Top 浮世絵文献資料館 浮世絵師総覧
☆ やくしゃとはやりもの 役者と流行物 浮世絵事典
◯「江戸時代の流行と人気役者(中)」斎藤隆三著(『錦絵』第廿二号所収 大正八年一月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
(第一 帯)
〝吉弥結 延宝年間に美貌を以て世に聞えたる女形の元祖玉村吉弥が、工夫した帯の結方で、恰も唐犬
の耳の垂れた様に、三寸幅の帯の二つ結びの両端をだらりと垂れさせたもので、後には両端の隅々へ鉛
を入れて重みを付けるやうになつた、又帯屋は此結び方に適するやうに、特に帯の幅の尺長いのをこし
らへて、売り出したという程で、元禄頃まで、東西を通じて盛んににはやつたのである、後世には腰元
結を吉弥結といふやうになつたが、これは初めのとは全く変つて居る
吉弥結 菱川師宣画「見返り美人」部分(国立国会図書館デジタルコレクション)
幅広の帯 元禄年間の女形役者荻野沢之丞が、元禄九年の江戸中村座で、女鳴神の狂言をした時に、当
時の通例の帯の幅であつた三寸五六分といふのでは、如何にも見栄がしないといふので、特に幅広の帯
にしたのが、漸次に一般婦女子の幅広の帯を要求する様になつた動機であるとのことである
水木結 元禄の初年京都から江戸に下り、猫の所作事槍踊で、江戸中の喝采を得た、水木辰之助が、
背丈の並勝れて高いのを、まぎらす為めに、結び始めたもので、後帯の結びの手先の長く垂れた結び方
だとしてある、これも元禄の流行である
平十郎結 村山平十郎といふ立役の役者が始めたもので、竪に結んだのだとあるが、どんな結び方か分
らない
路考結 宝暦頃から文化頃まで、東西に亘り非常な勢で流行したのが、路考結である。これは王子路
考の名を以て世に知られ絶世の美貌を唄はれた、二代目瀬川菊之丞が、宝暦十三年八百屋のお七の狂言
の時に、橋懸りで、帯の結び目の解けかゝつたのを、結び直す暇がなかつたので、取敢へず取つて挿み、
芸をしたが、その無造作にした帯の形が、ひどくよかつたとて、はやり出したのである。謂ゆるまをと
こ結びの類で『都風俗化粧伝』には、図の様な結び方としてある、これは之に比べると幾分の修飾やら
変化やらがあるらしい。
路考結 速水春暁斎画 合巻『都風俗化粧伝』佐山半七丸作(国立国会図書館デジタルコレクション)
(第二 被(かぶ)り物)
沢之丞帽子 荻野沢之丞が野郎帽子の左右に鉛の錘をつけ、左右を垂れさせたものである
荻野沢之丞と松本勘太郎の草紙洗い 伝鳥居清信筆(東京国立博物館)
瀬川帽子 享保十九年、江戸中村座「十八公今様曽我」の狂言で、初代瀬川菊之丞が、座敷女中に扮し
て、かむつたのが初めで、後の世まで知られて著しいものである
宗十郎頭巾 享保十九年の春、京都の芝居で、初代沢村宗十郎が、梅の由兵衛に扮して被り出してから、
世に流行したのである、
今様押絵鏡 梅の由兵衛 三代目歌川豊国画(演劇博物館デジタル)
大明頭巾 宝暦元年に、慶子と呼ばれた初代中村富十郎が、若女形として大阪から江戸に下り、寒風を
防ぐ為めに、紫縮緬で一種の帽子をこしらへて被つたのが、時の婦人間の流行になつたのである、やが
て男女通じて之を用ひたといはれて居る、後の世のお高祖頭巾はこの頭巾の少し変つたものである
お高祖頭巾 宗十郎頭巾 三代目歌川豊国画(演劇博物館デジタル)
◯「江戸時代の流行と人気役者(下)」斎藤隆三著(『錦絵』第廿三号所収 大正八年二月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
(第三 模様柄)
小太夫鹿の子 玉村吉弥時代の女形で、伊藤小太夫といふ役者の好みから出たもので、一に小太夫染と
もいはれたものであるが、ドンナ柄か今分りにくい
千弥染 中村千弥から出たもので、享保元年、千弥が江戸中村座へ下り、三巴家督関といふ狂言で、
樋口女房の役で、花車方二人腰元三人とも之を着せ、又木戸若い者にまでも、其の綿入羽織を着せてか
らはやり出したので、江戸はいふに及ばず、京阪に亘り一時の大流行をなしたものである。紫の大絞り
とのことである
市松染 寛保元年、江戸中村座で、若衆形の鹿野川市松が、高野心中の狂言に、小姓粂之助を勧め、
石畳に染めた袴を着けたのから一世の大流行となつたので、之れが為めに爾来石畳の名は追ひやられて、
此型を市松染又は市松小紋といふやうになつたのである
小六染 左り巻きの手綱染で、延享頃の嵐小六が好みである、初め小六、延享二年に中村座に下り、
二代目市川海老蔵を請けに女暫を演じ、其の時に小六が鶴菱の着付で出たのが一枚絵となつて世に出て、
「かほ見世や、鶴の巣ごもり小六染」といふ賛の句があれば、初めは鶴菱繋ぎを小六染といつたのであ
らうと『後昔物語』などに書いてあるが、兎に角これは後の手綱染に推されて消えてしまつたものと見
へる。左り巻手綱の小六染は、延享四年お初徳兵衛の狂言で「夢結ねくらの蝶」といふ浄瑠璃所作事に
中村七三郎と両人して、右の肩から左にかけ、紅白のたり巻(ママ)した着付をなし、肌抜ぎで出たのが評
判になり、遂に大流行となつたのだといふ。同時に紅白の紐を小六紐といつて共に流行つたとのこと
亀蔵小紋 小六等と同時代で、所作事の名人と呼ばれた九代目市村羽左衛門が、まだ亀蔵といつた折、
(宝暦十二年羽左衛門襲名)所作事の着付に遣つた模様で、渦巻の小紋である。これがひどく評判にな
つたので、遂に渦巻は後年に市村家の替紋にまでなつたのである。
伝九郎染 宝暦年間、中村伝九郎が全盛の当時に、其の贔屓客に、三十間堀の材木屋和泉屋甚助俳名表
徳太申といふものがあつた、甚だ虚名を喜び、曾つて己が名の著書として、江島大双紙太申夜話といふ
ものを出し、又書家烏石に千字文を書かし、太申書と落款して板行せしめたこともある。又浅草観音境
内へ桜を植えて太申桜と称へさせ、道中の雲介に金を呉れて「お江戸の太申様は桜がお好き」と唄はせた
といふこともいはれて居る。それが恰も三井親和の篆書を模様にした親和染流行の折柄であつたので、
之に擬して太申の二字を篆書繋ぎに染めさせ、馴染の吉原遊女豊里に着せ、之を一枚絵に画かして世に
出し、又宝暦八年森田座の狂言に伝九郎にも着せて舞台に上らせたが、却つて伝九郎の名に押されて、
世間では太申染とはいはずに、伝九郎染といつてはやつたといふことである
かまわぬ模様 文化九年六月市村座の二番目「散書仇かしこ」の狂言に、七代目市川団十郎が、まだ二
十二歳の若盛り、大工六賛の役に扮し鎌と輪と「ぬ」の字を、大きく染め抜いたのを着たのが、江戸中
にはやり出し、衣裳模様は素より、手拭手遊にまでも応用されて、大流行となつたのである。此模様は
古く侠客などの間に喜ばれたものであるが、此時に復活されたのである。これから市川男女蔵は、鎌と
井桁と枡を列ねて「かまいます」の意味をうつし、又尾上菊五郎は斧と琴を配して「よきこときく」の
意を宴するなど、いろ/\の工夫したものを出したが、「かまわぬ」程にはやつたものはない
蝙蝠模様及び三升格子 天保初年に、八代目市川団十郎の希代の人気につれて、夥しく江戸中に流行し
夏衣の染模様はいふまでもなく、簪の挿込、櫛の蒔絵、手拭などにも、盛んに用ひられた。市川家の家
紋に一輪牡丹があり、之を福牡丹といつて居たが、此「福」字を「蝙」に通じて蝙蝠模様としたのであ
る。又三筋格子は同じく家紋の三升を格子に崩したのである
(第四 染色)
路考茶 鶸萌黄の少し黒味がゝつた色で、先づ鴬の羽色といつたやうなものである。宝暦十三年 市
村座でした「八百屋お七」の下女お杉の役で着たのが初めだとも、又銀杏娘の時からだともいつて居る。
路考の人気の旺盛なると共に、非常な勢で流行し婦人の着物はこの色に限るやうな有様であつたのであ
る。其の大阪に流行したのは、ズツト降つて享和二年三代目菊之丞(此前年路考と改む)が大阪に下り、
「東金草浪花着綿」の狂言に腰元のお百となり、此茶染を着てからのことゝいはれて居る、兎も角も文
化文政から天保頃までの長い間 東西通じて娘子供の間に歓迎されたのは驚くべきことである
升花色 縹色(はないろ)の薄いので、五代目市川団十郎の好みから、安永天明の江戸に流行したもの
である。
梅幸茶 初代尾上菊五郎俳名梅幸が好みで、草柳色である。この人特に衣裳の物好きがあり、花やか
なのを好んだとのこと、天明三年に没した人であ(る)から、安永頃の流行であらうが、文化頃まで及ん
で居る
岩井茶 大太夫として知られた、杜若岩井半四郎の好みで、路考茶のやゝ薄いやうな色合である。之
も寛政から文化頃まで及んで居る
璃寛茶 藍媚色で、文化年中京阪に盛んに流行したものだが、江戸にも及んで居る
芝翫茶 三代目中村歌右衛門即ち梅玉歌右衛門の好みで、栗梅色の変態である。
同時代に市川団蔵から出た市紅茶なども、上方で一時流行つたが、上の二色とは比すべきでない。明治
時代になつてからは、今の中村歌右衛門が福助時代に、薄い草色を福助色と称へて流行つたことがあつ
た(中略)
以上の外、頭髪の結ひ方に影響したものに、三枡徳太郎から出た三徳髷、姉川大吉から出た大吉髷、
芳沢いろはが信夫の役から始めた信夫かへし、路考から出た路考髷といつたやうなものもあるし、又男
の髪には、山中平九郎から出た平九郎鬢などといふものもある。
それから役者の名前を売物に冠して、それによつて売弘めたものゝ内に、元禄頃の団十郎艾、寛政頃
の団十郎煎餅、岩井せんべいなどとの類もある。役者の屋号を仮りて直に屋号とし白粉油や又煙草店飲
食店などを出したものも少なくない〟