◯『江戸名物鹿子』上(豊嶋治左衞門外撰 享保十八年(1733)刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
〝堀江町団扇 風誘ふ木の葉模様や団扇みせ 嶺向舎泉長
(達磨の団扇画 来川画)〟
◯『後はむかし物語』〔燕石〕①326(手柄岡持著・享和三年(1803)序)
〝我が十歳ばかり迄は、さらさ団扇や奈良うちは、本渋団扇、ならうちはとて売りしなり、さらさ団扇と
いふは、青紙にてへりを取、うちは板行にて丹と雌黄の彩色なり、形は今の団扇形に似たり、なら団扇
といふは(図あり)如此形なり、是はふちも白き紙にて、絵は板行、彩色は蘇枋と雌黄なり、たま/\
吹絵も有、さらさうちはよりは少し品のよきといふ取扱なり、団扇の絵も合せ板行に成たるは、一枚絵
の合せ板行よりは一年も遅かりしとおぼゆ、奈良うちはといふは、役者を書てせりふなど書たるあり、
さらさ団扇にはなきかと覚ゆ、我持たりし奈良団扇に、海老蔵が植木売のせりふを書たる有て覚居たり〟
〈「合せ板行」とは見当を合わせた板行で、紅摺絵のことであろう。手柄岡持の言う紅摺は見当を利用し三色を使った
紅摺である。岡持は、奥村政信が画いた嵐小六の紅摺一枚絵をもっていた。延享三年(1746)の顔見世で「女暫く」を
演じた時のものである。(「個別絵師」の奥村政信の項、あるいは「浮世絵用語」「紅摺り」「色摺り」の項参照)
従って、手柄岡持が記憶している紅摺りの団扇絵は延享四年のものと思われる〉
◯『放歌集』〔南畝〕②188(大田南畝著・文化九年(1812)四月記)
〝江戸芝神明前に江見屋元右衛門と云草子やあり。三代目上村吉右衛門といふもの、延享元年甲子三月十
四日はじめて合形の色摺を工夫し、紅色を梅酢にてときそめ、また板木の左に見当といふものをなして
一二遍ずりの見当とす。今にいたるまで見当を名づけて上村といふ。はじめて市川団十郎の絵をすり、
又団扇に大文字屋□(*ママ)の図を色ずりにして堀江町伊場屋勘左衞門といふものに贈りしより、今の五
代の吉右衛門文化九年壬申まで、六十九年に及べり。此像は三代目上村吉右衛門の肖像なり。今その流
れをくみて源をたづね、末をみて本をわすれざる人々にあたふるものならし
くれないの色に梅酢をときそめて色をもかをもする人ぞする〟
〈南畝記事によると、色摺りの団扇絵は上村吉右衛門が伊場屋勘左衞門に贈ったものが最初で、図柄は「大文字屋(一
字分□)の図」であるらしい。これを南畝は延享元年(1744)のこととしている〉
◯『市隠月令』(村田了阿著・文化年間記・『近世文芸叢書』第12巻所収)
〝(五月記事)団扇売今は見えず、寛政の頃まではみめよき少年、清げなる浴衣に編笠など着て、声をかし
くよびありきしが、めでたく涼しかりき〟
◯『江戸名物百題狂歌集』文々舎蟹子丸撰 岳亭画(江戸後期刊)
(ARC古典籍ポータルデータベース画像)〈選者葛飾蟹子丸は天保八年(1837)没〉
〝団扇問屋
風ふくむ団扇かはゞや堀江町まだこぬ秋のかよひ帳にて(画賛)
凌がれぬなつの暑さを苦にもせで丸くうき世をわたる団扇屋
堀江町風を卸してあつさにはひだりうちわの問屋かふなり
風の山どつとおろせし堀江町団扇問屋のこゝろすゞしも
出さ入さうちわ荷物の卸し屋は家の風さへはげしかるらん
あふぎ出すうちわの風のはげしきはひさぐ問屋の山おろしかも
ほり江待ちこゝらからこそ秋来ぬと風もて人をまねてうちわ屋
さつまいも仕入ぬひまはほり江町すぢの多かるうちわをぞうる
〈堀江町 夏は団扇、冬は薩摩芋を商う〉
◯『宝暦現来集』〔続大成・別巻〕⑥162(山田桂翁著・天保二年(1831)自序)
〝夏団扇売、寛政中頃迄は本渋うちは、奈良団扇、さらさうちは、反古団扇迚(トテ)、細篠竹に通に売来る
ものなるが、近頃来らざるや、四月上句より六月中売歩行たるもの、役者絵の新板ものなら一本十六文、
其外一通りの絵なら十二文十四文位、其頃迄は、今有る所の一本四十八文三十六文など売はなし〟
◯『蛛の糸巻』〔燕石〕②276(山東京山著・弘化三年(1846)序)
〝此頃(天明期)は、今の如く絵店にて、錦絵の団扇は稀には売もありけれど、はし/\には絵みせさへ
なければ、うちわを物に入れて背負ひ、竹に通したるをもかたげ「ほんしうちわ、ならうちわ、さらさ
うちはや、ほぐうちは」とよびて売りありく、おほかたは、若しゆ、二さいなどなり、にしきゑのうち
わ一本十六文なり、其粗末なりしをしるべし〟
◯『江戸風俗総まくり』(著者未詳 弘化三年(1846)成稿)
(『江戸叢書』巻の八 江戸叢書刊行会 大正六年刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
◇「秋の節物の移り変り」(24/306コマ)
〝錦絵の団扇もむかしは只うつくしう妓女役者を画いたうちは(団扇)、文化度より太柄と名づけ多く美人
絵となり、こらへ(ママ)も絵をはりて是も又近世の花美ともいはん
☆ 明治以前
◯「川柳・雑俳」団扇(出典は本HP Top特集の「川柳・雑俳上の浮世絵」参照)
◇団扇売り
1 うちは売風を荷にして汗をかき 「川柳評川柳」宝暦11【雑】注「若衆姿が多かった」
〈売り物の団扇で飾った天秤棒を肩に、汗をかきつつ売り歩くのである〉
2 団扇売少し煽いで出して見せ 「柳多留2-32」明和4【川柳】
◇団扇絵
1 反古張やにづらで蛍追つかける「柳多留28」寛政11【川柳】〈渋うちわや似顔絵のうちわで蛍狩り〉
2 堀江町春狂言を夏みせる 「柳多留35-24」文化3【川柳】
〈堀江町は団扇問屋が集まるところ。これは正月狂言の役者の団扇絵〉
3 千両と三分が堀江丁に見へ「柳多留56-16」文化8【川柳】
〈千両役者と昼三女郎。役者絵と遊女絵の団扇絵〉
4 しつとりと似顔のしめる蛍狩 「柳多留57」文化8【川柳】
5 涼台似顔の邪魔にしぶ団扇 「柳多留65」文化11【川柳】注「娘達の中へ梅干婆」
〈役者の似顔絵が娘の譬喩〉
6 いゝ役者団扇にしてもあをがれる 「柳多留70」文政1【川柳】注「舞台だけでなく」
〈日常つかう団扇絵でも仰ぎ見られている〉
7 ひいきの沙汰として団扇娵はかひ 「柳多留25」寛政6【川柳】注「ひいき役者の」
〈似顔の錦絵を贔屓のあかしとして買うのである〉
☆ 刊年未詳(幕末)
◯「江戸流行用捨競」(番付 編者未詳 板元未詳 刊年未詳)
(江戸東京博物館デジタルアーカイブス)
〝当世はやり物
画才 国芳のうす似顔 うちはや 大揃のにしき絵
門付 新内の二挺引 一枚摺 何でも取組ム番附(他略)〟
〈錦絵を貼った団扇が持て囃されたようだ。役者絵か美人画か花鳥画か、それともそれぞれの錦絵か。ほかに国芳画・連
れ弾きの新内流し・様々な見立て番付なども流行ったようだ〉
☆ 明治以降
◯『東京土産掌中独案内』安倍為任編・出版 明治十年(1877)十月刊
(国立国会図書館デジタルコレクション)
(「六十一 東京買物向寄案内」の項)
〝団扇 堀江丁川岸 俗ニウテハ川岸ト云 万丁 ハイバラ
馬喰丁
手遊物 浅草茅丁 同観音仲見セ〟
◯『明治東京逸聞史』②p380(明治四十四年(1911)記事)
〝団扇絵展覧会〈美術新報四四・二〉
団扇絵の展覧会が五楽会によって催されたことが報ぜられている。出品者に結城素明、平福百穂、和
田英作その他の名が見えている。
ついで琅玕洞その他でも、その催しをした。そして長原止水、高村光太郎、バーナード・リーチその
他の出品のあったことが見えている〟
◯『林若樹集』(林若樹著『日本書誌学大系』28 青裳堂書店 昭和五八年刊)
※全角カッコ(~)は原文のもの。半角カッコ(~)は本HPの補注
◇「団扇」(『書画骨董雑誌』百八十号 大正十二年六月)
〝江戸で発達した浮世絵は江戸産の団扇に応用され出した。私(林若樹)は団扇の古板木若干持つて居るが、
其の画工は清広、文調、清満、春信、春章、重長等を数へ、図は宝暦頃の二代目団十郎鳴神図を始め明
和安永天明迄の狂言がおもで、これ等は普通の浮世絵と同様に三色四色刷のものであつたのである。
此の時代には団扇には役者絵がおもで、美人や山水は先づ無いと言つて能い。それが享和頃から役者絵
と共に美人画も盛んになつて浮世絵と共に華美を競つた。維新前堀江町の団扇絵問屋は錦絵の範囲を侵
害するものだと言ふので、錦絵問屋から訴訟を起された。然し団扇問屋から古くからの板木を持出し既
得の権利を主張して勝つたと伝へられる。ツマリ団扇絵の変遷は浮世絵同様とあるといつて善い〟
◯『川柳江戸名物』(西原柳雨著 春陽堂 大正十五(1926)年刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
〝堀江町の団扇 157/162
千両と三分が堀江町に見え(文化)
堀江町春狂言を夏見せる (文化)
甲は千両役者の似顔を三分即ち吉原の太夫の艶姿
乙は春狂言の対面などの役者絵を張りたる団扇である〟
◯「古翁雑話」中村一之(かづゆき) 安政四年記(『江戸文化』第四巻三号 昭和五年(1930)三月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
◇「団扇売 扇売」(22/34コマ)
〝夏は団扇売扇売といふもの来り 竹にさま/\のうちはを挟みて さら/\うちは奈良うちはとよびあ
りく 扇売は幾重も組たる箱の中に地紙を入て 人の許に来り好にまかせ目前にて骨をさし売あたふ
是等のあき人はなにとやらん 職人画の余風めきてみやびなりしか 寛政の末までに皆いつとなく止て
今は知る人もまれなり 又冬はむし鰈売とて鰈の干たるに銭差を通し長き棹に結ひ下けて売来る 是は
いと近き頃迄来りしかいつとなくやみたり〟