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浮世絵文献資料館
浮世絵師総覧
☆ うきよえし(しゅちょうしゃせい)浮世絵師(出張写生)
浮世絵事典
☆ 文政九年(1826)
◯『還魂紙料』〔大成Ⅰ〕(柳亭種彦編・文政九年刊) ◇「千年飴」の考証 ⑫210 「中村吉兵衛千年飴七兵衛に打扮肖像〔割註〕享保年間の一枚絵なり。丹黄しるの類にて色どれり」 (飴売七兵衛に扮した中村吉兵衛の模写に) 〝ぶしゆうとしまのこおり、えどこびき町、せんねんじゆめうとう、いとびんせんねんなりけり 中村吉 兵衛〟署名〝為一縮図〟〝いがや〟の版元印あり。 〝中村吉兵衛は異名を二朱判吉兵衛とて、世にしられたるかぶきの道化方なり。木挽き町とあれば森田座 なるべけれど、何といひし狂言か未考〟
〈原画は、飴売七兵衛(元禄宝永の頃実在)に扮装した中村吉兵衛をうつしたもの。絵師は不明。それを為一が模写し たものだが、これは柳亭種彦の依頼であろうか〉
◇「若衆人偶」の考証 ⑫221 〝むかし若衆人形といふ物あり。これは婦人の雛とは製作(ツクリザマのルビ)異にして小児の玩弄(テアソビ)に もあらず。却て大人の愛興ぜしものなりとぞ。むかしの人情おもひやるべし〟 (『案内者』寛文二年板。『野郎虫』明暦板・『西鶴二代男』貞享板・『吉原つねつね草』貞享板の諸本 を引いて考証。この若衆人形は浮世人形とも呼ばれ、細工師として京都の細工山田外記の名があがる。 人形の模写図に〝歌城蔵〟〝為一寫〟とあり)
〈歌城は国学者小林歌城か。幕臣。通称田兵衛、初名元雄、字子駿号髠岳堂、雲衣堂、晩年剃髪して歌城とよぶ。幕府 大番頭。この歌城所蔵の若衆人形を北斎が模写したのであろう〉
◇「七夕踊り 小町踊り かけ踊り」の項 ⑫264 〝正保のころの画巻に載たる七夕踊りの図、小町踊といふ則是なり〟 (「七夕踊り」模写あり。〝松羅館蔵〟〝為一摸〟とあり)
〈松羅館は西原梭江。山崎美成・谷文晁らと共に古書画・古器物の珍品奇物の品評会である「耽奇会」の会員である。 西原梭江の「耽奇会」の参加は文政七年五月十五日の発会から文政八年三月十三日の第十二回まで。(『耽奇漫録』 参照。平成六年刊、吉川弘文館)ともあれ、柳亭種彦の依頼と思われるが、北斎為一はこうした考証資料の作成のた め、松羅館等好事家達の所蔵する珍物奇物の模写を行っていたのであろう。これがまた北斎の画業領域拡大につなが っていったに違いないのである〉
☆ 明治十九年(1886) ◯『香亭雅談』下p18(中根淑著・明治十九年刊)
※半角(カタカナ)(漢字)は本HPが施したもの
〝一日某大族、国芳を携へ江西の川口楼に宴し、水神白髭等の諸勝を図せしむ。国芳先づ小紙を膝上に展べ、景に対して 匇匇鉤摸す、一妓有り、其の画工たるを知らず、傍らより此を調(アザケ)りて曰く、子も亦た絵事を知るかと、国芳顧て 曰く、咄這の豊面老婆、吾れ他日汝が為にその醜を掩はずと、妓未だ喩(サト)らず、之を婢に問ふ、婢曰く、是れ画人国 芳君なりと、妓吃驚して地に伏し謝を致す、闔坐(満座)姍笑(嘲笑)す〟
〈傭書ならぬ、雇われ写生家か。遊女を伴い浮世絵師をしたがえ、勝地を写生させるのも一興とする贅沢な宴席での挿話である。本文に は中根の頭注があり、それによると「豊面」とはお多福の由である。「咄這の豊面」は「ちょつ!このお多福」の意味か〉