Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ うきよえ ふうぶんしょ 浮世絵・浮世絵師に関する風聞書浮世絵事典
(町奉行の三廻(警察官)が収集した浮世絵・浮世絵師に関する風聞書)
 ☆ 天保十五年(1844)三月  ◯「流行錦絵の聞書」(絵草紙掛り・天保十五年三月記)『開版指針』(国立国会図書館蔵)所収   〝天保十二丑年五月中、御改革被仰出、諸向問屋仲間組合と申名目御停止ニ相成、其外高価の商人并身分    不相応驕奢(ヲゴリ)のもの、又は不届成もの御咎被仰付、或ハ市中端々売女の類女医師の堕胎(ダタイ)    【俗に子をろしと云】御制禁ニ相成、都て風俗等享保寛政度の古風ニ立戻り候様被仰渡候処、其後同十    四卯年八九月の比、堀江町壱丁目絵草(ママ)屋伊波(バ)屋専次郎板元、田所町治兵衛店孫三郎事画名歌川    国芳【国芳ハ歌川豊国の弟子也】画ニて、頼光(ヨリミツ)公御不例(レイ)四天王直宿(トノヒ)種々成不取留異形    の妖怪(ヨウカイ)出居候図出板いたし候、然る処、右絵ニ市中ニて評到候は、四天王は其比四人の御老中    【水野越前守様、真田信濃守様、堀田備中守様、土井大炊頭様】にて、公時(キントキ)渡辺両人打居候碁盤    は横ニ成居、盤面の目嶋なれば、此両人心邪(ヨコシマ)に有之べし。扨妖怪の内土蜘は先達て南町御奉行所    御役御免ニ相成候矢部駿河守様の【但定紋三ツ巴也】由、蜘の眼巴ニ相成居候、又引立居候小夜着は冨    士の形ち、冨士は駿河の名山なれば駿河守と云判事物の由、飛頭蛮(ヒトウバン/ロクロクビ)は御暇ニ相成候    中野関翁【播磨守父隠居なり】にて、其比世上見越したると申事の由、天狗は市中住居不相成鼠山渋谷    豊沢村え引移被仰付候修験、鼻の黒きは夜鷹と【市中明地又は原抔え出候辻売女也】申売女也、長ノ字    の付候杓子を持、鱣(ママ鰻?)にて鉢巻いたし候坊主は芝邊寺号失念日蓮宗にて鱣屋の娘を囲妾ニいたし、    其上品川宿にてお長と申飯売と女犯ニて御遠島に相成候ものゝ由、筆を持居候は御役御免ニ相成候奥御    祐筆の由、頭に剱の有るは先達て江戸十里四方御構に相成候歌舞妓者市川海老蔵、成田不動の剱より存    付候由、頭に赤子の乗居候は子おろし、當の字付候提灯は当百銭の由、纏に相成居候鮹は足の先きより    存付高利貸、分銅は両替屋、象に乗候達磨は先達て貪欲一件ニて遠島に相成候牛込御箪笥町真言宗ニて    歓喜天守護いたし候南蔵院の由、其外家業御差留御咎等ニ相成候もの共の恨ミに有之由、専ら風聞強く    候故、内密御調ニ相成候。右ニ付市中好事の者調度絵草屋(ヱソウシ)屋え、日々弐三人宛尋参候得共、絵    草紙屋にても、最早売々(ママ)不仕候、右は全下説ニ程能附会(コジツケ)風評致候共恐入候事ニ有之候、乍    併諺にいふ天ニ口なし人をもつて云わしむると申事あれバ、若自然右を案じ、又乍承夫を紛敷画候ハふ    とゞき至極のもの共也〟    〈この聞書は、天保十四年(1843)八九月頃、歌川国芳画「源頼光公館土蜘蛛作妖怪図」(三枚続・伊場屋仙次郎板)     に関して、市中に流布した夥しい量の風聞を、絵草紙掛り名主が収録したもの。源頼光公御不例の図は従来からのも     のだが、市中ではこの絵を天保十二年五月以来続いている幕府の改革を擬えたものとして捉え、様々な風説を流して     いるという報告である。この「聞書」は頼光が暗示するものを記さないのは、おそらく将軍を憚ったためであろうか。     四天王は水野忠邦以下改革を主導した当時の四老中、そのうちの二人、坂田金時(堀田備中守)と渡辺綱(真田信濃     守)が碁を打つは両人の心が碁盤の目のように邪(ヨコシマ=横縞〉であることを暗示するためだとする。土蜘蛛は巴と     富士の模様から前町奉行矢部駿河守。飛頭蛮(轆轤首)はもと小納戸頭取中野碩翁。天狗は修験僧・鼻の黒い女は夜     鷹・鯰の鉢巻き坊主は女犯の罪で流罪になったもの(日啓・日尚父子)・長の字のある杓子をもつ女は飯盛女(私娼)     筆を持つ総髪は奥右筆(奥儒者成島図書司直かあるいは奥御右筆組頭大沢弥三郎か)・頭に剣のあるものは江戸払い     に処せられた市川団十郎・頭に赤子は子堕ろし婆・當百銭は天保通宝百文銭(発行は水野忠邦の発案)・柄の先が蛸     の纏は高利貸し・分銅は両替商・象に乗る達磨は流罪僧の南蔵院等々。要するに、これらの妖怪は、水野が主導する     改革によって、家業を禁じられたり処罰されたりした人々を暗示するというのである。     巷間では、苛酷な改革を断行したお上(将軍・四老中)とその被害者・犠牲者(矢部駿河守等々)という図式で、こ     の国芳の判じ物を捉えていると、この「聞書」はいう。またこうした浮説は所詮牽強付会に過ぎないとするものの、     もし承知の上で紛らわしく画いているとすれば不届きだともいう。やはり制作側の意図に疑念を拭いきれないのであ     る。しかしそれでも当局は国芳と板元伊場屋を摘発しえなかった。以上のような浮説と同様の意図をもって、国芳や     伊場屋がこの「源頼光公館土蜘作妖怪図」を制作したかどうか、見極められなかったのであろう。     天保の改革は浮世絵の大黒柱である役者絵と女絵(遊女・芸者等)の制作を禁じたが、生業に窮した浮世絵界はその     代わりに判じ物を考えだした。言わば天保の改革は判じ物の生みの親なのである。皮肉なことに、これ以降、検閲担     当の名主たちは、制作側の意図を特定できないよう巧妙に作られた判じ物に直面しては、頭を悩ますことになってい     く〉
  〝其頃風評を消んと四天王并保昌五人ニて土蜘蛛退治の絵、同画ニて出板いたし候得共、蜘の眼に矢張三    ッ巴を画候なり、然れ共四天王直宿(トノヒ)妖怪の絵は人々望候共、土蜘退治は売れも不宜候由〟    〈「源頼光公館土蜘作妖怪図」から生ずる浮説をかき消そうとして、国芳は今度は四天王に平井保昌を加えて、葛城山     の土蜘蛛退治を作画したようだ。蜘蛛の目は「妖怪図」同様三つ巴にしたようだが、これは売れ行きが良くなかった。     伝説を単に絵解きするだけでは、もはや市中の人々の興味に応えることが出来なくなっていたのである〉     〝同年閏九月中の由、間錦(アイニシキ)と唱候小さき絵ニて、四天王直宿頼光公御脳(ノウ)の図、最初と同様ニ    て後◎一図土蜘居候図ニて、堀江町【右は里俗おやじ橋角と申候】山本屋久太郎板本、本所亀戸町画師    歌川貞秀事伊三郎【貞秀は歌川国貞の弟子ニて前出国芳より絵は筆意劣り候なり】右は下画にて御改を    受、相済候上出板いたし候、右へ二重板工夫いたし、土蜘を除き其跡に如何の妖怪を画、二様にいたし    売出し候、右化物は前書と少々書振を替、質物利下げハ通ひ帳を冠り、高利貸は座頭、亀の子鼈甲屋、    猿若町に替地被仰付候三芝居は紋所、高料の植木鉢、其外天狗は修験、達磨は南蔵院、富百銭の提灯、    夜鷹子おろし等、凡最初は似寄候画売ニいたし候処、好事の者争ひ買求候由、右も同様の御調ニ相成、    同年十月廿三日、南番所に【御奉行鳥居甲斐守也】御呼出の上、改受候錦絵え増板いたし候は上を偽候    事不届の由ニて、画師貞秀事伊三郎、板元山本屋久太郎手鎖御預ケ被仰付、御吟味に相成候。春頃或屋    敷方ニて内証板ニ同様の一枚摺拵、夫々手筋を以て売々致候由に候得共一見不致候〟    〈天保十四年閏九月中、歌川貞秀の「四天王直宿頼光公御脳(ノウ)の図」なるものが二種類出回る。ひとつは改(アラタメ=     検閲)を経た土蜘蛛入りのもの、もう一つは土蜘蛛を削除して代わりに妖怪の図様を画き入れたもの。折から国芳の     「源頼光公館土蜘蛛作妖怪図」が判じ物としてさまざま取り沙汰されていたところなので、この貞秀の妖怪図様も判     じ物としてまた大いに持てはやされた。ところが、十月二十三日、南町奉行鳥居甲斐守耀蔵は、絵師貞秀と板元山本     屋久太郎とを突然召喚する。そして、検閲済みのものに手を加えて変更するとはお上を偽る行為、不届き千万だとし     て、手鎖・家主預けに処し、その上でなお吟味を命じた。この件の落着は同年十二月、『続泰平年表』によれば、絵     師貞秀と板元山本屋久太郎は過料五貫文とある。「春頃或屋敷方ニて内証板(云々)」も国芳の「土蜘蛛」の余波で、     歌川芳虎の春画版「土蜘蛛」のこと。上掲『藤岡屋日記』参照〉    ☆ 弘化三年(1846)
  <五月>   ◯「市中風聞書」『大日本近世史料』「市中取締類集一」「市中取締之部一」第二二件 p486    (弘化三年五月十六日付、町奉行所、隠密廻りの報告書)   〝浮世絵之儀、絵之具色取偏数多き品、又ハ三芝居役者似顔等厳敷御察斗有之、一ト先不目立絵も相見候    得共、浮世絵師(歌川)国芳と申者、種々出板之内、其頃猫之絵を書候而も矢張役者似顔ニ認、其外之    出板役者誰々と申名前ハ無之候得共、何れも役者似顔ニ仕立差出し、同職之内ニも、国貞事当時(歌川、    三世)豊国と申者儀ハ、一体極尊大ニ相構、麁末成絵ハ書ざる抔と申趣ニも相聞侯得共、右等之儀ハ差    置、先御改革之頃ハ勿論、去秋頃迄ハ相慎候哉、格別目立候絵も相見不申、然処当時ニ至り候而ハ、悉    く色取偏数多く掛り候絵而己相見、前書国芳儀ハ厳敷御察斗をも恐怖不致体ニ相聞、且浮世絵之儀ハ既    懸名主ニも出板之節、右絵之内調印も致し候由之処、其侭出板為差出候儀ハ如何之訳柄ニ有之候哉、厚    く世話方等も被仰渡候上ハ、名主共ぇ御察斗有之侯歟、多くも無之絵師共ニ而、国芳儀是迄恐怖不致次    第、同人ぇ御察斗有之候而も可然儀と沙汰仕侯     此儀、前々より之御触面ニハ何れも相背、武者絵等風俗ニ不拘分も、彩色ハ手を込候続絵有之、当時     ハ歌舞妓役者之名前ハ顕シ不申候得共、似顔ニ致し、此節三芝居狂言之姿を二枚続等ニ致し、追々出     板致し候様子ニ付、超過不致様、掛り名主共より程能相制可申旨、被仰渡候方ニ可有之候哉、且国芳     ・豊国と申絵師、多分之絵工代等受取候趣ニも相聞候得共、誂候もの無之候得ハ、自然相止候儀ニ付、     別段御沙汰不被及候共可然哉ニ奉存候〟    〈歌川国芳と三代目歌川豊国(初代国貞)の身辺に関する報告書。色数の多い錦絵と役者似顔絵の禁止令が天保改革以     来引き続いている。しかし最近出回る歌川国芳の猫の絵は顔が役者の似顔、また役者名こそないものの紛れもない似     顔になっているものもある。豊国もまた尊大で、粗末な絵は画かないとなどと公言しているようだ。昨年の秋頃まで     は禁令が守られて紛らわしい絵はなかったのに、最近は色数の多いものが出回り始め、国芳に至っては「察斗」も恐     れない様子である〉    ☆ 弘化四年(1807)
  <二月>  ◯「市中風聞書」『大日本近世史料』「市中取締類集」二「市中取締之部二」第二三件 p5   (弘化四年二月)   〝哥舞妓役者共似顔錦絵之儀ハ御制度の品ニ候処、昨年の春頃より役者共の名前ハ認不申候へ共摺出し、    去年秋の頃より甚敷相成、新狂言の似顔を商ひ候而より、当春抔ハ通例之絵の三四分ニ而、六七分ハ役    者絵を商ひ候よし、勿論近年紙価値貴く候間、其儀可有之候へ共、御改正以前よりも高料の品有之、勿    論色摺之篇数も多く手込ミ候品共ニ有之、且春画之儀草紙ニ綴候分ハ勿論四ッ切・八ツ切抔と唱、大奉    書を裁候而、早春世上ニ而交易等いたし候儀之処、春画ハ御政革以前迚も厳敷御制禁ニ候処、昨年春頃    より次第ニ多く相成、天道干しと唱へ路傍ニ莚を布、古道具等並へ置候向ニ多く有之、八ツ切之方ハ当    春抔大分ニ世上ニ相見へ、是ハ錦絵と違ひ猶又遍数も多く金銀摺も有之候由、其内ニも六哥仙と唱へ候    春画は金銀多く遣ひ有之候由〟    〈依然役者似顔絵は禁止。弘化三年の春頃から再び流通し始め、秋頃から勢いが出て、新しい狂言の似顔絵の出回り始     めた。今年は正月から役者似顔絵の出荷が六七割に達する。価格も紙価上昇のせいもあるのだが、色数摺数の多い品     では改革以前よりも高いものもある。春画は版本と版画(四ッ切・八ッ切)が弘化三年の春頃から多く出回る。こち     らは金銀入りの豪華版も多い。中でも『六歌仙』という春画が金銀をふんだんに使っているということだ〉     <五月>  ◯「市中風聞書」『大日本近世史料』「市中取締類集」二「市中取締之部二」第二三件p22-24   (同年五月十三日付、町奉行上申書。冒頭は上掲二月の「市中風聞書」に同じ。引き続き以下の報告あり)   「趣意弁別致し兼候絵を板行し、右之内頼光四天王之絵、又ハ天上地獄之絵其外品々不分之絵柄など差出、    人々之目ニ留り、是ハ何に当り可申抔判断を為附候様ニ致シ成、奇を好候人情ニ付、新絵出候度、毎争    而買求、彼是雑説いたし候ニ付、絶板売止申付候後ハ、猶々難得品之様ニ相心得、探索いたし相調、残    り少ニ相成候所ニ至候而ハ、纔三枚ツヾキ之絵二朱一分位ニも素人同士売買致し候由ニ相聞、右ハ何と    なく御政事向、御役人ぇ比喩いたし候事ニも相聞、以之外不宜筋ニ而、其頃兎角右躰之取計いたし、人    ニ為心附候様致し成、専利を求候儀ニ而、夫も渡世薄く取続兼候所よりいたし成侯儀ニ有之、当時右躰    之儀ハ更ニ無之侯得共、似顔絵よりハ尤不宜筋ニ有之、併前書之通差留相成侯役者似顔絵を公然と商ひ    候ハ、全触背之義ニ付、早速咎も可申村処、役者名前ヲ不顕ハ憚居侯筋ニ付、此後新狂言之絵組ニ当り    候分ハ、売出し申間敷旨申渡置候様可仕候、其外春画好色本ハ前々より制禁之品之処、極密板行いたし    侯ものも有之哉、顕露ニ売買いたし候義ニハ曾而無之、且道路ニ古道具等並へ置侯内ニ稀ニ好色本有之    候ハ、全古ル本ニ而紙屑買など買出し来、売渡候儀と相聞申候、春画大小等ハ、先ツハ蔵板重モニ而交    易いたし候儀ニ候得共、本屋共之内新規板行等致し、高価に売捌候ものハ猶探索之上取調、夫々及沙汰    候様可仕と奉存候〟    〈「源頼光公館土蜘蛛作妖怪図」(歌川国芳画・天保十四年刊)や「教訓三界図絵」(歌川貞重画・天保十五年刊)など、     趣旨のよく分からない絵が人々の目に留り、これは何に相当するかなどと、判断させるようにする、すると新奇を好     むのが人情というものだから、新作が出るごとに争って買い求め、あれこれ様々な説を生み出す。それで絶版を命じ     たのだが、それが却って稀少になって値を煽りことになった。三枚続きで二朱一分もの取引もあるようだ。(天保の     改革で一枚16文とされた。従って小売り価格は三枚続で48文。当時の銭相場は一両(十六朱・四分)6500文。これで換     算すると二朱は813文、一分は1625文)これらは政治向きや役人を風刺しているとの噂もあり、これで利を得ている     のは実にけしからぬことだが、それはそうしないと、彼の渡世がままならないためにしているのである。最近そうし     た判じ物は見かけなくなったが、今度は禁じられている役者の似顔絵がまたぞろ出回り始めたようだ。早速処罰すべ     きところではあるが、役者の名前を出さないなどお上を憚っている様子もあるので、新狂言の絵については自粛する     よう指導してはどうか。また春画については内密に出版している向きもあるが、露骨に売買している様子はない。路     上で古道具と並んで置かれている好色本も見かけるが、これらは紙くず同様のあつかいをしているようだ。(咎める     までもないというのだろう)春画や大小の蔵板の売買はあるようだが、先ずは新規に出版して高値で売りさばくもの     を探索して処罰してはどうか〉    ☆ 嘉永三年(1850)
  <正月>」  ◯「三廻風聞申上調」『大日本近世史料』「市中取締類集」二「市中取締之部二」第三三件p198)   (三廻(隠密廻・定廻・臨時廻)の上申書)   〝当春春画之義出来致し候風聞ハ有之候得共、重ニ山之手軽キ御家人又ハ藩中もの抔、板元摺立とも内職    ニ致し候義ニ付、何分板元突留り不申、且又、往還干見世等ニ往来人足留之為二三枚位ヅヽ、差出し有    之候儀も御座候間、見懸次第取上候様可仕候〟    〈当春、春画が出回ったとの噂があったが、主に山の手の身分の軽い御家人あるいは藩中の家臣などが、板元や摺りを     内職としているので、板元を突き止めることができないとの報告である。(どうやら武家屋敷が非合法出版の隠れ蓑     になっていたようだ。春画が町奉行の管轄外で密かに作られているのである)また往来の干し見世の中には、客引き     のため二~三枚ずつ出し置くものもあるが、こちらは見かけ次第没収したいとしている。これに対して、「市中取締     掛」が次のような意見を述べている〉     〝春画之義は前々より兎角早春流行致シ候品故、若往還等ニ而専売買致し候様之義も有之候而ハ、以之外    外の義ニ付、私共より一応名主共ぇ心付方之義及沙汰置候様可仕(云々)〟    〈春画については、市中取り締まり掛りの方でも、往来で売買しないよう名主を通して通知したいとしている。それに     してもおもしろいのは、春画は「兎角早春流行致し候品」とある。はたしてどのような事情があって早春に多く出回     るのであろうか〉    ☆ 嘉永六年(1853)   <八月>  ◯「新和泉町画師国芳行状等風聞承探候義申上候書付」(隠密による国芳身辺調査報告書)   『大日本近世史料』「市中取締類集 二十一」(書物錦絵之部 第二六七件 p129)   〝新和泉町画師(歌川)国芳行状等風聞承探候義申上候書付   隠密廻    新和泉町画師国芳義、浮評等生候絵類板下認候旨入御聴、同人平日之行状等風聞承探可申上旨被仰渡候    間、密々探索仕候風聞之趣、左二申上候、                         新和泉町南側 又兵衛地借                          浮世画師 芸名 歌川国芳事 孫三郎 五十六才                                     妻 せゐ  三十八才                                     娘 とり   十五才                                       よし   十二才                                     母 やす  七十二才                                  外ニ人別ニ無之弟子 三四人    右国芳事孫三郎義は、亀戸町友三郎地借、浮世画師、芸名歌川豊国事庄蔵先代之弟子ニて、歌舞妓役者    共似顔板下重も之稼方有之候処、天保十二丑年以来、絵類御取締廉々之内遊女・歌舞妓役者似顔御制禁    之御沙汰ニ付、武者・女絵又は景色之絵類類等板元注文受候得共、右絵類ニては、下々市中之もの并在    方商ひ高格別ニ相減候故、国芳義は画才有之者ニ付、奇怪之図板下認候絵類売出し候得は、種々推考之    浮評を生候より、下々之ものとも競買求候間、板元絵双紙屋共格別之利潤相成候ニ付、国芳え注文致シ    候もの多相成候処、右絵類之内ニハ浮評強絶板いたし候へは、猶望候もの多相成、内々摺溜置候絵類高    直ニ競ひ売買いたし候人気ニ至り、板元絵双紙屋共存外之利潤有之仕癖ニ成行候間、兎角異様之絵類を    板元共注文いたし候様相成候ニ付、書物絵双紙懸名主共踊形容之絵柄は為売捌、此踊形容と申立候は、    歌舞妓役者共狂言似顔之図二候得共、名前・紋所を不印売出し候間、奇怪之絵柄ハ凡相止候、然処、踊    形容之似顔絵は豊国筆勢勝レ候ニ付、国芳えは板元より之注文相減、又通例之武者絵・景色等之絵類ニ    ては商ひ薄、旁国芳職分衰候ニ付、図柄工風いたし絵類売出し候へは、下々にて何歟推考之浮評を生シ    候より望候もの多、商高相増候様ニ図取いたし候て、職分衰微不致様ニ仕成し候由    〈隠密同心たちも、判じ物が生まれてきたのは、天保改革で遊女・役者似顔絵を禁じたためだと認識していたようであ     る。武者絵・子供の女絵・景色絵(風景画)だけでは暮らしが立たないので、板元たちは困ったすえに、「種々推考     之浮評」が生ずるような「奇怪之図」を国芳の画才に託して頼んだ。目論見通りこれが当たって浮説が立つ、そこで     これを絶版にすると、却って逆に人気を煽ることになって、高値で取引される始末。とかく「異様之絵」がますます     持て囃されることになった。そこでそれを抑えようと、役者似顔絵だが画中に名前や紋所を入れない「踊形容」と称     するものを許可したところ、ねらい通り「奇怪之絵柄」の方は止まった。ところが、この「踊形容」なるものは豊国     の方が優れているため、注文が豊国の方に集中し国芳への注文は逆に減ってしまった。国芳は図柄を工夫してこの衰     微を防ぐ手立てを講じなければならなくなったという〉      一 浮世画師は惣体職人気質之者にて、其内国芳義は弟子も多ク、当時は重立候ものニ候得共、風俗は     野卑ニ相見、活達之気質ニて、板元共より注文受候砌、其身心ニ応候得は、賃銀之多少ニ不拘受合、     又不伏之注文ニ候得、賃銀多談合候ても及断、欲情ニは疎キ方之由、尤、図取之趣向等国芳一存ニは     無之、左之佐七え相談いたし候由                                神田佐久間町壱丁目 喜三郎店                                        明葉屋 左七                           此ものは狂歌を好、狂名は梅の家と申候由    右佐七は、茶番或は祭礼踊練物類之趣向功者之由、同人は国芳え別懇ニいたし候間、同人義板元より注    文受候絵類、図取を佐七え相談いたし候間、浮世絵好候ものは、図取之摸様にて推考之浮評を生し候由、    〈浮世絵師は総じて職人気質、国芳は弟子も多く当節の大立て者だが、立ち居振る舞いは野卑、気質は闊達で、板元か     らの注文も気に入れば賃金の多少に関わらず引き受け、不服だと高くとも断る。金銭等の欲望は薄いとのこと。図柄     や趣向取りについては国芳一存ではなく、左七(狂名梅の屋鶴子)と相談の上で制作する由。この左七は茶番師で祭     礼の際の踊りや練り物の工夫が巧みという。国芳とは極めて昵懇。国芳は板元から注文が入ると、左七と相談して浮     説が生ずるような絵柄を考案するようだ〉
   一 国芳居宅は、新和泉町新道間口二間半・奥行六問、自分家作ニ住居、家内八九人程之暮方ニ付、妻     子ハ相応之衣類も着候得共、其身ハ着替衣類等之貯も薄、注文受候画類賃銭相応ニ受取候得共、弟子     共之内えも配当いたし、其上欲情には疎キ方ニて暮方等ニは無頓着、借財等も有之候者之由、且、前     書佐七義、当六月廿四日、下柳原同朋町続新地家主、料理茶屋河内屋半三郎方借受、雅友共書画会催     候節、国芳義同所へ参り、畳三十畳敷程之紙中え、水滸伝之人物壱人みご筆ニて大図ニ認、隈取ニ至     り手拭え墨を浸シ隈取いたし候得共、紙中場広にて手間取候迚、着用之単物を脱墨を浸、裸ニて紙中     之隈取いたし候間、座輿ニも相成、職人之内にては、下俗之通言きおひもの杯と申唱候由    〈暮らし向き、妻子は相応の衣類を着ているが、本人はおかまいなし。画料はそれなりだが、弟子に分けてやったり、     また金銭にも無頓着だから、借金もあるようだ。左七が、さる六月二十四日、柳原の料亭河内屋を借り受けて、書画     会を開催したおり、国芳は畳三十畳もある紙に水滸伝の人物を一人藁筆で画き、手拭いで隈取りしようとした。とこ     ろががあまりに大きすぎて手間取るというので、国芳は着ていた単衣を脱いで墨に浸し、裸のまま隈取りしたという     ことだ。この座興が大いに受けて、国芳には「きおひもの」と云う評判も立っている〉      一 此節絵双紙屋共売買いたし候二枚続浮世又平名画奇特と題号国芳板元左之通、                                浅草東岳寺門前  嘉兵衛店                                地本草紙問屋仮組 越村屋平助    右之もの板元ニて売買いたし居候大津画之図柄ニ付、浮評を生候処、右二枚続大津画は、当六月六日、    草稿ヲ以懸名主共立会席え持参いたし候ニ付、禁忌之義も無之候間改印いたし、六月中旬より出板いた    し候由、右大津絵は、相画師浮世又平認候大津絵之画勢抜出候趣向ニて、表題傾城反魂香と申浄瑠璃文    句を取合候由、紙中人物似顔左之通、                              歌舞妓役者之内                       浮世又平   市川小団次                       雷      浅尾 奥山                       若衆     中村翫太郎                       福禄寿    坂東佐十郎                       座頭     市川広五郎                       鬼      嵐 音八                              但、音八は大柄ニ付、紙中えも大振認候由、                       奴      中村 靏蔵                       弁慶     中山 市蔵                       猿      中山文五郎                       娘      中村 相蔵                       大黒     嵐 翫五郎    〈この度の「浮世又平名画奇特」の板元は越村屋平助。改は六月六日、特に違犯もないので認められ、同月中旬には出     版された。これは浮世又平が画いた大津絵と「傾城反魂合」という浄瑠璃の文句を取り合わせたという。画中の似顔     は以下の通りとして、役者名を記しているが、おそらく紛れようもなく似ているのであろう、これは上掲の『藤岡屋     日記』と全く同じである。これは役者似顔絵であっても名前や紋が入っていないから「踊形容」と称されるものであ     る。おそらく国芳ら制作側の意図としては、単に許可された「踊形容」を画いたに過ぎないということなのだろう〉       右之外、流行逢都絵希代物と題号いたし候、画師国芳、絵双紙屋仮組浅草並木町弥兵衛店(湊屋)小兵    衛板元にて、三四ケ年以前売出候大津絵も、画勢抜出候趣向之図ニ候処、此錦絵売出之節より浮評等生    し不申候処、当六月中売出し候前書二枚続錦絵之分、浮評相生し候由、    右、密々承糺候風聞之趣、書面之通り御座候、且、孫三郎義前書之外不正之所業等可有之と探索仕候得    共、差当如何之所業等相聞不申候、依之右絵類相添、此段申上候、以上、      丑(嘉永六年)八月               隠密廻り〟    〈大津絵の趣向を使って、国芳は三四年以前にも「流行逢都絵希代物」という錦絵を湊屋から出しているが、このとき     は浮説が生じなかったが、しかし今回の「浮世又平名画奇特」には浮説が生じた。国芳(孫三郎)については前述の     通りで、さし当たり不正は見つからなかった。以上が国芳に関する隠密の結論である。「流行逢都絵希代物」には     「ときにあふつゑきたいのまれもの」のルビがあり、こちらは三枚続である」。中図に国芳自身と思しき人物が画か     れているが、顔の部分は例によって大津絵を配して巧妙に隠している。国芳の「判じ物」のように、そこには何かが     隠されているけれども、はっきりと姿は見せない。逆にそうだからこそ見物の想像をかき立てるという仕掛けだ。参     考までに引いておく〉
    「流行逢都絵希代物」 一勇斎国芳画 (国立国会図書館デジタルコレクション)