「三賊の錦絵」に続いている。「同時ニ御手入ニ相成候」とあるから、この錦絵類の摘発も、嘉永六年 二月のことと思われる。またこれらの錦絵に関して『藤岡屋日記』には次のような記事が続く〉 〝嘉永六丑年三月、当時世の有様 錦絵も役者は差留られ候処、右名前を不書候ても釣す事はならず候処に、少々緩み、去年東海道宿々に 見立故へ(ママ)役者の似顔にて大絵に致し釣り置候所、珍敷故大評判と相成、板元は大銭もふけ致し候所、 益々増長致し、右画を大奉書へ金摺に致し、壱枚にて価二匁宛に商ひ候より御手入に相成、板木を削れ ら候仕儀に相成候〟(『藤岡屋日記』第五巻・⑤238)〈「去年東海道宿々に見立故へ(ママ)役者の似顔にて大絵に致し」とある錦絵は、上出の「東海道五十三次」と同じものと思 われる。おそらく「東海道五十三次の内(駅名)(役名)」という形式の標題を有する三代目歌川豊国の役者絵をいうの であろう。役者似顔絵は天保の改革(1842年)以来、依然として出版を禁じられていたが、時代を経て少し緩みが出始め たのか、役者名の入らない役者絵、いわゆる「踊り形容」と称するものについては、店頭での吊るし売りさえしなければ、 売買が黙認されていようだ。そして嘉永五年頃、上記豊国の役者を東海道の宿駅に見立てた役者似顔絵が出回り始める。 しかも今回は店頭での吊るし売り。珍しいという評判が立って大いに売れた。すると増長して便乗する連中が登場する。 これを大奉書を使った金摺の極上品に仕立て、一枚銀二匁で売り捌いた。前項と同じ相場表に拠って(嘉永六年の相場1 両=60~69匁=6248~6300文)仮に60匁=6248文で換算すると、二匁の極上品が一枚約208文、以下、一匁五分の中品が 156文、一匁の並が104文となる。「掛り名主村松源六より右之板元十六人計、板木を取上ゲられ」とあるから、絵草紙掛 名主の村松源六が自らの裁量で、十六人の板元から板木を没収して削除、また商品も没収して裁断した。これも摘発内容 が具体的に記されていないが、前項の「【見立】三幅対」同様、禁制の金摺を使用して、改(アラタメ)に出したものとは違 う商品を高額で売ったことが咎められたものと考えられる。 手入れにあった次の通り。いずれも嘉永五年の出版開始。 「東海道五十三次」は、三代豊国の「東海道五十三次之内(駅名・役名)」のシリーズか。 「同合之宿」は、未詳 「木曾街道」は、三代豊国の「木曾六十九駅(駅名・名所・役名)」のシリーズと、国芳の「木曽街道六十九次之内 (駅名・役名)」のシリーズとがあるが、ともに規制されたのであろうか。 「役者三十六歌仙」は、三代豊国の「【見立】三十六歌撰(歌人名と歌・役名)」のシリーズか。 「同十二支」は、三代豊国の「【見立】十二支の内(干支・役名)」のシリーズ。 「同十二ヶ月」は、三代豊国の「【見立】十二ヶ月の中(月・役名)」と、国芳の「江戸名所見立 十二ヶ月の内 (月・名所名・役名)」のシリーズか指すか。 「同江戸名所」は、三代豊国の「江戸名所図絵(番号・町名・役名)」のシリーズか。 「同東都会席図会」は、三代豊国画・初代広重画(コマ絵)「【東都】高名会席尽」であろう。 これらの多くは嘉永五年の内に終了したようだが、豊国の「東海道五十三次の内 」には嘉永六年正月の改印が入った 作品があり、また豊国・広重の「東都高名会席尽」には二月の改印のある作品が遺されている。上記の『藤岡屋日記』 の手入れ記事に照らし合わせると、どうやらこれらのシリーズは嘉永六年の二月には終了したものと思われる。以下、 参考までに画像を引いておく〉
「東海道五十三次内 荒井駅 小女郎」 (岩井粂三郎)豊国画 ・井筒屋板
「木曽六十九駅 安中 妙義山 お祭金五郎」 (八世市川団十郎)豊国画 ・加賀屋安兵衛板
「木曽街道六十九次之内 下諏訪 八重垣姫」 (岩井粂三郎)国芳画 ・加賀屋安兵衛板
「【見立】三十六歌撰之内 藤原元真(歌)墨染桜ノ霊」 (三世瀬川菊之丞)豊国画 ・伊勢屋兼吉板
「【見立】十二支の内 戌 神谷伊右衛門 秋山長兵衛」 (三世岩井粂三郎・市川広五郎)豊国画 ・角本屋金次郎板
「【見立】十二ヶ月の中 四月 石橋」 (十二世市村羽左衛門)豊国画 ・加賀屋安兵衛板
「江戸名所見立 十二月の内 正月 浅くさ 宮城野」 (四世尾上菊五郎)国芳画 ・加賀屋安兵衛板
「江戸名所図会 十九 丸山 犬山道節」 (五世松本幸四郎)豊国画 ・伊勢屋忠介板
「【東都】高名会席尽 甲州屋 武田かつ頼」 (八代目市川団十郎)豊国・広重画 ・藤岡屋慶次郎板(以上の画像はすべて「早稲田大学・演劇博物館浮世絵閲覧システム」に拠る)