歌比丘尼 『百人女郎品定』西川祐信画 享保八年(1723)
(早稲田大学図書館・古典籍総合データベース)
◯『好色一代男』巻三「木綿布子もかりの世」井原西鶴著 天和二年(1682)刊
(『日本古典文学全集』「井原西鶴集(一)」小学館)
〝(出羽酒田)この浦のけしき、桜は浪にうつり、誠に花の上漕ぐ蜑の釣舟と詠みしはこの所ぞと、御寺
の門前より詠(なが)むれば、勧進比丘尼声を揃へてうたひ来れり。これはと立ちよれば、かちん染めの
布子に、黒綸子の二つわり前結びにして、あたまは何国(いづく)にても同じ風俗なり、もとこれはかや
うの事をする身にあらねど、いつ頃よりおれう猥りになして、遊女同前に相手も定めず、百に二人とい
ふこそ笑(をか)し、あれは正しく、江戸滅多町にてしのびちぎりをこめし清林がつれし米かみ、その時
は菅笠が歩くやうに見しが、はやくも其身にはなりぬと昔を語る〟
〈「おれう(御寮)」は勧進比丘尼の頭。下掲『人倫訓蒙図彙』参照。「江戸滅多町」は神田多町の古名。下掲『紫の一
本』参照。「米かみ」は弟子の小比丘尼。文箱・柄杓・菅笠・投げ頭巾や帽子は歌比丘尼の必需品〉
◯『紫の一本』戸田茂睡著 天和三年(1683)成立
(『戸田茂睡全集』国書刊行会 大正四年刊・国立国会図書館デジタルコレクション)
〝下町めつた町から比丘尼、風流なる出立にて、菅笠のうちうつくしき、中将姫の当麻のむかし、兆隠禅
師の妹も、是にはよもまさるまじ、面白ければこそ皆人もてあそぶらん、相手にして一盃飲むべしとて、
陶々斎町屋へ入て、知る人をよび出して様子を聞けば、めつた町よりあまた参り候比丘尼の内にても、
永玄、お姫、お松、長伝と申候が爰元にての名取にて候、あげ屋は仁兵衛、安兵衛と申候がきれいにて
候、今の小袖かたびらをば宿つき候とぬぎ捨て、明石ちゞみ絹ちゞみ白さらしうこん染めに、紅(もみ)
袖口うらゑりかけ、黒繻子茶繻子のはゞ広帯、黒羽二重の投頭巾 又は帽子でつゝむもあり、小比丘尼
どもに酌とらせ、市川流の夜もすがら、もしほ草の大事のふし、ね覚めさびしききりぎりす、ながき思
ひをすがの根の、思い乱るゝ斗にて候といふ。
亦いふ、永恩といふもあり、是も永玄長伝におなじ事なり、天和のむかしより是あるといへども、貞享
年中より一入(ひとしお)どうもいはれぬわけじやといふ、永玄今はこれなし、是はいつの頃にかありけ
ん、去る屋敷方のやんごとなき君と、かうしたわけのすゑとげて、今の中々黒髪の心も乱るゝ中となり
て、下町あたりに旅宿すといふ〟
〈陶々斎は登場人物の名前。市川流は貞享・元禄の頃の箏(こと)の流派。「亦いふ」以下は「貞享(1684-87)年中」と
あるので、天和三年の成立後に書き加えられたところ〉
◯『人倫訓蒙図彙』七上 蒔絵師源三郎画 元禄三年(1690)七月刊(国書データベース)
〝哥比丘尼
もとは清浄の立派(たては)にて 熊野を信じて諸方に勧進をしけるが いつしか衣(ころも)をりやくし
て歯をみがき 頭をしさいにつゝみて小哥を便りに色をうるなり 功齢歴(へ)たるをば御寮と号し 夫
に山伏を持ち 女童(おんなわらべ)の弟子あまたとりてしたつる也 都鄙に有り 都は建仁寺町薬師の
図子に侍る、皆是末世の誤りなり〟
◯『増訂武江年表』(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
◇「寛保三年記事」1p145
〝閏四月、勧進比丘尼中宿を停めらる(寛保元年の頃、ある比丘尼、八官町にて、桜田辺の武士と俱に情
死wり。しかりしより比丘尼毎中へ出る事を止め給ひし由也。『江戸真砂』六十帖に云ふ、神田より出
るを上とし、早稲田下谷竹町本所あだけを下とす。宿は新和泉町を上とし、八官町を中とし、其の余浅
草門跡前、京橋太田やしき、同心町所々へ出る。頭巾は黒縮緬加賀笠なり。正徳二年より俄に浅黄木綿
の頭巾になる。上の比丘尼は子びく尼二人つれる。全盛目をおどろかしけると云ふ〟