Top             浮世絵文献資料館            浮世絵師総覧             ☆ やきいも 焼き芋            浮世絵事典  ◯『江戸名物百題狂歌集』文々舎蟹子丸撰 岳亭画(江戸後期刊)   (ARC古典籍ポータルデータベース画像)〈選者葛飾蟹子丸は天保八年(1837)没〉   〝焼芋    寒けさを凌ぐは同じぬくめ鳥よたかもにぎる辻のやきいも    此ころは民のかまどもまたひとつけぶりの立しやきいもの見世    妹に似る草のいろをば物いはでこうる    四里四方ひろくひさぎしやきいもは八里半とも名を呼れけり    ひき麦は秋の半に休ませてこがし売なりやきいもの見世    〈夜鷹も暖を取る焼き芋 八里半。秋麦焦がし、冬焼き芋を商う辻見世〉  ◯『宝暦現来集』〔続大成・別巻〕⑥168(山田桂翁著・天保二年(1832)自序)   〝芋を焼て売事、寛政五年の冬本郷四丁目番家にて、初て八里半と云ふ行燈を出し、焼芋売始けり、其以    前むし芋計也、八里半は渾名(アダナ)なりと、九里四り味ひ(クリヨリウマヒ)と云、其後小石川白山前町家にて、    十三里と云行燈を出候、是も亦右焼芋なり、今は町毎に焼芋計にて蒸し芋少し〟    〈焼き芋を「八里半」と称したのは、九里(栗)より少し味が足りないと謙遜した言い方。一方「十三里」の方は「九     里(栗)四里(より)うまい」という自慢である〉  ◯『世のすがた』〔未刊随筆〕⑥38(百拙老人・天保四年(1833)記)   〝焼芋は寛政五年の冬、本郷四丁目の番家にて初めてほうろくやきを売、これむし焼のはじめなり、看板    に八里半と書たるあんどうを出せり、栗にも近きといふなぞなるよし、近来は所々に出来、何所の町に    もみなあり、また十三里といふ看板を出せしもあり、栗より【九里四里】うまきといふ心なるべし〟  ◯『川柳江戸名物』(西原柳雨著 春陽堂 大正十五(1926)年刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝堀江町焼芋 28/162     堀江町風静まつて薩摩芋(明和)     夏渋く冬甘くなる堀江町(安永)    日本橋堀江町は冬の間は焼芋の名物を売り、夏に成れば団扇の製造に転業したのである〟  ◯『絵本風俗往来』中編 菊池貴一郎(四世広重)著 東陽堂 明治三十八年(1905)十二月刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)(78/133コマ)   〝十二月 焼いも    江戸市中町家のある土地にして、冬分に至れば焼いも店のあらぬ所はなし、又町々木戸際なる番太郎の    店にては必ず焼いもを売る、総じて焼いも屋は御外曲輪(おんそとくるわ)・見付御門外御堀端にある焼    いもやは、必ず店大きく「丸やき焼いも」としるしたる看板・行燈も巨大なり、然るに此の大店の焼い    もは味はひ粗味にして香気薄し、随つて廉価なり、日本橋近辺の如く総立(たて)こみし町中にある焼い    もは必ず甘味にして、香気格別なるは川越本場を用ひしと見へたり、されば価も随つて高料なり、切り    焼きとて割りて焼くに、塩を用ゐ丸のまゝにて焼くに塩を用ゐず、切り焼・丸焼その味はひの優劣は好    める人口に適ふを以てす、焼いもの釜土(かまど)は三箇より四箇を並べるを大店とし、二箇を通常とす、    此の業を営む者江戸ッ子になし、又意外なる有金家(いうきんか)ありしは、随分に利得ある業と知られ    たり、此の焼いもの売れ盛るに随ひて、時候寒きを増したり、年々九月下旬より十二月まで、此の業の    繁昌とす、正月より二、三月までは焼いもを焼かず、ふかしいも又いもの丸あげ等を商ひたり〟