◯『江戸名物百題狂歌集』文々舎蟹子丸撰 岳亭画(江戸後期刊)
(ARC古典籍ポータルデータベース画像)〈刊年未詳。選者葛飾蟹子丸は天保八年(1837)没〉
〝梅
菖蒲をもふきし軒ばに紅の梅は根ざしの色をみせけり
うぐひすの爪にさゝばや美しき紅とく梅の花のした露
春はとく風の便りにたつふりと梅かゝもてこかつけものせん
一二りん花はさきてもたしなさにまだ隣へもやらぬ梅が香
花の香も風にひそみて臥竜梅さくらの雲をおこすまでさけ
舩長が棹さす舳にとまりてはむかふへわたるすだの梅がか
花の香の匂ふかたをばしるべにてたどりては来る梅やしき道
春雨の糸もてぬへばぬふ程にほころびめだつ梅のはな笠
うぐひすのはつ音の里の梅さへもさくやの雨に声ぞひらける
やり梅の鉄砲垣をのりこしてさきかけをせし花の勝色
梅がゝをとくもて来ぬはいづこにか風の使のまわりみちせし
佐保姫の化粧ひさしに美しく紅おしろいの咲わけのうめ
鴬は宿にそだてゝ梅やしき江戸すゝめらが哥やよむらん
いぎたなき家とはみえず鴬のねぎしは梅の花のかやぶき
声匂ふ鳥は及ばじ朝露の玉をふくめるかつしかの梅
中のよき風にはぐれてをさなくも袖や袂へすうか梅か香
臥竜のかたちの梅の真盛は匂ひの淵のぬしかとぞ見る
立かくる霞男の袖ひきて笑顔やうめのしら歯なるらん
うぐひすもしばし休らふ袖ひさしこゝらや匂ふ梅の下路
木作の針目衣に似げなきは紅すまをりのうめの花笠
ひと枝を押て乞ふれば莟ほ◯ふくれ顔する梅守がつま
遠目にはほし月夜ともみえにけり鎌倉河岸の梅のはつ花
梅といふ文字書筆の匂ひさへきへえそうしの闇はあやなし
かぞいろの雨にうたれてさく梅もいさめの状のこゝちするらし
寒ささへ俥を引たるのどかさは琴ひく鳥のなく臥竜梅(拾遺)
〈根岸 梅が香 須田の渡し 臥竜梅 梅に鴬 鎌倉河岸〉
◯『絵本風俗往来』上編 菊池貴一郎(四世広重)著 東陽堂 明治三十八年(1905)十二月刊
(国立国会図書館デジタルコレクション)(20/98コマ)
〝正月之部 梅見
扨(さて)梅園は亀井戸・小村井・墨堤の鞠塢(きくう)新梅荘、少し遠出は大森・蒲田にて好みに任せ、
武家は馬上に金蒔絵のくら置き、馬丁(べつたう)は身中の文繍(いれずみ)をあらはし、白足袋にて先に
走る、又歩行の文人墨士・医師・僧達、扨幕府の御坊主衆・金銀座の役人、又は蔵前の通りの札差の主
人、障子船に棹さゝせ、横川筋を行く、兎に角雅人・粋士・隠士の外(ほか)は梅園、梅には梅に相応せ
る人品のみ、去(さ)れば俗を離れて造れる園林、園主も利欲を貪る念なきを知られ、静閑にして別天地、
自然名句秀吟のあるも理(ことは)り、又園中客、若年の人絶へてなきは、此の頃風習、若年より梅など
を愛して何かせん、士は文武を励み、工商は其の業に心を入れ、神官・僧侶・医家に至るまで梅見等は
為すことありけれども、老年の後の楽しみと、若年の人恥(はぢ)して至らざる時代也。適々(たま/\)
若き人の来たるは先生の供して来たる学士・学僕の類のみ、扨此の梅見は梅園の看(かん)斗(ばかり)に
あらず、往返の途中、春に笑ふ青草を踏み、一瓢の酒に酣酔を帯び、此所(ここ)彼処(かしこ)春景をめ
でつゝ散歩すまして、柳島辺は別墅隠士の住む所なるまゝ、其の家作も風致をつくり、塀越しの松、垣
中の梅の姿やさしく、草摘む童子(わらべ)、馬引く別丁も風情なり、寺内社前の蒼翠の樹木に、春禽群
れ遊ぶなど、自然の趣きに富みしかば、道すがらもまた面白き様(さま)に、草臥(くたびれ)を覚へざり
しなり〟
〈新梅屋敷は佐原菊塢の造園になる向島百花園〉
◯『絵本風俗往来』中編 菊池貴一郎(四世広重)著 東陽堂 明治三十八年(1905)十二月刊
(国立国会図書館デジタルコレクション)(23/133コマ)
〝梅林
杉田の梅は江戸より数里相隔つより、至る人まれなり、次は(ママに?)大森は、当所は川崎大師詣での便
りよく(ママし?)、さりながら当時梅林に杖曳く人の多きは、亀井戸なる臥龍梅(ぐわりうばい)なり、総
じて梅荘は質朴なる場所にして、粋士も林中にては渋茶の煮出したるを、覚束なき茶碗に汲み、剥げた
る塗盆にて出すを愛でて、茶うけも船橋屋の好みより、梅干の味を称し、船・駕籠に足を借りて急にい
たるよりは、時を費やし足に労れを覚ゆるの興多きを知るは、時代の然からしめし所と知らる、此の臥
龍園の門をくゞるや、園の主人老爺、兼ねて茶釜を据へて煮たる渋茶を汲んで出せる様子は、梅樹の培
養を自負せるものゝ如し、妻の老嫗が商ふ梅干は漬け方に巧みにして、味の無類なるを称せられたく、
さりとて世辞の媚少しもなく、万事に銅臭少しもあらぬなど、当日の土産といふべし〟