☆延宝六年(1678)
◯『色道大鏡』巻十七「扶桑烈女伝」(藤本箕山著・延宝六年(1678)序)
(引用は『燕石十種』第六巻所収「吉野伝」から)
〝洛陽 吉野伝(京都・林与次兵衛家抱え遊女・二代目吉野)
(明国呉興の李湘山なるもの、夢中、遊女吉野に逢い、寛永四年、慕って詩を贈り、翌年、肖像を請う)
我朝の遊客、焉(コレ)を議(ハカリ)て、画工に命じ之を図せしむ、徳子の目前に跪て、佳貌を写す、画工其
の輝相を尊んで、毛延寿の例を採らず、時に図画する処七影、顔色を違はず、恰も影鏡に移すが如し、
悉く軸を附け七幅と為て、九州に遣はす、異朝の商人之を綾羅に代て、歓喜すること夥(オビタダ)し、
況や倭人に於てをや、衆人金峰山の花を見ては、松氏の姿を忍び、袖振山の月を詠ては、徳子の面影を
思ふ〟
〈毛延寿は漢の宮廷絵師。後宮の女たちは皇帝の寵愛を得るため、毛延寿に賄賂を贈って美貌に画かせていたが、一人
王昭君のみ賄賂を使わなかったので醜く画かれた。その影響で、皇帝は匈奴へ遣わす嫁として王昭君を選らんだのだ
が、直前になって、皇帝は王昭君が実は絶世の美人であったことを知る。激怒した皇帝は毛延寿を死刑にした。しか
し日本の画工はそうしないで、吉野の美貌をそのまま写し取り、異国の商人たちを大いに喜ばしたというのである。
この「佳貌を写す」は「顔色を違はず、恰も影鏡に移すが如し」とあるところからすると、似顔絵のような気もする
のであるが、どうであろうか)
☆ 享和年間(1801~1803)
◯『増訂武江年表』2p29(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
(享和年間記事)
〝蔭絵の戯、昔は黒き紙を切抜き、竹串を四ッに割りて矢羽の如くさし、行燈に写して玉藻の前の姿を九
尾の狐に替(カワ)らし、酒顛童子を鬼にかはらするの類にてありしが、享和中都楽といふ者、エキマン鏡
といへる目鏡を種とし、ビイドロへ彩色の絵をかき、自在に働かするの工夫をなし、写し絵として見す
る。是れより以来此の伎行はれて、次第に巧みになり、其の門葉も多くなれり(此の都楽、今年嘉永元
年七十九歳、存生して瀬戸物町に住せり)〟
〈「蔭絵」が「写し絵」とも呼ばれている例である。都楽の読み未詳〉
☆ 文化十年(1816)頃
◯『浮世絵』第十七号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正五年(1916)十月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
◇「島原の名妓」
〝「われうつしゑ出き候て あづまよりのぼり候へば 御めにかけ参らせ候、御なぐさめにもなり候へ
ば御うれしく、しかしわれよりよほどうつくしく候へば 扨(さて)/\心ぐるしくぞんじ参らせ候
云々」
と優しい水茎の跡に、此の絵をそへて、何某の旦那様に贈つた。当時洛中洛外は勿論のこと、遙かに吾
妻の空まで、其の名を謳はれた満里(みつさと)太夫とて、京は島原で一二を争ふ評判者であつた。
「とし月久しく かくもたらはぬ身を いともねんごろにのたまはせる侭(まま)に なれむつびまい
らせしをおもひ侍れば 此度(こたび)あらぬかたを つひのすみかにて身を身にまかすやうにはな
り侍るものから 名残をしくもわかれまゐらすよ とおもへばいとも悲しく心もそらにてなむ。見
(み)つさと」
此れも前の手紙と同じ人に書き贈つたものである。此の時には、住み馴れた島原で、最後の一夜を過ご
すべき日であつた、遂に或通人の為に落籍(ひか)されて、翠帳深く秘め籠められ身となつたのである。
此の図は、英泉のまだ若い時分に、京都から頼まれて、大錦絵に画き上げたものであつて、文化十年頃
の版行だらうと思ふ (大首絵「香菓楼満里太夫」署名「江戸 渓斎英泉写〔◯に泉〕印」)〟
〈満里(みつさと)は京・島原の名妓、その容姿を英泉は面接することなく画き、しかも「われよりよほどうつくしく」
仕上げていた。自らの「うつしゑ」を馴染み客に贈るというエピソードだが、これと同様のことが吉原でも行われてい
たのだろうか〉
☆ 文政二年(1819)
◯『麓の花』〔燕石〕⑥190 (好問堂主人(山崎美成)著・文政二年四月成書)
(「竹之丞寺」の項)
〝享保のうつし絵 市村竹之丞 絵師鳥居清倍筆(◯に三鱗)鱗形屋板元
好問堂所蔵 此間ニ団十郎の画あれど今◎◎へ収載することあたハざるをもて省けり〟
〈この「うつし絵」という呼称、文政二年の時点で、著者の山崎美成が、享保期の鳥居清倍画、市村竹之丞の画像を見
て付けたもの。享保の頃にこうした役者絵をうつし絵と呼んでいたかどうか定かではない。市村竹之丞の面影を写し
た絵という意味なのであろうが、似顔絵ではない〉
☆ 天保十年(1839)
◯「噺連中帳」(天保十年四月記)
(当時の落語家及び諸芸人(八人芸・手妻等)の名簿)
〝うつしゑ 都楽・三鳥斎・都龍・好山・勢ん生・舩通・まん鳥・都住・都勇・当作〟
〈この「うつしゑ」の都楽は、上掲『武江年表』享和年間記事の都楽と同人である。寄席の幻灯・蔭絵も写し絵と呼ば
れていたのである〉
☆ 明治以降(1868~)
◯『百戯述略』〔新燕石〕④223(斎藤月岑著・明治十一年以降成書)
〝影絵の戯は、瀬戸物町に商店をかまへし、都楽と号し候もの、其の以前は、紺屋町の上絵かきに之有り
候処、いかなる手続歟、享和の頃、エキマン鏡と申す目鏡を種とし、硝子をもて障子にうつし候事を工
夫し、後自ら硝子へ画き、人形の働きをなし、寄せ場へ出候異を始め候て、弟子の出来、世上を流行候
おもむきに御座候、エキマン鏡、文字弁へ申さず候〟