Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ うきよえ 浮世絵に関する記事浮世絵事典
   ☆ 元禄年間(1688~1703)    ◯『増訂武江年表』1p105(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (元禄年間(1688~1703)   〝浮世絵師 橘町菱川吉兵衛、同吉左衛門、古山太郎兵衛、石川伊左衛門、杉村治兵衛、石川流宣、鳥井    (ママ)清信、菱川作之条〟   〝菱川が浮世絵はことに行はれたり。宮川長春も此の時代の浮世絵師にて、元禄宝永の頃行はれたり〟   〝一蝶が作の朝妻船、しのゝめ一名かやつり草、などいふ小唄流行〟    ☆ 宝永六年(1709)    ◯『風流鑑か池』独遊軒好文の梅吟作 奧村政信画
     風流鏡か池 独遊軒好文の梅吟作 奥村政信画 宝永六年(1709)刊    ☆ 享保三年(1718)    ◯「四季絵跋」英一蝶著
   四季絵跋 英一蝶著 享保三年(1718)刊  ☆ 享保十九年(1734)    ◯『本朝世事談綺』〔大成Ⅱ〕⑫521(菊岡沾凉著・享保十九年刊)   〝浮世絵 江戸菱川吉兵衛と云人書はじむ。其後古山新九郎、此流を学ぶ。現在は懐月堂、奥村正信等な    り。是を京都にては江戸絵と云〟    ☆ 天明五年(1785)    ◯『狂言鶯蛙集』朱楽漢江編
   狂言鶯蛙集 天明狂歌 天明五年(1785)刊  ◯『鶉衣』後編 横井也有著 天明五年跋   〝(「四芸賦」より)    鳥羽絵の男は痩てさびしく 大津絵の若衆は哀れなり うき世絵は又平に始り 菱川に定り 今西川に    尽たるといふべし〟    〈著者也有は天明三年没。前編天明七年・後編同八年刊、四方山人こと大田南畝によって出版された〉  ☆ 天明七年(1787)    ◯『絵本詞の花』宿屋飯盛著
   絵本詞の花 宿屋飯盛序 喜多川歌麿画 天明七年刊    ☆ 寛政五年(1793)    ◯『退閑雑記』松平定信著
   退閑雑記 松平定信著 寛政五年(1793)刊  ☆ 文政十三年(天保元年・1830)  ◯『嬉遊笑覧』(喜多村筠庭信節著・文政十三年自序)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇巻三「書画」上 196/302コマ   〝菱川吉兵衛みづから大和絵師と称へしはいと妄なるを、西河祐信等顰にならひてこれを称せり、岩佐又    兵衛をその頃、うき世又兵衛と称へたれば、菱河等も浮世絵師と称へんにはこともなかるべし、この浮    世といふことは仏家にいふとは異にて、今世に当世といふ如し、おなじく時好にかなへるさまをいふな    り、猿楽狂言きんし聟といふに浮世人いふことあり是なり、岩佐又兵衛は貞幹が『好古日録』に小伝あ    りといへども覚束なし、画所預の家に又兵衛伝ありといひて、其説を記しやうなれども、又兵衛略伝と    いふものなしとぞ、土佐家の門人語りける、又兵衛が画名印などある物なければ、たしかには弁へがた    けれども、その時代にて絵の勝れて見ゆるを又兵衛と定む、其頃まぎらはしき画あり、是は内匠といふ    ものゝ絵なり、専ら浮世絵をかきたる上手なり、西鶴が〔大鑑〕にも承応元年のことをいへる処に、浮    世絵の名人花田内匠といへる者美筆を尽しけるとあり〟  ☆ 天保四年(1833)    ◯『無名翁随筆』(『続浮世絵類考』)渓斎英泉著
   大和絵師浮世絵の考 吾妻錦絵の考 無名翁(渓斎英泉)著 天保四年(1833)成稿    ☆ 天保十一年(1840)    ◯『古今雑談思出草紙』東随舎著
   画難坊、絵を論ずる事 浮世絵、昔に替る事 東随舎著 天保十一年(1840)自序    ☆ 天保年間(1830~1843)    ◯『無可有郷』鈴木桃野著
   浮世絵評 詩瀑山人(鈴木桃野)著 天保年間(1830~1843)    ☆ 天保期以降    ◯『江戸風俗総まくり』著者未詳
   江戸風俗総まくり 筆者未詳 天保年間(1830~43)以降成稿    ◯『浮世画譜』二編(渓斎義信(英泉)画 九外々史序 天保年間刊)   (国文学研究資料館・新日本古典籍総合DB)   ※半角括弧(かな)は原文の読みがな   〝浮世絵と称(とな)ふる其の中に 和哥者流は憂世と嘆き 仏家は所謂浮世(ふせい)と喩(さと)すを転じ    て 浮世某(うきよなに)といふ その属(たぐ)ひなる 浮世絵は当時の風容(すがた)の端的(そのまま)    を写し出すを号(なづけ)たり されば遠き水原(みなもと)たる嗚呼絵(をこゑ)似せ画(ゑ)の往昔(むか    し)より連綿(つゞき)て 菱川 西川の水脈(みづすぢ) 世々(よゝ)に絶えず 粤(こゝ)に哥川の流(な    がれ)にあら伝(ママで) 此道の上手に清(すめ)る英泉が 即今(いま)の浮(うい)たる光景(ありさま)を    画(ゑがき)し一滴の画譜を 書肆上梓して 先に觴(さかづき)を泛(うかめ)しより 溢れてこの巻に及    ぶをみるに四時(しいじ)の変化 人物の情態(ふり)に 憂世浮世の意をもこめて写し納(いれ)し 筆の    勢(いきほひ) 幾(ほとん)ど江湖(こうかい)の底なきが如(ごと)く 測るべからず きはむべからず     這(こ)の下流を汲んで味(あぢは)ひ賞(しやう)し 棹さして遊び楽まん 人編を続(つぎ)て多かるべく    巻を換てまさりなんこと 彼の低(へくき)に下(つく)といへる譬(たとへ)の言(ことば)の如く成るべし〟  ☆ 弘化元年(天保十五年・1844)    ◯『増補浮世絵類考』斎藤月岑著
   浮世絵品目 斎藤月岑著 天保十五年(1844)序    ☆ 嘉永三年(1844)以降  ◯『古画備考』朝岡興禎著
   浮世絵師伝 朝岡興禎編・嘉永三年(1850)起筆    ☆ 嘉永六年(1853)    ◯『傍廂』二篇〔大成Ⅲ〕①99(斎藤彦麻呂著・嘉永六年序)   〝俗画    むかしは西川祐信、菱川師宣ともに、一家を起したり。其後は鳥居清長、勝川春章、これら我若かりし    頃世に鳴りたり。又其後は歌麿、豊国ともに用ひられたり。それより国の字を名のる者あまたなりてい    と多くなりたり。これらの俗画をうき世絵師といへるは、いかなる故ならん。時世絵師(トキヨエシ)とこそ    いふべけれ。何も憂事の故もなくては、うき世とはいふべからず。かの小児もしりたる百人一首の中に、    心にもあらでうき世にながらへば云々とよみ給ひしは、御病身故に御位をゆづり給ひて、仙院に入り給    ひて後、思ひ外うく思召(オボシメシ)世にながらへ給はゞ、内裏の月を恋ひしく思召(オボシメサ)んとの御歌    なり。又、おふけなくうき世の民におほふ哉云々とよまれしは、濁乱の娑婆世界の民に、道徳もなき法    師の袖おほはん事似げなしとなり。これもうき世といふ事にて、憂への義なり。たゞ世の事をうき世と    いふは、外戎の浮世よりうつりしならん。そはまた異なり〟   〈当世の様を画く俗画を「うき世絵」というのは、「うき世」の本義を憂き世とする立場からすると、間違った呼称であ    る。また、漢語の「浮世」には俗世の意味があるから、それを根拠に俗世の絵を「浮世絵」と呼び習わしたのだろうが、    しかしそれは日本語の本義に悖った言い方である。よって呼称は「時世絵」のほうがふさわしいと、国学者・斎藤彦麻    呂は主張する〉    ◯「川柳・雑俳上の浮世絵」(出典は本HP Top特集の「川柳・雑俳上の浮世絵」参照)   1 浮世絵も先巻頭は帯とかず 「揚梅」元禄15【雑】     注「春画」〈まさか発端もなしというわけにはいくまいと……〉
  2 笑ひをふくむ浮世絵のつや 「村雀」   元禄16【雑】   3 浮世絵の男福引く長つぼね 「勇気みどり」享保5【雑】     注「風俗美人図」     〈1は「笑ひをふくむ」とあるから春画であろう。2は男子禁制の長局、女房たちが興ずる福引きの目当ては      「浮世絵の男」つまり役者絵である〉
  4 浮世絵にこのごろ着せた黒小袖  「口よせ草」元文1【雑】   5 浮世絵が来ては墨絵をそゝなかし 「狂ひ咲」 宝暦5【雑】     注「美人の比喩」     〈4黒子袖それ自体に意味がありそうだが判然としない。5生真面目田な男も美女の誘惑にかかっては〉   6 浮世絵の中に墨絵の奥家老「柳多留63-13」文化10【川柳】     〈美女の比喩。謹厳実直な奥家老、男ひとりで大奥を取り仕切る〉    ☆ 明治以降(1868~)    ◯『寒檠璅綴』巻六〔続大成〕③288(浅野梅堂著・明治初年記)   〝英一蝶モ亦狩野ヨリ出テ一派ヲ開、僧月僊モ別ニ逕畦ヲ開、浮世絵ト云モノアリ。其筆又平ニ濫觴シテ、    豊国英泉ノ体ヲ殊ニスルウヘニ、月岡マタ殊途ヲナス其姿ノ卑トテ、アナガチニ蔑視スベカラズ。功夫    ヲ用ヒ精力ヲ竭スニ於テハ、イヅレカ軽侮ヲナスベケン〟   〈浮世絵は又平に始まり、豊国・英泉・月岡を経てその様態を変化させてきたが、その様卑しいとして蔑視してはならな    い、巧(技)と精力を尽くすという点では、他派に劣るところはないというのである。(豊国は三代目、月岡は芳年)    この記事は、土佐・狩野・文人画・四条派・琳派に引き続いてのもの。一時の慰みもので消耗品でしかないという当時    の浮世絵認識からすると「アナガチニ蔑視スベカラズ」という知識人の評価は非常な重みを持ってくる〉    ☆ 明治十年(1877)    ◯『百戯述略』斎藤月岑著
   浮世絵 斎藤月岑著・明治十一年(1878)以降成書〔『百戯述略』より〕    ◯「明治以降浮世絵界年譜稿(其一)」(吉田瑛二著『浮世絵草紙』所収・1945刊)   〝明治十年    この頃西鶴本五銭なり。歌麿流行し歌麿保護会出来る。これ国内に於て漸く浮世絵趣味のきざるによる。    この時分、吉原遊郭内にて錦絵の陳列会、浅草松山町我楽堂にて細絵の陳列、猿若町の芝居にて演劇に    関する展覧会等行はれ、古版画趣味漸く普及す。この時代の古書店として知られたるは三久、京常、淡    路町の斎藤(綽名バイブル)、酒井好古堂(当時和泉町)等なり。欧州では、既に浮世絵を注目す。大    体仏英独米の順なり。而して学術的な研究の外に、浮世絵を実用的に生活に応用すること行はる〟    ☆ 明治十二年(1879)    ◯「明治以降浮世絵界年譜稿(其一)」(吉田瑛二著『浮世絵草紙』所収・1945刊)   〝明治十二年    京都の画商先代松木善右衛門浮世絵を始む〟    ☆ 明治十三年(1880)    ◯「明治以降浮世絵界年譜稿(其一)」(吉田瑛二著『浮世絵草紙』所収・1945刊)   〝明治十三年    此頃フェノロサ、ペンケイ、ビゲロー、キヨソネ、ワグネル等、浮世絵に関心もち、国内に於て買集め    める。為めに錦絵商活気を生じ、買入広告。当時国内人にして浮世絵に注目した人々としては、学者で    岡倉覚三、商人で林忠正、松尾儀助、若井兼三郎、小林文七なり〟  ☆ 明治十五年(1882)  ◯『明治十五年内国絵画共進会審査報告』(農商務省博覧会掛 国文社 明治16年9月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝第四区ハ菱川宮川歌川長谷川派等ナリ。所謂浮世絵ニシテ善ク時態風俗ヲ写シ当時ノ情景ヲ想像セシム    ルニ足ル、品位気格ノ高尚ナルハ固ヨリ望ムベキニアラズト雖モ亦本邦一種ノ画技トシテ往々美術上ニ    裨補スル所ナキニアラズ、然ルニ今会ノ出品ヲ見ルニ一二ノ取ルベキモノ無キニ非ザレドモ、或ハ風姿    ノ卑猥ニ流ルヽモノアリ、近来錦絵ノ漸ク古意ヲ失ヒ陶画蒔絵等之類頗ル俗体ヲ極メ、其声価ヲ堕スモ    ノ皆ナ此等ニ原因セリ、是レ宜ク痛ク警正スベキ所ナリ、蓋シ浮世絵ノ武者人物等ヲ画ク、大抵無稽ノ    稗史ニ依テ図ヲ成スヲ以テ其事実ヲ失フモノ誠ニ多シ、是レ深ク咎ムベキニアラズト雖モ、若シ少シク    考証ヲ加ヘ古実有職等ヲ徴スベカラシメバ、児童ノ看ニ供スルモ自ラ教育ノ一端ト為スヲ得ベシ、又其    山水風土ヲ写スニ、其真景ヲ縮シテ漏サヽルハ此派ノ長トナス所ナリ、然ルニ出品中故ラニ機功ヲ為ス    モノアリ、是レ又絵事ヲ戯弄スルモノヽ如シ、之ヲ要スルニ此区ノ画家ニシテ識見ヲ蓄ヘ、其図画ヲ製    セシメバ、世用ニ益スル必ズ多カラン、決シテ浮世絵ヲ以テ之ヲ擯棄ス可ラザルナリ〟   〈「善ク時態風俗ヲ写シ当時ノ情景ヲ想像セシムルニ足ル」と評価しながらも「品位気格ノ高尚ナルハ固ヨリ望ムベキニ    アラズ」との断り書きがつくところに、官尊民卑というか、浮世絵を卑賤視する統治者側の姿勢、それが変わることな    く継続していることが分かる。「此区ノ画家ニシテ識見ヲ蓄ヘ、其図画ヲ製セシメバ、世用ニ益スル必ズ多カラン」と    いうところを見ると、浮世絵における「品位」の欠落は、卑近な題材から生ずるのではなく、絵師の識見のなさから生    ずるというのであろう〉  ☆ 明治十六年(1883)  ◯『明治画家略伝』(渡辺祥霞編 美術新報鴻盟社 明治十六年十一月版権免許)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝菱川派     土佐画ノ筆法ニシテ唯淡キ彩色ヲ交ヘ用フルコト多シ、元禄頃ノ絵本、皆此ノ派ナリ    勝川、宮川、西川派     菱川ノ一種ニシテ画風稍巧ナリ、元禄頃ノ一枚絵ニアリ    歌川派     天保ノ頃ヨリ当今ノ草双紙・錦絵、過半此流ナリ    鳥居派     菱川派ニ似テ筆柔カナレドモ、稍長谷川ノ如ク太キ筆ヲ用フ、芝居ノ看版番附等ノ画     此流ナリ    菱川及鳥居派ヲ号合セテ浮世絵ト云フ、皆現今ノ風俗ヲ画クガ故ナリ〟  ☆ 明治十七年(1884)  ◯『梧園画話』(細川潤次郎 明治十七年四月刊)   (国文学研究資料館・新日本古典籍総合DB)   〝浮世画 (49/76コマ)    風俗図 之を浮世絵と謂ふ 蓋し岩佐氏に始まり 後菱川師宣有り 安房人 江戸に住す 大和画師     或いは日本絵師と称す 英一蝶亦た此の画を作すを好み 二子の上に出んと欲して 後遂に一家を成す    惟ふに此等の画 俗眼に入り易く 利を射るの徒 雑然と之に赴き 刻板刷印の画 亦た世に寖行して    皆此流の画法を用ゐる 遂に坊間の専ら尚ぶところとなる 師宣と稍其の風異なりて 名を斉しくする    者 西川祐信 宮川長春有り 善く士女を画く 態度 妍麗 之を見るに 人をして魂消しむ 異曲而    れども同工と謂ふべし〟  ☆ 明治二十年(1887)    ◯「浮世絵」(『絵画叢誌』4巻 東洋絵画会事務所 明治20年6月刊)   ※( )の読みおよび句読点は本HPが施した   〝浮世絵は絵画中の一派となり。土佐狩野南北派の外に立ち、或は市画などゝ唱へ之を鄙(いやし)めるの    風あれども、しかれども此の絵は時世の風俗を写すに於て、欠くべからざるの一法なり。花卉禽獣に写    生あれば風俗にも写真なかるべからず。この故に風俗高尚なるときは此絵も高尚に、風俗卑下なるとき    は此絵も卑下に陥るは絵の罪にはあらずして、風俗の責めなり。然(しかれ)ども是れ只普通のものに付    て言ふのみ。其妙を極むるに至りては、仮令(たとへ)如何に卑賤なるさまを写すとも、作者の意趣才気    筆端に溢るゝに於ては、自ら高尚微妙なる所ありて存し、村翁田婦の図も貴人の壁に掲げて見苦しから    ず。若(もしくは)或は筆精能ならざるときは、神仏の尊影も鄙陋にして見るに堪へざるものあらん。畢    竟(ひつきやう )画法に尊卑なく、筆に能不能あるものにして、其法は或は尊しといふと雖(いへど)も、    精妙ならずんば取るに足らず。卑下なる時世粧(じせいのよそおひ)を写すとも、妙致を極むるに至りて    は之を貴重せざることを得ざるなり。本邦の古画と称し歴史の考証ともなるべき土佐絵も、当時の様を    当時に写したるものにて、古代の浮世絵といふとも妨げなからん。蓋(けだし)浮世絵は本邦絵画中一種    の発明にして、筆と力を競ひ得て始めて其能を著はすに至るなり。泰西人も之を喜びて年々に輸出する    所少なからずといふ〟   〈浮世絵は「時世の風俗を写すに於て、欠くべからざるの一法なり」「其妙を極むるに至りては、仮令(たとへ)如何に卑    賤なるさまを写すとも、作者の意趣才気筆端に溢るゝに於ては、自ら高尚微妙なる所あり」。まさに浮世絵の要諦は    「俗」中に「雅」を見いだしてそれを表現することに尽きるというのである。芭蕉の「不易流行」の言葉をかりていう    と、「流行」を究めて「不易」に到るということになろうか。この観点から北斎の『富嶽三十六景』を見ると、江戸の    市中や近郊の「おらが富士」が「俗」あるいは「流行」の世界だとすると、「赤冨士」はさしづめ「雅」「不易」の世    界に相当するといえようか。浮世絵は近世絵画における俳諧と位置づけてもよいように思う。菱川師宣と松尾芭蕉の没    年は奇しくも元禄七年(1694)で同じ、また井原西鶴は前年の元禄六年没。してみると、浮世絵・俳諧・浮世草子という    新ジャンルが生まれ出る素地がこの時代にはあったといえるのかもしれない〉      〝浮世絵の起りは未だ詳らかならずといへども、筆と刀との力を併せて板行せしは延宝天和の頃より始ま    り、即(ち)朝比奈・鬼の首引・土佐浄瑠璃の絵・鼠の嫁入の類、是なりとかや。芝居の絵は坊主小兵衛    といふものより始まるといふ。元禄の初め菱川師宣の絵に至り大に整ふ所あり。抑も菱川をもて浮世絵    の宗とするも可ならん。是より先きに浮世又兵衛といふものあり。父を荒木摂津守【或云名は村重】と    云ふ。織田信長に仕へて軍功あり。摂津国を与らる後、信長の命に背て自殺せり。其子は又兵衛にして    時に二歳なりしかば乳母懐て本願寺の子院に隠れ、母家の氏を冒して岩佐と称へ、成長の後、織田信雄    に仕へ画を好み、当時の風俗を写すを以て、人呼て浮世又兵衛といふ。或は世に又平と呼は誤なり。画    所預の家に又兵衛の略伝あり由、好古日録に見ゆれども、嬉遊笑覧には画所預りには其略伝といふもの    なく、時当絵の勝くれて見ゆるを又兵衛と定む。その頃まぎらはしき画あり。是は花田内匠とて専ら浮    世絵をかきたる上手なりと記るせり。又英一蝶の四季絵の跋には、近頃越前の産岩佐某となんいふもの    歌翁白拍子の時勢雅ひをおのづから写し得て、世人うき世又平とあだ名す。久しく世に翫ぶとあり。大    津とて近江の大津に伝はる所の戯画、鬼の念仏・藤娘の類は又兵衛の画き始めたりとの説、人口に膾炙    すれども拠る所なきに似たり。或は大津又平といふものありて、画き始むとの説もあり。果て然るか否    や未だ詳かならず。買物調方三合集覧【元禄九年の板】といへる書に、京にて当世画がき丸太町西洞院    古又兵衛とあれども、是も真の岩佐又兵衛なるやを知るに由なし。此の如く岩佐又兵衛・浮世又兵衛の    事は種々の説あれども、是が定まれる説とするに足るものなし。しかれども当時此人ありて浮世絵を画    きしには相違なかるべし。何となれば影の形もなき人を作りて此名を蒙らすの要もなかるべければなり。  ☆ 明治二十四年(1891)  ◯『第三回内国勧業博覧会審査報告』第二部美術 第一類絵画(報告員審査官 岡倉覚三)〈岡倉天心〉   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝将来ニ発達スベキモノ極メテ多シト雖モ、先ヅ其重要ナルモノハ歴史画及ビ浮世画是レナリ。花鳥山水    道釈人物、古来各其法アリ。歴史画ニ至リテハ又大ニ将来ニ其形相ヲ求メザル可カラズ。古来本朝ニ於    テ歴史画と称スベモノハ、古土佐ノ縁起画巻等アリ。今回出品中ニ於テモ歴史的ノ事実ヲ描キ出セルモ    ノ尠シトセズ。然レドモ是レ等ハ未ダ人心ヲ感動シ、忠君愛国ノ情性ヲ興起スルニ足ラズ。必ズヤ新ニ    其法ヲ求メザルベカラズ。浮世画ニ至リテハ古来其名画ニ乏シカラズト雖モ、明治今日ノ浮世絵ハ又更    ニ其画相ヲ求メザルベカラズ。蓋シ浮世絵ハ従来ノ如ク子女児童ノ状態ヲ艶麗ニ写シ出スノミナラズ、    古来ノ絵巻物ノ如ク現在ノ風俗及ビ事跡ノ記録タラザルベカラズ、願フニ歴史画ハ即チ過去ノ浮世絵ナ    リ、而シテ浮世絵ハ即チ現在ノ歴史画ナリ、是レ吾人ガ両者ノ大ニ発達ヲ期スル所以ナリ〟   〈岡倉天心は現代の世相を描くものを「浮世絵」と捉える。すると当時の世相が描かれている絵はそれがいつの時代であ    ろうと「浮世絵」ということになる。つまり岡倉天心は「浮世絵」を近世に固有な絵画として捉えていないのである〉  ☆ 明治二十五年(1892)  ◯「読売新聞」(明治25年12月19日記事)〈( )は原文のよみがな。なお原文の漢字はすべてよみがな付き〉   〝歌川派の十元祖    此程歌川派の画工が三代目豊国の建碑に付て集会せし折、同派の画工中、世に元祖と称せらるゝものを    数(かぞへ)て、碑の裏に彫まんとし、いろ/\取調べて左の十人を得たり。尤も此十人ハ強ち発明者と    いふにハあらねど、其人の世に於て盛大となりたれバ斯くハ定めしなりと云ふ     凧絵の元祖  歌川国次    猪口絵 元祖 歌川国得     刺子半纏同  同 国麿    はめ絵  同 同 国清     びら絵 同  同 国幸    輸出扇面絵同 同 国久・国孝     新聞挿絵同  同 芳幾    かはり絵 同 同 芳ふじ     さがし絵同  同 国益    道具絵  同 同 国利    以上十人の内、芳幾・国利を除くの外、何れも故人をなりたるが中にも、国久・国孝両人が合同して絵    がける扇面絵の如きハ扇一面に人物五十乃至五百を列ねしものにして、頻りに欧米人の賞賛を受け、今    尚其遺物の花鳥絵行はるゝも、前者に比すれバ其出来雲泥の相違なりとて、海外の商売する者ハ太(いた)    く夫(か)の両人を尊び居れる由〟   〈浮世絵師の画業は、観賞用の役者絵・美人画・風景画といった華やかな領域にとどまらず、大人や子供の視覚に多彩な    彩りを添える宣伝や情報用の挿絵、そして遊具や生活必需品に対する絵付など、市民の日常奥深くしかも多岐にわたっ    ていた。明治二十五年頃はというと、あれほど盛んだった合巻などの版本製作も皆無になり、浮世絵師の仕事領域は次    第に減少の一途をたどっていたが、こうした量産型の画業面では、まだまだ浮世絵師に対する需要は旺盛だった。それ    が明治三十年代にはいり、写真製版など西洋伝来の印刷コストが下がり始めるや、これらの世界の需要も機械にとって    代わられることになっていった〉  ☆ 明治二十七年(1894)  ◯『浮世絵師歌川列伝』(飯島虚心著・明治二十七年 新聞「小日本」に寄稿)   ◇「歌川豊広伝」p123   〝無名氏曰く、古えの浮世絵を善くするものは、土佐、狩野、雪舟の諸流を本としてこれを画く。岩佐又    兵衛の土佐における、長谷川等伯の雪舟における、英一蝶の狩野における、みな其の本あらざるなし。    中古にいたりても、鳥山石燕のごとき、堤等琳のごとき、泉守一、鳥居清長のごとき、喜多川歌麿、葛    飾北斎のごとき、亦みな其の本とするところありて、画き出だせるなり。故に其の画くところは、当時    の風俗にして、もとより俗気あるに似たりといえども、其の骨法筆意の所にいたりては、依然たる土佐    なり、雪舟なり、狩野なり。俗にして俗に入らず、雅にして雅に失せず。艶麗の中卓然として、おのず    から力あり。これ即ち浮世絵の妙所にして、具眼者のふかく賞誉するところなり。惟歌川家にいたりて    は、其の本をすててかえりみざるもののとごし。元祖豊春、鳥山石燕に就き学ぶといえども、末だ嘗て    土佐狩野の門に出入せしを聞かざるなり。一世豊国の盛なるに及びては、みずから純然独立の浮世絵師    と称し、殆ど土佐狩野を排斥するの勢いあり。これよりして後の浮世絵を画くもの、また皆本をすてて    末に走り、骨法筆意を旨とせず、模様彩色の末に汲々たり。故に其の画くところの人物は、喜怒哀楽の    情なく、甚だしきは尊卑老幼の別なきにいたり、人をしてかの模様画師匠が画く所と、一般の感を生ぜ    しむ。これ豈浮世絵の本色ならんや。歌川の門流おなじといえども、よく其の本を知りて末に走らざる    ものは、蓋し豊広、広重、国芳の三人あるのみ。豊広は豊春にまなぶといえども、つねに狩野家の門を    うかがい、英氏のあとをしたい、終に草筆の墨画を刊行し、其の本色を顕わしたり。惜しむべし其の画    世に行われずして止む。もし豊広の画をして、豊国のごとくさかんに世に行われしめば、浮世絵の衰う    ること、蓋(ケダシ)今日のごとく甚しきに至らざるべし。噫〟    〈この無名氏の浮世絵観は明快である。浮世絵の妙所は「俗にして俗に入らず、雅にして雅に失せず」にあり、そして     それを保証するのが土佐・狩野等の伝統的「本画」の世界。かくして「当時の風俗」の「真を写す」浮世絵が、その     題材故に陥りがちな「俗」にも堕ちず、また「雅」を有してなお偏することがないのは、「本画」に就いて身につけ     た「骨法筆意」があるからだとするのである。無名氏によれば、岩佐又兵衛、長谷川等伯、一蝶、石燕、堤等琳、泉     守一、清長、歌麿、北斎、そして歌川派では豊広、広重、国芳が、この妙所に達しているという〉    ☆ 明治二十八年(1895)  ◯『早稲田文学』第100号p524「彙報」(明治28年11月25日刊)   (橋本雅邦の浮世絵評)   〝近ごろの浮世絵の概して繊弱なるは一は其の筆のはらを使ふて健腕直筆を用ひざるによれり、故に浮世    絵改良の一着手はまづ線の繊弱なるを嬌めて健腕を用ふるにあり云々〟  ☆ 明治三十二年(1899)  ◯『日本美術史講義』(松本愛重 哲学館)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   (第十八章 浮世絵の流行 附春画)44/57コマ   〝近時浮世絵は洋人の嗜好に投じ、往々外国に輸出せられ、その画格以前の如く人に卑められざるに至れ    り〟    〈西洋において高められた浮世絵観が、文明開化以降、我が国に逆流入して、日本人の眼差しにも変化が生じた。江戸     の浮世絵が世界の浮世絵になるとともに、浮世絵のなかに時代や地域超えた普遍的なもの見ようという機運が生まれ     たのである〉  ☆ 大正五年(1916)  ◯『早稲田文学』「最近思潮」大正五年三月号   〝浮世絵保存問題    私は一個の考から云へば、我国の真の「郷土芸術」は浮世絵ばかりである。「伊太利のレオナルド・ダ・    ヸンチ」と云ふべく、レオナルドは余りに世界的である。しかし最も適切な感じを以て「伊太利のダン    ヌチオ」と言ふことは出来る。それと同じ意味で、浮世絵は全く「日本のもの」である。    浮世絵と云つても此処では所謂錦絵のことを云ふのである。錦絵は板画であるから同じものが何百枚と    刷られたわけである。だから急に一枚も無くなるといふやうなことはないが、しかし、在る/\と思つ    て居る中に無くなつてしまふのは浮世絵である。仏画とか仏像とか雪舟の絵とかいふものは、因襲的に    貴重品扱ひにされ、且つ他に類品が無く其のもの一個としての価格も既に習慣的に公認されてゐるから、    容易に消滅することはない。そこへ行くと浮世絵の方は損だ。一枚としての価格は仏画仏像の或者に対    等するやうなものもなく、且つ版画であるから類品も少なくないので従つて外国へ輸出される機会が遙    かに多い。また、もともと江戸の御土産絵であつたから、無智な者の手にかゝつて汚損され失はれる場    合も多いであらう。かくして唯一の「郷土芸術」の優れたものゝ多くは我々の目の届かない所へと何時    の間にか持つて行かれるのである。    また斯う云ふ例もある。或る日本有数の富豪が沢山の浮世絵を手に入れた。売る方では此のやうな富豪    の手に渡るなれば、もはや決して外国へなぞ売られる気遣ひはないと思つて、心よく其の富豪へ売り渡    した。然るに其の富豪は其の浮世絵の多くを外国へ売つてしまつたさうである。    浮世絵に対する常識のない例としてこんなのがある。──去年の某教育雑誌の質疑欄に浮世絵史の研究    書目を問ふた者があつたが、其れに対する記者の答として、横井冬彦氏の日本絵画史と某氏の絵画史と    があげられてゐた。日本の小中学校の教師及び教師たらんとする者の質問を堂々と受け答へる者のくせ    に、多くの浮世絵師伝や浮世絵史や浮世絵複刻物のあることを知らぬと見える。今では浮世絵専門の雑    誌さへ出てゐることも、大方此の記者は知らないで(い)ることだろう。    ところで「浮世絵」第八号誌上で、小島烏水氏は浮世絵所蔵品の後始末を論議して居られる。それによ    ると、ゴンクウルの遺言状には、彼の蒐集品は「博物館といふ冷たい墳墓に送り込んでもらひたくない。    さうして無頓着な見物人のおろかな瞥見を浴びせられたくない──私の要求するところは、是等の美術    の凡てが競売者の叩く槌の下に散り失せ、それ等美術品の獲得が私に与へてくれたやうな快楽を、再び    私自身の趣味の継承者に与へるにある」とある。    『浮絵閑話(シヤツト・オン・ヂヤパニスプリント)』の著者フイツク氏は「浮世絵の版画は一体持前として、私人展覧    会に適して公共的展覧のものではない。浮世絵は紙挟みに入れるべきもので、陳列室に懸けるものでな    い。そうしないと凋褪していまふ。浮世絵は余暇に任せて傍で吟味しなければならない。座席にくつろ    いで、手に取つて研究するやうに出来てゐるのである。──公衆の大体は、浮世絵が彫刻の如き目に着    き易い芸術で無いために、陳列室にあつても、素通りしてしまふ。却つて浮世絵に道理ある興味を有す    る人は凡べての私蔵品に近づくことの出来る自由と好意とを得るのみならず、所蔵者が説明者となり、    通弁人となり、案内人となつてもくれる」といふ意味のことを云つてゐる。    併し、烏水氏も言つて居られる如く、浮世絵が各処の蒐集家の私蔵として散在してゐると、第一に、富    豪や好事家の宅へ出入する便宜を欠き又その手数と窮屈とに堪へ得られない研究者にとつて苦痛である。    第二に、天下一品といふやうな稀品を一私人の専有にするのは美術の性質として好もしく無いし、又保    存上から云つても、私人の手に置く方が、公共的建物に托するよりも、失火盗難等の恐れが一層多い。    殊に、浮世絵のやうな多数の製作品の存する者は其れの比較研究の上から云つても、一ヶ所に聚つて居    た方が便利である。    「広重の傑作、縦絵二枚続、猿橋の如きも彼の「月廿八景」や北斎の「猿橋」を研究することなくして    は、正しい理解が出来ないわけである。然るに斯の如き系統ある蒐集品が、私人や好事家、又は気まく    れの富豪などに、一枚々々競売される結果として、散り散り、放れ離れ、又八方に飛び去り、一人が手    を剥ぎ去り、一人が胴を担ぎ廻るといふやうな惨目な最期を遂げたことは従来欧米人の競売に於て、多    く見た実例である。──このやうな遺憾はその侭之を博物館の如き公共機関にそつくり譲り渡し保管さ    せるに越したことはない」と烏水氏は断じて居られる。    ところで、結局は、浮世絵だけの特殊な公共の蒐集館を要求したい。浮世絵そのものゝ性質から云つて    も仏画や宋元派の画や円山派の画等とは異つた陳列所を要するわけである。此の事は浮世絵研究家の真    実に思ひ悩んでゐるところのものである。恰も智識欲に渇してゐる者の自己の欲する書籍を手に入れる    ことが出来ないと同様の苦しみである。浮世絵に限らず古代美術の研究家は凡て徳川時代の蘭学研究者    のやうな不自由を経験してゐる。    更に理想的なことを云へば、其の浮世絵専門の美術館を一個の財団法人みたいなものにして、海外に輸    出されたり、気まぐれ富豪に売られようとする貴重品をドシドシ此方の手へ納めてしまふことである。    此の事は何も大して行はれ難いといふほどのものではない。切に志ある人々の奮起を願ひたいものであ    る〟    〈『Chats on Japanese Prints』by Arthur Davison Ficke。書名『浮絵閑話』は原文のママ〉  ☆ 大正十四年(1916)  ◯「新旧過渡期の回想」坪内逍遙著『早稲田文学』大正十四年二月号(『明治文学回想集』上)   ◇上p13   〝わが徳川期の民間文芸は、かつて私が歌舞伎、浮世絵、小説の三角関係と特称した、外国には類例のな    い、不思議な宿因に纏縛されつつ進化し来つたものである。或意味においては、この三角関係が三者の    発達上に有利であったともいえるが、わが文芸をして遊戯本位の低級なものたらしめたのは、主として    これがためだ。というのは、この関係は、正当にいうと、更に狭斜という一網を加えて、四角関係と見    るべきもので、随ってわが徳川期の野生文芸は、その勃興の初めから、その必然の結果として、ポオノ    グラフィーに傾くか、バッフンネリーに流れるか、少なくともこの二つの者に幾分かずつ感染せないわ    けにはゆかない宿命を有していた。つまり題材も、趣味も、情調も、連想も、理想も、感興も、主とし    て狭斜か劇場かに関係を持っていて、戯作(文学)と浮世絵(美術)とは、これを表現する手段、様式    に外ならなかったのである。前ひいった如く、この四角関係は、或時代までは、互いに相裨けてその発    達を促成した気味もあったが、後にはその纏脚式の長距離競走が因襲の累いを醸して、千篇一律の常套    に堕し、化政度以来幾千たびとなく反復して来た同じ着想、同じ趣向のパミューテーションも、維新間    際となっては、もう全く行き詰りとなってしまった〟   〈「狭斜」は色町。具体的には幕府公認の吉原(公娼)や深川など江戸市中に点在する岡場所(私娼)。バッフンネリー    (buffoonery)は品のない道化(おどけ)、パミューテーション(permutation)は並べ替えの意味か〉     ◇上p14   〝(明治維新間際の戯作界)力と頼む相棒の浮世絵は、亀井戸が死に、国芳が死に、やっと二世国貞や芳    虎や国綱や国周や芳幾らによって過渡期の伝統を維持するに過ぎなかったので、戯作は一般に不振とな    った〟   〈「亀井戸」とは三代目歌川豊国(初代国貞)。噺家の八代目桂文楽を「黒門町の師匠」と呼んだように、浮世絵の世界    でも同じ仕来りがあった〉     ◇上p29   〝(明治八、九年頃現れた新傾向の草双紙=表紙絵や中絵は従来の草双紙を踏襲しながら、傍訓付きの漢    字を多用して、街談巷説を脚色した絵入り読み物)十年前後には魯文、清種、梅彦、転々堂、彦作(久    保田)、泉龍亭、勘造(岡本)?など。(中略)絵は芳幾や国政や周延が専ら担当していたかと思うが、    いずれも、草双紙全盛期のそれらとは似ても似附かぬ、構図も筆致も彫りも刷りも、粗末千万なもので    あつた。歌川派も役者絵専門の国周以外は、おい/\生活難の脅威を感じはじめて、粗製濫造に甘んじ    ないわけにはいかなかったのである。後には油絵や写真から自得した一種の手法に一代の喝采を博し得    て明治の浮世絵界に雄視した大蘇芳年なども、まだその頃は、生存のために大踠(モガ)きをして、どう    したら時代の好尚に副い得べきかと暗中模索式の筆意を凝らしつつあつた。彼らが写真式の変な手法で    血みどろの官軍や幕兵を、あるいは彩色絵本に、あるいは錦絵に、頻りに画き散しつつあつたのは慶応    年間の事であった。    この際、歌川派の衰落を補充すべく、比較的清新な筆を揮って、新刊書の挿絵を描いて、一代に歓迎さ    れはじめた二画家がある。それは惺々狂斎と鮮斎永濯であった。前者は滑稽諷刺の諸著によろしく、後    者は新時代相を画くことにおいて、先ず写実的である点が歌川派を凌ぎ、かつ狩野派出だけに、上品で    もあった。明治八、九年以後、芳年が急に躍進して風俗画において彼と相対峙するに至ってからはそう    でもなかったが、松村の諸著の如きは、彼れの画で半分助けられていたといえる    こんな風で、例の四角関係は、いよ/\ます/\崩壊していった。けれども因襲の根はなかなか抜け切    らんものである。四角関係の系統は、傍訓附きの新式草双紙へは依然として伝わり、延(ヒ)いて明治二    十年前後にまで及んだ。私の「旧悪全書」の第一編『書生気質』の口絵にさへ、歌川国峰の筆によって、    明瞭にその残影が留められてあったことを憶い出すと慚愧に堪えない〟  ☆ 昭和四年(1829)  ◯『春城漫筆』(市島春城 早稲田大学出版部 昭和四年十二月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝走馬燈 下 東西芸術の相異(40/245コマ)    (前略)奔放自然の発達に任せた浮世絵に於ては純古たる日本芸術が存し、西洋人は日本人に先んじて    之れを激賞してゐる。若し西洋人が我が浮世絵を研究して其の美を感じた如くに他の諸芸術に対しても    相当の理解があつたら、必らず浮世絵の如く、尚それ以上にも鑑賞するであらう。現に西洋芸術も追々    行詰るので、我が芸術に着眼し、それに傚つて活路を開いたりしてゐる者は着々ある。我が能楽に傚つ    て舞台の革新を図つてゐる如きも著しい例である。但だ西洋人は換骨奪胎が巧みである為めに、邦人の    気の附かない模倣がいくらのある〟   〝民衆芸術(74/345)    日本には久しい間芸術が十分理解されず、其の範囲がひどく極限され、当然芸術と見らるべきものでも、    卑俗の社会に行はるゝものは、芸術と見倣さなかつた時代がある。例へば浮世絵の如きものは、作者の    名まで署してあり、それが立派な芸術であるのに、俗画として擯斥され、芸術を以て目することが僭上    であるかに思はれたことがある。浮世絵の版画の如きは、彫師と摺師の手腕を藉りて原作以上発揮する    ものであるから、彫師と摺師の技芸も芸術に相違ないが、それ等は職人の業として芸術とは考へられな    かつた趣がある。四民の懸隔が甚だしく、貴族のみ重んぜられて、民衆が認められなかつた結果として、    民衆の為めに作られ、それに喜ばれたものは、どんな芸術でも一併に擯斥され、一向に注意を惹かなか    つたのも無理はない〟  ☆ 昭和十一年(1936)  ◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年刊)   ◇「明治の錦絵界を展望 不遇に終った名匠小林清親」p250   〝江戸名物の随一、東錦絵は明治となっても相当に出てはいるが、今日の浮世絵界ではまだ時代が近いだ    けに幅が利かぬ。その全盛期は明治十五、六年から三十四、五年頃まで、それ以後は写真や絵葉書に押    されて漸次消滅。    維新前後から明治の初年は芳幾の独り舞台。つづいて第一人者の芳年が出る、似顔専門の国周、風俗画    の月耕、少し後れて芳年一門の年英、年方、別派の永濯、永興、永洗、下っては周延、国政以下輩出し    た。    さらに風景画と諷刺画の大家小林清親がある。事実、清親の作品が明治版画中の特級品として歌麿、広    重の塁を摩するまでに騒がれているのは、写生から来た新昧と、時勢に応じた洋画式描写が、従来の版    画にない特長を示したからである〟       ◇「浮び上った古書相場 だが展覧会は凡書ぞろい」p238   〝古書界で幅を利かすのは美術書類で、『国華』の大揃が千四百円、『東洋美術大観』や『真美大観』が    五百円からハ、九百円、そのほか絵巻の複製品など五十円百円の物はザラにあるが、これらはその質に    おいて価格相当ながらたいていは看板に終るらしい。    師宣や鳥居派初期の古板絵入本など、たまたま出れば一枚看板で大したもの、すべて軟派物は草子類、    洒落本、狂歌書、演劇書類など品払底のためたいていは珍本扱い、ことに歌麿、広重、北斎あたりの彩    色入りは百円二百円と驚かされる〟
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