呼称「浮世絵師」の曲折(「浮世絵の誕生と終焉(2)」所収)
(館主の論考「浮世絵の誕生と終焉」はTopの「浮世絵の世界」の項及び「浮世絵の誕生と終焉」(全文)にあります)
呼称「浮世絵師」の時系列
(いわゆる「浮世絵師」という呼称の変遷を時系列順に並べた一覧。「浮世絵の誕生と終焉」所収のもの)
☆ 延宝八年(1680)
◯『大和武者絵』延宝八年(1680)刊(『師宣祐信絵本書誌』松平進著「日本書誌体系57」)
(闇計(アンケ)序)
〝爰に房州の海辺菱川氏といふ絵師、船のたよりを求めてむさしの古城下にちつきよして、自然と絵をす
きて青柿のへたより心をよせ、和国絵の風俗三家(サンケ)の手蹟を筆の海にうつして、これにもとづいて
自工夫して後、この道一流をじゆくしてうき世絵師の名をとれり〟
「刊記」〝大和絵師 菱川吉兵衛尉〟
〈師宣が「浮世絵師」と呼ばれた最初の作品。平成十二年開催、千葉市立美術館の「菱川師宣展」では『武者絵づくし』
として載せる。そのカタログで小林忠氏は「菱川師宣とその画業」の中でこの序文をとりあげ、「この絵本の初板は
松平進氏も推定されているように延宝八年かと思われるが、この内容の序文が付けられたのは、再版刊行時の天和三
年のことだろう。「うき世絵師」の言葉が含まれているが、「浮世絵」の語の初出は、今のところ天和年間より以前
には遡れないからである」とする。一方でこの序文の初出について別な説もある。佐藤悟氏は「菱川師宣の再検討」
(たばこと塩の博物館・研究紀要 第4号・平成三年刊)で「延宝八年に刊行されたと推定される『大和武者絵』に
闇計が記した序には」として上記の序文を載せている。「浮世絵師」という言葉の初出には、延宝八年説と天和三年
(1683)説とが行われている〉
☆ 貞享四年(1687)
◯『江戸鹿子』貞享四年(1687)板
(佐藤悟論文「菱川師宣の再検討」所収。たばこと塩の博物館・研究紀要第4号・平成3年刊)
〝浮世絵師
堺町横丁 菱川吉兵衛
同吉左衛門〟
〈これが元禄三年(1690)の『江戸惣鹿子名所大全』では次のように修正される〉
『江戸惣鹿子名所大全』元禄三年(1690)刊(貞享四年刊の板木を利用、師宣の挿絵を加えた改題本)
〝大和絵師
村松町二丁目 菱川吉兵衛
同吉左衛門
同作之丞〟
〈佐藤悟氏は埋木によって修正されたとする。そして、菱川師宣がこの増補版の挿絵を担当していることから「この改
変には師宣の意志が働いていたものと思われる」としている(上記論文)〉
☆ 元禄二年(1689)
◯『江戸図鑑綱目』乾(石川流宣俊之編作・元禄二年(1689)刊)
(『石川流宣画作集』下巻「絵図縁起篇」所収・吉田幸一編・近世文芸資料24・古典文庫)
〝廿五 浮世絵師
橘 町 菱川吉兵衛師宣
同 所 同 吉左衞門師房
廿六 板木下絵師
長谷川町 古山太郎兵衛師重
浅 草 石川伊左衞門俊之
通油町 杦村治兵衛正高
橘 町 菱川作之丞師永〟
〈「板木下絵師」は板下絵師と同義であろう。それにしても、現在なら浮世絵師として一括するものを、編者石川流宣
はなぜ浮世絵師と板木下絵師とに分けたのであろうか。さらに不可解なのは二版以降、以下のように改変されたこと
である〉
〝廿五 浮世絵師
橘 町 菱川吉兵衛師宣
同 所 同 吉左衞門師房
〈「廿六 板木下絵師」を削除して一行空白〉
長谷川町 古山太郎兵衛師重
浅 草 石川伊左衞門俊之
通油町 杦村治兵衛正高
橘 町 菱川作之丞師永〟
〈この改変を指摘した佐藤悟氏はその理由を次のように説明している。「初板において「浮世絵師」とされたのは菱川
師宣・師房親子である。そして「板木下絵師」とされたのは師宣の弟子である古山師重、編者の石川流宣その人であ
る石川俊之、杉村治兵衛、師宣の子供である師永の四人である。第二版以降で「板木下絵師」が削られたのは、この
当時「板木下絵師」は「浮世絵師」よりランクが低いという考え方があり、石川流宣に対して杉村治兵衛から抗議が
あったためと想像している。菱川派の要求によってこの改変がおこなわれたならば、後述するように「浮世絵師」は
「大和絵師」に修正されなければならなかったと考えられるからである」(「菱川師宣の再検討」たばこと塩の博物
館・研究紀要第4号・平成3年)佐藤悟氏の「後述」とは、貞享四年(1687)刊行の藤田理兵衛の地誌『江戸鹿子』で
は、菱川吉兵衛・同吉左衞門が「浮世絵師」と記されていたのが、元禄三年(1690)の増補版『江戸惣鹿子名所大全』
の方になると「浮世絵師」が削除されて「大和絵師」に修正されたことを踏まえる。(上出「☆貞享四年」の条参照)
さて、「板木下絵師」を削除した理由はそれとしても、よく分からない点もなお残る。なぜ石川流宣はこの自著『江
戸図鑑綱目』において、師宣を「大和絵師」とせず「浮世絵師」としたのであろうか。佐藤悟氏が指摘するように
『江戸図鑑綱目』出版の一年後には、増補版『江戸惣鹿子名所大全』の挿絵を担当した師宣が「浮世絵師」の呼称を
削除させて、自らを「大和絵師」と呼ぶよう改変しているのである。師宣の中に「大和絵師」という自覚が確固とし
てあったことは明らかである。にもかかわらず流宣は師宣を「浮世絵師」と呼んだ。なぜであろうか。師宣を「浮世
絵師」と最初に呼んだのは石川流宣ではない。延宝八年(1680)刊とされる師宣の版本『大和武者絵』の序にあるも
のが最初であった。そこでは序者の闇計なるものが、師宣を「うき世絵師の名をとれり」と記している。もっとも刊
記の方は「大和絵師 菱川吉兵衛尉」である。なお、この序文をめぐっては、初版時にあったという説と、天和三年
(1683)の再版時に入れられたという両説があって、「浮世絵師」の初出がいずれか、今のところ決しがたいが、と
もかくも『江戸図鑑綱目』が出版される元禄二年以前に「浮世絵師」という呼称が既に使われていたことは確かであ
る。流宣は単にそれを引き継いだのであろうか。しかしこれまで師宣版本の肩書きはことごとく「大和絵師」である。
流宣が師宣のこの自称を知らないはずはあるまい。二版の時期がよくわからないが、その時点でも「板木下絵師」は
削除したが「浮世絵師」の方はそのままで通した。流宣は自ら「浮世絵師」を自称したともいえるのである。流宣に
は師宣のような抵抗感がなかったのだろうか。あるいはそう呼ばれることを望んだのであろうか。2011/12/29修正追
記〉
☆ 元禄五年(1692)
◯『万買物調方記』元禄五年(1692)刊(『諸国買物調方記』花咲一男編・渡辺書店 昭和47年刊)
〝京ニテ 当世絵書
丸太町西洞院 古 又兵衛
四条通御たびの後 半兵衛
江戸ニテ 浮世絵師
橘町 菱川吉兵衛
同吉左衛門
同太郎兵衛〟
〈この記述を、並べてあることから一対と受け取って、京都で当世絵書と呼ぶ人を江戸では浮世絵師と呼んでいると理
解した。ただ「浮世絵師」と呼称が江戸でどれほど流通していたかということになると、よく分からない。上出(貞
享四年の条参照)のように、菱川師宣は「浮世絵師」と呼ばれることを拒否して「大和絵師」とわざわざ修正させて
いる。ただ「浮世絵師」という呼称が江戸から使われ出したことは確かだから、この大坂・大野木市兵衛板の『万買
物調方記』が、京大坂の「当世絵書」に相当する江戸の絵師を「浮世絵師」と呼ぶことは不自然でない。もっとも京
大坂でも「浮世絵師」の呼称が定着したとは言い難く、元禄十年(1697)刊の、やはり大坂出版の諸国地誌『国花万
葉記』をみると「大和絵師 菱川吉兵衛 村松丁二丁メ 菱川吉左衛門 同作之丞」となっている。(この『国花万
葉記』の記事は斎藤月岑の『増補浮世絵類考』に「三馬曰く」として出ている)ともあれ「浮世絵師」という呼称は、
この元禄の時点では、まだまだ普及するに至らなかったと考えてよいのではないだろうか。
さて、この又兵衛であるが、「古」とある。古人の意味であろう。今は現存しない優れた当世絵書という意味を込め
ているのであろう。この又兵衛を山東京伝は「浮世又兵衛」と呼び、斎藤月岑は「当世又兵衛」と呼んでいる。(本
HP「浮世又兵衛」及び「当世又兵衛」参照)。半兵衛の方には「古」とないから現存を意味する。斎藤月岑はこの
半兵衛を吉田半兵衛としている。(本HP「吉田半兵衛」参照)江戸の浮世絵師では菱川吉兵衛が師宣、吉左衛門が
師房、太郎兵衛が師重。なおこの『万買物調方記』は斎藤月岑の『新増補浮世絵類考』も史料として取り上げている
が、別書名の『買物調方三合集覧』で出ている〉
☆ 元禄十年(1697)
◯『国花万葉記』(菊本賀保著・元禄十年刊)(早稲田大学「古典籍総合データベース」所蔵)
〝大和絵師 菱川吉兵衛 村松町二丁メ
菱川吉右衛門 同作之丞〟
☆ 元禄年間(1688~1703)
◯『増訂武江年表』1p105(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
(元禄年間・1688~1703)
〝浮世絵師 橘町菱川吉兵衛、同吉左衛門、古山太郎兵衛、石川伊左衛門、杉村治兵衛、石川流宣、鳥井
(ママ)清信、菱川作之条〟
〝菱川が浮世絵はことに行はれたり。宮川長春も此の時代の浮世絵師にて、元禄宝永の頃行はれたり〟
〝一蝶が作の朝妻船、しのゝめ一名かやつり草、などいふ小唄流行〟
〈『増訂武江年表』の著者斎藤月岑が菱川師宣以下を「浮世絵師」としたのは、月岑が上出の『江戸鹿子』や『江戸図
鑑綱目』や『万買物調方記』を見ていたからに他ならないが、それ以上に、月岑の生きた時代、幕末にはすでに「浮
世絵師」という呼称が師宣たちを指し示すものとして、定着していたからなのであろう。師宣も、奥村政信も、鈴木
春信も「大和絵師」を自称した。が、それとはお構いなしに、外部の人々はかれらを「浮世絵師」と呼んだ。今では
なんのためらいもなく彼らを「浮世絵師」と呼ぶが、考えてみれば、かれらが望みもしない呼称を貼り付けてしまっ
たのかもしれない〉
☆ 宝永七年(1710)
◯ 『当世誰が身の上』凉花堂斧麿作・宝永七年(1710)〈(カタカナ)は本文の振り仮名〉
〝今はむかし江戸の町に菱川師宣といふ浮世絵工あり。其此世に知られたる本絵師も、此菱川が妙術凡筆
の及ぶ所にあらずと取沙汰して、終(ツイ)に上つ方迄も召出されけるとかや。かくて其の弟子其門葉とて、
菱川と名乗る画工幾等(イクラ)という事もなし。然(シカ)はあれど師宣に及びものなかりしとなり。凡そ一
流の元祖と成る事、通例にはあるべからず〟
〈これは岸文和氏の『絵画当為論』に出ていた例。この「浮世絵工」は「本絵師」と対になっている。読みははっきり
しないが、工が絵師の意味であることは確かであろう。師宣を浮世絵師と呼んでいる例である〉
☆ 正徳年間(1711~1715)
◯『増訂武江年表』1p120(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
(正徳年間・1711~1715)
〝浮世絵師 菱川師宣、正徳中七十余歳にして終れり(薙髪して友竹といへり)。また懐月堂(号安慶、
称源七)この頃行はる(誠云ふ、懐月堂は浅草蔵前に住ひす)〟
〈菱川師宣は元禄7年(1694)没。安慶は安度〉
☆ 享保九年(1724)
◯『ひとりね』柳里恭(柳沢淇園)著・享保九年序(日本古典文学大系『近世随想集』p57)
〝うき世絵かきと本絵かきとあり〟
◯『独寝』「燕石十種・巻三」 ③106
〝浮世絵にて英一蝶などよし、奥村政信、鳥井清信、羽川珍重、懐月堂などあれども、絵の名人といふた
は、西川祐信より外なし、西川祐信はうき世絵の聖手なり〟
〈二つの記事をみると、柳里恭は英一蝶・奥村政信たちを「本絵かき」と対になっている「うき世かき」と見ているこ
とがわかる。ただ「浮世絵かき」であって「浮世絵師」ではない〉
☆ 享保年間(1716~1735)
◯『増訂武江年表』1p139(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
(享保年間・1716~1735)
〝浮世絵師 奥村文角政信(芳月堂)、西村重長(仙花堂)、鳥居清信、同清倍、近藤助五郎清春、富川
吟雪房信等行はる〟
☆ 宝暦七年(1757)
◯『近世江都著聞集』〔燕石〕⑤52(馬場文耕著・宝暦七年九月序)
〝此一蝶が百人女臈の絵共を本として、其後洛陽西川祐信といへる浮世絵師、好色本枕絵の達人といはれ
しが、或年百人女臈品定といふ大内の隠し事を画き、其後夫婦契ヶ岡といふ枕絵をいふ枕絵を板木にし
て、雲の上人の姿をつがひ絵に図し、やんごとなき方々の枕席、密通の体を模様して、清涼殿の妻隠れ、
梨壺のかくし妻、萩の戸ぼそのわかれ路、夜のおとゞの妻むかへと、いろ/\の玉簾の中の、隠し事を
画きしに因て、終に公庁に達して、厳しき御咎にて、板を削られ絶板しけるとかや、是世人の多く知る
所也〟
☆ 宝暦年間(1751~1763)
◯『増訂武江年表』1p170(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
〝浮世絵師 鈴木春信、石川豊信(秀葩と号し、六樹園飯盛の父にして馬喰町の旅店ぬかや七兵衛といへ
り、鳥居清倍、山本義信(平七郎と称す)、鬼玉其の外多し〟
☆ 明和七年(1770)
◯『役者裏彩色』役者評判記(八文字屋八左衞門著 明和七年刊)
(「女形に見立てられた浮世絵師」所収(木村捨三著『集古』所収 昭和十四年一月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション『集古』己卯(1)10/16コマ)より収録)
〝明和七年九月版の役者評判記『役者裏彩色』江戸の巻は、三座出勤の俳優連を絵師に見立てゝゐる。例
へば市川団十郎を狩野元信に、松本幸四郎を永遠に、中村仲蔵を山楽に、中島三甫右衛門を小栗宗舟に、
中村歌右衛門を曽我蛇足に、三升屋介十郎を雪舟に、尾上菊五郎を金岡に、大谷友右衛門を探幽に擬す
るが如きそれである。その内の女形を左の通りに見立てゝゐるのが面白い。
見立浮世絵師に寄る左の如し
若女形之部
開口 山下金作 森田座 何をなされてもにつこりとする春信 〈鈴木春信〉
上上吉 吾妻藤蔵 市村座 武道にはちと角があつてよい菱川 〈菱川師宣〉
上上吉 中村喜代三郞 同座 どれみても上方風でござる西川 〈西川祐信〉
上上半白吉 中村松江 中村座 思ひのたけをかいてやりたい一筆斎 〈一筆斎文調
上上白吉 尾上松助 市村座 此たびはとかくひゐきを鳥居 〈鳥居清満か〉
上上半白吉 瀬川七蔵 中村座 瀬川の流れをくんだ勝川 〈勝川春章〉
上上半白吉 山下京之助 森田座 風俗はてもやさしい歌川 〈歌川豊春〉
上白上 尾上民蔵 市村座 うつくしひ君にこがれて北尾 〈北尾重政〉
上上 嵐小式部 森田座 いろ事にかけては心を奥村 〈奥村政信〉
若女形
上上吉 吉沢崎之助 中村座 和らかな所はほんの女とみゆるおりう〈山崎お龍〉
最後の「おりう」といふのは、山東京伝の『浮世絵類考追考』に「享保中の名画也板下をかゝず 略伝
世事談に見ゆ 山崎氏の女也」とあるのがそれである〟
〈『歌舞伎評判記集成』第二期十巻p31に同記事あり。但し、春信は「何をされてもわつさりとする春信」とあり〉
☆ 明和年間(1764~1771)
◯『増訂武江年表』1p187(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
(明和年間・1764~1771)
〝浮世絵師、勝川春草(ママ)(門人数多あり)、一筆斎文調、磯田湖竜斎、柳文朝、小松屋百亀等行はる〟
☆ 安永年間(1772~1780)
◯『増訂武江年表』1p206(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
(安永年間・1772~1780)
〝浮世絵師 鳥居清長(彩色摺鈴木春信より次第に巧みに成りしを、清長が工夫より殊に美麗に成りたり)、
尚左堂、春潮、恋川春町(倉橋寿平)、歌川豊春(一竜斎)等行はる〟
〈尚左堂は窪俊満〉
☆ 天明年間(1781~1788)
◯『増訂武江年表』1p221(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
(天明年間・1781~1788)
〝画家 宋紫石、嵩谷、嵩渓、芙蓉、山興(桜氏)、秋山(桜井氏)
筠庭云ふ、山興は氏を一字に桜とも書きたる落款もあるべけれども、桜井氏なり。次の秋山にはしか
記せるは如何にぞや。秋山は山興の女(ムスメ)なり〟
〈『増訂武江年表』天明年間記事にどうしたわけか、浮世絵師の記事がない〉
☆ 寛政年間(1789~1800)
◯『退閑雑記』松平定信・寛政五年(1793)記〔『続日本随筆大成』第六巻 p35〕
〝今の世のけしきゑがき、すみ田川の遊舫をうかめ、梅やしきのはるのけしきなど画くは、浮世絵のいや
しき流のゑがくところにして(中略)このうき世絵のみぞ、いまの風体を後の世にものこし、真の山水
をものちの證とはなすべし〟
◯『画本賛獣録禽』恋川吉町画 鶴屋板 寛政十一年(1799)刊
(国書データベース)
〝叙 恋川はる町
門人よし町 筆作の双帋を携へきたりて 予に雌黄を得んことを乞ふ もとより絵具箱をもたぬ浮世絵
師の合羽箱もちなれば その需をば茶いろのかんばんあらたたまりました新作を 此初春のおなぐさみ
にと絵本道具の御さきとなつて ハイホウ の声を序する而己〟
〈雌黄とは添削と同義。絵具箱を使うのは狩野派などの本絵師で浮世絵師は持たない。「茶色の看板」「ハイホウ」未詳〉
◯『増訂武江年表』2p18(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
(寛政年間・1789~1800)
〝浮世絵師 鳥文斎英之、勝川春好、同春英(九徳斎)、東洲斎写楽、喜多川哥麿、北尾重政、同政演
(京伝)、同政美(蕙斎)、窪春満(尚左堂と号す、狂歌師なり)、葛飾北斎(狂歌の摺物、読本等多
く画きて行はる)、歌舞妓堂艶鏡、栄松斎長喜、蘭徳斎春童、田中益信、古川三蝶、堤等琳、金長
筠庭云ふ、俊満は只職人をよくつかひて、誂(アツラ)への摺物を請取りて巧者に註文したるものなり。
政演も画は自分には其の志あるまでにて、書くことはならず、大方代筆をたのめり。
俊満は左手にて手は達者にかきたり。よきにはあらず。
北斎は画風癖あれども、其の徒のつはものなり。
政美は薙髪して、狩野の姓を受けて紹真と名乗る。これは彼等が窩崛(カクツ)を出て一風をなす、上
手とすべし。語りて云ふ、北斎はとかく人の真似をなす、何でも己が始めたることなしといへり。是
れは「略画式」を蕙斎が著はして後、北斎漫画をかき、又紹真が江戸一覧図を工夫せしかば、東海道
一覧の図を錦絵にしたりしなどいへるなり〟
〈『略画式』寛政七年刊・『鳥獣略画式』寛政九年刊・『山水略画式』寛政十二年刊〉
☆ 享和年間(1801~1803)
◯『増訂武江年表』2p26(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
(享和年間・1801~1803)
〝江戸浮世絵師は、葛飾北斎辰政(始め春朗、宗理、群馬亭、後北斎戴斗、又為一と改む)、歌川豊国、
同豊広、蹄斎北馬、雷洲(蘭画をよくす)、盈斎北岱、、閑閑楼北嵩(後柳居)、北寿(浮絵上手)葵
岡北渓。
北尾蕙斎略画式と号し、浮世絵の略画を工夫せし彩色摺の粉本数篇を梓行す。
浮世絵師二代の春信といひしもの、長崎に至り蘭画を学び、後江戸に帰り世に行はれ、名を司馬江漢と
改む。(此の頃迄山水の遠景を画きたる一枚絵を浮絵と云ふ。今此の称なし)〟
〝(京大坂)画者は石田玉山、青陽斎蘆国、一峯斎馬円、丹羽桃渓、合川珉和、松好斎半兵衛、歌川豊秀、
速水春暁斎等其の外数多あり。春暁斎は画人なれども、自ら著述のよみ本数十部あり〟
〈斎藤月岑は京大坂の絵師をここでは「画者」としか呼んでないが、『増補浮世絵類考』には全員収録している〉
☆ 文化年間(1804~1817)
◯『増訂武江年表』2p58(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
(文化年間・1804~1817)
〝浮世絵 葛飾戴斗、歌川豊国、同豊広、同国貞、同国丸、蹄斎北馬、鳥居清峯、柳々居辰斎、柳川重信、
泉守一(渾名目吉)、深川斎堤等琳、月麿、菊川英山、勝川春亭、同春扇、喜多川美丸。
筠庭云ふ、国丸は国貞が前にあるべし。猶古きは国政なり。瀬川富三郎の似貌は、之が書き初めたり。
鳥居は清長が弟子にて、古きは清元、又戯作者の振鷺亭なり。次は清忠なり。
目吉は板行ものにも見えず。金太郎をかけるを俗人賞す。随分何をもよくかきたり
重信は至つて後輩なり。月麿は喜多川哥麿の弟子なり。春扇を出さば春徳をも出すべし〟
〈喜多村筠庭の補注「鳥居云々」のくだりの意味は月岑のあげた清峯は清長の弟子であるが、清長のもっと古い弟子は
清元、振鷺亭で、清忠がそれに次ぐというのだろう。ところで筠庭は、月岑の記述に不満があるらしく、まず国丸を
国貞の前に置くように求め、次に国丸や国貞より古い豊国門人で、しかも役者似顔に実績がある国政に言及している。
国政不在が不満なのであろう。また柳川重信の順番ももっと後にすべしといい、春扇を出すならば春徳も出しベきだ
ともいう〉
☆ 天保年間(1830~1843)
◯『著作堂雑記』235/275(曲亭馬琴・天保四年(1833)十月記)
〝聞まゝの記第十一に載す、黙老問云々、美成答て云、浮世絵師家系及高名のもの御尋でに御記被下度、
拝覧の所、僕年来聞に及びたるを録し置たりといへども、今悉記しまいらせんことたやすからず、その
一二を左に記す、元禄二年の印本江戸図鑑に、浮世絵師菱川吉兵衛【橘町師宣】、同吉左衛門師房【同
町】、古山太郎兵衛師重【長谷川町】、石川伊左衛門俊之【浅草】、杉村治兵衛【通油町】、菱川作之
丞師永【橘町】下略、浮世絵類考、画伯冠字類、風俗画談、近世逸人画史等によらば大概はしるべきな
り〟
〈天保四年十月頃の記事と思われる。同月十四日馬琴の日記に、高松藩の家老・木村黙老から「近来浮世画工之事」に
ついて質問を受け、馬琴は早速「浮世絵師伝略文」なるものを認めて送ったとある。また弘化二年(1845)には浮世絵
師や戯作者の小伝『戯作者考補』の編集を終えている。『聞くまゝの記』はその黙老の随筆。馬琴が黙老に紹介した
『江戸図鑑綱目』は石川流宣著の地誌。「浮世絵類考」はどの系統のものであろうか。馬琴とは親密であった渓斎英
泉に天保四年の序をもつ『無名翁随筆(別名「続浮世絵類考」』があるが、おそらくそれではあるまい。『画師冠字
類考』は「日本古典籍総合目録」に八冊、文化文政頃の成立とあるが著者名はない。『風俗画談』は未詳。『近世逸
人画史』は『江都名家墓所一覧』(文化十五年(1818)刊)の著者でもある岡田老樗軒の画人伝。これは坂崎坦著『日
本画論大観』中巻に収録されている。なお美成は山崎美成であるが、この記事における美成の関わりが判然としない〉
〈『画師冠字類考』は高嵩月著〉
◯『増訂武江年表』2p102(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
(天保年間・1830~1743)
〝浮世絵師国芳が筆の狂画、一立斎広重の山水錦絵行はる。
筠庭云ふ、此の頃国芳、頼光病床四天王の力士宿直を書きたる図に、常にある図なれど、化物に異変
なる書き様したり。其の内に入道の首は、已前小産堀と呼ぶ処本所にあり、爰(ココ)に挑灯(チヨウチン)
屋にて凧を売りしが画をかき得ず、猪の熊入道とて、彩色は藍ばかりにて書きたる首即ちこれにて、
悪画をうつしたるなり。この評判にて人々彼是(カレコレ)あやしみたるもおかし。板元の幸にて売れか
た多かりき。近時も療治をする所のつまらぬ錦絵を色々評判うけて売れたり。皆不用意にして幸あり
しなり〟
〈斎藤月岑の「国芳が筆の狂画」を、補注者・喜多村筠庭は「源頼光公館土蜘蛛作妖怪図」と受け取った。また「近時
も療治する所のつまらぬ錦絵」とは嘉永三年(1849)の国芳画「【きたいなめい医】難病療治」をさす。この国芳の判
じ物二作については本HP「浮世絵事典」の「つちぐも」と「きたいなめいい」参照。なお筠庭の補注は嘉永三年以
降のもので、斎藤月岑のあずかりしらぬところである。月岑の云う狂画が土蜘蛛を指すかどうかは定かではない〉
☆ 弘化元年(天保十五年・1844)
◯『近世名家書画談』二編(雲烟子著・天保十五年(1844)刊・『日本画論大観』上385)
〝漢土浮世絵師の事
五雑俎第七に曰く「姑蘇に張文元なる者有り、最も美人を工みにして、俗中の神仙なり」と。是れ此邦
の菱川師宜、宮川長春、西川祐信などの類なる歟、よく人世平生の情態をうつして絶技といふべし、今
世又京師に乗龍、江戸に国貞あり、師宣・長春とは異れどもよく風俗の情態を画て世の人情を動かすに
至らしむ、是又その妙域に入れる者にして得がたき伎能(てぎは)なり〟
〈『五雑俎』曰く「明、姑蘇の張文元なる者、美人画を善くして俗中の神仙なり」と。この張文元がさしずめ唐土にお
ける浮世絵師だと、雲烟子はいう。本邦では、師宣・長春・祐信、そして天保の現代では京都の乗龍・江戸の国貞な
どが、よく風俗の情態を写して世の人情を動かすに至らしむる技倆の持ち主だというのである〉
☆ 弘化四年(1847)
◯『神代余波』〔燕石〕③129(斎藤彦麿著・弘化四年(1847)序)
〝浮世絵師といふは、菱川師宣といふもさら也、其後、鳥居清長、勝川春章、また其門弟ども、今の世の
風俗、遊女、劇場の俳優人、相撲人など、その者を見るが如くよくかきたる。近き頃は、豊国が門弟な
る国貞いとよくかけり、又その門弟、並びに門弟ならぬ画だくみの、此頃かけるを見れば、男女とも肩
をすくめ、肘を膚につけたるさまにて、寒げにちゞみあがりたる姿にかけるは、いかなる故ならん、時
世のさまとはいひながら、いやしげに見ゆる也、さるすさびに、たま/\、衣冠の官人、甲冑の武士な
どをも、猶さるさまにかけり、いと寒げに身すぼらし〟
〈「寒げにちゞみあがりたる姿」とは所謂「猫背猪首」の姿をいう〉
☆ 昭和以降
◯「梅ヶ枝漫録(一)」伊川梅子(『江戸時代文化』第一巻第六号 昭和二年七月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
〝或る時、豊国が頼まれて、商家の人の為に絵を書きました そして 結構な表装が出来て、座敷開きの
時に、御披露した所が、その折来合はせた客の絵の好きな人が「大そういゝ軸が出来た。しかし落款で
ぶちこはした」と云ひました。それを聞いた豊国は「私は狩野、四條家に勝る程に書いたが、落款でさ
げすまれた。何故かといふと、私は版下を彫つてゐる。それでさげすまれるのは残念である」と云つた
さうです〟
〈絵は素晴らしい、しかし「豊国」の落款でぶちこわしだ、というエピソード、浮世絵師蔑視の一端である。それを聞い
た豊国はこれまでにも「落款でさげすまされた」ことがあると認めている。浮世絵師の名前は錦絵や草双紙などの流通
で、よく知られている一方、差別はなかなか根強いのである〉
◯『浮世絵と板画の研究』(樋口二葉著・昭和六年七月~七年四月(1931~32))
※ 初出は『日本及日本人』229号-247号(昭和六年七月~七年四月)
△「第二部 浮世絵師」「一 世間に於ける地位」p67
(浮世絵師とは)
〝浮世絵師とは浮世絵派の絵を描く者の総べて名称である。其主なるものを挙げると、江戸名物として絢
爛たる東錦絵即ち風俗絵、武者絵、役者絵その他諷刺絵、風景絵等の色摺の板画、時世粧の絵本又は読
本の挿画、合巻即ち草双紙もの、俗に切附合巻と云ふ戦争ものゝ主となつてゐる柾四つ切の玩弄本、又
は姉様尽し、道具尽し、切抜絵、組立絵、柾八つ切りの桃太郎や猿蟹合戦などの昔咄しの麁雑な玩具絵
本を描き、或は刺子の下絵、文身の図案絵、紙鳶大行灯の絵、演劇その外興行物の看板絵などの類を描
くを専門にする画工であつて、平民的の絵画、日常触目する時世粧を其の侭に描き出すが浮世絵師の特
有なる技術であるが、其の浮世絵中にまた幾つかの流派もあつて錦絵を専門に描く者でも、美人絵の得
意もあれば、役者の似顔絵に得意もあり、または勇しい武者絵ものを本領とするもあり、裸一貫を稼業
の力士絵に妙を得たもの、風景絵を巧みに写し出すもの、調刺的の戯画に衆人をアツト言はすものもあ
れば玩具絵その他のものに妙技を発揮するものもあつて、素より一様でなく、読本の挿絵にしても、絵
本類にしても皆同じことである〟
(画工の弟子)p68
〝浮世絵師の卵がウジヨ/\出来るが、扨て此の卵が皆満足に孵化したら、画工は箕で量る程沢山に成つ
て始末が付くもので無い。然れど十中七八までは孵化しない中に、自ら筆を捨て魔道に落ちるか止めて
了ふのが多く、不具ながらにでも巣立して浮世絵師と名乗る事の出来るのが、二人もあれば師たるもの
ゝ大手柄と云れたものである〟
(師匠の一字を許された弟子=名取の弟子)p68
〝名取の弟子と云ふにも、種々の魂胆があつて師たる者の権謀から、実際碌々絵も描けない者に名を許す
例がある。最も此の風が多かつたは北斎で、悪例の種を蒔き初めたらしく、丁度現代の生花や抹茶の師
匠が目録次第でドシ/\免許を与へると同じ格であらう。豊国の畠にもあつたやうに聞くが、国芳には
随分それがあつて、板木屋や摺工で弟子分にして芳の字を許した。近くは国周にも此の弊があつて、玩
弄絵一枚描いた事のない画工があるそうである〟
(浮世絵師の品格)p69
〝要するに浮世絵師は一定の場所までは漕ぎ付られるが、黒潮の如き激流の横はりが前途を遮つて、尋常
の柔軟腕では乗切ることが出来ないで、此処に至つて凹垂れて彼岸に達せられないから、不具の画工が
多く半熟で終る。鶏卵なら却て半熟に効能はあるが、画工の半熟では閻魔の庁でも用ひ処があるまい。
処が何時の時代でも此の半熟先生が浮世絵師の多数を占め、彫工摺工の職人等と親しみ、芸術家などゝ
云ふ観念は微塵も無く、宵越の銭は持ぬを外見にパツパと遣ひ、何時もピイ/\風車で問屋の職人扱ひ
に甘んじ来た悪弊が、文化文政の浮世絵全盛期後に於ける画工に、著るしき現象を示して来たと同時に、
画工の品位が段々と堕落して了ひ、それが絵の精神に喰込んで荘重な威厳は失て、優美な気品薄らいで
来てゐる。初代豊国の如き豊広の如きでも、寛政の清長の如き、春章の如き、歌麿の如きに対照して見
たら何うであるか、一目して明かな事実であるのだ。此のぺイ/\画工の堕落は先づ問屋向の軽侮とな
り、問屋向の軽侮は頓て絵双紙店の侮りとなり、再転三転遂に一般に軽視せられたやうに思はる。
山東京山の『思出草』巻の四の中に「亡兄が北尾重政のもとに居て、数々地本問屋へ使ひにやらるゝ時
分は、問屋が絵師に対しても丁寧にて、其弟子が師匠の使ひに赴きける時の如きも、相当の礼儀を守つ
たものなりしと聞きけるが、今は豊国などの弟子にても、又国芳の弟子にても、名を成した絵師に対し
て取扱ひの無礼なる傾きと成れり。昔の絵師はたとへ門弟たりとも、然る扱ひはせざりしなり、さは云
へ問屋のみを咎むるは僻ことにて、絵師の品格は著るしく降り劣りたれば、之れも自ら招く◎ひならん
かし云々」とあるも、是れ等の消息を漏らすものだらうと思ふ。兎に角熊公八公に類する徒が多かつた
ので、世間より軽々に観られて職人視せられるやうに成つたと推断されるが、昔の絵師は町絵師と同等
位には取扱はれて居たと見て宜しからう〟(◎は草冠+擘)
△「第二部 浮世絵師」「世間に於ける地位」p70
〝山東京山の「思出草」巻の四の中に「亡兄が北尾重政のもとに居て、数々地本間屋へ使ひにやらるる時
分は、問屋が絵師に対しても丁寧にて、其弟子が師匠の使ひに赴きける時の如きも、相当の礼儀を守つ
たものなりしと聞きけるが、今は豊国などの弟子にても、又国芳の弟子にても、名を成した絵師に対し
て取扱ひの無礼なる傾きと成れり。昔の絵師はたとへ門弟たりとも、然る扱ひはせざりしなり、さは云
へ問屋のみを咎むるは僻ことにて、絵師の品格は著るしく降り劣りたれば、之れも自ら招く禍ひならん
かし云々」とある〟
〈山東京山の「思出草」は未詳。「日本古典籍総合目録」になし〉
△「第二部 浮世絵師」「四 独立して後」p81
(際物師)
〝(玩具絵)すら成し能はぬ者は際物師に脱線する。際物師とは其の季節/\で種々の絵を描き、紙蔦の
仕込ごろには紙鳶絵を切々と描ぎ、祭礼があると大行灯を描いたり、刺子の絵を描いたり、羽子板の役
者似顔を描いたり、諸興行物の看板を引受けたり、或は招牌絵を描いたりするのである。斯ういふやう
に脱線して種々の方面に活路を開き、世渡りの綱を蜘手に引き廻して、太夫身支度出来仕つりますれば
綱の下まで出られますの口上も、是れからが七分三分のかね合とございの吹聴も、皆一人で切つて廻す
もあれぱ、又その専門家と成ると妙なもので弟子もつき、手伝ひに寄つて来る不具画工も出来て、却て
玩具絵などをコツ/\描いて燻つて居るより、派手な生活なして居た者もあつた〟
〝年期から叩き揚げた画工で行路病者と成り、野垂れ死にをしたと云ふ者は殆ど聞かない。大酒喰にとか、
懶怠者とかで、自分から世間と隔離して同情を失わない限りは、何かに有り附て饑餓は免れ得られる処
から、画工に成れば喰はぐれが無いと人も云ひ、自らも信じて名家の門には、怪しい画工の卵がごろ/\
転がつて居たと云ふ、此の頃とは大分時世も違うて昔日の面影が髣髴と浮て見えるやうである〟