Top             浮世絵文献資料館            浮世絵師総覧             ☆ わらいえ 笑い絵            浮世絵事典  ◯『世話尽』土佐皆栗撰 承応三年五月記   〈『難廼為可話』小寺玉晁編 壬辰(天保三年)序(三田村焉魚編『未刊随筆百種 巻十二』所収)〉   〝因俳諧付 笑 枕草紙〈俳諧付合用語〉  ◯『嬉遊笑覧』巻三「書画」(喜多村筠庭信節著・文政十三年(1830)自序)   〝笑ひゑ、古くはおそくづの絵といひたり。〔著聞集〕に鳥羽僧正の許に絵かく侍法師あり。それが絵の    失を難陳する処、僧正は法師が絵かたはらいたしといはれけるを、少も事とせず、さも候はず、ふるき    上手どものかきて候おそくづの絵などを御覧候へ、その物の寸法は分に過て大に書て候事、いかでか実    にはさは候べき云々、おそはたはれたる事、くづは屑なるべし、陽物をいふに似たり。古き絵の伝はれ    る物は〔小柴垣〕〔ふくろ法師〕などの外には、いまだ見及ばず。十二枚あるもの往々あるは、鎧櫃に    収めたる物とへいり、又衣櫃に納ることもあり。枕画をいふは、貞徳が〔油粕〕に、たうとくもありた    うとくもなし、枕絵を羅漢のおくに書そへて。其碩が〔賢女心化粧〕清少納言も次第に不如意にて、袋    入の枕草紙をして内証のたすけとし給へ共云々、戯文ながら其頃是を枕草紙といひしを知る〟  ◯『画乗要略』白井華陽著・天保三年(1832)刊   (早稲田大学図書館「古典藉総合データベース」)   〝西川祐信、自得斎と号す。平安の人。善く邦俗の美人を写す、賦色娬媚、最も秘戯(ハラヒヱ)の図に工なり、    狎昵の状精妙ならざるは莫し。     梅泉曰く「秘戯の図何人の手に始ることを知らず、古へより之れ有り、多く臥軸となり相伝ふ。武夫、     之を鎧匱(クグソヒツ)中に蔵して、以て久屯城守の鬱気を散ずと。故に往昔の諸家、皆之を写す。頃ころ     祐信が画く所を観るに、筆情繊勁、設色精巧、眉睫瑟瑟然として、動かんと欲す。古人云ふ「秘戯の     図巧ならずんば則ち已む、巧なるときは則ち媱を誨ゆ」と。信(マコト)に然り〟(原漢文)    〈「媱」は婬(淫)と同義、「誨」は教える〉  ◯『柳多留』(出典は本HP Top特集の「川柳・雑俳上の浮世絵」参照)   1 だんだんに声をひそめる笑本   「柳樽34」文化3【川柳】   2 じんきょして取り上げられる笑本 「柳樽46」文化6【川柳】〈腎虚は精力減退〉   3 笑ひ本見る奥女中沖の石     「柳樽77」文政6【柳多留】     〈わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾く間もなし〉   4 笑ひ絵といへど大概イ泣いて居る 「柳樽138」天保6【川柳】  ◯『狂歌やまと人物』(天明老人尽五郎撰 立斎広重画 安政四年(1857)刊)   〝武士(モノノフ)は具足櫃より面頬(メンボウ)の腮(アゴ)をはづして出(イダ)す笑い絵 在江戸 牡丹園獅子丸〟  ☆ 明治初年(1898~)  ◯「幕末時代の錦絵」淡島寒月著(『浮世絵』第二十一号 大正六年二月)   (『梵雲庵雑話』岩浪文庫本 p120)   〝(維新当時)まだその頃は、大道で笑絵を売ってもやかましくない時代でしたから、古本屋の店には幾    らも晒されてありました。。浅草見附の際に名代のいくよ餅というのがありまして、その家の前の井戸    のわきに、古本見世を出していました店などには、能く見かけました。また賭博師があって、それを見    による田舎者に銭をかけさして、野天ばくちをやって、結局田舎者の財布を空にさせたものです〟    〈梵雲庵淡島寒月は安政6年(1859)生まれ、維新当時(1868)は九才。春画は客引きの道具でもあったようだ〉  ☆ 明治十年(1877)  ◯『盛衰一覧』番付 山口一轍 明治十年三月刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝盛ナル方 中村楼書画会・芸者のころび   衰タル方 山王祭・張かた    文明  西洋玉つき ・合乗の人力車   固陋  麻上下・婦人の銕漿    開化  牛肉・賄付下宿・書生食客    因循  柳ばし舩宿・おいらん道中・春画〟  ☆ 明治十一年(1878)  ◯『旧弊開化議論競』第1号 明治十一年三月刊    (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝いんきではるらしくねへ  鳥追・万歳おはいしで    きばらしができねへ    笑絵・笑本売留〟    〈正月の風物詩、鳥追いや万歳の門付け廃止で陰気で春らしくない、春画春本の売買停止で気張らしもできない〉