Top             浮世絵文献資料館            浮世絵師総覧

             ☆ やきえ 焼絵             浮世絵事典

 ◯『増訂武江年表』2p22(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
  (享和二年・1802)
  〝五月、木の元才荘といふ人、焼絵を再興し会席を設く(焼絵はちいさき鏝(コテ)を焼きて画くなり。濃淡
   自在にして筆をもて画けるが如く、昔もありける伎をふたゝび起したる由也。「めづらしくむべも焼絵
   のやきえつゝ絶えしをおこすわざぞたえなる」資矩といへる人のすさびなりし。此の才荘は風流の人に
   して、手跡もよくし万(ヨロズ)の細工をなせり。張抜きの鴛鴦、都鳥などへ蝋を引き、燈を点じて水にう
   かぶるの弄びも、此の翁より始まりしにや。「めいわくに思はしやらふか板琴をきひてもらはにやなら
   ぬ一筋」。才荘、一弦の琴はいにしへ行平朝臣、須磨にて作りはじめてもてあそび給ひしとて、すまご
   とゝ名付けたるを、河内国金剛輪寺覚峯律師その秘曲を伝へし迚(トテ)、この叟に授けられしよし也。才
   荘はおのれが父の友にして、文化の半ば迄六十余歳にして存在せしが終りを知らず。焼絵は今に此の伎
   をなすものあり。近世は鉄筆を号せり。
    筠庭云ふ、後文政頃白娥といふ者焼絵をなしたり。其の後桐の箱にやき画したるが、様々かず物に仕
    入りたり)〟
 
 ◯『輪翁画譚』(屋代弘賢・文化年間記)(出典『日本画談大観』「中編随筆」坂崎坦編)
  (国会図書館・近代デジタルライブラリー)
  〝やき画
   焼き画は今物語【信実朝臣の作】にはじめて見えたり、曰く、やんごとなき人のもとに今参りの侍出来
   にけり、やぎ画をめでたくするよし聞えければ、前に呼びて檀紙にやき画をせさせるに、何をか焼きは
   べるべきと口ずさみけるを、あるじ聞きとがめて、おなじくは一首になせといはれければ、かいかしこ
   まりて、波の打つ岩より火をば出だすとも、といへりければ、人々皆ほめにけり、此外にやき画の名源
   平盛衰記に見えたるは、矢じるしの文字なり、融通念仏の縁起に見えたるは、疫神の題名、奇異雑談集
   に見えたるは草履の火印なり、大久保酉山問曰、今物語に見えたる焼き画はいかなるさまにや、弘賢答
   曰、いまだ見ずといへどもおしはかるに、鉄を焼いて焦して画様をなすなるべし、さてこの物語りの世
   に広まりしは、天明年中なり、年あらずして古筆の色紙に焼き画の下画あるものを得たり、殊に水に鴛
   あり、又牡丹雞長柄ひさしなどありし、酉山翁に見せければ、なのめならずよろこばれしなり、其画力
   妙筆をもて画くとも及びがたき所あり、是によりて始めて古人の焼き画を見ることを得たり、其後松山
   侯或る画手に命じてかゝしめらる、其作光琳の筆画の体にて粗脱見るに足らず、おなじき比稲垣摂州侯
   作らる、是は真行手にまかせて巧みを尽くされたり、たとへば長さ五六尺の紙に花鳥をかかれしなど、
   見る人驚嘆せずといふことなく、従ひ学ぶ人も少なからず、これはいづれも小鏝数本を用ひて、火に焼
   いて紙面を焦すゆゑに、その意遅渋に過ぎて峻疾に乏し、其説に曰く、紙厚からざればなしがたしとや、
   鏝を焼いて作る、よろしく鏝画といふべきのみと、弘賢按ずるに、古人の作は唐紙なり、其画力を窺ふ
   に決して鏝にあらず、遅疾緩急軽重浮沈、意の如くにして最よく暢調せり、嘗て此論を長尾祐寿に語る、
   祐寿元来画図を善くす、退いて試に作る所の勝れり、是を賞してかへす、又その翌一紙を持ち来たる、
   鷹の図なり、疇昔の作に勝ること万々、始めて古人の堂に升ることを得たり、弘賢曰く、鏝画といふは
   語をなさず、筆にて画いて筆画と言はざればなり、漢名は火画を云ふなり、清の武風子といふもの火画
   をよくするよし、虞初新史に伝あり、弘賢嘗て此武風子が作にても有るべきかとおぼしき筆管を得たり、
   其細密髪の如く、神彩飛動せるが如し、おもふに鉄を焼いて画くと炭を火にせると、其器は異なりとい
   へども、其用は一なり、然るに西土のいにしへ聞ふることなくして、纔に清人是れをよくするといふ時
   は、皇朝の焼き画におくるゝこと幾百年ぞや【七月十六日、弘賢】〟
 
 ◯『百戯述略』〔新燕石〕④228(斎藤月岑著・明治十一年以降成書)
  〝焼絵、古くより之有り由に候へども、始原心得申さず、江戸にはやり候は、享和二年の頃、木の元才荘
   と申すもの相始め、◎(コテ)を以て自在に画き、又半切にも製し、商と為し申し候、文政の頃も、根岸に、
   北◎如連と申すもの、銕筆と号し、此技を成し候へども、差て行われ申さず候〟
 
 ◯『近古浮世絵師小伝便覧』(谷口正太郎著・明治二十二年(1889)刊)
  〝焼画師 寛政 木元方荘
   焼画は小きコテを焼て以て画く。方荘、此伎(ワザ)に長じ、濃淡自在に用ひ、実に筆を以て画くが如し。
   享和年中に大に行はれ、是を鉄筆とも称す。今も此画を成すもの東京に有りと。叟殊に風流を好み、常
   に一弦琴を弾じて楽みとす、書も又能筆たりしとかや、文化の末六十余才にして終る〟