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浮世絵文献資料館
浮世絵師総覧
☆ うきよえし じょ・ばつ・しきご 浮世絵師の序・跋・識語
浮世絵事典
☆ 享和三年(1803) ◯『前太平記図会』読本 西村中和画 秋里籬島著 享和三年序
(国書データベース)
(法橋中和の跋) 〝文あつて其事を知り 図あつてその形を見る◎◎ 時に昇平の化にあゐて人みな文画を楽しむ 仍て 近来◎家しきりに古記に図を加へて世に行はる物数巻に及ぶ 爰に前太平記の一部 初天慶・承平の 比より康和至まで 百余年の事実を顕し漱て 各将勇士の行跡の見るに足る この比図を加へて 再 ひ梓して世に広めんとす 画を予に乞ふ◎なれば辞すべきにあらず 禿筆を◎かして全部六巻 つゐ になりぬ 嗚呼耻しくは笑を後世に残さん事を しかはあれど古きを見て新しきを知り 治に居て乱 を忘れざれば 身を脩めるの一助ともならんかとしかいふ 法橋中和書〟 ☆ 文政六年(1823) ◯『地色早指南』色摺 渓斎英泉画 中折本 二冊
〔日文研・艶本〕
(第二編)
淫乱翁白水(英泉)の序
※全角(かな)は原文の読みがな。原文句読点なし、読点は本HPのもの
〝今流行の好色本は、弥(いよ/\)奇を愛(めで)で、珍らしきを弄ぶ事を旨として、春情発動する情 状をバしるさず、鎧櫃(よろひびつ)に納めがたき不吉のことを専らとす、されば俗にいふ笑本(わら ひほん)も怪談めきておそろしく、委(こと/\)く意を失ふて、人情の不義不実を明白に誌せるもの とハなりゆきぬ、往昔(わう/\)土佐の某(なにがし)が感情の画巻(えまき)ものに、何某(なに がし)の君が詞書を添(そへ)給ひしなんどハ、情(じやう)深く見るにおかしく愛(めで)たきこと のみいとおほかりし、東山殿の愛(めで)給ひし袋僧(ふくろそう)の画巻(えまき)、朝顔の巻なん ど、実(げに)うべなりと思ふぞかし、探幽斎が曲取(きよくとり)の絵は華本(くわほん)の素女伝 (そぢよでん)によりて写出(うつしいだ)せしものならん歟(か)肉蒲団、金瓶梅、淘月艶の文によ りて、諸名家筆を震ひしより遥に後、浮世絵師
吉田半兵衛、菱川吉兵衛
なんど、好色本を板行して、艶 書軌範、床談義、好色訓彙(きんい)、玉簾、近世大全、色双子、旅つゞら、かぞへ挙るにいとまあら ず、その後、浪華の
西川祐信
が百人美女の好色本(わらひほん)いよ/\世上に流行して、貞享、天和 の枕草紙を画組を換て再板せり、されバ各(おの/\)の二本あれども、却(かへつ)て元板(げんは ん)むかしめきて、詞書(ことばかき)もひなびたり、夫より中興
月岡丹下
、好色本に妙を得て、求る 者の多かりしとぞ、この比までは画師の名印(ないん)を顕(あらは)にせり、流行広大なるゆゑに、 数百巻の艶本(わらひほん)唐本(たうほん)通俗話解(わげ)別伝、各争ひ発市(はつし)なすほど に、
勝川元祖春章
初め、
鳥居庄兵衛、喜多川歌麿
(うたまろ)、交接(とぼし)の絵組に奇妙を尽し、 享和の頃まで発行せしハ、皆是世人の知る所也、されども今の流行ほど奇怪(きくわい)を画くことは 稀也。そは左(と)もあれ、此草紙は密(ひそか)に淫を弄ぶ田舎人の楽(たのしみ)のたよりともな らんかと、地色(ぢいろ)早指南(はやしなん)と題して先に出板せしは、交接かたのこゝろ得(え)、 色事の弁用(べんよう)を誌したり、残れるを次(つぎ)て二編とす、されども紙数に限りありて、九 牛が一毛をあらハし、猶(なほ)三編四編に至て、委(こと/\)く淫術早指南の事を誌し尽す、発兌 の時をまち得て看(み)給へ、交接の術にハ男のこゝろ得をのみしるせども、女の心得をしるしたるは、 這(この)一書に限(かぎママかぎるカ)ものならん歟(か) 淫乱翁白水誌〟
〈英泉は、現在の好色本(春画)を評して、奇態で珍しい図様を好んで弄ぶが、春情を催させるような図様には関心が ないとする。また、不吉なことも画くので、従来の用途のように鎧櫃に入れて武運を願うわけにもいかないし、怪談 めかしたりするため、笑って言祝ぐという本来の役割をも失ってしまった。なかには人情の不義不実を明白にするも のすらあるとした。以下、往古の春画を振り返る。土佐某の画巻は「小柴垣草紙」「東山殿の愛給ひし袋僧の画巻」 は「袋法師絵詞」か、続けて狩野探幽の「曲取絵」。こうして英泉は、本絵の土佐と狩野を経由させて、春画の系譜 を町絵の浮世絵師につなげる。吉田半兵衛・菱川師宣・西川祐信・月岡丹下・勝川春章・鳥居清長・喜多川歌麿、こ れらは英泉が高く評価する春画の大御所なのだろう。なお、西川祐信は(寛延三年(1750)八十歳没)貞享天和の枕絵 を絵組みを換えて再版したという。また、月岡丹下(天明八年(1788)七十七歳歿)の時代あたりまで、春画には絵師 の名が入っていたとする〉
☆ 文政八年(1825)酉 ◯『柳樽』葛飾北斎序 岩瀬文庫
(国書データベース)
833/3038コマ 〝鋪島の道は正しふして動かず 仮(たとへ)ば人の立てるに等し 是真と云ふべきや 連俳は前句の意を 伝へて其様を異にす 巻中自(おのずか)ら歩むが如し 亦行ならずや されば此の諷詠は滑稽を元とし 興を縦(ほしいまゝ)にす 聞く人吐笑(とつせう)して能く世に走(わし)るを以て艸とせんか しかも川 柳(かわやなぎ)の枝葉繁茂して八十五編の署名を分つ 夫(そ)が中に女郎花と呼べる名に愛でて 馬喰 町に居る清屎(きよくそ)の主(あるじ) 一ト年(ひとゝせ)風流の莚(むしろ)を開き 四方(よも)の好子 を勧めて 何百有余吟を集め 川柳翁の撰(ゑらみ)を乞ふ 甲乙の位(ゐ)定まりて上木して 集の末編 (ばつぺん)に備ふ 僕(やつがれ)其席(むしろ)に連なるを以て 是に序せよとなり 幼(よう)より画を 好むの痼癖はあれど 文編の莚を窺ふの眼(まなこ)なく 烏焉馬の誤りいかにせんと 再三辞すといへ ども赦さず 止む事を不得(ゑず)して 丹青は筆を霏(そゝ)ぎ 鈍き墨を点じ文に似たるを記す 観る 人咎むる事勿かれ 于時文政酉夏 前北斎葛飾為一述卍〟 ☆ 天保四年 ◯『无名翁随筆』(『続浮世絵類考)無名翁(渓斎英泉)著
大和絵師浮世絵の考
「于時癸巳 東都根岸の時雨岡の於閑窓 無名翁記」
吾妻錦絵の考
無名翁記 ☆ 天保五年(1834) ◯『富嶽百景』初編「七十五齢 前北斎為一改 画狂老人卍筆」 永楽屋(名古屋)・角丸屋甚助ほか板 天保五年三月刊 (巻末)
北斎 跋
〝己(おのれ)六才より物の形状(かたち)を写すの癖(へき)ありて 半百の頃より数々画図を顕(あらは)す といへども 七十年前画く所は実に取るに足るものなし 七十三にして稍(やや)禽獣虫魚の骨格 草木 の出生を悟し得たり 故に八十才にしては益々進み 九十才にして猶其の奥意を極め 一百歳にして正 に神妙ならん歟(か) 百有十歳にしては一点一格にして生(いけ)るがごとくならん 願はくは長寿の君 子 予が言(こと)の妄(まう)ならざるを見たまふべし 画狂老人卍述〟 ☆ 嘉永六年(1853) ◯『御江戸圖説集覧』「玉蘭斎貞秀図画」山崎北峯説 山本平吉板 嘉永六年刊
(国書データベース)
※文中のスペースは本HPのもの
玉蘭斎貞秀 序
〝天地(あめつち)ひらけそめしより 万世(よろづよ)を重ぬれども かゝるあけらけく愛(めで)たき御代 はさらに聞きもつたへず 空よりひろき武蔵野の月のくまなきおほん光りに 繁昌するよろつの民の家 居は 甍をつらねて千八町にみちわたり 栄えゆくことまことに天長地久うごきなき 我(わが)住む国 の事くさをもしらで過ぎゆかんもほいなしと 隅田川の水の深きをさくり 飛鳥山の千草をわけて 玉 川の清きながれにそひ 品川なる海ばらの底はかとなく 書(ふみ)やの反故かきあつめつゝ むかし/\ の永禄の大江都のうつし絵図には 名におふ武蔵野といへるときのさまをうつして すゝき尾花のまね きあひ すゑは大そらにつらなるばかりにおもはれ 昔を見るこゝちす また寛永の大絵図も その頃 の板にして 今の世にくらべなば いまの世のありかたき事かぎりなく 天上界に生を得たるおもひぞ かし こは我のみか四方(よも)の君たちのこゝろもなどかわれとおなじからざらんや されば此絵図を 模してこたび桜木にのほせて冊子をし 同好の人の覧に具へんと云ふ 嘉永五年癸丑春 玉蘭斎貞秀識〟 ☆ 明治十四年(1881)巳 ◯『勢肌彩倶利伽羅』三編 梅堂国政画 川上鼠辺編 亀遊堂版 ④ (国政序)
(かな)は原文のふりがな
〝抑(そも)此(この)草紙(まき)は近年、東京の花と諸君も知る。名も葭(よし)町に轟きし、女侠客鐘吉の 履歴に善事の多ければ、夫を好(よみ)して鼠辺氏が勢ひ肌と号を置き、合巻(つゞきふみ)となしたるに、 世君(よの)の高評を受しより、梓主(ふみや)は一層心喜(のりがき)て、此図を外さず サア三編(あと) をと丁稚が尻に帆を掛て、記者に責(せま)れど 此程は、傀儡(でくをまはす)誌に隙(いとまなし)とて、 受け込んだ侭(まま)捨置(すておく)に 亀遊堂(はんもと)は気をいらち、年賀の戻りに立寄られ、僕(よ) に後巻(かうへん)を綴(もの)せよと、望(こは)るゝまゝに断(いなみ)がたく、同様(おなし)怪化の戯多 者(けだもの)社会(なかま)、川上鼠辺氏(いたづらものゝおやぶん)が、著述(かじり)残しを夜仕事(よ なべ)の片はら 一寸一筆助手舞(すけてん)テン 痴気林爺(ちきりんちやん)から 譲られた獅子ッ鼻 をヒコツカセ、万歳楽をポン/\と序す 巳なる歳はつ春 夜宴坊国政戯題〟