◯『続飛鳥川』〔大成Ⅱ〕⑩25(作者未詳・成立年未詳)
〝寛延、宝暦の頃、文化の頃まで売物、
元日に番附売、初狂言正月二日始る。番附代六文、
一枚絵草紙うり、うるし画、うき絵、金平本、赤本、糊入ずり鳥居清信筆、其外奥村石川〟
◯『骨董集』〔大成Ⅰ〕⑮376(岩瀬醒(山東京伝)著・文化十年成)
〝臙脂絵売(べにゑうり)
紅絵と云は、享保のはじめ創意(シイダセシ)ものなり。墨に膠を引て光沢を出しけるゆゑに、漆絵ともいへ
り。奥村政信もはらこれをゑがけり〔近代世事談〕【享保十九年板】云、「浅草御門同朋町何某といふ
者、板行の浮世絵役者絵を紅彩色にて、享保のはじめ比よりこれを売。幼童の翫びとして、京師、大坂
諸国にいたる。これ又江戸一ッの産となりて江戸絵といふ」とあれば、左に摸(ウツ)し出すは、享保の比
の紅絵売の図なるべし。【板行の一枚絵のはじまり延宝、天和と決れば、今文化十年にいたりて、およ
そ百三十余年を経たり。ふるきをしるべし】〟
◯「漆絵考」(『此花』第一号大正元年(1912)十月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)(10/15コマ)
〝漆絵は紅絵の一進歩したるものにして、享保以来世に行はれ、明和初年に至り、錦絵の現るゝとともに
廃絶したるものなり、『異本浮世絵類考』に
享保の初め、同朋町和泉屋権四郎といふもの、紅青彩色の絵を売りはじめたり、これを紅絵といふ、
夫より工夫して墨の上に膠をぬり、金泥などを用ひて、漆絵と称して大に行はる
とあるものこれなり、されば名を漆絵といへど、実は漆を用ひしにあらず、墨摺の上に濃く膠(にかは)
をひきて光沢を出したるものなるが、恰も漆の如く見ゆるより起りし名称なり、漆絵を多く描きし浮世
絵師は、鳥居清倍、奥村政信。懐月堂安慶(ママ)、西村重長等にして、現今伝はるもの稀なれば、其の価
(あたへ)亦頗る貴く、先年政信筆大漆絵、吉原大門口の図の如きは三百五十円にて外国人に売却せられ
たりといふ、こゝに載する所は、鳥居清倍筆市川団十郎が白酒売に扮する図にして、好古堂所蔵の原品
を縮影模刻せしものなり〟
◯『浮世絵の諸派』上下(原栄 弘学館書店 大正五年(1916)刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)(上72/110コマ)
〝漆絵
本来は漆を画面に塗つたから、この名称が起つたのであるけれども、後には手数を源じ費用を省くため
に、墨摺版画の上を紅・黄・墨などに膠を混じたもので筆彩を施すに至つたのである。画中で墨が特に
漆の如く光つて目につくからその頃の前句付にも「ひかりかゞやく/\、浮世絵にこの頃着せた黒小袖」
といふのがあるが、漆絵をよんだものである〟
(画工 鳥居清信・懐月堂度繁・奥村政信・清倍等)
◯『浮世絵』第弐拾四(24)号(酒井庄吉編 浮世絵社 大正六年(1917)五月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
◇「浮世絵小話(一)」橋口五葉(5/24コマ)
〝(前略)漆絵は之を大略二種に類別する。即ち小判のものは、享保より元文に亘つて多く作られ、大判
の方は、大抵は其の以後に於て出来たやうに思はれる。小判のものは、画面中の殊に黒い色彩の場所に、
黒き漆を用ひ、又は光沢墨(つやずみ)に膠を強く掛けて、漆のやうに見せる方法を用ひたるものが多く、
且つ或る場所には金箔を散らしたものが少なくない。然るに後期の製作にかゝる大判漆絵には、以上の
やうな点少く、多くは黒い部分は墨摺のまゝであつて、其の上に膠などを塗つて居(を)らない。併し前
期のものも後期のものも、共に絵具には多量の膠を加へて、これを以て手彩色してある〟
△『増訂浮世絵』p44(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)
〝漆絵とは、紅絵様式の一変化であつて、いはゞ紅絵と呼ばるゝ筆彩版画に、画中恰も漆を塗つたやうに、
真黒の部分を作つたものいふのである。例へば、女の帯、着衣の内の一部、特に人の注目を引く部分を
選んで濃墨を用ひたのである。然もその墨色を強調する為めに、濃い膠を加へて光沢を出したのである。
恰も漆を用ひたやうであるから、漆絵と呼ばれたのである。
かやうに、画面の一部に、非常に黒い部分をつくるから、他の色もこれと調和するまでに、濃厚に塗ら
なければならぬ。それにも又膠を多量に用ひて、光沢を出そうと努めたのである。それ故、漆絵の製作
された当時のものは極めて強烈なる色沢をもつて居たのである。(中略)
紅絵漆絵の作家として、重なるものは、鳥居流で、清信、清倍には遺作が最も多い。なほこの流に属す
るものでは、清忠、清朝などがあり、その他近藤勝信、勝川輝重、岸川勝政、清水光信などは皆漆絵の
作家である〟