Top 浮世絵文献資料館浮世絵師総覧 ☆ やかたぶね 屋形船浮世絵事典 ◯『塵塚談』〔燕石〕①282(小川顕道著・文化十一年成立) 〝屋形船の事、享保の頃は、江戸中に百艘有ける由、菊岡沾涼が編述江戸砂子にみへたり、増補江戸砂子 には見へず、最初の板にあり、宝暦七八年頃は、吉野丸【一番の大屋形也】兵庫丸、夷丸、大福丸、川 一丸抔、大屋形船にして、すべて六七十艘も有けり、予、水稽古に日々見たる所也、然るに当時は弐拾 艘も有べし、皆小屋形のみ也、たゞ家根船【本名日よけ船】猪牙船多く有、家根船は、四五十年以前は、 五六十艘有ける由、今は五六百艘、猪牙船は七百艘も有べしといふ、十四五ヶ年以来夥敷なれり、船宿 六百軒余も有之由也、それは船舶は万民の歩運にくるしむを助ける者にして、天下の要具也、家根舟、 猪牙船は、人力を助るの国用に聊用立ず、遊民のみ乗船して、無益の者、日に増、月に益多く成事、歎 かしく、屋形船は遊船の如くなれど、要用の節は、屋根を取払ひ、数百石を積入事なれば、無益の物に あらず、 附り、江戸中に、大船持百三十四人、此外に、本所、深川に船持十九人、江戸に大船数三百艘も有べ し、本所、深川大船数知れず、両所にて、運上一ヶ年六百艘、毎日三艘も差出事の由、右運上の願、 文化七年、願ひ差出し、同九年、願の通相済、右之通差出す事となれり〟〈「四五十年以前」とは明和安永以前、宝暦頃(1751~1763)をいうか。「十四五ヶ年以来」とは享和(1801~1803) 以来〉 ◯『江戸名物百題狂歌集』文々舎蟹子丸撰 岳亭画(江戸後期刊)(ARC古典籍ポータルデータベース画像) 〈選者葛飾蟹子丸は天保八年(1837)没〉 〝屋形舟 両国をまだみぬ奥の女中連ならぶ屋形の名もよしの丸(画賛) 山とみゆる屋形のふねのふところに扇の雲をたゝみ込たり 手弱女にきしのさゝつま吹あぐるやかたすゝしき隅田の川風 年ふりし永久はしをくゞりゆくやかたの影も千秋万歳 奥方のけふはすゞみのやかた舟かたはづしにもしぼる玉たれ〈吉野丸 隅田川 武家奥方の納涼 片外しはその髪型 玉すだれ〉 ◯『近世風俗史』(『守貞謾稿』)巻之五「生業上」①181 (喜田川守貞著・天保八年(1837)~嘉永六年(1853)成立) 〝屋形船 江戸は無二階なり。『昔々物語』に云ふ、昔慶長の比、夏暑気強き故、諸人涼みのためにひらだ舟に屋 根を仕掛け、これをかりて浅草川を乗り回す。これを船遊びの始めなり。翌年の比より大名衆も出(イデ) しに、大勢の供故に船狭くありし故に、次第に船を大きく拵へ四、五間もある船になる。承応の比、舟 遊び盛りにて、明暦中の正月大火事、翌年に至り御城の御普請、そのほか大名衆の普請にて、舟は小舟 まで材木を運送する故に涼の屋形なく、三、四年船遊参止み、万治の比またはやり、大名衆も出らるゝ 故、七、八間の屋形に拵へ、後は川一丸・関東丸・大関丸・山一丸・熊丸・十間一丸などと名付け、大 なるは十一間あり。御籏本は鎗を舟に入れ、これを見へのやうにせしなり。もつとも、大身は用人に戻 子(モジリ)肩衣(カタギヌ)着するもありし、云々 天和二年、官命して屋形船寸法を定め、大船を禁止す。 宝暦中、吉野丸(第一とす)と・矢庫・夷丸・大福丸・川一丸・その他合せて六十余艘あり。文化中、 減じて二十艘ばかり〟〈大坂の屋形船に二階がある由である。宝暦中の船名は『塵塚談』(小川顕道著・文化十一年成立)からの引用であろう と思われるが、矢庫ではなく兵庫とある〉 ◯『藤岡屋日記 第三巻』③77(藤岡屋由蔵・弘化三年(1846)記) 〝新板伊予節葉うた 〽舟もかず/\ある其中ニ、麒麟鳳凰や天下丸、〽茶船川一宝船とや、玉屋ニ鍵屋の花火舟、高瀬家根 舟しるこぼし、たぬきが乗のはつちのふね、〽うさぎのかたきうち舟、おさんのこぐのもふねのうち、 こがしやんせ〟