◯『江戸名物百題狂歌集』文々舎蟹子丸撰 岳亭画(江戸後期刊)
(ARC古典籍ポータルデータベース画像)〈選者葛飾蟹子丸は天保八年(1837)没〉
〝鰻蒲焼
身をこがす此かばやきはうき恋の山のいもよりなれるむなぎ歟
朝くらの山椒のかほるうなぎには木の丸はしもそへて似合し
夏やせの薬とぞなるうなぎやにはらの大きな客のたえざる
さかんとてもちしうなぎはとく逃て己がこぶしへ筋をみせけり
かけ汁のあくにしぐれてその後にもみぢの照のいづるかばやき
家に客そへるむなぎのかばやきは土用の丑に汗かきて喰ふ
江戸前の大かばやきと見るめよりかぐ鼻さきへいるほとけ店
むなぎさる?重なる山と見世さきに谷筋見ゆる水いろの魚
引つゞく客も土用の丑の日はかばやきの香に鼻ぞつらぬく
わらくつの形の小判にかへながら旅のうなぎはきらふかばやき
駿河台不二もむかふに森山の烟り立そふうなぎかばやき
かばやきのかほりも鼻をとほせるぞうしの日にうるむなぎなりけり
梅の香の茶漬のこゝの軒並びかほりをはらふうなぎやのみせ
大江戸は紫のみかかばやきの浅黄うなぎもまたたぐひなし(画賛)〟
〈浅倉山椒 土用の丑 仏店(上野山下の大和屋) 森山(お茶の水) 旅鰻は地方からくる鰻で江戸前より劣るとされる〉
◯『世のすがた』〔未刊随筆〕⑥40(百拙老人・天保四年(1833)記)
〝うなぎの蒲焼は天明のはじめ上野山下仏店にて大和屋といへるもの初て売出す、其頃は飯を此方より持
参せしと聞、近来はいつ方も飯をそへて売り、又茶碗もりなどといふもあり、又先へ価を遣し請取の書
付を取、其切手を進物にする事あり、その商人も兼て請取書付を板行して代を書入て出す、其切手を進
物に用ゆ、至極心入の仕方なれども、いかゞなる贈物なり、初は町家計り用ひしが、此程は武家にても
用ゆる人もありと聞、物薄情厚といへるとはうらはらなり、此外餅屋などにても切手を出すとありと聞
けり〟
◯『近世風俗史(一)』(『守貞謾稿』)巻之五「生業上」①210
(喜田川守貞著・天保八年(1837)~嘉永六年(1853)成立)
〝江戸は腹より裂て中骨および首尾を去り、能きほどに斬りて小竹串を一斬れ二本づゝ横に貫き、醤油に
味淋酒を加へ、これに付て焼き、磁器の平皿をもつてこれを出す。
大小ともに串を異にし、一皿価二百文とす。必ず山椒を添へたり。
また江戸は専ら鰻一種の店のみにて、他物を兼ねず、他魚を調せず。その名ある者、左に一、二戸を記
す。各今世存在なり。
神田深河屋、茅場町岡本、霊巌橋大黒屋、浮世小路大金、親父橋の大和田、両替町大和田(安政亡ぶ)
田所町和田平、神田明神前椎の木、広尾狐うなぎ、尾張町尾張屋、向両国すざき屋、浅草の奴こ、尾張
町北川、江戸神田の深川屋と大坂の鳥久は、得意の人にあらざれば、現金にてもいかなる富者にもこれ
を売らず。また己が心に合ふ鰻これなき時は数日も休業す。けだし雇夫を用ひず。主人これを焼くをも
つて名あり。故に小戸にあるに、二人ともに名あり〟
◯『神代余波』〔燕石〕③121(斎藤彦麿・弘化四年(1847)記)
〝我幼き頃より鱣(ウナギ)を好みて、今も猶やまず、むかしは今の如く所々にあまたはなかりき、尾張町の
大和田、小船町の山利、湯島の穴などなり、其後、尾張町の鈴木、浮世小路の大金、麻布の狐など、つ
ぎ/\に出来て、今は町毎にありて、所せからず成しのみは、いにしへに増れり、いかさまにも天下無
双の美味なるが上に、諸病を治し、腎精を補ひ気力を益す、和漢百薬の長たり〟